【前回までのあらすじ】
でれすけは、千葉県松戸市にある「松戸市立博物館」へ行ってきました。
そこには、「公団・常盤平団地」が再現展示してあります。
前回までは、公団団地の玄関、風呂場、ダイニング・キッチンなどを紹介してきました。
今回は、団地の代名詞「2DK」のメイン、2部屋を紹介します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/f5/57da4d09a1a54fc6acb9544955134d19.jpg)
まず、この写真はベランダ(バルコニーなどとおしゃれな呼び方はしません。団地には「ベランダ」という呼び名が良く似合います。)側の南側6畳です。
基本的に、昭和30年代築の公団団地の居室は「和室」なのですが、当時、洋風生活に憧れた「団地族」の人々は、畳の上にじゅうたんを敷き、「洋間」として使用するのが一般的でした。
再現展示では、「応接セット」が置かれていますが、このようなソファなどを置き、ベランダ側の6畳間をリビングのように使用していた家庭が多かったそうです。
リビングとして使用されることが多かった6畳間には、ステレオ、電話、テレビ、扇風機などが置かれ、電化製品が一般家庭に普及していったようすも再現されています。ちなみにステレオは「日本コロンビア製」です。
写真の右上に、少し分かりにくいと思いますが、「絵」がかかっています。
これは、【「東郷青児」のビーズ絵】だそうで、この時期(昭和37年)、複製画が多くの家庭でかけられていたそうです…。
(本当に、当時の「生活」をここまで再現しているのには、感心しきりです。)
ちなみに、公団常盤平団地のサッシ(窓枠)は木製ではありませんが、でれすけの住んでいた公団団地は、昭和32年入居開始のごく初期の公団団地であったため、サッシは「木製」でした…。
鍵も「差し込み式(ネジ式)」で、かなりレトロな団地でした。
どの団地も、南側の6畳間に、春夏秋冬よく太陽光が入る向きに団地が建てられていました。
そのため、昭和30年代築の団地は、冬でも窓を開けて、日向ぼっこができるという、最高の物件でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/76/15b8f8f0982fdadcf045cd3af473e8e5.jpg)
次いで、北側4畳半です。
写りが悪いですが、ベビーベッドとミシン、整理ダンス、洋服ダンス、三面鏡が部屋を取り囲むように置かれています。
ここには、ベビーベッドが置かれていますが、多くの家庭では、この北側の4畳半の部屋を「寝室」として使用していました。
ちなみに、今まで載せてきた団地の間取りは「日本住宅公団1958年型設計」というタイプの間取りで、これ以外にも、公団団地には様々な間取りがありました。
でれすけは、団地の間取り=「田」を象徴している、この「1958設計」が好みです。
今回は、団地の部屋についてでした。
次回は、「ベランダ」について書こうと思っています。
つづきが、いつになるか分かりませんが…
でれすけは、千葉県松戸市にある「松戸市立博物館」へ行ってきました。
そこには、「公団・常盤平団地」が再現展示してあります。
前回までは、公団団地の玄関、風呂場、ダイニング・キッチンなどを紹介してきました。
今回は、団地の代名詞「2DK」のメイン、2部屋を紹介します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/f5/57da4d09a1a54fc6acb9544955134d19.jpg)
まず、この写真はベランダ(バルコニーなどとおしゃれな呼び方はしません。団地には「ベランダ」という呼び名が良く似合います。)側の南側6畳です。
基本的に、昭和30年代築の公団団地の居室は「和室」なのですが、当時、洋風生活に憧れた「団地族」の人々は、畳の上にじゅうたんを敷き、「洋間」として使用するのが一般的でした。
再現展示では、「応接セット」が置かれていますが、このようなソファなどを置き、ベランダ側の6畳間をリビングのように使用していた家庭が多かったそうです。
リビングとして使用されることが多かった6畳間には、ステレオ、電話、テレビ、扇風機などが置かれ、電化製品が一般家庭に普及していったようすも再現されています。ちなみにステレオは「日本コロンビア製」です。
写真の右上に、少し分かりにくいと思いますが、「絵」がかかっています。
これは、【「東郷青児」のビーズ絵】だそうで、この時期(昭和37年)、複製画が多くの家庭でかけられていたそうです…。
(本当に、当時の「生活」をここまで再現しているのには、感心しきりです。)
ちなみに、公団常盤平団地のサッシ(窓枠)は木製ではありませんが、でれすけの住んでいた公団団地は、昭和32年入居開始のごく初期の公団団地であったため、サッシは「木製」でした…。
鍵も「差し込み式(ネジ式)」で、かなりレトロな団地でした。
どの団地も、南側の6畳間に、春夏秋冬よく太陽光が入る向きに団地が建てられていました。
そのため、昭和30年代築の団地は、冬でも窓を開けて、日向ぼっこができるという、最高の物件でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/76/15b8f8f0982fdadcf045cd3af473e8e5.jpg)
次いで、北側4畳半です。
写りが悪いですが、ベビーベッドとミシン、整理ダンス、洋服ダンス、三面鏡が部屋を取り囲むように置かれています。
ここには、ベビーベッドが置かれていますが、多くの家庭では、この北側の4畳半の部屋を「寝室」として使用していました。
ちなみに、今まで載せてきた団地の間取りは「日本住宅公団1958年型設計」というタイプの間取りで、これ以外にも、公団団地には様々な間取りがありました。
でれすけは、団地の間取り=「田」を象徴している、この「1958設計」が好みです。
今回は、団地の部屋についてでした。
次回は、「ベランダ」について書こうと思っています。
つづきが、いつになるか分かりませんが…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
あの頃は、団地に住んでいる友達が羨ましかったものです。
確かに芦花団地の窓は、木製でしたよね。
松戸はスチールのようですが、スチールサッシも今は滅多に見ません。覚えているのは小学校のサッシがスチールでした。(中学もかな)
今、考えると当時の公団団地の間取りは、子育て世代にとっては非常に狭く感じますが、共働きの夫婦のみの世帯にとっては、手ごろな広さだったのだと思います。
ある程度の収入もあった「団地族」だったからこそ、ここまで西洋文化を取り入れたモダンな生活ができていたのだと思います。
でれすけ一家が昭和32年入居開始の「芦花公園団地」に入居した頃は、既に団地が建設されてから十数年経過しており、団地は既に一般庶民の「最低限」に成り下がっていました。
第1次募集で入居した世代は既に子育てを終えており、「老夫婦のみ」…という家庭が増加して行く中、でれすけ達の親世代のような「子育て世代」が多くを占めていたため、子供が多く、でれすけの記憶の中の団地は、活気に溢れている明るいイメージがあります。毎朝、団地の子供達が学年を問わず、誘いあって小学校に登校するのが一般的でした。現在の古い団地は、高齢化が進み、孤独死なども問題になっているので、新たに生まれ変わる芦花公園団地によって、南烏山2丁目30番地域の都市再生がうまくなされることを期待しています。
そういえば、芦花小はスチールサッシでしたね
サッシが重たく、開閉がしにくい上に、「怪我をしやすい」サッシで、よく手を切っては、保健室に行っていました。懐かしいです