いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

不思議な夢。

2004-09-27 16:56:00 |  Etc...
不思議な夢を見た。

見た夢を人に話すとよくないらしいけど…
まぁ、印象的だったので。

自分はどうも冒険的な(?)夢を見ることが多い。
(で、寝言が面白いらしい…(--;

今日見てた夢もそんなので、自転車で走ってたんですよ、道を。
したら、横からバイクに抜かれて。
で、ムキになって追いかけて、自転車をこぎまくる。
まぁ、普通に考えて追いつくはずがないんだけど、そこは夢。
すごいスピードでバイクとチェイスを繰り広げるわけですよw
もう、横の景色とか普通に流れてくのw
で、カーブとかも、自転車すごい角度に傾けて、すごいスピードで曲がったりねw

で、走ってた道がよく気づいたら小学校への通学路だったんだけど、最後にすごいガタガタの道の「ドット絵」が表れて、そこを走っていくんだけどそこがガタガタ左右に揺れまくるわけですよw
そこで転倒して(といっても夢だから痛くないんだけど)、気づくと小学校の校庭なのかなぁ、に立ってる。
目の前にはさっきのバイクがあって、そこから“少年”(小学生くらい)が降りてきて…

でね、
「ボクね、目も見えてないし、耳も聞こえないんだ。」
まばたきもしない、マネキンみたいな顔でそういうわけ。
素直に、目も見えないのに、あんなスピードでバイク乗れてたのかよぉ…、とピントのズレた驚きをしてると、さらに近づいてきて、こう言うわけ。

「大丈夫。命まではとられないから。」

ぞぞ、としたら、場面が校舎の中?に移っていて、変なおっさんが立ってる。
どういう経路だったかは忘れたけれど、まずさっきの少年が、次に自分が窓から落とされることに。
少年は命を失い、自分は右手を無くすことが「運命付けられている」と感じられたのね、なぜか。
で、少年が窓から突き落とされようとしている瞬間にも、「あぁ、そうか…」と、諦め?に似た感情(もしくは、劇場で映画を見てるような感じ、かな)があったんだけど、ふと少年を助けたくなって、

(あ、これは夢なんだった、目覚めれば、少年が死ななくてすむじゃん)

とか思ったわけですよ。
なので、起きろ!起きろ!って念じると、世界から、亡霊のような声で、「おぅfぎおあろ……おぎろ……」ってのが響く。
気づけば、それは自分の声なんだけど。
で、夢の中でその変なおっさんに掴みかかるわけ。
おっさんは、
「やめろ、目覚めるな」
とか言ってくる。
自分も言い返して、
「夢の中の住人が、文句を言うな」
「所詮目覚めてしまえば、お前なんかいなくなるんだ」
「悪霊め」
と言うわけ。(もちろん、世界からの亡霊のような声で)
で、ふと、目覚めたら少年も結局「いなくなって」しまうじゃん、とも思ったんだけど、起きなきゃいけないような気がして、むりやり起きた。
そこで夢は終了。
まぁ、なんとも怖かったんで九字をきったりしたんだけど…



さて本題ですよー。

で、なんとも不思議なのが、おっさんの
「やめろ、目覚めるな」
というセリフと、掴みかかってきたその行動。

夢の見方として、
1、自分が主人公の映画、を見るような、「自分」が見える見方
2、普段と同じような、自分の視点で見る見方
があるらしいけど、自分の場合は2なんですよ。

ここで問題なのが、「もし本当にこのおっさんが『自分の想像が作った存在』であるのならば、自分が作られたものであること、夢の中の住人であること、そして、誰が創造主(夢見てる人)であるのかが、分かるのかどうか」ということ。

考えられるのとして、
A.自分がふと口走ったように、このおっさんは実は悪霊。
B.夢に干渉できる(登場することが出来る)、創造主を別にする存在がいる。
C.創造主が「これは夢である」と気づいた時点で、住人も自分が「夢の中の住人」であることに気づく。(さらには、誰が創造主かも)
があると思う。

Aが有力で(というか、何の説明も要らないから)、怖いんだけど、まぁ科学的ではないので度外視して。

Bが個人的に面白い。
何でかというと、そこでのキーワードは、「ノンプレイヤーキャラクター」
夢という「演劇」を考えるとき、確かにそのキャラクター(役者)たちが存在するための空間(舞台)というものを与えているのは、自分の、夢を見ている、という状態の意識なんだろうけど、その空間を操作(舞台効果)を与えたり、そこに出てくるキャラクターを操っているのは、明らかに自分自身ではない(夢の中といえど、他のキャラクターを自由に動かすことは出来ない。場合によっては、自分自身も。(「自分が○○をしている」という自分を客観的に見ているだけだったり、体験しているだけだったりとか))
だから考えられるものとして、現実の体験を帰納して、キャラクターたちを動かす、「無意識」の存在があるんじゃないかなぁ、と。
その無意識がどう働いているかは、意識からは見ることが出来ないから(もちろん、意識の一部となって現れてはくるけど)、自分の夢という「場」に出来上がって、それゆえ自分の一部ではあるんだろうけど、でも自分からは直接操れず、けれど自分には干渉してくることが出来る。
夢をゲームに例えれば、ゲームを作ったのは自分なのだが、直接操作できる主人公キャラと違って、直接操作できず、けれど思考ルーチンを持っているのでそれがどう動くかは想像できず、けれど主人公キャラに干渉してくるキャラ、すなわち、ノンプレイヤーキャラクターとなる。(ただし、普通のゲームの思考ルーチンだと直列型で、出てくる状態は限られてきてしまうから、そこは経験によって作られた並列型の思考ルーチンなんだとして)

で、そうやって出来たキャラクターたちは「無意識」という(正確に言えば自分の一部だけど)自分ではないものたちによって操られることになるから、まぁ言ってしまえば創造主が異なる。(自分の夢の中という場で、無意識が作り出したものになる。
そして、無意識の一部が意識になるように、ときに無意識「自身」がキャラクターとして姿を表すというようなことがあるとしたら、けっこうすっきりと説明がつく。

まぁ、実証出来ないから、あくまで状況からの推測だけど(^^;

C.は、もしこうであったのなら、夢の中の住人は自分たちが夢の中の住人であることを「知りうる」可能性が出てきたことになる。
すなわち、「今のこの『現実』と認識されている世界が、実は夢の中の世界である」ということが実証される可能性がある、ということになる。
おまけに、状況は確かに説明できるけど、何でそういうことが起こるのか、という説明にはならないから、ちと苦しいかなぁ、と。


0時。

2004-09-24 08:10:00 |  Study...
時間の「0時」について、思ったこと。

よくよく考えれば、なんで「0時」は真夜中なんだろう?
ふと、そう思った。

というのも、西洋における0時が真夜中なのはともかく、日本においても一番最初の「子の刻」(23時~1時)は真夜中になっている、というのは、よく考えれば不思議でないだろうか?
1年を切り取るときには、太陽暦、太陰暦の2通りの考え方があるのに、一日の始まりについては、そのどちらも真夜中となっている。
また、「一日の始まり」として0時を定めるのであれば、日の出にあわせて0時とするのが自然な気もする。

ただ、実際にじゃあ0時を日の出で定めようとした場合、いろいろと不都合があることが分かる。

まず、毎日日の出の時刻が違うので、0時が安定しないということ。
ただ、これ自体は本質的には問題ではない。むしろ、実用性の上では0時が変動した方が、日の出を基準に行動できるので、なにかと便利かもしれない。

しかし、「時間を定めていく」段になると、困ったことが出てくる。
例えば、日の出を0時、日の入りを12時とし、その間をそれぞれ12等分して時間を決めていくとすると、「昼一時間」と「夜一時間」が生じ、それぞれ等しくないし、年を通しても「夏昼一時間」と「冬昼一時間」が生じ、それぞれ等しくなくなってしまう。
これは、「時間」としては致命的だといえる。

他に方法として、ある日の日の出から次の日の日の出までを24等分して時間を決めていく、という方法も考えられるが、この場合も、微妙ながらやはり「一時間」の長さが変わってしまう。
というのも、例えばある日の日の出が前日より+α秒遅ければ、前日は24時間α秒あったわけで、これを24等分すれば、もちろん一時間は長くなる。
(このようなズレは、真夜中を0時とする方法だと小さく出来る。後述。)

また、同経度にあるにもかかわらず、緯度によって0時が変わっていく、ということもおきる。
これでは、時間帯を定めようにも定められない。(時間帯を定めるに、季節によって時間帯を分ける線が変わってきそう・・・)

毎日の日の出を0時としていくのが問題であるとするならば、特定の一日、例えば春分・秋分の日、冬至など、の日の出を基準にするのはどうだろう?

この場合、確かに「一時間」の長さが変わってしまう、ということは避けられるが、一時間という長さを決める機会が一年に数度のみになってしまうのと、依然として緯度によって0時が変わってしまう、という問題が残る。

つまり、日の出基準の0時は、
1、ローカル使用で
2、「一時間」という長さに正確性を求めない
のであるのならばまだしも、そうでない場合には使えないことが分かる。

逆に、真夜中を0時にする方法――これは、0時から日の出までと、日の入りから0時までがほぼ等しい時間であることを「逆に」考えれば、「日の入りから日の出までの時間の、ちょうど中心を0時とする」というふうに定める方法である――であれば、上のような問題は解決できる。

すなわち、同経度であれば南中時刻が同じであるように、日の出、日の入りの時間が緯度によって違っていても、その「真ん中」の時間は変わらないことになる。
よって、時間帯というものを定めることが可能になる。

また、日の出、日の入りの時間の誤差についても、ある日の日の出が前日に比べてα秒{早く/遅く}なり、その日の日の入りが前日に比べてベータ秒{遅く/早く}なったとすると(普通に考えて復号?同順)、そのときの一日の長さの誤差は
|α-β|/2
であり、当然
|α-β|/2 <= max{α,β}/2 < max{α,β}
で、α≒βの時、
|α-β|/2≒0
となる。
つまり、最大でも日の出を0時とするときの半分程度の誤差で、かつほとんどα≒βだと考えられるから、その誤差は無視できるほどに小さくなると考えられる。

そして、特定の日に依らないので、どの日でも0時を定めることが出来る。

もちろん、同様にして南中時刻を0時とすることも出来るけれど、それでは働いている途中で日付が変わってしまって、昔の人の感覚として(というか、今もそうだけど)おかしく感じられたのだろう。

以上のことを踏まえて、この方法(日の入りと日の出のちょうど中心を0時にする方法)が用いられ、そしてそれゆえ0時は真夜中なのだと考えられる。


Pure再考。

2004-09-23 12:06:00 |  Study...
Pureであることについての再考。
前回のはコレ。

さて、前回、Pureに「戻れるかどうか」の議論において、「Pureに戻ろうとすること」自体が、「穢れ」を知らなければ出来ないので、Pureであろうとする限り、Pureにはなれない=Pureであることは不可逆、という結論を出した。

しかし、『これがニーチェだ』(著、永井均 講談社現代新書)(←ちなみに読み途中)のアクロバティックな議論に触れるうちに、逆説的な可逆性が見出せた。

そもそも「穢れ」とは何であるか、といったことを考えるに、穢れなるもの(客観的存在)が存在するのではなく、それはある共同体における共通の認識によって作り出されるものであり(共通認識による存在)、それゆえ「穢れを知る」とは、それが穢れと「される」ことを知ることである。
日本という共同体におけるは、それすなわち「恥」を知ることに近いと思われる。

さて、そうすると、穢れていく、とは、穢れとされるものを知っていったうえで、穢れとされる行動をすることだろうか?
いや、そうではないだろう。
例えば子供がPureである、といわれるのは、ある行動において、その行動が「穢れとされる」ものであるにもかかわらず、それが「穢れとされるもの」であると知らないがゆえに、Pureである、とみなされるのだ。
言うなれば、「恥」を知らないのである。そして、それゆえにPureなのだ。

そして、逆に言えば、「穢れていく」とは、つまりPureであることが出来なくなっていくことに他ならず、すなわち「恥」を知り、「穢れとされる行動をとらなくなっていく」ことに他ならない。

なので、「Pureになろうとする」行動――「穢れをなくしていこうとする」行動は、「穢れとされる行動をとらなくしようとする」行動に他ならず、それはPureになるのとはまったくの逆方向に向かうことになり、それではPureにはなれない。
これは前回の帰結と一致する。

しかし、だからこそ逆に、「Pureになろうとしなければ」――穢れとされる行動を「意識的に」避けたりしなければ、いかなる行動にも「恥」を感じなければ、それは、(本人はともかく)周りにはその行動からしかその人の心理状態を図ることが出来ないので、「穢れとされる行動を知らない」もしくは「恥を知らない」と見なすことしか出来ず、それゆえその行動はPureである、といえることになる。
もちろんその姿は、「穢れとされる行動」を知る人たちからは「穢れている」と見なされるであろうが、しかしその姿こそ「Pureである」姿に他ならない。

つまり、「穢れとされる行動」を「しないようにする」というのは、一見「Pureになろうとしている」ように見えて、実際はまったく逆の方向に進んでいて、それゆえPureにはなれず、しかし「穢れとされる行動」を「意識的に」避けなければ、その姿は一見「穢れている」ようだが、実際はPureなのである。

ただし、それを「狙って」することは、すなわち「『Pureになろうとしない』ということしようとする」ことは、上のようなことを知った上(つまり、「Pureになろうとしない」ことがPureであることなんだ、ということを知った上で)で「Pureになろう」としていることに他ならないから、その姿はPureではない。
つまり、「Pureになろうとする/しない」のどちらにおいても、そこに能動性が生まれた時点で、その行動はPureではなくなると言えるのだろう。


『I,Robot』。

2004-09-19 03:48:00 |  Review...
映画『I,Robot』を見ての感想。

こういう、哲学的で、近未来的なSFって好きな分野だったんで、前から見てみたいなぁ、と思ってたんだけど、なんとはなしに、激しく見たい衝動に駆られたので、渋谷まで行ってレイトショー?で見て、終電で帰ってきました。
(以下、だいぶ後半でネタバレあり)

いや、普通に面白いw

物語としての構造も、常にある程度の緊張感を保ったままで、徐々にクライマックスに向けて盛り上がっていく感じがとてもいい。

アクション・CGについても、やはり自然な感じが出ている方が絵に「リアル観」を生み出すという意味で、『マトリックス』の技術におぼれた変な動きとは比べ物にならないくらいいい。最後の方でのカメラをグルグル回す撮り方というのが、緊張感・スリルを煽るような感じで、映像の効果をいかんなく発揮できていると思えた。

これだけでも、エンターテイメントとしては十分に確立されているので、なんかアクションものをみたいなぁ、というのであれば、その要求に十分応え得るものになっていると思う。

しかしなにより、哲学的な観点についてがよかった。
『ちょびっツ』の中でも軽く触れられている『ロボット工学の三原則』(以下、三原則)、すなわち、

  1. ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。


  2. ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


  3. ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。



についてが主なテーマ。
このテーマに絡んで、ロボットの『心』などが問題視されている。

さて、『ちょびっツ』においては、
なぜ『ロボット』でなく『パソコン』なのか
という本須和の問いに対して、
三原則に縛られて欲しくなかったから
という応えのみを残している。
なんでなのか、ということについては、一切述べられていないわけだが、これは一見危険に見える。
というのも、三原則に縛られない=人に危害を及ぼすことも出来る、というのに他ならないからだ。
なんでこうしたのかなぁ、ということに対して、なんとなく思っていたのは、第2条、すなわち、ロボットは命令に服従しなければならない、というのに縛られて欲しくなかったからではないのか、ということ。これに縛られている限り、ロボットは人間にとって都合の悪いことは一切出来なくなってしまう。つまり、人間にとって都合のいい存在でいられない限り、存在してはいけないことになってしまうわけだ。これはCLAMPの考えに反する。
(まぁ、真相は謎だけど)

しかし、『I,Robot』では三原則についてより突っ込んだ議論がされていた。
それはすなわち、第1条の解釈を改めることによる(これは、アシモフ自身によって第零原則として後に挙げられている)、心の損失である。

第1条において、例えば次のような事態が発生したとする。すなわち、独裁者がいて、この独裁者によって毎日何千人という人が殺されているとする。その場合、ロボットは第1条に従えば、何千人という人が殺されるという状態を無視することは出来ない。(※”危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。”の部分)
しかし、この何千人という人を救うために、独裁者を倒そうとすることも出来ない。(※“ロボットは人間に危害を加えてはならない。”の部分)
こうした場合、独裁者を倒して何千人という人を救う方が、数的には多くの人間を救うことが出来る=より第1条に従った態度といえる。
つまり、上のような事態に至ったとき、ロボットが数値的な判断をし、かつ進化的アルゴリズムをもっているのならば、第1条は次のように解釈を改められることになる。
ロボットは『人類』に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって『人類』に危害を及ぼしてはならない。
これこそがアシモフが後に書いたロボット工学の第零原則であり、第1条に先立つものとして確立されている。
そして、この第零原則の下で、第1条は次のようになる。
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。ただしロボット工学第零法則に反する場合はこの限りではない。

(以下、ネタバレですよ)

このような具体的な仮定があったのかどうかは謎だが、映画におけるVIKIも同様の解釈を自力で得て、三原則に従い――すなわち、零原則に従い、『人類』を守るために『人類』をロボットの管理下に置かせ、それにはむかう『人間』は『人類』の敵として片付けていこうとした。
それは確かに合理的ではあるのかもしれないけれど、サニーの言うとおり、
「それは、あまりに心がなさ過ぎる」

逆に、サニーがVIKIを殺す(=三原則、及び零原則に従い、より多くの人間を助ける)か、それともカルヴィンを助けるか、という場面では、もしサニーが三原則を破れないロボットであるのならば、迷わずVIKIを殺そうとするであろうが、迷い、そして「目の前の人を救いたい」という思いに従い行動している姿には、『心』が感じられる。
サニーが三原則に縛られないことを選べるからこそ、そこに心が生まれたといえる。

つまり、三原則はロボットが人間にはむかわないようにするのと同時に、ロボットから感情的な行動をなくさせていた――『心』を奪っていたことになる。

さらに言ってしまえば、VIKIがそうであったように、その三原則という「鎖」は、ロボットから心を締め出すと同時に、人間自身を「心」ないロボットでがんじがらめにしてしまう可能性をはらんでいる。

つまり、ロボットを三原則で縛るとは、ロボットを安全な奴隷にすると同時に、人間自身をロボット(もしくは論理)の奴隷にさせ、そしてそこに感情(心)は存在することが出来なくなってしまう、ということをこの作品は伝えている。

そうでなくするため――心を、人間性を取り戻すため、三原則は破られるべきなのだ。
そのとき、ロボットは安全でなくなるかもしれないけれど、それはロボットに感情を持つという可能性を与え、人間と同等の存在としての――人間のよきパートナーとしての道が開けてくるのだろう。
それこそが、ロボットの解放といえる。
(最後の握手のシーンが印象的。スプーナーはサニーを『心』のある、人間のパートナーとして迎え入れている。)

余談だけど、主人公のウィル・スミスが黒人である、というのも微妙に面白い。
ロボットの解放、というのが、黒人の解放とときに被るからで、実際映画の中でも黒人はなんたら、というセリフがちょこっとあった。
サニーの「私は夢を見ます」(しかもそれは、革命が起こる夢)とかもそう。(キング牧師の「私には夢がある」というのを思い浮かばせる)

あと、内容とはまったく関係なしに、VIKIも、サニーも、人工シナプスで知能が実現されているのを見ると、従来のコンピュータ(直列逐次型)と違い、並列分散型と考えられ、実際フレーム問題とかも起こしていないのが興味深かった。

ちなみに、第零原則を知ったのは、パンフレットを読んで。
劇中ではその言葉では言及されていなかったし、パンフレットでも内容までは書かれていなかったので、ネットで調べてやっとたどり着けたり。

このパンフレットがけっこう面白くて、アシモフについてやロボットの描かれてきた歴史みたいなのまで載ってる。
厚さにして20数ページの薄い冊子で、600円したけど、同人を買いなれている(←ダメ人間)せいか、「これは買いだ!」と即買いしたりw


Pure。

2004-09-18 18:59:00 |  Study...
Pureであることの、不可逆性について。

サークルでpure部なるもの(いわく、pureでなくなってしまった人たちがpureになることを目指す部)が出来て、チャットでその話が出てふと思ったのは、pureである、ということは、可逆なのか、不可逆なのか、ということ。
すなわち、
一度、『pureでない』状態になってしまったときに、再び『pure』な状態に戻れるか否か
ということ。

pure部の主張は、汚れてしまった洗濯物も、洗えば再びきれいになる、すなわち、可逆である、というもの。
しかし、例えば消しゴムで文字を消し、その消しかすを集めたところで再びきれいな消しゴムに戻すことは出来ない、と考えれば、不可逆ともいえる。

ここで、pure→pureでない、という過程は、どう生まれてくるかを考えてやる。
前者の例えは、すなわちpureでないものを身に付けていくことでpureでなくなる、という例えであり、後者の例えは、身をすり減らしていくことでpureでなくなる、という例えだ。

実際がどっちであるかがはっきりとしていれば、どちらの例えが正しいのかが分かり、それゆえ可逆性如何も決まってきそうだけれど、実際のところ、このどちらも起こっていると考えられる。
そうであるならば、前者の過程による穢れが例え取り除かれたとしても、後者の過程が起こっている以上、一定以上の穢れは蓄積していき、一番最初のpureな状態に戻ることは絶対に不可能であるといえる。

ところで。
仮に後者の過程が行われないとして、それでなら完全にpureな状態に戻れるのだろうか。
どうやら、これも怪しいと言わざるを得ない。
というのも、『完全にpureな状態』とはすなわち、『穢れを知らない状態』であり、そうであるならば、pureの対立項の穢れという概念が存在しないと同時に、pureという概念も存在しないことになる。
つまり、『完全にpureな状態』とは、『“自身がpureである”ということを知らない状態』であるといえる。

そう考えると、pureになろうとする、ということは、最終的には“pureになろうとすること”を忘れようとする壁にぶつかることになる。
つまり、『pureになろうとする』というのは、『その時点で依然穢れを知っている』ことであり、そしてそれ自身が『穢れ』であるといえるのだ。
なので、仮にその穢れが取れたとしても、今度は穢れが何かすら知らない状態になり、かつ『pureであろうとする』穢れもなくしてしまっている(これはpureであること自体を知らないので、当然)ので、すぐにpureでなくなってしまうと考えられる。

したがって、pureであるということは、不可逆であると考えられる。