いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

言語の限界に関する考察(5)。

2007-11-24 23:27:00 |  Study...
言語の限界に関する考察(4)。の続き。

自己言及問題



さて、言語について考察を加えていくときに、重要なことが一つある。
それを示すために、まず図3を見てもらいたい。
自分はこの問題を自己言及問題と呼んでいる。
この解答の一つは図4に示したようなもので、実際に数えてもらえば分かると思うが、確かに枠内に0の個数は1個、1の個数は7個、…、とちゃんとした答えになっている。

     【図3】         【図4】
┌──────────┐ ┌──────────┐
│この枠内に次の数字が│ │この枠内に次の数字が│
│いくつずつあるかを │ │いくつずつあるかを │
│数字で記入しなさい。│ │数字で記入しなさい。│
│0( )  5( )│ │0(1)  5(1)│
│1( )  6( )│ │1(7)  6(1)│
│2( )  7( )│ │2(3)  7(2)│
│3( )  8( )│ │3(2)  8(1)│
│4( )  9( )│ │4(1)  9(1)│
└──────────┘ └──────────┘


この問題で重要なのは、数字の二面性である。
すなわち、この問題において数字は数えるものであると同時に数えられるものでもあるということである。
例えば、1の括弧の中に入る数字は、この枠内に1が何個あるのかというのを数えるものであるが、それと同時にその数字は数えられる数字でもあり、解答例の場合、それは7という数字の1つとして数えられている。
そして、この二面性こそがこの問題に動的な要素を与え、この問題を困難なものとしている。*8

さて、言語について考えていこうとしたとき、言語にも同様な二面性があることに気がつくと思う。
すなわち、今言語について考えていこうとしているわけだが、そのとき何を用いているのかといえば、それは今まさに考えようとしてる対象でもある言語に他ならない。

この二面性は、次のような困難を生むことになる。

言語について考えること



言語について考察を加えることを考えよう。
そのとき、考察は当然言語を通して行われる。
では、その考察からなんらかの結論が得られたとして、その考察のときに用いた言語いうのも、その結論をちゃんと満たしているのだろうか?
こう言うと、「考察のときに用いた言語」に対して検証を行えばいいだけなのではないか、という声が聞こえてきそうである。
しかし、その検証はどうやって行えばいいのだろうか?
やはり言語を用いて検証が行っていくのでは、今度はそこで用いられた言語について検証を行わなければならないだろう。
そして、その検証においても言語が用いられたのなら、今度はさらにそこで用いられた言語について検証を行わなければならないだろう。
これでは、無限に続く言及に陥ってしまう。
これは、言語を用いて言語に対して考察を加える以上、それが本当にどんな言語に対しても成り立っているのかということは、決して検証出来ないということを意味する。

これは方法論の問題で、もっとうまい別の検証方法があるのだろうか。
それとも、これは言語の考察に対する一つの限界の限界を意味するのだろうか。
このことについて、少し違った視点からアプローチしていってみたいと思う。

(つづく)

*8 これに引数を与える問題を考えてたとき、括弧に入る数字を1 桁と限定した場合にはある程度のアルゴリズムが考えられるが、その限定を外したときどう解いたらいいのかは自分には見当もつかない。
・・・とレポートには書いたのだけれど、そのあと整数計画問題として記述出来ることが分かった。
これについては書きかけのエントリ(自己言及問題(整数計画問題編)。)になっている。。。


言語の限界に関する考察(4)。

2007-11-10 11:38:00 |  Study...
言語の限界に関する考察(3)。の続き。

「限界」のモデル



ところで、「限界」という言葉を何気なく使ってきたが、これからより厳密な議論を行っていくために、この「限界」という言葉について、考察を加えておきたいと思う。

昔、友達は限界のイメージについて次のように語っていた。

限界というのは、自分の回りを取り囲む壁である。
自分はその壁の中であれば自由に動きまわれるが、その外側では活動することが出来ない。
努力をするということは、その壁を押していくことで自分の動きまわれる範囲を押し広げていくことだ。

限界を壁に例えるという話はよく聞く。
しかし、このモデルの優れている点は、それを押し広げていくことで自分の動ける範囲を広げていく、という観点を導入したことだと思う。
このモデルはとても納得のいく部分が多い。

例えば、数字の概念の拡張拡張などというものは、このモデルの言っている通りに思われる。
まずは自然数という概念しか存在しなかったが、そこに0の概念が入ってきて、有理数、実数、さらには複素数と、限界を外へ外へと押し広げてきた感じがある。

だがしかし、このモデルにはいくつかの欠点がある。
それは、

  1. 壁の向こう側にあるものが何なのかが分からない


  2. 限界の限界に対する考察がなされていない



という点だ。

1つ目の欠点は、特に言語について考えていく場合は重要である。
すなわち、言語の限界の外側にあるものはなんなのか、という問題がまさにそれに対応するからである。
前期のウィトゲンシュタインも、おそらく限界に対して同じようなイメージを持っていたのであろう。
『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは言語の外側を「無意味」と定義し、そのような外側というものについて言うことは出来ず、言語の言語というものはただ「示す」ことしか出来ないんだということを示すので精一杯であったように見える。
このことは、『論考』の序文、

…よって、言語のなかにおいてのみ、限界を定めることができる。
そして、この限界の彼方にあるものは、端的に無意味である。



や、飯田隆の『ウィトゲンシュタイン』での

『論考』を最後まで読む者には、大きなどんでん返しが待っている。
それまでの頁で書かれていることのすべてがじつは「無意味だ」という断言に出会うからである。
その結果、どのような言語表現が意味をもち、どのような言語表現が意味を持たないのかを言うこと、そのこと自体が、「無意味」となる。
(中略)
このとき残される唯一の道は、意味ある言語表現だけを用いること、ウィトゲンシュタインの言い方では、「語りうること」だけを語ることである。



という文章に見て取れる。

2つ目の欠点は少し分かりにくいかもしれないが、次のようなことを考えれば納得がいくと思う。
例えば、練習をすれば人はいくらでも速く走れるようになるのだろうか。
どう考えても、これ以上は速くなれない、という限界がやってくるだろう。
そう、単に「限界」といっても、現時点における限界と、その限界の限界という2つの限界が存在するのだ。

そこで、これら2つの欠点を克服するようなモデルが求められる。
自分が提唱したモデルというのは、次のようなものである。

努力していくということは、石器を鋭利にしていくことである。
現在の石器の鋭利さこそが現在の限界を意味し、またその石器はその石器自身の鋭利さの限界を内包する。

このモデルでは、外側というものはそもそも存在しない。
あるのは、どこまで精錬されているのかという現在の状況と、どこまで精錬することが出来るのか、という限界の限界のみである。
しかも、どれだけ精錬されているのかというのは同時に自由度がどれくらいであるのかということも意味しているから、これは最初のモデルの目指した所を内包していることになる。

今後、限界について考えていくときにはこのモデルが念頭にあることを覚えておいてもらいたい。

(つづく)