一人称としての「私」でなく、まさにいま知覚者として存在する<私>に関するちょっとした疑問と考察。
眠いのでメモ程度に。
後で補足します。(って、そんなのばっかだ。。。)
永井均さんとかもそうですが、哲学によく登場する、この<私>という概念。
どうにも、これについての議論や思考実験というのは話をわざと変な方向に持っていっているような気がするんですよねぇ。
といっても、じゃあどう解決すればいいのか、というとまだ模索中なわけですが。
(これも同じく書き途中の)クオリアに関する問いというのも、よくよく見てみればこの<私>というものがどうして生まれるのか、というところを問うものなんですよねぇ。
よく勘違いされて(というか自分も勘違いしていたわけですが)クオリアの質の差があるのかないのかの議論にばかり目が行ってしまうんですけどねぇ。
さてさて、この問題を解決するのには、やはり現象学的にエポケーの状態からそもそも<私>とはなんなのか、というのを構築していくのがいいと思います。
なんとなく、それでほとんどのことが解決しそうな気もするので。
最終目的は次のことを示すことであるような気がします。
“<私>において他の<私>候補と<私>との同一性を示すことは出来ない。”
そして、その一歩手前の重要な点として、
“<私>において、<私>は常に一定である、という思い込みが存在する。”
ということに気がつく、必要がありそうです。
そのための思考実験として、やはり自分の時間に関する考察に似ているのですが、「私がいない時間」を経るという考察――例えば、寝る前と寝た後とで、どうして私が私であると認識されるのか(認識「してしまう」のか)、といったものを考えていく必要がありそうです。
眠いのでメモ程度に。
後で補足します。(って、そんなのばっかだ。。。)
永井均さんとかもそうですが、哲学によく登場する、この<私>という概念。
どうにも、これについての議論や思考実験というのは話をわざと変な方向に持っていっているような気がするんですよねぇ。
といっても、じゃあどう解決すればいいのか、というとまだ模索中なわけですが。
(これも同じく書き途中の)クオリアに関する問いというのも、よくよく見てみればこの<私>というものがどうして生まれるのか、というところを問うものなんですよねぇ。
よく勘違いされて(というか自分も勘違いしていたわけですが)クオリアの質の差があるのかないのかの議論にばかり目が行ってしまうんですけどねぇ。
さてさて、この問題を解決するのには、やはり現象学的にエポケーの状態からそもそも<私>とはなんなのか、というのを構築していくのがいいと思います。
なんとなく、それでほとんどのことが解決しそうな気もするので。
最終目的は次のことを示すことであるような気がします。
“<私>において他の<私>候補と<私>との同一性を示すことは出来ない。”
そして、その一歩手前の重要な点として、
“<私>において、<私>は常に一定である、という思い込みが存在する。”
ということに気がつく、必要がありそうです。
そのための思考実験として、やはり自分の時間に関する考察に似ているのですが、「私がいない時間」を経るという考察――例えば、寝る前と寝た後とで、どうして私が私であると認識されるのか(認識「してしまう」のか)、といったものを考えていく必要がありそうです。