クオリアをめぐる冒険(1)。の続き。
前回までの話と今回の話について
さて、前回までの内容はクオリアの定義と、他人のクオリアと自分のクオリアが同じであるかどうかの議論でした。
ただし、今でこそクオリアの定義をすらっと言えますが、中学生の当時はクオリアという言葉自体を知らなかったですし、次にクオリアという言葉に出会ったときには思いっきり勘違いをして「なんでこんな議論をする必要があるのだろう?」とも思ったものです。
自分がクオリアの概念をきちんと正しく掴むためには紆余曲折の経緯があったわけですが、なんで間違ってしまったのか、なんで間違っていることに気付いたのかを書いておくことは有用であると思われるので、それについてやはり自分の思考の歴史を追う形で書いていきたいと思います。
『ちょびっツ』との出会い――ロボットは「心」を持つのか?
中学校での出来事を思い出したのは、大学に入ってから
『ロボットの心 7つの哲学物語』を読んで「クオリア」という言葉に初めて出会ってから。
しかし、その前に一つ大きな出来事があって、それは
『ちょびっツ』に出会ったこと。
その経験が『ロボットの心 7つの哲学物語』を読むときに大きな影響を与え、そして「クオリア」の定義の誤読に繋がった(といっても、『ロボットの心 7つの哲学物語』の著者も定義を間違えているのですが)ので、まずそちらについて述べていきたいと思います。
『ちょびっツ』のテーマを一言で述べれば、「人間とモノは恋愛が出来るのか?」というもの。
しかし、その大きなテーマの元で、ロボット(厳密にはこの作品では人型パソコンですが、ややこしくなると思うのでロボットと記述します)の「心」に関する議論が行われています。
その議論については
大切な『ココロ』。にも書きましたが、重要なところを引用してまとめておきたいと思います。
(※少しネタバレもあるので、読んでない人は読んでから見たほうがいいかもしれないです。)
一応世界観を書いておくと、まず『ちょびっツ』の世界ではパソコンは人間の形(人型)をしています。
そして、物語は主人公の本須和秀樹がパソコンを拾って「ちぃ」と名づけるところから始まります。
本須和「パソコンってなんで人型してんだろな」
(3巻より)
さすがCLAMPという感じの一言。
自ら世界観を与えておきながら、それを破壊しにいくかのような言説。
CLAMPの論法(当たり前のことを「当たり前」として認識させることで、そこで見落とされている大事なことに気付かせる論法。異化に近いともいえます。)に慣れてない人は戸惑うかもしれませんが、自分は当時これに、すごい、と感動したのを覚えています。
そして、「人型」であることが大きな意味を持つということは後で出てきます。
本須和「あ、パソコンなんだから『いる』ってのは違うよな。『ある』だよな。」
裕美「・・・『いる』ですよ、パソコンは。」
裕美「人間よりずっと賢くて、綺麗で、なんでもできて、人間よりずっとずっといいから人間の側にいるの。」
裕美「だから、人間の側に人間はいられなくなっちゃう」
(3巻より)
「いる」なのか「ある」なのか。
人型パソコンは「生き物」なのか「物体」なのか、という問いかけ。
もちろん、明らかに「物体」なのですが、ではなんで「生き物」と思えてしまうのか、という本質的な問いを内包しています。
本須和(なに抱きしめてるんだよ! オレ! でも、でも! ちぃがなんかあまりに儚げっつうか、辛そうっつうか! で、つい!)
本須和(でも、胸が痛いなんて・・・あれもプログラムなのか)
本須和「だとしたら・・・やっぱり違うんじゃねぇか?」
(4巻より)
ちぃが感情を持っているように思えて――人間であるように思えて――きているのですが、その「感情のように見えるもの」を作っているものがプログラムであるというのなら、それはやはり「本物の感情」ではないのではないか、という問いかけを発しています。
本須和(相手の喜ぶことを・・・か。でも、やっぱりそれもプログラムなんだよな。店長のパソコンもちぃも。あのちぃの笑顔も、痛そうな顔も、ぜんぶ。だとしたら、やっぱり違うよ。うまく言えないけれど・・・)
(中略)
本須和(でも・・・オレ、ちぃを見てるとドキドキするしにこにこしちまう。ちぃのこと家電だって裕美ちゃんに前言ったけど、電気炊飯器とか冷蔵庫見てドキドキはしない。)
本須和(ちぃはパソコンだ、人間じゃないってわかってる。けど・・・ただの機械のかたまりとは思えなくなってる。オレ、ちぃをなんだと思えばいいんだ・・・?)
(4巻より)
上で述べた問いかけの繰り返しですね。
物体であるのに生き物に思えてしまう、感情を持っているように思えてしまう。
けれど、それはプログラムであって、やはり生き物ではなくて。
けれど・・・の繰り返し。
大切なテーゼなので、何度も出てきます。
店長「僕ね、前に結婚していたことがあるんですよ。・・・パソコンと」(※事実婚であって、実際に結婚していたわけではない)
(中略)
本須和「で・・・でも、パソコンは・・・」
店長「機械です。」
店長「でも、人によってはただの家電以上の存在なんですよ。」
(4巻より)
上の問いかけに対する、回答のヒントの1つめ。
一言で言うなら、「関係性」でしょうか。
モノからコトへ、、、というと、広松渉の言葉になってしまいますが(まぁ、この人の哲学自体はくわしく知りません・・・難しすぎ^^;)、その言葉が一番しっくりくるでしょう。
人間において、関係性こそが本質である、というような言説は近年増えてきていると思いますが(例えば、あなたが死んでもあなたは私の中に生き続ける、とか)、その先駆けは(おそらく)CLAMPであり(なんせ1990年くらいから言ってますからねぇ)、それを人間以外に拡張した言説であるといえます。
その物体自体が重要なのではなく、その物体との関係性こそが重要なのである、ということです。
(例えば、「ライナスの毛布」は普通の人には「ただの毛布」ですが、ライナスにとってはかけがえのない毛布なわけです。)
店長「事故のあと、すぐに買ったお店に連れて行ったんですけど・・・お店の人に『完全に壊れててもう起動できませんよ。ボディもメチャクチャだし。この外見が好みなら同じ型番のを取り寄せますか?』って言われて・・・」
店長「僕にとって彼女は彼女で。たとえ同じ外見でも、それは彼女じゃなくて・・・彼女はパソコンで生きてないものだけど、僕にとっては、この日彼女は死んだんです。」
(4巻より)
「僕にとって彼女は彼女で。」以下の部分は、前に書いた「関係性」について改めて述べたもの。
同じ型番であること(物体自体)が重要なのではなくて、彼女であること(物体との関係性)が重要なわけです。
そして、「生きていないものだけど、僕にとっては、この日彼女は死んだんです。」という言葉。
これは裏返せば、「彼女は生きていないものだけど、その日まで、僕にとっては生きているものだった」となります。
「関係性」というキーワードから眺めれば、たとえそれが生きていないものであっても、生きているように思うことができる、ということを示しています。
稔「でも、誰も他の誰かの代わりになる事はできないって柚姫といて分かった。そう、誰も姉さんの代わりになれない。だから、柚姫の代わりもいないんだよ。」
(中略)
柚姫「・・・私はパソコンで・・・」
稔「うん。柚姫はパソコンだ。だからプログラムとデータが柚姫の行動を決定してる。でもやっぱり他のパソコンを柚姫と同じには思えない。」
(中略)
稔「柚姫は柚姫だから。たとえプログラムされたものでも、それが柚姫の個性だから。パソコンでも僕は柚姫をなくしたくないから。」
(7巻より)
前半の論法。
これぞまさしく、CLAMPの論法とも呼べるものです。
「誰も他の誰かの代わりになる事はできない」という当たり前のことを稔も柚姫も認めたくなかった。なぜなら、それは柚姫が稔の姉さんの代わりになれないということを認めてしまうことになってしまうわけだから。けれど、それを認めることで、見落としてしまっていた大切なこと――柚姫の代わりもいない、という大切なことに初めて気付くわけです。
後半はやはり「関係性」の話。
ただ、重要なのは、「だからプログラムとデータが柚姫の行動を決定してる。」という部分で、やはり人間ではないんだ、ということをハッキリさせている点。
そこをハッキリさせた上で、それでもいい、と壁を乗り越えています。
千歳「ある日、私がテストに使っていた人形が壊れてしまって・・・言ったの、夫に。『人形だって分かってるのに悲しい。怪我をさせてしまったみたいで辛いわ』って。」
千歳「『おもちゃだって分かってるのに。生きてないって分かってるのに。どうしてこんなに可愛いと思ってしまうのかしら。どうしてこんなに心配だったり嬉しかったりするのかしら。』」
千歳「そしたらね、あの人が『そりゃそうや。相手は生きてへんでも千歳は生きてる。千歳が生きてて心があるから可愛いんやろ』って。」
(7巻より)
これが上の問いかけに対する回答のもう一つのヒント。
なぜ生きていないものなのに生きていると感じていしまうのか――それは「相手は生きていなくても、自分は生きていて、心があるから」。
厳密には論理が少し変わってしまいますが、下のほうでの本須和の言葉に合わせて表現を分かりやすいものにすると、次のようになると思います。
「自分に心があり、可愛いと思ったり心配に思ったりするから、生きていないものも生きているように思える。」
(厳密には、「自分に心があるから、可愛いと思ったり心配に思ったり、すなわち、生きていないものも生きているように思える」ですが、まぁ、ほとんど同じと見なしていいはずです。)
つまり、「可愛いと思ったり心配に思ったりできること」が重要なわけです。
だからこそ人型なんだと言えます。
(ちなみに、この議論は同時に人間の心の実在性について言及していると捉えることも出来、その方法が現象学的で面白かったりするのですが、ここでは省略します。)
本須和「それって『Chobits』(※一番最初に作られた人型パソコンの型。ちぃ(エルダ)とフレイヤのこと)には、ちぃには感情があるってことなのか!?」
フレイヤ「ないわ。」
本須和「え・・・」
フレイヤ「アタシたちに感情はない」
フレイヤ「アタシたちをパパは『Chobits』と呼んでたけど、アタシたちも他の子たちと同じ。プログラムなしでは動けない。」
(8巻より)
ちぃはパソコンですが、それでも特別に心があるのでは、と思わせたところで、「ちぃに心はない。プログラムにすぎない。」ということを確定させています。
そして、これを乗り越えられるのかどうかが山場になります。
フレイヤ「ちぃの心はプログラムでも?」
本須和「あるよ。ちぃの心はオレの中にある。」
本須和「ちぃが悲しそうにしてたらオレも悲しい。嬉しそうだと思ったらオレも嬉しい。それが全部プログラムでも、オレはそれでいい。」
(8巻より)
これがCLAMPの回答です。
中身がどうかは関係がない。
プログラムであったってかまわない。
実際に心があるのかどうかなんてどうでもいい。
悲しそう、嬉しそうと自分にとって感じられることが重要であり、そう感じられたのならば、自分にとってそのものには心があると言ってしまっていい、生きていると言ってしまっていい、という感じでしょうか。
よくよく考えれば、人間だって相手の本当に心があるのかどうかは分からないはずです。
相手を大切に思えるのかというのは、自分にとって相手の心があると思え、かつその心がどのくらい大切に思えるのか、というところにかかってくるといえます。
(この議論は、
大切な『ココロ』。にも書いてあります。)
ジーマ「俺の頭ん中は可愛いディタのことが最優先だからな。これが人間の好きって状態でなくてなんだってんだ。」
ディタ「そ・・・そんなの思い込みかも!」
ジーマ「思い込みでいいんだよ。」
ジーマ「人間だってどうせ『心のしくみ』なんか分かってねぇのさ」
(8巻より)
今までの議論に対して、「そんなのは思い込みにすぎない」(=本当に心があるかどうか分からないなら、思い込みにすぎず、意味がない)という反論を挙げ、それに対して「不可知性」を用いて「思い込みでいいんだ」と反論(というか、開き直り?)をしています。
この「不可知性」も心の議論においては重要です。
ってほとんど『ちょびっツ』レビューになってしまってますね^^;
長くなったので、これを受けてのまとめと、この経験をした上で『ロボットの心 7つの哲学物語』を読んでどう思ったのか、そして、どう勘違いしていったのかということは、次にまわしたいと思います。