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『スラムダンク』。

2005-03-27 23:15:00 | Review...
さてさて、いざ漫画放談@BLOCKBLOGに投稿すべく、今マン喫に来ております。。。

とりあえずは目的の『スラムダンク』を手に入れたいかと。

あー、やはり「読んでて面白いマンガ」なので、とりあえずはテキトーに感想を述べていこうかなと。(ちなみに、単行本サイズの全31巻のを読んでいます。

んまとりあえず1巻。
なんというか、男の行動原理、というか・・・(^^;
桜木の執念がすごいですね。
にしても、
流川「何人たりともオレの眠りを妨げる奴は許さん」
って、なんですかそのセリフ(^^;

2巻読了。
ってか、このスピードだと読み終わらないOTL
にしても、桜木をバスケに戻させたのが「根性なし。」という言葉である、というのは面白いですね。(まぁ、最後の一押しをしたのは晴子の悲しそうな顔なんだろうけれど
上のもそうだけれど、ヤンキー同士のやり取りとかを見ていて思うのが、価値基準で「ダサいと思われたくない」とか「見下されたくない」ということがかなりのウェートを占めているんじゃないかなぁ、ということ。
何かを一生懸命やる。それは今どき「ダサい」とされがちなことだけど、なんかそれもいいもんだなと思わされますね。(桜木が恥ずかしそうに「オレ、ちょっと用事思い出した いっていいか…」とバスケ部に戻るのがなんとも。
不覚にも流川のプレーに見とれてしまい、もてたいから、というそれだけの理由ではなくバスケに向かっていこうとしている姿が現れてきているのもいいですね。

3巻読了。
んー、特記すべきが難しい。
対陵南戦――桜木の初試合を控え、練習が進んでいきます。
桜木は庶民シュートを覚え、リバウンドもちょこっと教わり、程度。
この巻であえて見るべきをあげれば、人の動かし方、というよりは桜木みたいなお調子者をどう動かしていくのがいいか、ということぐらいでしょうか。
物語的には桜木が完全に天狗になり、この後味わうべくある「挫折」の伏線になってますね。(典型的であるだけに、先が予想しやすい。もちろん、それが一番盛り上がりやすいのもそうなんだろうけれど。ここら辺のジレンマは如何としがたいですね。

4巻読了。
対陵南戦です。
途中、赤木が怪我して湘北は桜木を投入→緊張でガチガチ(^^;
まぁ、流川のドツキが入り、これからという感じ、ですかね。

5巻読了。
対陵南戦、いよいよ佳境。
にしても、試合の場面だと書くことがない、よね。。。
やはり「どう引き込ませるか」「どう(読者の)集中を維持させるか」の技術的なところが主題になってくるし、そこは専門じゃないから…←じゃあ、どこが専門やねん、っていうつっこみはなしの方向で

6巻読了。
対陵南戦終了。まぁ、(話の流れ上)当然負けですね。
ずっと続いていた緊張を、桜木の「…パス…」というセリフで虚無感を出すことで終わらせると同時に、読者にこのやるせなさを共感させる、というのは(ありきたりなんだろうけれど)やはりいいですねぇ。
p.82の、桜木の周りの描写と、同じコマの流川だけがぶぜんとして整列している姿というのが、なんともいいです。
さてさて、試合も終わり、セオリー通りであれば、桜木を腐らせ、何かひとつエピソードを入れてバスケットへ向ける姿勢を本格的にさせる、というのが普通だと思うのですが、そこで宮城と三井を出してくることで桜木を腐らせなかった、というのはうまいですよね。
次巻、桜木・宮城・三井のバトルがきます。。。

7巻読了。
ハイハイ、乱闘編(勝手に命名)突入。
の前に、宮城の言葉から引用。

初めて見たんだ、彼女を。
もうホレてたよ…
速攻で入部した。バスケに命かけることに決めた。
オレがチームを強くして…試合に勝って…
それで彼女が笑ってくれれば最高さ。



いいねw 桜木もこれに共感し、二人は(キモいほどに)意気投合。
よくよく、2巻の、桜木を再びバスケに戻させたときの心情を分析してみると、今までが単純な「モテたい」「振り向かせたい」という『自己の欲求を相手に求める』という姿だったのに対し、「晴子の悲しい顔を見たくない」という『相手に対して奉仕的である』という姿に成長(というかどうかは難しいけれど)しているのが分かる。

にしても、あとで明らかになりますが、次のようなところには弱者の嫉妬というのを強く感じさせますね。

宮城「ここは大切な場所なんだ」
三井「バカか お前は」
宮城「――――!!」
三井「オレはな それをブッ壊しに来たんだよ」



8巻読了。
乱闘編、完結。
いやー、この巻は巷で「スラムダンクといったらこれ!」というぐらいの名言が2つもあるわけで。
すなわち、
あきらめたらそこで試合終了だよ

安西先生…!! バスケがしたいです…
の2つ。
なんとも、やはりこの2つの言葉が名言足りうるのは、それがバスケとかそういうものを超えて、なんというか、やはり人間ドラマの中で語られうるものであるからなんでしょうねぇ。
にしても、回想シーン上手すぎ。語っているのは小暮であり、それはあくまで「客観的な事実」だけであるはずなのに、三井の「焦り」や「挫折」といったものが切々と伝わってくる。
それと、p.173の「三っちゃん、本当は…バスケ部に戻りたいんじゃ…」というセリフ。コマ。
ポン、と三井の深層に、そして読者自身に、まるでその言葉だけが浮かび上がるがごとく投げかけられている(見させている)のがすごい。マンガだからこそできる間の取り方というか。なんか感心。

9巻見つからないOTL

10巻読了。
対翔陽戦。
面白い、けど特筆すべきはなし。
時間がなくなってきたなぁ…

11巻読了。
対翔陽戦、後半。
面白い、けど特筆すべきはなし。(って10巻と同じじゃん
んと、やはりあくまで「スポーツ」なんですよね、描かれてるのが。
そこに対してある評価は、やはり「マンガとして」上手いかどうか、であり、それについて言及するのはムズイわけです。
ただ、p.157の“心臓の音が きこえる…”という文なんかは、前の文脈(というのか)と結びついて、文学と同様に「異化」を起こさせる表現だなぁ、と。
そのあとの#98における桜木の回想。水戸洋平の「あの大歓声がきこえなかったのか?」に対するしばしの沈黙。「オレ…なんか上手くなってきた…」というセリフ。なんか、祭りの後にある熱狂の余熱、みたいなものがあって、すごく好きかも。
(そのさらにあとに俗世的にして日常に戻すのもまた上手いといえるけど

12巻読了。
対海南戦。
話の展開(桜木封じ)も面白いけれど、やはり取り上げたいのは海南戦始まってすぐの試合の描写。
マンガのスポーツに、現実のスポーツとはまた違った面白さを与えるのがまさにコレ。
すなわち、「カメラワーク」と「切り取り」。
「カメラワーク」によって動的に変化する視点はスポーツを「観戦する」視点よりもむしろ「プレイする」視点を読者に与え、またこの部分で特にさえているのが「切り取り」で、動的で見逃してしまいそうな細やかな一瞬一瞬を、静的に「切り取る」ことで、プレーのすごさをより強調し、また異化させる働きがあるわけです。
(前者はアニメーションでも可能だけど、後者はマンガだからこそ出来るものですね。

時間になってしまったので、とりあえず続きはまた今度で。

さてさて、ふたたび来ましたよ、マン喫。2日目。
んじゃ、読んできます。

13巻読了。
ごめん、14巻読ませて。

14巻読了。
やばい。おもろい。
(赤木の1,2年のころの回想、が、もし考察をするのなら、のとこかな。とりあえず、あとで。)
15巻読ませて。

15巻読了。
やべぇ、すごいわ。
ちなみに対海南戦終了。
有名な、桜木が「ゴリッ!!」とパスを出した先が海南の高砂だったシーン。
時が止まったような。
終わってから、しばらく桜木の表情が映されず、読者が「どうなってるんだろう…」と思っているところへ放り込まれる、桜木が号泣してるシーン。なんか感動。
14巻での赤木の先輩たちのシーンとの対比から、なおさらここでの「負けた悔しさ」(って、言葉にしちゃうとすごくちゃちく聞こえる…)というのが伝わってきますね。

16巻読了。
後半から、海南vs陵南の試合。
まぁそれはおいといて、

初心者としてバスケ部に入部して以来、ドリブル・パス・リバウンドなどの地道な基礎練習を続けてきた桜木
その彼にとって
シュートの練習は楽しかった



これ、もちろんシュート練習というのはドリブルやパスの練習に比べたら普通に面白いわけだけれども、やはり「今自分に何が必要なのか」といった課題がはっきりと見えているからこそ、面白いと思えるんじゃないのかなぁ、と。それと、「これをやれば試合にどう活かせる」という成果がはっきりと見えているのも大きいんじゃないかなぁ、と。
陵南田岡監督の福田に対するもそうだけれど、スラムダンクは教育関係者(自分もバイトではあるけれど一応そうだからね)にとってけっこう教訓を含んでいるのかも。

17巻読了。
海南vs陵南が終了。
でも、この巻で一番大きいのは安西先生が倒れた、というのですよね。
桜木の行動と関わって桜木の過去がちょこっと出てきたけれど、親父を助けられなかったからこそ、今度は、というのがあったんでしょうね。(ただ、たしか伏線というわけではなかったような…そこがちょこっともったいなかったな、と思ってしまう。

18巻読了。
いよいよインターハイ出場をかけた、対陵南戦。
いやー、桜木のなんとも言えないような気持ちがすごく伝わってくる。
それは自分ではいかんともしがたい「経験」の差。そして、それをいやがおうにも認識させられ、周りのレベルと自分のレベルとの乖離によって生まれてくる「疎外感」、「悔しさ」。

桜木は――ずっと天井を見つめていた
やけに耳に入る他人事のような歓声が、やたら悔しかった



19巻読了。
湘北、押せ押せムード。
桜木も一時は「自分にないもの」を求めてあせっていた感があった。(水戸の「なーんかイロイロ余計なこと考えすぎなんじゃねーかなぁ… 誰もあいつがルカワみたいにやるなんて思っちゃいねーんだから」という言葉が秀逸)
けれど、そんなのも忘れるほど集中して、「桜木だからこそ」出来る動きが戻り、いい感じに。(にしてもメガネ君、「集中してるときのあいつの動きは本当に常軌を逸している!!」は言い過ぎではw

20巻読了。
おぉおぉ…全巻の流れがウソのように湘北苦戦。
というか、流れって恐ろしい。
一応湘北がまだ勝っているのに、なぜかもうそのまま負けてしまうような感じ。(そして、本当は「そのまま」という言葉が示すとおり、現時点ですら負けてしまっているように見える

21巻読了。
感動の湘北勝利。(って、やはり書いてしまうとちゃちだ。
6巻での描画をすべて「逆」にさせているあたりがニクい。
あのときも桜木が決勝点を入れたのは同じだったけれど、その後、湘北はそれまでの成長を象徴するがごとく、浮かれることなくすぐに守りに戻る。
しかも、この回では最初に少し音(セリフ・効果音)が入った後はずっと音の描画がなく、初めて出てくるセリフが、ゴールを決めた後の桜木による「戻れっ!! センドーが狙ってくるぞ!!」というのであるのも、上のを際立たせている感じ。
あと、6巻の時には泣いていたのが桜木、それを慰め?ていたのが赤木だったけれど、それが逆になっているのも、またいい。
けど、最後の全国強豪の描写、それ自体は必要だけど、やはり伏線として後に活かせていない気が…?
ん~、考えにくいけれど打ち切りだったのかなぁ…?

あー、またタイムアップ。
んー、けっこうお金食うかも。。。

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『ルカ -楽園の囚われ人たち-』。

2005-02-27 08:09:00 | Review...
第11回電撃小説大賞、大賞受賞作の『ルカ -楽園の囚われ人たち-』を読んで。

なんだかんだで忙しくてやっと読み終わった…(つか今月、blogのエントリが少なすぎ(^^;

まぁなんというか、なるほど、という感じですね。
いろいろな意味で。

個人的にはこういった文章構成(断片的につなぎ合わせた形になっているもの)はあまり好きではないんですが…(『ブギーポップ』とかね)けど、読み終えてみれば、まぁなるほど、というか。
終わらせるときに、電源がストン、と落ちるような、そんなすっきりした終わら方をするには、こういった構成が一番やりやすいんでしょうねぇ。(自分も同じような形で終わらせたことあるしなぁ…

さてさて、文章について言うと、最初の
「――あなた、イルカを増やそうとは思わなかったの?」
という始め方は素敵。いや、そのセリフの意味が分かってくるのはずっと後のことなんだけれど。そもそも上に述べたような構成になっているから、このあとの文章はしばらくずっと「?」が続くわけだけれども、あとで意味がつながった後はもちろん、単純に音として興味を引く始め方だなぁ、と。
他にも、文章が特に特徴あるとかというわけではないのだけれど、基本的には読みやすく、ところどころちょっとこ洒落た単語?を使うのがけっこう面白い。

この作品で一番なるほど、と思わされるのが、語りの手法。
まず一番古典的な「語り部」の方法(読者から「見える」語り部が読者に向かって話すように、物語を語っていく形)でないのはもちろん、普通の小説のような客観的な視点の文章(読者からは「見えない」が、そこには物語を語る「神の視点」が存在する)でもなく、ライトノベルが得意?な一人称な文章(登場人物の「わたし」が物語を語っていく)というわけでもなく、これらが入り混じっているという感じなのがなんとも。
それはもはや「物語」が終わってしまったあとに語られたものでもあるし、語る人の立場から「神の視点」のような語りでもあるし、けれどもその人も物語の登場人物である、という一人称な語りでもある、というような感じで。
いや、むしろ、語り部の「心境の変化」によって語りのスタイルが徐々に変化させられていったと考えた方がいいのかな?
「記録」の部分では、そこに人は彼自身と「どこかで今自分が語っているものを聞くかもしれないであろう」人(それは、読者でもある)しかいない。
「神の視点」の部分は、彼自身自分のことを「神」のように感じていたし、物語の「傍観者」ではあっても自身は「登場人物」ではない、と考えていた。
そして、自身も「登場人物」であると自覚させられたときに、それは一人称の語りになった、というような感じで。

 私は自惚れていた。
 自分がドミノのプレイヤーであると、信じて疑わなかった。
 自由に牌を選び、思いのままに並べ、気が向いたときに倒す。そういう側の存在だと思い込んでいた。
 何という愚かさだろう。今頃になって、こんなにも取り返しのつかないことが起きてから、ようやく気付くなんて。

 私もまた、運命に弄ばれるドミノの牌のひとつにすぎない。
(p.216より。一部省略。)



にしても、こういう文章だとこの「一人称の語り」における『身体性』の重要性を再確認させられますね。
「わたし」という存在が、その視点から物語を読者に伝えるのはもちろんだけれど、ただ見るだけの存在ではなく、登場人物の一員として物語に影響を与えていくそのために、何らかの形で「他の登場人物(他者)」にそこに「いる」と認められる『身体』が必要なわけです。
この作品だと語りの変化における語り部の立場の変化によってそれがよりはっきりと見えてきますね。

んで、最後に構造的なものについて。
まぁいろいろと述べられていますが、特筆すべきもの、といわれると…
なんとも、こういった構造が当たり前になってきた感がありますねぇ。
一昔前の小説が「青春」という枠組みで語られていたのから(というか、この「青春」って、西洋における文明化、あるいは日本におけるブルジョワ階級特有の「病気」なわけで、よくこれだけ続いたものだなぁ、と)、同じ恋愛を扱うにしても「個人主義」というか、「『私』と『他者(これは世界も含む)』」という枠組みで語られている、という感が強いです。(俗言う、『セカイ系』につながるのでしょうが。)
この『私』と『他者』――特に『他者』の構造をどう捉えるのか、『私』に投影される存在なのか(現象学的ですね)、あるいは『社会構造』によって定められるものと捉えるか(科学的社会主義?)、などが重要になってくる気がします。

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『マリア様がみてる イン ライブラリー』。

2004-12-26 03:25:00 | Review...
『マリア様がみてる』の最新刊、イン ライブラリーを読んで。

ということで、微妙にネタバレです。
基本的にはこれを読んだから面白さ半減とかなことは書かないけれど、それでも嫌だー、という人は引き返してくださいな。

さて。
今回のマリみて、ヤバイです!
もう、最高!!

今回のやつはバラエティギフトと同じような、オムニバス形式というか、な、やつだったのですが、それぞれの作品が珠玉。
さらに、俗に言う、というか、今野先生もあとがきでそう呼んでいるのですが、「のりしろ」の部分、ですね、がとてもいいです。(んー変な日本語。音の区切りを分けないと意味が通じにくい・・・)

それぞれの話について一言ずつ。
それと、時間がバラバラなので、そこについても。

まず「静かなる夜のまぼろし」。
蟹名静さまのおはなしですね。
時間的には、蟹名さまが2年生で、祐巳はすでに祥子さまの妹になっていて、これから生徒会役員選挙という時期です。とどのつまり、ロサ・カニーナの少し前の話。
個人的はこういうしんみりした雰囲気、大好きです。考えさせられる内容でもありますしね。確かに、『マッチ売りの少女』をそういう風に見ることも出来るんだなぁ、というか。
「本人が幸せなのであれば、それがまぼろしでも。」個人的には賛成です。
でも。
それが本当に本心から思えていることなのか、というのが突き刺さる批判です。
ごまかしているだけなのでは?
―――上の「ごまかしているだけなのでは?」という言葉が突き刺さるのであれば、それはごまかしているだけなのでしょう。(といいつつ、自分もちくりと痛い気がしてるわけですが(^^;)
もちろん。そう言われることで「きづいてしまった」「不安になった」(自分はこういった事態が起こるなら、後者かなぁ・・・)りして、心が痛むのかもしれませんが。なんとも難しいです。
同様のテーマとしては『カードキャプターさくら』の知世の「好きな人が幸せなのが一番幸せ」という言葉が「本当なのか」という指摘(というか、これはネット上のSSであったものですが)がありますね。
最初は手放しで知世の言葉に賛成(というか、すごいと感心)していたのですが、上のような指摘を読んで不安になりましたね。
「実際に自分がそういう立場になったときに、本心からそう言いきるだけの勇気があるのか」と。それがただの言い訳になってしまっているのではないかと。

次いきますか。
「ジョアナ」
んー、タイトルの意味が分からない・・・『若草物語』は全部読んだことがないからなぁ。
時間的には祐巳が2年のときの学園祭前で、瞳子に演劇部に戻るようにということを伝えにいったところ。
なんとも。瞳子は瞳子で大変なんだなぁ、というか。
でも、知らぬうちに祐巳のペースに巻き込まれて変わっていっている様子がよく描かれています。
余談で。
今回瞳子は結構出てきてる(「のりしろ」の方でも)のに、可南子がぜんぜん出てきてないんですよねぇ。
祐巳のスール(妹)はどうなるんだろう・・・?

次。
傑作。
「チョコレートコート」。
もう、すばらしいの一言。いや、個人的にこういうの大好き。
ちょっと分かりにくいのだけれど、時期をいうと祥子さまが1年で入ってくる頃のもの。(といっても、祥子さまは全然関係ないんだけれど。)
主役は寧子(蓉子さまと同学年)と浅香、真純(祥子さまと同学年)。
お互い相手に嫉妬し、心に負い目を負って、けれど本当はそうしたいんじゃなくて、でも譲れないものがあって、そして嫌いになってしまいたいのに、好きという気持ちもまだあって、という、微妙なやり取りがなんともいえません。(と、たとえ読んだ人でもわけ分からなくなるような文章でネタバレ回避。)
こういうのを表現できるのも、小説ならではでしょう。マンガでここまで繊細な感情表現は・・・もちろん、わずかな描画にそれをこめるのは可能でしょうけど、読み取る方の技術も要求されますしね。

次の「桜組伝説」。
これはオムニバスの中にさらにオムニバスを入れたというか、祐巳たちが2年の時の学園祭で、「桜亭」という喫茶店をやったときにおいてあった「桜組伝説」という本の中から何個かお話を抜いてきたもの、という構成。
・桜の中の魔
いいですねぇ。文章はそうでもないけど、発想が幻想的で。桜ってやはりこういった「魔」とか霊的なものと縁が深いんですかねぇ?落としたところが「鏡の世界は・・・」みたいなのはちょっとあっけない気もしますけど、まぁそんなもんでしょう。
・桜の扉
なかなか。にしても、よくこんな発想が浮かぶもんだなぁと。
・桜の埋葬
これもいいですねぇ。時代設定は明治~大正くらいになっているようです。一部、考えさせられるところがあって、この3つの中では一番ボリュームもあるんじゃないんですかねぇ?

そして最後の「図書館の本」
もう、すばらしすぎ。
神。
もうこれ以上言うことはネタバレになってしまうので自主規制。
にしても、縁というのは深いものだなぁ、と。
最初はみきさんが新しくスール候補として出て来たのかな?と思っていたのだけれど、全然そんなことは無く、そもそも、が違うわけで。いやはや。それを「きづかせない」呼び方、そして「きづかせる」仕組みを用意しておくとは、なんとも周到で、脱帽の一言。

さてさて、あとは「のりしろ」。
まぁ、予想はしていたわけですが。で、そのとおりではありますが。
でも、やはり実際に読んでその場面を想像してみるとやはりいいものですw

今日最新刊(つまり、インライブラリー)が出たばかりなのに、早くも次の巻が見たくなってきたw

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『空の中』。

2004-11-22 03:10:00 | Review...
有川浩『空の中』を読んで。

ん~、なんとも評価しづらい。
前作(『塩の街』)が素敵過ぎただけに、難しいところです。
(って、上のアマゾンの評価、『塩の街』は大分低いですね(^^; 確かに、キャラ主体・設定主体で成り立つライトノベル、という観点からすれば、主人公の女の子のキャラが平凡、設定はいいのに活かしきれていない、という批判は的を得ていそうですけど(でも、設定活かしきれてないかなぁ…?設定がこの作品の世界観を完全に定めていて、また一貫性も持たせていると思うんだけど?)、この作品のテーマからすれば女の子が「実はこんな能力が…」とかはまっっったく意味が無いし(というか、作品が成り立たなくなる)、やはりこの作品の見るべき点といえば、設定によって生まれる「世界観」(設定よりはこっちの方が重要。というのも、この世界観を生み出す設定は別にこれだけに限らないから。なので、理論として一般性が出る。)の下で、作品全体がまるでひとつの「数学的議論」であるかのように進められていくことでしょう。)

で、正直なところ、前作で言いたいことは言い尽くしてしまったのだと思った(つまり、この人にとっては、「物語を綴る」ために「登場人物」・「設定」があるのではなく、「設定」によって作られる「世界観」での「自分の考え」を言わせるために「登場人物」が存在しているようなもの。どちらかというと「物語」というよりは「哲学対話」に近い)のと、続編を出すような作品でもなかったので、次に何が出てくるのかなぁ、と思っていたのですが、出てきたのがまさかの単行本。しかも分厚いw
読んでみれば、確かに単行本で出すしかなく(分量が多く、また区切ることが内容的にも、「目次(の言葉)」的にも難しいから)、で、この物語を収束させるにはまさにぴったりな長さであり、短くするわけにもいかないんですよね。

けれど、「この物語を収束させる」にはぴったりな長さではあっても、正直長すぎる。その一点にこそがまさにこの作品の評価を難しくする原因。
確かに「物語」としてその展開は面白いし、登場人物たちのやり取り、葛藤、苦悩、あるいは思慕、恋心、愛情などが巧みに描かれていてすごくいいんです。(にしても、普通の小説ってこういった描写がへんてこなのが多いですよね。登場人物の心情が全然読み取れない――というよりは、心がないんじゃないか?というものがあったり、今までの流れ無視して、どうしてそうなるのか分からないようなところに感情が落ち着くものとか。あと、ライトノベルに比べると、ほんと些細な、見落としてしまいそうな「細かい動作」の描写によって物事を伝えるのが下手だなぁ、と思うんだけど、それは自分だけ?)
けれど、前作にあるような作品を一貫した伝えようとした「作者の言いたいこと」を伝えるには長すぎて、そういったものが局所に偏在する形になってしまった。
作者の言いたいことを伝えるために物語が存在する、のでなく、物語の節々で作者が言いたいことをいう、という形になってしまった。
それはそれで、普通の小説に近づいたとも言えるんですけど、やはり前作に比べると劣っている(って、さりげなく普通の小説を非難してるなぁ(^^;)と言わざるを得ないのかなぁ、と。

んー、「小説は細部の積み重なりで成り立つ」という意見があるけれど、で、もちろんそれは正しいと思うのだけれど、その細部の積み重ねがある一定の秩序にもとづいて行われていない場合は――ある一つの「目的」に向かって動く、というダイナミック性が見られない場合には、その「細部」をわざわざその作品内で組み上げなければいけない理由が見当たらず(ようは、別の作品の部品にしてもいいはずだったのに、わざわざその作品の細部として存在しているのに十分な存在理由が見当たらない)、細部はもとより、小説そのものの存在理由がなくなってしまうと思うのは自分が理系で、しかも専門が数学だから?
そういう意味で、『塩の街』は細部はもちろん、作品としても一つの方向に向かっていて、まさにある一つのことを言うために作品が、細部が存在しているという形だったのだけれど、『空の中』は言いたいことに先行して物語が存在してしまって、言いたいことの断片断片がまとめきれていない気が。
(まぁ、そもそも「問題設定」が曖昧で、「作者が何を問題と思ってその主張をしているのか」すら読者につかませないで、議論(と呼ぶには、存在が断片化されすぎていると思うのだけれど)を進めていく(というよりは、結論のみを無秩序に読者に投げかけていく)普通の小説に比べれば、大分マシだけれど)

んー、書いていて、何で自分が普通の小説をあんまり読めない(作者の言いたいことがつかめない)のかが分かってきた(^^;
そもそも、作品を一貫しての主張みたいなものが普通の小説では軽視されているんだろうなぁ。
で、ライトノベルっていろんな意味で「神話」だから、そういった意味でそれは「数学的議論」であり、細部、そして作品全体に意味がある、というのが普通であり、それをつかむのが「理解する」という状態だったわけだ。
そりゃ、そもそもそこ(全体を通しての作品の意味)が重要視されていないのであれば、「理解が出来る」はずもない。だって、そもそもそういったものが存在していないわけだし(^^;

まぁ、いいや。

『空の中』に話をもどすと、たしかに物語り全体を通しての「言いたいこと」の一貫性は得られないものの、物語をうまい具合に盛り上げてちょうどよく収束させたのは見事だし、普通なら描写が空中分解してしまいそうな、並行して行われている2組の恋愛の様子というものを、その恋愛がどちらもあまりに素直すぎる(駆け引きがちょっと単純)という点を除けば、最後までよく描写しきったと思いますよ。きれいにまとめたしね。

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『鱗姫』。

2004-10-21 03:15:00 | Review...
ふと本屋で目に付いて買った『鱗姫』を読んで。

なんとはなしに手にとって、少し読んでみて気に入ったのが「文体」。
なんとも、濃厚なバラの薫り漂うという感じか。気高く、残忍で、美しい。そんな主人公をありありと描くのにまことふさわしいというか。

 私は人一倍、お肌に固執しているのかもしれません。が、それは仕方のないことなのです。お肌に固執しているというよりも、乱暴にいいきってしまえば、私は美に固執してしまうのです。



 少女の生き血には肌を若返らせる効能がある――エリザベートはそう思い込みました。四十を過ぎ、自らの美貌の衰えに深い憂鬱を抱いていたエリザベートにとって、それは素晴らしき大発見。以来、彼女は怒涛の勢いでお城で働く下女、腰元を始めうら若き少女を次々と血祭りに挙げていきます。
 私はこのエリザベートの物語、エリザベート・バートリーという人物に、限りなくシンパシーを感じてしまうのです。
 果たして彼女は人命に重きを感じていなかったのでしょうか。もちろん、それは否定できないでしょう。しかし全くそうであったとも思えないのです。彼女とて命と引き換えに血を求めること、美肌を求めることの罪深さ、業をちゃんと感じていたと、私は思うのです。それでも尚、美肌を守ることを選択しよう、命よりも美を優先しようと決意したからこそ、彼女の人生は余りに反ユートピア的にならざるを得なかったのだと思うのです。(一部省略)



……素敵じゃないですか?文体とか、内容とか。
そして、この文体が最後まで続き、小説全体に不思議な薫りを醸し出しているんです。

そしてこの小説、あまりに「反人間的」。
今授業で「現代思想論」をとっていて、フーコーについてやっているのですが、それをすごく意識させられました。

主人公はこのあと、皮膚が徐々に鱗になってしまう「鱗病」(実在はしない、らしい)を発病させてしまうのですが、同じく鱗病であった主人公の叔母の言葉は目を見張るものがあります。
長いですが

「私達鱗病の患者を見れば、誰もが気味悪く思うでしょう。それが普通の感覚よ。その感覚がなければ、この世に美なんて存在しなくなる。人は常に美しいか醜いかで全てを判断するのよ。だから天使は美しく、悪魔は醜く描かれるのでしょ。私達は人間が感じる美への情動を無視して議論を進めてはいけないの。」
「私は世界の有象無象のものの中から美しいものだけを選択し、大切にし、今まで生きてきた。だから、皆、私を嫌悪すればいいのだわ。まずは差別すればいい。醜悪なものを醜悪なものとして、差別すればいい。」
「――現代を私が嫌悪し続けるのはね、醜いものを醜いという感覚を拘束し、体面で糊塗することが人間らしさだとされる時代だからなの。その結果、異形のものは全て闇に葬られることになった。現代のヒューマニズムにおける正義は、醜悪なもの、異形のものに一見、優しい。でも、優しさなんて何の役にも立ちはしない。安易な理性によって私達にヒューマニズムが与えるものは同情のみ。同情なんていらないわ。」
「同情するくらいならきっぱりと差別してくれればよいのよ。差別をされたものは差別をされたものとしてのアイデンティティを築くことが出来る。」
「昔は理性で割りきれぬものは、化け物としてのアイデンティティを与えられた。差別される負の個性を武器に、糊口を凌ぐことが出来た。彼方に生きるものとして、世界に居場所を確保することが出来た。」
「楼子さん(※主人公)、よく心に刻んでおくのよ。この現代に、私達はこの鱗をもってしてもセイレーンとして生きることが赦されない。異形のものとしてアイデンティティを確保することを現代のヒューマニズムでは徹底的に否定するが故に、私達はただの哀れでおぞましい鱗病患者でしかないことを」 (一部省略)



いや、すごいの一言。
まさにニーチェの系譜、そしてフーコー。
でも、自分はこれだけの「覚悟」をやはり持つことは出来ないなぁ…
(ようは、「覚悟」の問題。たとえ自分が相手の立場に置かれたとしても、自分の行おうとしていることに対して(相手の立場におかれた)自分自身が納得するだけの「覚悟」があるのか、という問題。実はCLAMPもそういうところが…(自分がその立場になっても、しっかりとその立場を受け入れられるという「覚悟」があるのであれば、その行為を行ってもいい、というもの。)

最後は最後ですごい展開で、(まぁ、先読みできるんだけど)この強烈な、「凶気」とも呼べる美意識は、かなり面白いものだった。
(徹夜で読んじゃったし。まぁ読むのが遅い自分ですら4時間くらいで読み終わったけど。)

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