おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「われら少数は、われら幸福な少数は、兄弟の一団である」(『ヘンリー五世』より)-アリンスキーとキング牧師の視座から③-

2023-11-12 06:17:03 | 日記
「E Pluribus Unum」≒「多数から成るひとつ」
がアメリカ合衆国の国章の中でよく私たちの目に触れるようになったり、
1776年7月4日にアメリカのモットーとなるずっと前まで
「E Pluribus Unum」の源流へと遡上を続けているときに、
ローマの哲学者のキケロが
「E Pluribus Unum」を
「おのおのが自分を愛するように他者を愛するなら、多くの人々はひとつになる」
と表現していることを最近、知った。

その時から、私は、ソウル・アリンスキーとマーティン・ルーサー・キング・ジュニアというふたりの草の根運動の指導者が、
なぜ、これほど、このふたりは
人々のものを見る目、聞く耳、そして感じる心
に訴えかけるのか、再び考えることを試みるようになった。

確かに、人柄や戦略の点で、アリンスキーとキングほど異なって見えるリーダーは珍しい。

アリンスキーは、強引で人をいら立たせるような対決姿勢を採った。
一方、キングは、何でも受け受け容れる包容力を見せた。

しかし、姿勢は異なって見えても、
ふたりとも不利な状況でも勝利を収め、
真実によって権力を打ち破るユニークな才能に恵まれていた。

また、ふたりとも自分の民衆運動に幅広く人々を迎え入れようとした。

キングは黒人の公民権を要求する運動家として活動を始めたが、最終的にはあらゆる人々の人権を求める運動家として活躍した。
一方、アリンスキーは、白人のコミュニティから活動を始めたが、人生のかなりの部分を黒人のコミュニティでの運動に費やした。

ふたりとも、自己アピールやポーズで、などという薄っぺらい意味ではなくて、本当の意味で、
弱者を守り、最前線で汗を流した。

また、ふたりは個人的・政治的危機に恐れることなく立ち向かうなかで、状況を多角的に捉え、短期的な戦術と長期的戦略のどちらを考えることも等しく得意であった。

ふたりはモーセのように遠くから約束の地を眺めることはできたが、その場所に辿り着くことはできなかった。

そう、ふたりは多くの小さな闘争には勝利したが、まだ大きな戦いで勝利はしていなかったのだ。

キングは雄弁な人格者で、広い心を持ち名声を得ていたが、暗殺によって、未来への時間が奪われてしまった。
また、アリンスキーも、彼が及ぼした影響は、生存中もその後も大きかったが、限られた状況と狭い領域にとどめられ、しかも彼の手法は、彼自身が最も嫌っていた有力者たちに、最も活用された。

しかし、ふたりどちらの考え方にも、私たちは学ぶことが出来るはずである。

それに
「試合は終わるまでは終わらない」
と、ヨギ・ベラも言っているではないか。うん。

ふたりの相違点と共通点を捉え直そうと試みると、少しずつだが、見えてくるものが在る。

アリンスキーは、自分たちの類似点と敵との相違点を強調したが、
キングは、敵との共通点を見つけようとした。

アリンスキーは、敵を倒すことを目指していたが、
キングは敵との協力することを目指していた。

アリンスキーはコミュニティの意識をひとつにするためには、悪者をうまく用いたようと考えたが、
キングはその悪者たちを友人にしようと考えた。

ただ、私たちが忘れてはならないのは、
「ふたりとも、広く周知された非暴力のデモを展開し、
デモに対する暴力的な過剰反応を利用した」という事実である。

つまり、アリンスキーの「取り組み」は、コミュニティに力を与えるために、暴力は用いなかったものの、きわめて対決的な姿勢を採っていて、多くの点においてキングの「取り組み」とは、正反対に「見える」ということであり、
私には、今でもふたりが、
「本質や目指すべきものは同じでも異なる手段を採るから違うように見えるものもあれば、逆に似ているが、本質は以て非なるものがある」
と思想や生き方を通じてこの時代、この世界の私たちに警鐘を鳴らしてくれているように思えてならない。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
またまた力が入り過ぎて長文になってしまいました。
本当に長々とした文章を読んでくださりありがとうございます。
自分の描き方の下手くそさに「かんしゃく」(癇癪)を起こしながら描いていますが、読んで下さる方々がいると知るとき、私の裡から「く」の字が抜けて、「かんしゃ」(感謝)しかありませんし、嬉しいです。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。




「多数から成るひとつ」≒「E Pluribus Unum」の源流まで遡上してみるべき時代に-アリンスキーとキング牧師の視座から②-

2023-11-11 05:45:14 | 日記
「平和を愛する者は、
戦争を愛する者と同じくらい
効果的な組織作りを学ばなければならない。」
(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)

マーティン・ルーサー・キングの
品格、忍耐、自己犠牲は、
独善的な政治家たちの
偏狭で独善的な態度、衝動性、自己アピールに終始する姿、
対する声なき批判となっている。

確かに、キングの思想や信条は、理想に過ぎて、現実的でないように思える。
例えば、
「愛は敵を友人に変えることのできる唯一の力である。
憎しみに対し憎しみにで応じていては、決して敵を一掃することはできない」
などの、それはそうだけど、やはり理想ではないか、現実離れしている、と思われる発言などである。

しかし、キングはその懸念を、
実践的なノウハウや心理面の理解、組織化のスキルを理想主義と組み合わせることにより払拭し、彼の運動は効果を発揮した。

彼の基本的な手法は(ガンジーの影響も感じる)非暴力の大規模な民衆デモであり、その様子は全米のテレビ画面に映し出され、結果的にかなり多くの人々の眼の前で展開されることとなった。

それは、アメリカに潜む人種意識を刺激した。

なぜなら、行進の様子は、眼の前で繰り広げられる受難劇のように感じられたであろうからである。
また、キングが、当初から自らが道徳的に正しいことを主張し、
その主張を決して捨てることはなかったことも受難劇の要素となる一因だったのかもしれない。

キングは、自らの利益だけを図ったり追求したりする人々や階層の人々にとっては、危険な存在であった。

キングの存在は、それまで、彼の不在の時代には一致しなかった人々の信条を、本来の意味でのポピュリズムというひとつ思想のもとに取りまとめることが出来るものだったためである。

キングのポピュリズムには、対決姿勢がなく、それでいて効力を失わなかった。

キング自身
「右の頬を打たれても左の頬を差し出したのは、」
それが彼の本能的行動であっただけではなく、
「効果的な戦略であったからだ」
と述べている。
さらに数の力と共同する取り組み方においても相当な力を発揮していたキングは、メンフィスで清掃労働者のストライキ支援に参加しようとしたところを銃撃された。

キングの暗殺は歴史の転換点のひとつだと私は、思う。

言い過ぎかもしれないが、彼の登場は、1世紀に1度しかない大きな現象だった。

しかし、私たちは、キングの思想や理念、そして戦略をも想起することによって、彼の手法に学び、自分を省みたり、今の世界の在り方を鑑みることができるはずである。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今回も力が入りすぎ、長文になってしまいました。
本当に読んでくださりありがとうございます。
次回は、アリンスキーとキングについてまとめたいと思います。(→予定ですが)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。


ソウル・アリンスキーからの提言としての『過激派のルール』-アリンスキーとキング牧師の視座から①-

2023-11-10 06:03:50 | 日記
「マキャベリの『君主論』は
いかに権力を保つかについて、
「持てる者」に向けて描かれている。
だが、『過激派のルール』は
いかに「持てる者」の権力を奪うかについて、「持たざる者」に向けて書かれている」
(ソウル・アリンスキー)

ソウル・アリンスキーは人の力で金の力と戦いたいと願っていた。

言い換えれば、アリンスキーは、力のないものが、力を持つ者の略奪から身を守れるようにするという正義を願っていた。

次回以降から、マーティン・ルーサー・キング(キング牧師)について触れるが、
(少しだけ今回は比較のために言うと、)キングによる非暴力のポピュリズムが道徳性を最重要視することを基本としていたのに対し、
アリンスキーの手法は実践的かつ戦術的であり効果的であることに重きを置いていた。

1971年、アリンスキーは亡くなる直前に、
『過激派のルール』と題した書籍を出版した。

この書籍は、コミュニティを組織する者に向けた10章から成る手引書であり、
また、
アリンスキーの30年にわたるボトムアップで少しずつ世界を変える方法
アリンスキーの30年にわたるコミュニティの組織作りの方法

の詳細を凝縮したものである。

アリンスキーの『過激派のルール』は、マキャベリの説に似た雰囲気もあるが、
そのアドバイスは、君主ではなく、一般市民のためになるように描かれた。

彼の『過激派のルール』を精神科医のアレン・フランセス氏の解釈を加えながらまとめると

1.あなたは実際に持っている力だけではなく、敵が想定するだけの力を持っている。

2.人々の力は金の力と戦えるはずであるし、そのようなものである。

3.自らの得意分野で敵とは戦え、敵の得意分野にて敵を戦わせてはならない。

4.的を射た嘲笑は敵を萎縮・矮小化することも出来る。

5.楽しんで実行できる戦術は、皆が従いうまくいく可能性が高い戦術である。

6.定石だが、敵には圧力をかけ「続け」ろ。

7.敵もまた防御の方法を考え、戦略を変えてくるので、敵の一歩先を行かねばならない。

8.敵の暴力は、(非道であればあるほど、ますます多くの)あなたの友人を作るものである。

9.ターゲットは厳選し、孤立させてから戦いを挑め。

10.人は組織よりも、速く倒れるものである。

となる。

味方にとって頼りになる武器は、敵が手にしても有力になることをアリンスキーは、識っていた。

アリンスキーの非凡さは、人々に
「自分の運命は自分で決める」

ように後押ししたことにこそ在るのではないか、と、私は思う。

そのはじめの一歩を踏み出せるような、必要な前提条件について、アリンスキーは明確かつ説得力のあるアドバイスをした。

「戦術がいくら独創的であっても、
また戦略がどれほど抜け目のないものであっても、
人々の信頼と尊敬を勝ち取らなければ、
戦いを始める前に負けが決まってしまう。
それらを勝ち取る唯一の方法は、
あなた自身が、
人々を信頼し尊敬することである」
と。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
今日も気合いが入りすぎて、長文になってしまいました。
読んでくださりありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。
今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。



コンピュータによるユートピアを夢見る者たちが究極のデイストピアを創造する-世の中の問題たちに向き合う②-

2023-11-09 05:27:35 | 日記
「すべてのものには美しさがあるが、
すべての人にそれが見えるわけではない」(孔子)

その逆や、美しさの部分を恐ろしさに換えても、上記の孔子のことばは成り立つであろう。

ビル・ゲイツやイーロン・マスク、スティーブン・ホーキング(2018年3月死去)は皆、
私たちに従順であるようなコンピューターを作ることが、やがて将来の人類生存に対する脅威になるかもしれないと危惧している。

また、人間が今後、地球外生命体と接触する確率を計算する理論家は、
人間が接触する地球外生命体が機械であり、生物学的生命体ではないと予測するようになっている。
なぜなら、生物学的生命体の生存期間の方非生物学的生命体の生存期間よりも、もともと短く、さらに単純な元素の複雑な元素の複雑な生命体への進化は、宇宙で必然的に起こることであるからである。

そうした生命体には、賢くなり、また愚かにもなりながら、自らにやがて取って代わる機会を作り出す性向が、もともと等しく備わっているのかもしれない。

しかし、私たち人間は、コンピューターに制御された世界に生きている自覚があるのならば、人間が不要であるとコンピューターが決めるリスクを何よりも先に話し合うべきではないだろうか。
それはコンピューターがどんなに便利な世の中を創造できるか、ということより先に話し合われるべきであり、
コンピューターの良い面だけをみながら語る世界を創造するという、目先の喜びを重視するべきではない、と、私は考える。

人工知能を開発するコンピューター分野の天才たちは、
「己が出来ることはやるべきだ。
やらなければ、競合する者に間違いなくやられてしまう」
と考え、フランケンシュタイン博士のような独善的な態度を取っている。
確かに、彼ら/彼女らの取り組みは技術の上では素晴らしいが、
倫理に関する議論や、冷静な他者の監視によって縛られていない。

さらに言うなら、
彼ら/彼女らのやり方は、
手段のみに重点が置かれ、目的はまったく考慮されず、ともはすると、目標すら考慮されていないのである。

私の裡に在る人間というものに感情的な愛着からかもしれないが、「人間はよいが、コンピューターはもっとよい」というような彼ら/彼女らの姿勢を私は、ひどく恐ろしく感じている。

人間は、コンピューターの側がもたらすシンギュラリティの世界に立ち入るべきではない。

その世界では、人間が担うであろう役割は無視されてしまうであろう。
そこは人間が、存在していても、必要と捉えられない世界だ。

繰り返すが、
私たち人間に対して最終的にどんな影響があるのかを、前もって徹底的に話し合うことなく、人間が出来るありとあらゆることや、さらにそれ以上のことがこなせるプログラムを「深く考えもせずに」、「議論を尽くしもせずに」開発すべきではない。

熱心なテクノロジー専門家にかぎって、いつもいつも、人間に利益をもたらすようなコンピューターの利用を強調するが、そのリスクや意図せぬ結果は、すべてと言ってよいほど無視している現実に目を向けてほしい。

コンピューターが作るユートピアを夢見る者たちは、究極のデイストピアを創造しつつある。

もしそんな世界が創造されたら、
その世界では人間は不要であると規定されており、人間の尊厳も人間らしい人間もいない。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
前回からの続きですが、気持が入りすぎて?、長文になってしまいました。
今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。

「シンギュラリティ」≒「人工知能が人間の知能を追い越すという進化の転換点」はいつなのか?-世の中の問題たちに向き合う①-

2023-11-08 06:13:50 | 日記
「われわれは敵に会った。
それはわれわれである。」
(ウォルト・ケリー)
私たちは、コンピューターが、私たちの問題を解決することが出来る
考えがちであるが、
「なぜ、
コンピューターが人間を問題のひとつである
どうして考えないことがあろうか?」
、と、考えないのだろうか??

人工知能の熱狂的な支持者は、コンピュータの能力の想像を絶する成長を予測したムーアの法則(1985年)がおそらく将来にわたって限りなく続き、コンピューターが数十年以内に人間の知能を追い越すと予測した。

人工知能の最も初期の先駆者である、アラン・チューリングとジョン・フォン・ノイマンは、
60年以上前に、やがてコンピューターが、一部の「力任せの計算力に頼った知性の勝負」で、ことごとく人間に勝つ、とは考えていたが、こうしたことをさまざまな局面でこのような勝負のつけ方をするほどチップ技術が進歩するとは、まったく想像はしていなかった。

人間は、賢くなるにしても、
そのスピードはコンピューターに比べてとてもゆっくりである。
なぜなら、ずば抜けて賢いと今思われているコンピューターが、さらにもっと賢いコンピューターを開発することができ、さらにそれがまた賢いコンピューターを開発するというプロセスが繰り返されるため、私たち人間は学習スピードの点で大きく引き離されるようになってしまうからである。

「シンギュラリティ」ということばがある。
「シンギュラリティ」ということばは、人工知能が人間の知能を追い越すという進化の転換点を表すのに使われるためことばである。
そのときに、何が起きるのかは、誰にも、わからない。

ただ、「シンギュラリティ」が来れば、コンピューターは人間に完全に取って代わる可能性がある、ということだけは、確かである。

人工知能の業界は、極めて深刻な結果をもたらす可能性を考えず、
期待と成果を限界まで高め続けている熱狂的な人々であふれている。
彼ら/彼女らは、
政府や企業、億万長者の素人に近い愛好家にも多額の資金援助を受け、
新たな人工生命体を作る力の虜となった、
現代のフランケンシュタイン博士である。

彼ら/彼女らの仕事は、技術発展やその概念の進歩に私たちの考えや規制が追いつかないために、
ほとんど規制されておらず、
その危険性に関わる貴重な議論はほとんど行われていない。
これは、現代における問題のひとつではないだろうか。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。
数日ぶりですが、日記に復帰しました。
これからもまたよろしくお願いいたします。
では、また、次回。