goo blog サービス終了のお知らせ 

いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

双方連続王手による千日手について。

2008-06-25 01:58:22 |  Study...
やねうらおさんの双方連続王手の千日手は成立しないを見て、しばらく考えていたのだけれど、試行錯誤の末にやっと証明が出来た。

証明を書いたPDF

アイディアは、王手される方向というのにも気を向けてみよう、というもので、そうやって考えているで均衡方向とホットスポットというのを定義してやると上手くいきそうなことに気がついた。
すごくごちゃごちゃしてるけれど、たぶん大丈夫かと。。。

それにしても、証明をしている中で思わぬ穴があって、それを埋めて、、、というのがとても多かった。(まだ埋まりきってないかも? 多分大丈夫だとは思うんだけど。)
その度に、あぁぁぁ、、、と考えて構想の練り直しをしたりとか。

・・・それにしても、著者名、とりあえずハンドルネームで書いたけど、やっぱり本名の方がいいのかな?

(訂正)
コメントに詳しい議論は載っていますが、命題8の証明に穴がありました。
もう少しホットスポットの配置パターンについてつめて考える必要がありそうです。

単位変換(3)。

2008-06-01 01:10:00 |  Study...
単位変換(2)。の続き。

前回のエントリを書き終わってから気付いたのが、小学生向けの技術を書くのを忘れていたということ。
まぁ、前回のエントリも大分長くなっているので、こちらに。

小学生のための方法



前回の方法を使えば機械的に単位を変換できるわけですが、分数をバリバリ使うので小学生には結構難しいんですよね。
ということで、小学生には前回の単位変換の理論をもっと簡単にしたものを教えていたりします。

単位関係式からの変換



単位関係式とは、前回も出てきましたが、
 1km=1000m
とか、2つの単位の関係を書いた式のことです。
単位変換式はここから作ったわけですが、小学生の場合には単位変換式を使わないで、この単位関係式から直接単位変換をする方法を導かせます。

どうするのかというと、
 1、今どっちからどっちにしたいのか。
 2、そのためには、どういう計算をしているのか。
というのを考えさせます。

例えば、2kmをmにしたい場合は、次のようにします:
今どっちからどっちにしたい?
 →kmからm
(数字の部分に注目して)1が1000になっているわけだから、どういう計算をしたの?
 →1000をかけた
じゃあ、答えは?
 →2×1000=2000m

同様に、1200mをkmに直すことを考えてみましょう:
今どっちからどっちにしたい?
 →mからkm
(数字の部分に注目して)1000が1になっているわけだから、どういう計算をしたの?
 →1000で割った
じゃあ、答えは?
 →1200÷1000=1.2km

という具合です。
つまり、単位関係式の左辺と右辺の数字を見比べさせて、何倍すればいいのか/何で割ればいいのかを考えさせるわけです。

速さの変換



変換したい単位が分子の方にある場合はこれで問題ないのですが、変換したい単位が分母にある場合はちょっと困ります。
具体的にいうと速さで、例えば時速(km/h)を分速(km/min)に直すとかだと、変換しているのは分母の方の単位なので、先ほどの方法だと上手くいかないのです。

ではどうするのか、という話ですが、変換したい単位が分母に出てくるのなんて、小学生の場合は速さくらいです。
だから、速さ専用の変換方法を用意しておけばいいわけです。

具体的には、次のようにしています:
最初に、
 (小) 秒速 ⇔ 分速 ⇔ 時速 (大)
というふうに、秒速は小さくて、分速、時速となるにつれて大きくなると認識させておきます。
その状態で、
 1、大きい速さにすると、数は大きくなるのだから、60をかける
 2、小さい速さにすると、数は小さくなるのだから、60で割る
と教えます。

例えば、秒速120mを分速にしたいのなら、小さいのを大きいのに変えるわけですから、
 120×60=7200
となるので、分速7200mとなります。
(ここから、kmに直したかったら、さっきの単位関係式を使った方法を使います。具体的には、1km=1000mで、mをkmにすると、1000が1になるのだから、1000で割ればいいと分かります。)

同様に、分速72mを秒速にしたいのなら、大きいのを小さいのにするわけですから、
 72÷60=1.2
というふうに出来ます。

受験の子とかだと、ここでさらに時速km(km/hのこと)と秒速m(m/sのこと)の変換について教えたりします。
何かというと、この2つには
 1km/h=3.6m/s
という関係があるので、これを教えておくわけです。
なぜかというと、この変換は結構出るのですが、この関係を知らないと、計算を3回もすることになるので時間がかかるんです。

小数点移動法



ちょっと面白い方法で、小数点移動法(勝手に命名)なんていうのもあります。
この方法は10進の単位にしか使えない(=時間とかには使えない)のと、分数が出てくるとお手上げになってしまうという欠点はあるのですが、簡単なので便利です。

準備は、次のようにします:
まず、
 km   m  cm mm
1|000|00|0|
 |   |  | |
というふうに書きます。
次に、変換したい値を、小数点がその単位に揃うように書いてあげます。
例えば、720cmとかなら、
 km   m  cm mm
1|000|00|0|
 |  7|20. |
という具合です。
あとは、変換したい単位に小数点を移動するだけです。
例えば、mにしたかったら、
 km   m  cm mm
1|000|00|0|
 |  7.2| |
となるので、7.2mですし、mmにしたかったら、
 km   m  cm mm
1|000|00|0|
 |  7|20|0.
となるので、7200mmと分かります。

長さの場合は上のような感じでしたが、重さの場合は
 kg   g   mg
1|000|000|
 |   |   |
という感じですし、かさの場合は
 m^3       cm^3
 kℓ   ℓ dℓ  mℓ
1|000|0|00|
 |   | |  |
となります。(かさの場合は、ℓとcm^3の2つが必要です)

この方法が特に有効なのが、面積の単位変換です。
面積の単位は、大きい方からkm^2、ha、a、m^2、cm^2があるわけですが、これを先ほどと同じようにすると、
 km^2 ha  a  m^2    cm^2
1|00|00|00|0000|
 |  |  |  |    |
というふうに、きれいになります。
覚えさせるときには、「0が10個。2個ずつ区切って最後は4個。」というふうにしたりします。

面積の単位に関しては、「様子を書かせれば分かる」という声を聞くことが多いのですが、出来ない子には様子を書くこともそうですが、そのあとの「1mは100cmだから、100×100で10000。だから、1m^2は10000cm^2だ。」という思考が出来ません。
頭が使えないんなら、頭を使わなくて出来る方法を覚えさせる、というのが即時的には必要になってきます。
(もちろん、長期的に見た場合にはマイナスも大きいかもしれませんが。ただ、個人的な感想をいうならば、出来ない子は考えさせる訓練をさせても考えることが出来ません。すぐに思考停止してしまいます。ある時期までに、いろんなことに対して疑問を持ち、それに対して試行錯誤してみるという経験をしている必要があるもかもしれません。)

なお、単位関係式・単位変換式を使った方法については自分で考え出した方法ですが、小数点移動法については自分で考え出した方法ではなく、教えてもらった方法です。(だから、ホントは勝手に命名しちゃいけないんですけどね^^;)
一応、ここに明記しておきます。



単位変換に関しては、これでお終い。
今自分が持っている知識・方法に関しては全部書けたかと思います。

それにしても・・・自分が今回書いたような内容ってほとんど見かけないんですよねぇ。
単位って、分かる人からすれば当たり前で、「ちょっと考えれば分かるでしょ? 方法なんてないし、いらないでしょ。」というものなんですよね。
当然、答えも「想像してみたらどうですか」とかいうものがほとんどです。
けど、質問している人の多くは、その「ちょっと考えれば」の部分が分からなかったり、想像が上手く出来ないから、質問しているんですよね。
なので、そういった人たちに今回の一連のエントリが役に立てばなと思います。

それにしても・・・そもそもは単位についてしっかりと教える単元がないからいけないんですよねぇ。
物理とか、単位について知っていないと何も出来ないっていうのに^^;


単位変換(2)。

2008-05-25 11:50:00 |  Study...
単位変換(1)。の続き。

忙しくて間が空いてしまいました^^;
ということで、とりあえず前回の復習。

まず、単位には次のような原則がありました。

1、足し算が出来るのは、足し合わせようとする項の単位が等しいときに限る。(引き算も同様)
2、足し算をしても単位は変化しない。(引き算も同様)
3、掛け算をすると、単位も掛け算される。(割り算も同様)



そして、重要なこととして、次のようなことがありました。

“1[○]あたりx[□]”(単位あたりの量)というのは、“x[□/○]”と表される。



以上のことさえ押さえておけば、残るは単位変換式のみです。

単位変換式



まず、単位関係式というのを押さえておきましょう。
これが何なのかといえば簡単で、
 1km=1000m
とか、
 1h=60min
とか、単位の関係を表した式です。

単位変換式というのは、単位関係式から次のようにして作ります:
左辺(右辺)を右辺(左辺)の分母に持ってきます。
これだけです。

例えば、
 1km=1000m
とかだったら、1km(左辺)を1000m(右辺)の分母に持ってきて、
 1000[m/km]
とします。
この、1000[m/km]が、mとkmに関する単位変換式です。

単位変換式の使い方



これをどうやって使ったらいいのかというと、例えば3kmをmに直したかったら、[km]と[m/km]から[m]を作ればいいわけですから、
 3[km]×1000[m/km]=3000[m]
となります。

逆に、2000mをkmに直したいとかだったら、[m]と[m/km]から[km]を作ればいいわけですから、
 2000[m]÷1000[m/km]=2[km]
というふうにしてやります。

つまり、今ある単位と単位変換式の単位とを見比べて、掛け算をするか割り算をするかで、今ある単位を望む単位に変換するわけです。

もう少し複雑な例もやっておきましょう。
次の例は、時速を分速に変える例です。

まず、
 1h=60min
だったので、hとminに関する単位変換式は、
 60[min/h]
であることに注意しましょう。

今、12[km/h]を[m/min]に直すことを考えます。
手元にある道具は、12[km/h]、1000[m/km]、60[min/h]です。
単位に注目すれば、
 [km/h]×[m/km]÷[min/h]=[m/min]
とすることで[m/min]を作れることが分かります。
したがって、
 12[km/h]×1000[m/km]÷60[min/h]=200[m/min]
となります。

以上のように、単位変換式を使うことで、意味など考えずに機械的に単位が変換できることが出来ます。

単位変換式の原理



さて、考え出した当時は、なんでこれで単位変換が上手くいくのかちゃんとした原理を説明できなかったのですが(というか、誰かに教えるわけでもなく、ただ自分が使っていただけなので、原理を説明する必要もなかった)、やはりその原理は気になるところです。
なんで上のような方法で単位変換式を作ってやると、うまくいくのでしょう・・・?

考えてみれば、実はけっこう単純な原理です。
単位関係式は、
 1km=1000m
というふうに書かれます。
ここで、単位変換式を作るときには、左辺を右辺の分母に持ってくるということをしたわけですが、この意味を考えれば、それは両辺を左辺で割っているに他なりません。
すなわち、
 1km÷1km=1000m÷1km
 1=1000[m/km]
となります。
つまり、単位変換式は1と等価なんですね。

このことより、単位変換式を掛けても、単位変換式で割っても、式の本質は変化せず、ただ単位のみが変換できるわけです。

その他、単位の話



物理での有用性+α


この単位に関する知識ですが、物理、特に力学の分野においては、かなり力を発揮します。

実際、自分がかなり助けられたのが、波に関するところ。
波の速さはv[m/s]、周期はT[s]、周波数はf[1/s]、波長はλ[m]となっているときに、
 v=λf=λ/T
が成り立つ、というのがあるのですが、単位に注目すれば当然ですよね。

ただし、「意味」を考えた場合、実はちょっと気持ち悪いのです。
なぜって、長さに一秒あたりの個数を掛け算しているわけですから、長さと個数をかけたのって何になるのさ? という疑問が出てくるからです。

上のような気持ち悪さが起こる原因というのは、上の単位というのが厳密にいえば間違っていることによります。
実際には、周期はT[s/個]、周波数はf[個/s]、波長はλ[m/個]なんですね。
こうすると、一個あたりの長さに一秒当たり何個の波があるかを掛けたのだから、出てくるのは一秒あたりの波の長さ全体(つまり、波の速さ)となり、何の気持ち悪さも残りません。

物理の世界では、どうにも「個」という単位を省略する(1と同一視してしまう)風習があるようです。
しかし、この例からも分かるように、ちゃんとはっきりと書いた方が分かりやすいと思うんですけれどねぇ・・・

ちなみに、化学の世界でも、「個」は省略されます。
アボガドロ数6.0×10^23[1/mol]なんていうのは、単位変換式以外の何者でもないのですが、6.0×10^23[個/mol]と書いた方が、その意味も明確になりますよね。
1molの中には6.0×10^23個の分子が入ってるよ、というわけですから。

「=」の用法に関して


今までで、「=」に関しては特に反省することなく使ってきました。
しかし、よくよく考えてみると、問題があることに気がつくかもしれません。

例えば、2kmをmに直すときの様子を書いてみると、
 2[km]=2[km]×1000[m/km]
    =2000[m]
でしたが、数字の部分にだけ注目すると、
 2=2×1000
  =2000
となり、気持ち悪いものが残ります。

これを解決する方法は2つあります。
1つは、新しい記号を作ること。
もう1つは、単位の本質を掴むことです。

まず、1つ目から。
これは実際に自分がとった方法になりますが、=を使うことに抵抗があるのなら、他の記号を使ってしまえ、ということです。
具体的には、自分は←→(両端に矢がある矢印)を使っていました。
つまり、
 =  数字に関して左辺と右辺が等しい(普通の等号)
 ←→ 単位まで含めて考えたときに左辺と右辺が等しい
というふうにしたわけです。

これに従うと、単位関係式は
 1[km]←→1000[m]
とかかれ、単位変換式は
 1←→1000[m/km]
と表現されます。

したがって、先ほどの例は、
 2[km]←→2[km]×1000[m/km]
    =2000[m]
となり、数字だけに注目しても、
 2←→2×1000
  =2000
となり、気持ち悪さがなくなります。

もう1つの解決方法について。
賢い人はとっくに気がついているかもしれませんが、単位に関する3つの原則を見て、何か気付かないでしょうか?
これって、文字式の扱いとまったく同じだったりします。

原則の1つ目が意味していることは、同類項でないと足し算/引き算ができないということですし、原則の2つ目が意味していることは、同類項の足し算/引き算をしても文字は変化をしないということに他なりません。
原則の3つ目も、文字式同士を掛け算した場合、文字も掛け算されるということを意味しています。
つまり、単位というのはaとかxとかと同じで、ただの文字なんです。

それに気付けば、例えばa=1000bであるときに、
 2a=2×1000b
   =2000b
としたときに、係数の部分だけに注目して、「2と2000が=でつながっているのはおかしい」と主張するのがどれだけおかしいかが分かるでしょう。
むしろ、ここから分かることは、普段単位を省略して書くわけですが、それは必要な文字を書かずに係数だけを書いているんだということです。
だから、先ほどの例に気持ち悪さを感じるのではなく、普段の単位の書かれていない式にこそ、本当は気持ち悪さを感じるべきなんですね。

さらにいうと、単位の本質が文字であることに気がつくと、単位変換にも新しい見方が出てきます。
2kmをmに直すというのは、
 2km
 1km=1000m
という2本の式から、kmを消去するということに他なりません。
1km=1000mという式から、km=1000mという式が出てきます。(kmを、文字と考えているわけです。)
これを2kmに代入すれば、
 2km=2×1000m
   =2000m
となり、kmが消去できます。
これが、単位を文字と見立てて、代入法によって単位変換する方法です。

比例関係でない単位に関して


いままで単位の種類に関しては触れてこなかったのですが、実は単位の中には、関係が比例関係でないものがあったりします。
具体的にいえば、「温度」です。

温度には「K(ケルビン)」「℃(摂氏)」「°F(華氏)」などがありますが、これらの関係式は、比例関係になっていません。
なので、単位変換式は使えなかったりします。(なんでかは、原理から考えてみてください。)

ただ、こういったものはそれほど多くないと思うので、対策は特に考えていません。
まぁ、単位関係式における「単位」を「文字」と思って、代入法で単位を消去・変換してあげれば問題ないでしょう。


単位変換(1)。

2008-05-04 18:00:00 |  Study...
単位の変換に関して、ちょっとしたテクニックの紹介。

はじめに



昨日(※4/26。下書きにしていたので。)ネットを見てたら、単位変換をどうやったらいいのか、みたいなのを見つけまして。(単位変換。。。
回答を眺めていたのですが、誰も機械的に単位を変換する方法については答えていないんですよね。

実は、単位変換って意味とか全然考えないで機械的に処理することが出来るんです。
自分はその方法に用いる式のことを「単位変換式」と呼んでいるのですが、その方法があまり知られていないようなので、ここではその「単位変換式」について紹介をしようかなぁ、と思います。

きっかけ



まず、なんで自分がこの方法を編み出したのかという話をしておけば、化学におけるcalとJの単位変換に非常に困ったからです。
calとJの関係は、
1cal = 4.2J
であることが知られています。
この関係を覚えることは必須なのですが、問題は、覚えたからといって単位をスラスラ変換できるとは限らない、ということです。

例えば、
(1)10calは何J?
(2)10Jは何cal?
といわれて、すぐに答えられるでしょうか?

(1)は、「1calが4.2Jなのだから、10calは4.2×10」というふうに、意味を考えればすぐに分かります。
しかし、(2)については、「1calが4.2Jなのだから、10Jの中に4.2Jが何個あればいいのかを考えればいいのだから、10÷4.2だ」と、ちょっとややこしい考えをしなければなりません。
これ一個ならまだいいですが、他にもたくさん出てきたときにはゴチャゴチャしてきますし、もっと機械的に×なのか÷なのかを決めたいのです。

あるいは、速さなんかも結構ややこしいときがあります。
km/h(時速キロメートル)をm/s(分速メートル)に直したいときに、どうすればいいのか、と言われて、ぱっと答えられるでしょうか?

そこで出てくるのが、「単位変換式」です。
これを用いることで、今までに述べてきたようなこと全てに答えることが出来ます。

ただし、その前に「単位」に関していくつか知っておくべきことがあるので、先にそのことにふれたいと思います。

単位の基本



まず、次のような問題を考えてみましょう。
「リンゴが2つ、リンゴジュースが1ℓあります。合わせていくつでしょう?」
――出来たでしょうか?
まぁ、答えを言ってしまえば、「足すことは出来ない(=計算できない)」というのが答えです。
ずるいですか?
しかし、それこそが答えであり、それに気付くことが大切なのです。

問題の本質はここからです。
では、なぜ足すことが出来ないのでしょうか?
答えは簡単で、「単位」が違うからです。
式で書けば、これは
 2[個]+1[ℓ]
というわけですが、単位が違うので足すことが出来ません。

逆にいうと、足し算が出来るのは単位が揃っているときに限るということです。
そして、出てきた答えの単位は元の単位と同じものになります。

以上から、次の原則が存在することが分かります。

1、足し算が出来るのは、足し合わせようとする項の単位が等しいときに限る。(引き算も同様)
2、足し算をしても単位は変化しない。(引き算も同様)



次に、次のような問題を考えます。
「縦10cm、横20cmの長方形の面積は? 単位まで考えて式に表現してみましょう。」
これは、
 10[cm]×20[cm]=200[cm^2]
となります。

ポイントは、cmとcmを掛けたらcm^2になっているということで、このことから掛け算をすると単位も掛け算されるということが分かります。
つまり、次の原則がいえるわけです。

3、掛け算をすると、単位も掛け算される。(割り算も同様)



最後に、次のような問題を考えてみます。
「1個10円のミカンを4個買い、60円のカゴに入れると、全部でいくらでしょう? 単位まで考えて式に表現してみましょう。」
ここで、
 10[円]×4[個]+60[円]=100[円]
としてしまっては、間違いです。
なぜって、10[円]×4[個]の答えは、原則から考えれば40[円・個]であり、これは[円]と単位が異なるので足し算が出来ません。
だからダメなのです。

正しくは、
 10[円/個]×4[個]+60[円]=100[円]
です。
そう、「1個あたり10円」というのが大切なのです。

単位の応用



今見てきた3つの原則を守ることで、実はいろんなことが見えてきます。

例えば、速さ。
よく「速さの3公式」として
 1、(距離)=(速さ)×(時間)
 2、(速さ)=(距離)÷(時間)
 3、(時間)=(距離)÷(速さ)
というのを使って計算しますが、コレ、単位の視点から見ればすごく当たり前なのです。
実際、上の3公式を単位で置き換えてやれば、
 1、[m]=[m/秒]×[秒]
 2、[m/秒]=[m]÷[秒]
 3、[秒]=[m]÷[m/秒]
となります。
ここでは例として秒速を扱いましたが、時速とかでも同じです。

そして、「速さの3公式」では見えてこないところも見えてきます。
何かというと、「なぜ単位をそろえないと計算できないのか?」というところです。

例えば、「時速4kmで30分歩くと何km進める?」という問題で、
 4×30
とやるのは間違いです。
しかし、上のように式を書いてしまえば4×30自体は計算できるので、間違いに気付くことが出来ません。
これを単位をつけて書いてあげると、
 4[km/時]×30[分]
となり、そもそも計算が出来ないことが分かります。(単位で約分が出来ないので、kmが出てこない!)

あるいは、次のようなよくある間違いを防ぐことも出来ます。
「分速30mで60分歩くと、何km進むでしょう?」という問題を考えましょう。
子どもたちを見ていると、
 30×60=1800
と計算して、問題を見ると「何km?」と聞かれているので1800kmと答えるような子が少なからずいるんですね。
時速1800kmって、どんだけだよ、と思ったりもするのですが、そういう出来ない子っていうのは算数の答えに対する「常識的判断」(あるいは想像力を働かせるということ)がないので、間違いに気付くこともありません。
こんなトンデモな間違いをするのは、単位に関する知識がないからに他ならず、上の式を単位をつけて書くようにすれば
 30[m/分]×60[分]=1800[m]
となり、間違いようがありません。
(もちろん、解答用紙に1800mと書いてしまっては間違いになってしまいますが、少なくとも上のような間違いは防ぐことが出来ます。)

速さの他にも、「単位量あたりの大きさ」なんていう分野にもこの単位の知識は役に立ちます。

例えば、次のような問題を考えましょう。
「あるお肉は、250gで500円です。1円あたり、何gですか?」
このような問題が出ると、大抵の子は
 500÷250
とするんですね。
なぜって、そうすれば割り切れるからです。
仮に割り切れない数字だとしても、大抵、(大きい数)÷(小さい数)をやろうとします。
普通の指導だと、
「例えば、100円で200gだったら、どうやる? 200÷100? そうだね、正解。今、重さを値段で割ったよね? だから、250÷500じゃない?」
とかするわけですが、どっちで割ったらいいのか判断に迷ったとき、大人ならそういった「簡単な例」がスラスラと出てきますが、子ども自身が自分でそういった例を考え出すことはかなり難しいです。

けれど、単位の視点から考えれば、この問題はすごく簡単なんですね。
「1個あたり10円」というのが10[円/個]だったのを思い出して下さい。
これと同様に考えれば、「1円当たり何グラムか?」というのは「g/円はどれくらいか?」というのを求めるのと同じだと気付くはずです。
それに気付きさえすれば、この問題の式は
 250[g]÷500[円]
であることがすぐに分かるでしょう。
意味とか、そんなの考える必要なんて全然ないんです。
単位に関する知識さえ持っていれば、機械的に式を立てることが出来ます。

ちなみに、上のように単位のみを見て式を立てるのは小学生には難しいので、小学生に教えるときにはその理論をバックグラウンドとして次のように教えています:
「1~あたり」とされている量を「基本となる量」と呼び、単位あたりの量(1~あたりいくらか、という量)を出したいときには、基本となる量の方で割る。
例えば、先ほどの例であれば「1円あたり」なので、「円」の方が基本となる量になるので、「円」の方で割る、すなわち
 250÷500
というふうに式が立ちます。

長くなったので、単位変換式については続きで。


クオリアをめぐる冒険(2)。

2008-02-27 11:47:00 |  Study...
クオリアをめぐる冒険(1)。の続き。

前回までの話と今回の話について



さて、前回までの内容はクオリアの定義と、他人のクオリアと自分のクオリアが同じであるかどうかの議論でした。

ただし、今でこそクオリアの定義をすらっと言えますが、中学生の当時はクオリアという言葉自体を知らなかったですし、次にクオリアという言葉に出会ったときには思いっきり勘違いをして「なんでこんな議論をする必要があるのだろう?」とも思ったものです。

自分がクオリアの概念をきちんと正しく掴むためには紆余曲折の経緯があったわけですが、なんで間違ってしまったのか、なんで間違っていることに気付いたのかを書いておくことは有用であると思われるので、それについてやはり自分の思考の歴史を追う形で書いていきたいと思います。

『ちょびっツ』との出会い――ロボットは「心」を持つのか?



中学校での出来事を思い出したのは、大学に入ってから『ロボットの心 7つの哲学物語』を読んで「クオリア」という言葉に初めて出会ってから。
しかし、その前に一つ大きな出来事があって、それは『ちょびっツ』に出会ったこと。
その経験が『ロボットの心 7つの哲学物語』を読むときに大きな影響を与え、そして「クオリア」の定義の誤読に繋がった(といっても、『ロボットの心 7つの哲学物語』の著者も定義を間違えているのですが)ので、まずそちらについて述べていきたいと思います。

『ちょびっツ』のテーマを一言で述べれば、「人間とモノは恋愛が出来るのか?」というもの。
しかし、その大きなテーマの元で、ロボット(厳密にはこの作品では人型パソコンですが、ややこしくなると思うのでロボットと記述します)の「心」に関する議論が行われています。
その議論については大切な『ココロ』。にも書きましたが、重要なところを引用してまとめておきたいと思います。
(※少しネタバレもあるので、読んでない人は読んでから見たほうがいいかもしれないです。)

一応世界観を書いておくと、まず『ちょびっツ』の世界ではパソコンは人間の形(人型)をしています。
そして、物語は主人公の本須和秀樹がパソコンを拾って「ちぃ」と名づけるところから始まります。

本須和「パソコンってなんで人型してんだろな」
(3巻より)



さすがCLAMPという感じの一言。
自ら世界観を与えておきながら、それを破壊しにいくかのような言説。
CLAMPの論法(当たり前のことを「当たり前」として認識させることで、そこで見落とされている大事なことに気付かせる論法。異化に近いともいえます。)に慣れてない人は戸惑うかもしれませんが、自分は当時これに、すごい、と感動したのを覚えています。
そして、「人型」であることが大きな意味を持つということは後で出てきます。

本須和「あ、パソコンなんだから『いる』ってのは違うよな。『ある』だよな。」
裕美「・・・『いる』ですよ、パソコンは。」
裕美「人間よりずっと賢くて、綺麗で、なんでもできて、人間よりずっとずっといいから人間の側にいるの。」
裕美「だから、人間の側に人間はいられなくなっちゃう」
(3巻より)



「いる」なのか「ある」なのか。
人型パソコンは「生き物」なのか「物体」なのか、という問いかけ。
もちろん、明らかに「物体」なのですが、ではなんで「生き物」と思えてしまうのか、という本質的な問いを内包しています。

本須和(なに抱きしめてるんだよ! オレ! でも、でも! ちぃがなんかあまりに儚げっつうか、辛そうっつうか! で、つい!)
本須和(でも、胸が痛いなんて・・・あれもプログラムなのか)
本須和「だとしたら・・・やっぱり違うんじゃねぇか?」
(4巻より)



ちぃが感情を持っているように思えて――人間であるように思えて――きているのですが、その「感情のように見えるもの」を作っているものがプログラムであるというのなら、それはやはり「本物の感情」ではないのではないか、という問いかけを発しています。

本須和(相手の喜ぶことを・・・か。でも、やっぱりそれもプログラムなんだよな。店長のパソコンもちぃも。あのちぃの笑顔も、痛そうな顔も、ぜんぶ。だとしたら、やっぱり違うよ。うまく言えないけれど・・・)
(中略)
本須和(でも・・・オレ、ちぃを見てるとドキドキするしにこにこしちまう。ちぃのこと家電だって裕美ちゃんに前言ったけど、電気炊飯器とか冷蔵庫見てドキドキはしない。)
本須和(ちぃはパソコンだ、人間じゃないってわかってる。けど・・・ただの機械のかたまりとは思えなくなってる。オレ、ちぃをなんだと思えばいいんだ・・・?)
(4巻より)



上で述べた問いかけの繰り返しですね。
物体であるのに生き物に思えてしまう、感情を持っているように思えてしまう。
けれど、それはプログラムであって、やはり生き物ではなくて。
けれど・・・の繰り返し。
大切なテーゼなので、何度も出てきます。

店長「僕ね、前に結婚していたことがあるんですよ。・・・パソコンと」(※事実婚であって、実際に結婚していたわけではない)
(中略)
本須和「で・・・でも、パソコンは・・・」
店長「機械です。」
店長「でも、人によってはただの家電以上の存在なんですよ。」
(4巻より)



上の問いかけに対する、回答のヒントの1つめ。
一言で言うなら、「関係性」でしょうか。
モノからコトへ、、、というと、広松渉の言葉になってしまいますが(まぁ、この人の哲学自体はくわしく知りません・・・難しすぎ^^;)、その言葉が一番しっくりくるでしょう。
人間において、関係性こそが本質である、というような言説は近年増えてきていると思いますが(例えば、あなたが死んでもあなたは私の中に生き続ける、とか)、その先駆けは(おそらく)CLAMPであり(なんせ1990年くらいから言ってますからねぇ)、それを人間以外に拡張した言説であるといえます。
その物体自体が重要なのではなく、その物体との関係性こそが重要なのである、ということです。
(例えば、「ライナスの毛布」は普通の人には「ただの毛布」ですが、ライナスにとってはかけがえのない毛布なわけです。)

店長「事故のあと、すぐに買ったお店に連れて行ったんですけど・・・お店の人に『完全に壊れててもう起動できませんよ。ボディもメチャクチャだし。この外見が好みなら同じ型番のを取り寄せますか?』って言われて・・・」
店長「僕にとって彼女は彼女で。たとえ同じ外見でも、それは彼女じゃなくて・・・彼女はパソコンで生きてないものだけど、僕にとっては、この日彼女は死んだんです。」
(4巻より)



「僕にとって彼女は彼女で。」以下の部分は、前に書いた「関係性」について改めて述べたもの。
同じ型番であること(物体自体)が重要なのではなくて、彼女であること(物体との関係性)が重要なわけです。
そして、「生きていないものだけど、僕にとっては、この日彼女は死んだんです。」という言葉。
これは裏返せば、「彼女は生きていないものだけど、その日まで、僕にとっては生きているものだった」となります。
「関係性」というキーワードから眺めれば、たとえそれが生きていないものであっても、生きているように思うことができる、ということを示しています。

稔「でも、誰も他の誰かの代わりになる事はできないって柚姫といて分かった。そう、誰も姉さんの代わりになれない。だから、柚姫の代わりもいないんだよ。」
(中略)
柚姫「・・・私はパソコンで・・・」
稔「うん。柚姫はパソコンだ。だからプログラムとデータが柚姫の行動を決定してる。でもやっぱり他のパソコンを柚姫と同じには思えない。」
(中略)
稔「柚姫は柚姫だから。たとえプログラムされたものでも、それが柚姫の個性だから。パソコンでも僕は柚姫をなくしたくないから。」
(7巻より)



前半の論法。
これぞまさしく、CLAMPの論法とも呼べるものです。
「誰も他の誰かの代わりになる事はできない」という当たり前のことを稔も柚姫も認めたくなかった。なぜなら、それは柚姫が稔の姉さんの代わりになれないということを認めてしまうことになってしまうわけだから。けれど、それを認めることで、見落としてしまっていた大切なこと――柚姫の代わりもいない、という大切なことに初めて気付くわけです。
後半はやはり「関係性」の話。
ただ、重要なのは、「だからプログラムとデータが柚姫の行動を決定してる。」という部分で、やはり人間ではないんだ、ということをハッキリさせている点。
そこをハッキリさせた上で、それでもいい、と壁を乗り越えています。

千歳「ある日、私がテストに使っていた人形が壊れてしまって・・・言ったの、夫に。『人形だって分かってるのに悲しい。怪我をさせてしまったみたいで辛いわ』って。」
千歳「『おもちゃだって分かってるのに。生きてないって分かってるのに。どうしてこんなに可愛いと思ってしまうのかしら。どうしてこんなに心配だったり嬉しかったりするのかしら。』」
千歳「そしたらね、あの人が『そりゃそうや。相手は生きてへんでも千歳は生きてる。千歳が生きてて心があるから可愛いんやろ』って。」
(7巻より)



これが上の問いかけに対する回答のもう一つのヒント。
なぜ生きていないものなのに生きていると感じていしまうのか――それは「相手は生きていなくても、自分は生きていて、心があるから」。
厳密には論理が少し変わってしまいますが、下のほうでの本須和の言葉に合わせて表現を分かりやすいものにすると、次のようになると思います。
「自分に心があり、可愛いと思ったり心配に思ったりするから、生きていないものも生きているように思える。」
(厳密には、「自分に心があるから、可愛いと思ったり心配に思ったり、すなわち、生きていないものも生きているように思える」ですが、まぁ、ほとんど同じと見なしていいはずです。)
つまり、「可愛いと思ったり心配に思ったりできること」が重要なわけです。
だからこそ人型なんだと言えます。
(ちなみに、この議論は同時に人間の心の実在性について言及していると捉えることも出来、その方法が現象学的で面白かったりするのですが、ここでは省略します。)

本須和「それって『Chobits』(※一番最初に作られた人型パソコンの型。ちぃ(エルダ)とフレイヤのこと)には、ちぃには感情があるってことなのか!?」
フレイヤ「ないわ。」
本須和「え・・・」
フレイヤ「アタシたちに感情はない」
フレイヤ「アタシたちをパパは『Chobits』と呼んでたけど、アタシたちも他の子たちと同じ。プログラムなしでは動けない。」
(8巻より)



ちぃはパソコンですが、それでも特別に心があるのでは、と思わせたところで、「ちぃに心はない。プログラムにすぎない。」ということを確定させています。
そして、これを乗り越えられるのかどうかが山場になります。

フレイヤ「ちぃの心はプログラムでも?」
本須和「あるよ。ちぃの心はオレの中にある。」
本須和「ちぃが悲しそうにしてたらオレも悲しい。嬉しそうだと思ったらオレも嬉しい。それが全部プログラムでも、オレはそれでいい。」
(8巻より)



これがCLAMPの回答です。
中身がどうかは関係がない。
プログラムであったってかまわない。
実際に心があるのかどうかなんてどうでもいい。
悲しそう、嬉しそうと自分にとって感じられることが重要であり、そう感じられたのならば、自分にとってそのものには心があると言ってしまっていい、生きていると言ってしまっていい、という感じでしょうか。
よくよく考えれば、人間だって相手の本当に心があるのかどうかは分からないはずです。
相手を大切に思えるのかというのは、自分にとって相手の心があると思え、かつその心がどのくらい大切に思えるのか、というところにかかってくるといえます。
(この議論は、大切な『ココロ』。にも書いてあります。)

ジーマ「俺の頭ん中は可愛いディタのことが最優先だからな。これが人間の好きって状態でなくてなんだってんだ。」
ディタ「そ・・・そんなの思い込みかも!」
ジーマ「思い込みでいいんだよ。」
ジーマ「人間だってどうせ『心のしくみ』なんか分かってねぇのさ」
(8巻より)



今までの議論に対して、「そんなのは思い込みにすぎない」(=本当に心があるかどうか分からないなら、思い込みにすぎず、意味がない)という反論を挙げ、それに対して「不可知性」を用いて「思い込みでいいんだ」と反論(というか、開き直り?)をしています。
この「不可知性」も心の議論においては重要です。

ってほとんど『ちょびっツ』レビューになってしまってますね^^;
長くなったので、これを受けてのまとめと、この経験をした上で『ロボットの心 7つの哲学物語』を読んでどう思ったのか、そして、どう勘違いしていったのかということは、次にまわしたいと思います。