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『キノの旅』8巻。

2004-10-14 01:19:00 | Review...
『キノの旅』8巻、読了。

今回のはいつものに増して素敵だった。
(※一部ネタバレを含む。出来るだけしないようにするけれど)

「道の国」
ノーコメント。

「悪いことはできない国」
メガネ。それだけ。
(いや、作品自体の狙いとして、「悪いことを出来なくさせるためのもの」を使って「悪いこと」をさせている、というのが見えるけれど、自分にはそれがさほど「悪いこと」には思えない。。。)

「歴史のある国」
師匠が素敵。もう、ホレボレするw
師匠達と警察たちの『交渉』の様子なんて、まさに時雨沢恵一だとしか言いようがない。
「歴史」はときに、自分たちを正当化するために使われるけれど、この作品では「恥を隠すためのもの」として使われているというのが面白かった。

「愛のある国」
なるほどたしかに、「食べ物を残す」ことも、「出来るだけ残さないようする」ことも、それは「見て見ぬ振り」をすることに他ならないのかもしれない。
キノは、ただそこにある「事実」を見つめた上で、そして自分がどうこうすることで何かが変わるわけではないというのを悟ってたんだろう。たぶん。
このテーマは『塩の街』の方も参考にしたいところ。

「それでも!あたしがあんなトモヤさんに会うことなんかなかった!あんな身勝手で汚い部分を、あたしが見ることにはならなかった!」
「あたしの前じゃなければよかった……あたしさえ見ずに済めばそれでよかった。他の誰が見ることになったって、あたしさえ見ないで済めば……」(Scene-2、真奈のセリフより)



自分の関わった人さえ不幸にならなければそれでいい。自分の見る部分さえきれいだったらそれで。知らないところにどれだけ汚く、醜く、残酷な部分があっても、それを直視することがなければ、それは知らなかったことにして穏やかでいられる。(Scene-5、入江と真奈との会話ちかくより)



「ラジオな国」
構造としては今回一番秀逸だった。日本の縮図というか。
ラジオによって国民の「無批判さと無邪気さ」を批判するが、それに対して「確かに自分たちは無批判だよなぁ。批判的に見なきゃ。」と「ラジオの権威」に対してあいかわらず「無批判」でいる姿が想像できて、面白い。
そして作品自体は、「無批判」云々を超えて、国民の多くはそれに批判的でも無批判的でもなく、「無関心」である、というのが輪をかけて面白い。
昔自分が書いた、「人はワールドカップについて話している」のではなく、「人はワールドカップという話題で話している」んだ、という文章を思い出した。

「救われた国」
「人を救うものは、そのことによって自分自身が救われる」という、(『マリ見て』の2巻じゃないけど)相互依存的な関係を描いたもの。
でも、こういった関係って、何かがきっかけになって「裏切られた」という勘違いが生じると、すぐにダメになるんだよね。。。

エピローグ「船の国」
バトルがかっこいいw
謎がやたらと多かったけれど、最後で無事解決。(ご都合主義と叩かれないのかな?まぁ自分はこういう伏線の張り方は好きだけど)
人為を加えるのがどう働くのかというのは、ホント分からないなぁ、と。
例えば「愛のある国」なんかで、もしキノでなくシズだったら、どうにかしようといろいろやるんだろうなぁ。(結局それは自己満足のためなんだというのを自覚せずに)
『キノの旅』3巻の「城壁のない国」を思い出した。

プロローグ「渚にて 旅の始まりと終わり」
……シズってロリコンw?
にしても、最後のセリフ
「死ぬほど驚くかもね」
の意味が取れないんだけど……?
なんか、めちゃくちゃ驚くような仕掛けをしたのか、はたまたこの先に「会う」ことを知っていて、それゆえの発言なのか、あるいは今回の再開のときの驚き方をもってそう言っているのか……

あとがき

神!!

まさにこの一言。脱帽です。
(『ザ・あとがき』、ネタでなく読んでみたい!w)

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『I,Robot』。

2004-09-19 03:48:00 | Review...
映画『I,Robot』を見ての感想。

こういう、哲学的で、近未来的なSFって好きな分野だったんで、前から見てみたいなぁ、と思ってたんだけど、なんとはなしに、激しく見たい衝動に駆られたので、渋谷まで行ってレイトショー?で見て、終電で帰ってきました。
(以下、だいぶ後半でネタバレあり)

いや、普通に面白いw

物語としての構造も、常にある程度の緊張感を保ったままで、徐々にクライマックスに向けて盛り上がっていく感じがとてもいい。

アクション・CGについても、やはり自然な感じが出ている方が絵に「リアル観」を生み出すという意味で、『マトリックス』の技術におぼれた変な動きとは比べ物にならないくらいいい。最後の方でのカメラをグルグル回す撮り方というのが、緊張感・スリルを煽るような感じで、映像の効果をいかんなく発揮できていると思えた。

これだけでも、エンターテイメントとしては十分に確立されているので、なんかアクションものをみたいなぁ、というのであれば、その要求に十分応え得るものになっていると思う。

しかしなにより、哲学的な観点についてがよかった。
『ちょびっツ』の中でも軽く触れられている『ロボット工学の三原則』(以下、三原則)、すなわち、

  1. ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。


  2. ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


  3. ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。



についてが主なテーマ。
このテーマに絡んで、ロボットの『心』などが問題視されている。

さて、『ちょびっツ』においては、
なぜ『ロボット』でなく『パソコン』なのか
という本須和の問いに対して、
三原則に縛られて欲しくなかったから
という応えのみを残している。
なんでなのか、ということについては、一切述べられていないわけだが、これは一見危険に見える。
というのも、三原則に縛られない=人に危害を及ぼすことも出来る、というのに他ならないからだ。
なんでこうしたのかなぁ、ということに対して、なんとなく思っていたのは、第2条、すなわち、ロボットは命令に服従しなければならない、というのに縛られて欲しくなかったからではないのか、ということ。これに縛られている限り、ロボットは人間にとって都合の悪いことは一切出来なくなってしまう。つまり、人間にとって都合のいい存在でいられない限り、存在してはいけないことになってしまうわけだ。これはCLAMPの考えに反する。
(まぁ、真相は謎だけど)

しかし、『I,Robot』では三原則についてより突っ込んだ議論がされていた。
それはすなわち、第1条の解釈を改めることによる(これは、アシモフ自身によって第零原則として後に挙げられている)、心の損失である。

第1条において、例えば次のような事態が発生したとする。すなわち、独裁者がいて、この独裁者によって毎日何千人という人が殺されているとする。その場合、ロボットは第1条に従えば、何千人という人が殺されるという状態を無視することは出来ない。(※”危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。”の部分)
しかし、この何千人という人を救うために、独裁者を倒そうとすることも出来ない。(※“ロボットは人間に危害を加えてはならない。”の部分)
こうした場合、独裁者を倒して何千人という人を救う方が、数的には多くの人間を救うことが出来る=より第1条に従った態度といえる。
つまり、上のような事態に至ったとき、ロボットが数値的な判断をし、かつ進化的アルゴリズムをもっているのならば、第1条は次のように解釈を改められることになる。
ロボットは『人類』に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって『人類』に危害を及ぼしてはならない。
これこそがアシモフが後に書いたロボット工学の第零原則であり、第1条に先立つものとして確立されている。
そして、この第零原則の下で、第1条は次のようになる。
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。ただしロボット工学第零法則に反する場合はこの限りではない。

(以下、ネタバレですよ)

このような具体的な仮定があったのかどうかは謎だが、映画におけるVIKIも同様の解釈を自力で得て、三原則に従い――すなわち、零原則に従い、『人類』を守るために『人類』をロボットの管理下に置かせ、それにはむかう『人間』は『人類』の敵として片付けていこうとした。
それは確かに合理的ではあるのかもしれないけれど、サニーの言うとおり、
「それは、あまりに心がなさ過ぎる」

逆に、サニーがVIKIを殺す(=三原則、及び零原則に従い、より多くの人間を助ける)か、それともカルヴィンを助けるか、という場面では、もしサニーが三原則を破れないロボットであるのならば、迷わずVIKIを殺そうとするであろうが、迷い、そして「目の前の人を救いたい」という思いに従い行動している姿には、『心』が感じられる。
サニーが三原則に縛られないことを選べるからこそ、そこに心が生まれたといえる。

つまり、三原則はロボットが人間にはむかわないようにするのと同時に、ロボットから感情的な行動をなくさせていた――『心』を奪っていたことになる。

さらに言ってしまえば、VIKIがそうであったように、その三原則という「鎖」は、ロボットから心を締め出すと同時に、人間自身を「心」ないロボットでがんじがらめにしてしまう可能性をはらんでいる。

つまり、ロボットを三原則で縛るとは、ロボットを安全な奴隷にすると同時に、人間自身をロボット(もしくは論理)の奴隷にさせ、そしてそこに感情(心)は存在することが出来なくなってしまう、ということをこの作品は伝えている。

そうでなくするため――心を、人間性を取り戻すため、三原則は破られるべきなのだ。
そのとき、ロボットは安全でなくなるかもしれないけれど、それはロボットに感情を持つという可能性を与え、人間と同等の存在としての――人間のよきパートナーとしての道が開けてくるのだろう。
それこそが、ロボットの解放といえる。
(最後の握手のシーンが印象的。スプーナーはサニーを『心』のある、人間のパートナーとして迎え入れている。)

余談だけど、主人公のウィル・スミスが黒人である、というのも微妙に面白い。
ロボットの解放、というのが、黒人の解放とときに被るからで、実際映画の中でも黒人はなんたら、というセリフがちょこっとあった。
サニーの「私は夢を見ます」(しかもそれは、革命が起こる夢)とかもそう。(キング牧師の「私には夢がある」というのを思い浮かばせる)

あと、内容とはまったく関係なしに、VIKIも、サニーも、人工シナプスで知能が実現されているのを見ると、従来のコンピュータ(直列逐次型)と違い、並列分散型と考えられ、実際フレーム問題とかも起こしていないのが興味深かった。

ちなみに、第零原則を知ったのは、パンフレットを読んで。
劇中ではその言葉では言及されていなかったし、パンフレットでも内容までは書かれていなかったので、ネットで調べてやっとたどり着けたり。

このパンフレットがけっこう面白くて、アシモフについてやロボットの描かれてきた歴史みたいなのまで載ってる。
厚さにして20数ページの薄い冊子で、600円したけど、同人を買いなれている(←ダメ人間)せいか、「これは買いだ!」と即買いしたりw

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『キーリ6 はじまりの白日の庭(下)』。

2004-09-09 16:10:00 | Review...
『キーリ6 はじまりの白日の庭(下)』を読んで。

ネタバレのような、ネタバレじゃないような。。。
まだ読んでない人は、以下、見ないほうがいいかも。

今回のキーリは、読んでてなんか切なかった。
壁井さんがあとがきにかいてあるとおり、確かにアクションシーン(?)3割増し、みたいな感じなんだけれど、そのアクションシーンよりは、それに付随する、もしくはそれ以外の、キーリ、ハーヴェイ、エイフラム(ハーヴェイの間違いじゃなく、これで正しい。読めば分かる。)、あるいはクリフトフの、感情の動き、感情の動きを示すしぐさ、そういったものが切なく感じられた。
過去の話も出てくるからなのかな?

にしても、ハーヴェイってキーリに対してこんな優しい態度だったっけかな?と読んでて思ったり。
まぁ、それはそれでいいんだけど。もちろん。
1巻から通して読んだら、ハーヴェイの態度の変化ってすごくはっきりと見えてきそう。

田上さんの描いたマンガが最後についてくるけれど、このマンガ自体は悪くないのだけれど、この本の最後につけてくるにはちょっと冗長かも。
きれいに終わらしてくれた、直前の(つまり最後の)文章の祈るような雰囲気の後にこれが来てもなぁ……
壁井さんの文章だけで終わって欲しかった気もする。

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『リバーズ・エンド』。

2004-08-06 04:11:00 | Review...
『リバーズ・エンド』(橋本 紡 著)を読んでの感想。

古本屋でちょっと気になって買ったものの、ずっと読んでいなかった。
で、今日になってやっと読んだので、その感想。

ん~、なんとも不思議な文体の作品。
これだと、「キャラのイメージがぼんやりしすぎてて、感情移入しにくい、駄作」と普通はいわれてしまいそうな感じなのだけれど、最後まで読めば、それが意識してこういうふうにしてるのかなぁ、というふうに感じられてくる文体。
リズム、抑揚、勢い、文章に面白みをつけるための技術というのはことごとく排除され、もちろん読者を話しにひきつけるための伏線はこまごまと張られているものの、そこに基本的にあるのは「単調」。そして、「物寂しさ」。
どことなく「現実感」が得られない主人公と、文体の生み出す「現実感のなさ」、そして、それゆえの「小説ではない現実」の「生々しさ」がある。
もちろん、それがライトノベルとしていいかどうか(面白いかどうか)は別であるが、一つの実験的な「文学」としては成り立っていると思う。

この人の作品は、他に『半分の月がのぼる空』を読んだことがあるけど、そこでのポップで勢いのある文章とはまた全然違う(といっても、2巻の途中でいきなりシリアスモードに切り替わって、この文体に近くなってるけど・・・)のが印象的だった。

両方の作品を比べて、最初は
出会い→発展→いざこざ→事件(特に、片方が死に掛けるとか)→必死になる→円満
(って、書いてて思ったが完全な起承転結型だな)という構造が共通してるなぁ、と思ったけれど、むしろ注目すべきは「二人で完結する世界、というものに対しての現実からの生々しい妨害が二人を襲う」という構造。

CLAMPなんかだと特にそうだけど、理想論としての、二人で完結する世界(二人さえいれば、っていうようなやつ)、というものが描かれて終わりになる作品が最近多いのに対して(もちろんそれは、「関係主義」――客観なる世界が存在するのでなく、人と人との関係において世界が存在する、を示し、また、理想を示すという意味でも重要ではあるけれど)、実際はそういかない、というのを常に意識して書いているらしいのが非常に興味深い。

最後の「川」が何の隠喩なのか、それがちょっと分からない。
単なるポーズなのか、それとも……?
一見、人生の隠喩みたいだけれど、それをいうには本編とちょっと離れているし、それだと河口の意味するところは……

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