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『キーリ8 死者たちは荒野に永眠る(上)』。

2006-02-17 04:45:00 | Review...
『キーリ8 死者たちは荒野に永眠る(上)』を読んで。

すっごいネタバレ(というか引用)を含むので、それでもいいという人だけ読んでくださいね。



いや、今回のキーリ、ヤバ過ぎるね。
もう、素敵すぎ。
自分、涙腺緩んでるのかなぁ、と思わずにはいられないです。

物語もいよいよ終盤に迫ったわけですが、劇中で登場人物たちが各々、一歩一歩、少しずつだけど、でも着実に、いろいろと決着をつけていっているのと平行して、物語も一歩一歩、少しずつだけど、でも着実に、終わりに向かって進んでいっている感じで、こうしみじみと感じられて、なんともいえません。

壁井さんの文章の特徴として、(読点が異常に少ないというものありますが)一人称もどきというか、視点は明らかに一人称の文章なのに、語られ口は三人称であるというものがあります。
この文章のよさが遺憾なく発揮されたという感があるのが今回の巻で、登場してきた各々のキャラにその場その場で深く感情移入出来るようにしつつ、かつ一人称がコロコロ代わってしまうことで生まれやすい物語の断絶を最小限に抑えられていて、まさに一人一人が決着をつけていっているという感じが深く感じられます。

ハーヴェイも、キーリも、兵長も、ベアトリクスも、ヨアヒムも、ユリウスも、シグリ卿も、(ヨシウも、)それぞれがそれぞれに自分の生を生きていく。
自分の心に決着をつけていく。
そして、そんな姿が描かれつつ、物語も終わりへと向けて静かに進んでいく。
その感じがとても素敵です。



今回のキーリ、引用したいようなシーンがたくさんあります。
こう、グッとくるようなシーンがたくさんあるんです。
そのうち、特に自分が惹かれた文章を何個か。

 猫たちは……わかっていないのだろう。
 彼がすでにこの世にいない人だということを。駅に漂うさまざまな人々の残思念の一つでしかないということを。
「なんで行かないんだよ……。俺じゃなくてもいいだろ、餌をくれる人間なんて他にもいるよ」
 まいったなあとうなだれて溜め息をつく男の様子にキーリは少し笑ってしまった。恨めしげな視線を向けられて慌ててごめんなさいと取り繕い、
「あの、あなたのこと、好きなんだなって思って」
「最初に餌やったのが俺じゃなかったら、俺じゃなくても別によかったんだよ」
「でも、餌をあげたのはあなただったから」
 キーリの答えに、意外そうに男が瞬きをした。自分の口から出たことにキーリ自身少し驚いてしまい、自分の台詞の意味を考えつつ話す。
「……あなたじゃなくてもよかったのかもしれないです。他の誰かでも同じだったのかもしれない。でも、そのとき現れたのはあなただったから、この子たちが好きになったのはあなただった。……それだけのことじゃ、駄目なんでしょうか?」
(第二話より引用)



ホント、そんなもんなんでしょうねぇ。
きっと、誰かが自分にとって特別な存在になるなんて、偶然なんでしょうねぇ。
その誰かが誰であるかなんていうのはホント気まぐれで、でも、なってしまった後は他の誰であってもダメで。
考えさせられます。

 振り払おうとしたがシグリは手を放してくれず、キーリの手の甲に自分の額をこすりつけるようにして頭を下げる。
「すまない、本当にすまない……」
「私に謝ったって、お母さんは帰ってこない。私はあなたを父親だなんて認めない」
 土下座でもするように額をつけて謝罪の言葉を重ねるシグリの手の中からキーリは強引に自分の手を引き抜いた。身をひるがえして半ば転がるように、座り込んだシグリをその場に残し今来た廊下を取って返して走り出す。
 幻滅した。こんなのは絶対にあり得なかった。
 教会のトップの人間というのはもっと居丈高で尊大で不遜な悪役の幹部で、いもしない神さまの教えを人々に吹聴して人心を惑わす詐欺師の親玉で、キーリの前に立ち塞がる巨大な悪の壁でないと駄目なのだ。ユドを殺して、母親を殺して、ハーヴェイをぼろぼろにして、ベアトリクスを捕まえて、そんな許しがたい行いの数々の元凶である、キーリにとって最大の憎むべき敵が、あんなただの疲れきった普通の人では駄目なのだ。この程度のつまらない敵のためにキーリの大切な人たちが今までさんざん苦しめられてきたなんて、そんなのは認めない。こんな程度じゃ許さない。あの人は簡単に謝ったりしては駄目なのだ。こんなに簡単に謝られて決着するんだったら、私は何と戦いに来たのかわからないじゃないか――。
(中略)
「……私、ここにはきっと大きな敵がいて、そいつを倒せばぜんぶ問題が解決するような気がしてた。でも、ここにはそんな敵なんていなくて……」いたのは、過去の行いを後悔している疲れた普通の人だけで。
「ずるいよ。私は、何を憎んだらいい……?」
(第三話より引用)



そこには巨大な悪があって、それを倒せばすべてが終わる――そんな考えでいたキーリが、憎むべき敵であるはずの父親と実際に会ってみると、そんな巨大な悪なんてものは存在していなく、ただの疲れきった、そして自分の行いを後悔している、普通の人がいるだけであった、というシーン。
やり場のない怒りを、いったいどこへぶつけたらいいんだ、というキーリの混乱がすごく伝わってきます。

(上の引用の後、ヨアヒムがシグリを殺そうとしているシーン)
「……君は何がしたいんだ? 何が目的でこんなことをしている?」
 逆に相手のほうからまた問われた。「目的?」殺そうとしている側と殺されようとしている側の立場で何故こっちが質問を受けているのか疑問だが――そもそも自分は今のところ長老殺しの連続犯などではなく真犯人は悪霊どもの呪いなわけだが、その質問には少々興味がわいた。暗殺者のつもりになって答えてみる。
「ぶっ殺したいからやってる。むかつくから、ぜんぶぶっ壊す」
「ふむ……それで、君はそのあとどうする」
「そのあとって?」
 予想外の問い返しに面食らってつい素で訊き返してしまった。
 ナイフの刃先が触れた男の首に血の筋が滲む。命乞いしてみろ、他のジジイどもみたいにみっともなくすがりついてみろ。そう思ってナイフを押しあてるが、肩をはずされ苦痛に顔を歪めながらも男の口調は静かだった。頬にうっすらと自嘲の笑みすら浮かべて。
「……私にも昔、望みがあった。それを手に入れるためにさまざまなものを捨ててきた。しかし実際にそれを手に入れられる場所まで昇り詰めてみたら、何が欲しかったのかわからなくなってしまった。実体のない、つまらない理想を掴まえようとしていただけだったのだと気がついた。……そのときにはもう、取り返しのつかないものを捨ててしまっていた。
 愚かだったよ……今さら後戻りして罪を償うことができるなどと、あの子を取り戻すことができるなどと、一時でも期待していたなんてな……」
(第三話より引用)



何かを掴もうとして、大切なものを捨てていった。
しかし、気づいたときには何が欲しかったのかが分からなくなってしまっていた。
シグリの後悔がしみじみと伝わってくるとともに、ヨアヒムに深い問いかけを投げかけています。

 神サマナンテイラナイ――
 でも……本当にそうなのだろうか。
「オレは、教会はこの惑星に必要ないものなんかじゃないって、やっぱり今でも思ってる。戦争が終わったとき、飢えと略奪が横行してめちゃくちゃになってたこの惑星の街々に、食べ物を配って暖房を作って、秩序を回復することに手を貸したのは確かに教会だった。それは、それだけは本当に本当だったんだ。オレも、そんなふうに惑星の助けになれたらって、ずっと思ってきた……」けれど今、憧れてきたものがもやっとした灰色の霞に包まれてよく見えなくなっている。自分が今まで信じてきたものはなんだったのだろう。
 聞いているのかいないのか、隣の男はただ欄干越しに眼下に広がる首都の町並みを左右で色の違う瞳で何気なく眺めて煙草を吸っている。回答がもらえるはずもない。そもそも回答があることを期待して話したわけではないけれど、それでも何らかの返事を期待してしまう。
 しばらく沈黙が下りた。せわしない人の流れが途切れることなく連絡橋を行き過ぎる。
「ユリウス」
 と、思いがけずふいに反応があったので緊張して次の台詞を待っていると、
「お前さ、自分が本気で惑星中の人間を助けられるなんて思ってんの?」
 素で理解できないという口調で言われ、高まった期待が心の中でがらがらと音を立てて崩れ落ちた。憤慨と羞恥のあまりユリウスは顔を真っ赤にして、
「なっなんだよ、悪いかよっ」
(ここで、不死人のできそこないが襲いかかってくる。ユリウスは避難誘導の手伝いをしに、ハーヴェイはキーリを助けに向かうことに。)
「ユリウス」
 その背中に声がかかった。振り返るとハーヴェイがまだ立ちどまってこっちを見ている。奇妙な顔でいったん足をとめるユリウスに、ぞんざいな口調で次の台詞が続く。
「俺は、お前のそういう、自分なんかが本気で惑星を救えるなんて思ってるところはほんとに笑えると思うけど」
「わ、悪かったなっ。そんなことで呼びとめるなっ」
 頬を紅潮させて怒鳴るユリウスに、相手はふいに笑みを見せた。「でも……そういうことを本気で信じられるお前は、素直にすげえと俺は思うよ」普段のにやりとした薄笑いよりもやわらかい笑い方。こういうふうにも笑えるのかと、意外な一面と意外な台詞にユリウスはぽかんとして口をつぐむ。
「頑張れ」
 エールを最後に、神官服の長身をひるがえした。一時その場に突っ立って見送るユリウスの視線の先、人々の混乱の中へと赤銅色の髪の後ろ姿が消えていく。
 頑張れ――。
 追いつきたいとずっと思っていた相手から言われたそんな言葉に、何故だか泣きたくなった。自分のほうがぼろぼろでふらふらのくせに、人にエールなんか贈ってる場合か。
「……お前も頑張れ」
 すでに相手に聞こえるはずもない。それでもきっと届くようにと願って呟き、ユリウスも反対方向へときびすを返して走りだした。
(第五話より引用)



やべ、引用してて目頭熱くなった(^^;
教会をどう思っていいのか分からないユリウス。
そんなユリウスにスポットライトが当てられているシーンです。
前半はユリウスの心の揺れがよく表されています。
後半は父子の対決、というものを思い起こさせますね。
越えたいと思っていた背中から、認められ、対等とみなしてもらえた。
しかし、みなしてもらったということがすでに対等ではなく、対等たるためにもと頑張ろうとしているユリウスの姿に心惹かれます。

「ベアトリクス」
 炭化銃を肩に堤げ走りだそうとしたところをもう一度呼ばれた。「ん。何?」立ちどまって気軽な口調で応じたが、こいつが略さないでちゃんと名前を呼ぶときは真面目な話をしようとしているときだとわかっている。
 次の台詞があるまで一拍の間があり、
「……みんなで帰ろう」
 体裁悪そうに視線を落として照れたような仏頂面で、そいつはそう言った。ぽかんとして瞬きしてから、ベアトリクスは内心でぷっと吹きだした。
 中身は何も変わっていないように見えて、やっぱりいつの間にか変わったのだなと実感する。前はこんなに素直に感情が表面に出てくる奴じゃなかったのに。百年近い年月の中のたったの数年。それでも、ずっと変化もなくだらだらと続いていたものが多少なりとも変わるくらいに自分たちにとっては密度の濃い出会いがあった、数年。
「当たり前よ。すぐに追いつく」
 片手を伸ばし、自分の頭よりも高い位置にある赤銅色の髪を軽く抱き寄せて。
「あんたはあんたで頑張るのよ」
 ずっと昔、幼い弟に言った台詞を。
 少女だった自分がうまく感情を伝えられずに突き放すように吐き捨ててしまった台詞を、今はやわらかくあたたかく言いなおすことができた。
 自分にとっても間違いなく変化があった、たったの数年。その数年に、後悔はない。
 再会を約束してきびすを返し、二人それぞれ別の方向へ走り出した。
(第五話より引用)



ベアトリクスとハーヴェイのやり取り。
ハーヴェイ大人になったよ、ほんとに。
そして、ベアトリクスも。
ベアトリクスにとってはこれが救いにもなっていて、ベアトリクスの過去の話とあわせるとグッときます。

 数十メートルの高さを腕一本でぶらさがった状態で、まるで他人ごとみたいにヨアヒムが引きつった薄笑いを作った。
「わっかんねえなあ、お前。ぜんぜん意味わかんねえよ。殺す殺す言っといてなんで助けるんだよ?」
「意味わかんねえのはお前だっ」
 渾身の力でヨアヒムの体重を支えながら怒鳴り返した。
「お前は何がしたかったんだよ、何が欲しかったんだよっ。俺のまわりうろちょろして邪魔ばっかりしやがって、それで今度は殺してくれってのはなんなんだよ、結局どうして欲しかったんだよ、俺にっ」
 考えないまま口から出ていた。こいつにこんな説教をするつもりなんて別になかった。なんで自分はこんな奴のために必死になっているのか。
 この道をたどってきてよかったと、後悔はないと確信することができた自分。それに対してこいつは何かに満たされたことがあるのか? よかったと思えたことが今までにあったのだろうか。つまんないことにいちいち反発して何もかも気に入らない顔して、結局こいつ自身は何を望んでいたのか――。同情とか救ってやりたいとか、そんなことを考えているわけじゃなくて、ただ理解できない苛立ちを半ばぶつけるように叫んでいた。道が交錯したり平行線をたどったりしながらも、それでも常にヨアヒムとは同じ距離を歩いてきたように思う。少しでもたどった道が違っていたら自分もこいつと同じになっていたかもしれない。こいつは別の道をたどったもう一人の自分だ。何も見つけられなかった自分だ。
 ヨアヒムの顔から人を馬鹿にした薄笑いが消えた。見飽きるほどに見慣れた青灰色の瞳でまっすぐこっちを見上げる。一度視線が交錯する。
 それから、溜め息混じりにそいつは言った。
「どこまで行っても呆れた馬鹿お人好しだな。だから大っ嫌いなんだ、お前なんか。何がしたかったって? 何が欲しかったかって? ……お前なんかに教えてやらねえよ。バーカ」
 相変わらずの憎まれ口を叩いて、そして。
 右手に持ったフォールディング・ナイフで、かろうじて体重を支えていた自分の左肘の腱をぶち切った。
(第五話より引用)



ハーヴェイとヨアヒム。
ハーヴェイの溢れる想いというか、激情というかが、ヨアヒムにぶつけられています。
そして、最後まで素直に――というか、ハーヴェイには弱味を見せまいとするヨアヒム。
この二人の道を分けたものはなんだったのか。
ハーヴェイは「この道をたどってきてよかったと、後悔はないと確信」しているわけです。
ヨアヒムは……このあとにヨアヒムの本音が出てきます。

 お前は何が欲しかったんだ――。
 欲しかったものなんて本当はどこにもなかった。結局自分でもわかっていない実体のないものを掴もうとしていただけなんだから、どこまで行ってもどこまで昇っても掴めないのは当たり前だった。
 ああ、でも今、少しわかった。……俺はあいつみたいになりたかったんだ。めちゃくちゃ馬鹿お人好しで優柔不断でどうしようもなくて、でもだからこそたぶんあいつは、俺が望んでも手に入れることができなかった何かをいつの間にかたくさん手に入れていた。
(あーそうだよ。羨ましかったんだ、ずっと……)
 スタートラインは同じだったはずなのに、何が俺とあいつの道を分けたんだろう。俺はどこで踏みはずしたんだろう。
 もし道を踏みはずさなかったとしたら、俺は――。
 欲しかったものの形がせっかく少し見えたのに……これで終わりだなんて、ちょっと残念だなと思う。長いだけでつまんない人生だったなあ。ま、いいか。こんな見も蓋もないくそつまらねえ最期っていうもの俺らしい。
 右手を掲げて空を掴もうとした。
 当たり前だが指の先すら空には届かず、
ころり。右手に持っていた自分の心臓が、手の中から滑り落ちて岩肌を転がっていった。
 赤銅色に染められた視界が次第に白くなっていく。そこには何もなくて、光も音も匂いもなくて、孤独も絶望も苦しみも悲しみも喜びすらなくて。
 世界の終わりには本当に何もなくて。
 そこは本当に本当にまっさらな虚無だった。
(第五話より引用)



勢いで最後まで引用してしまった(^^;
結局、人のものが欲しかっただけ。
これがヨアヒムなんですね。
人の持っているものは羨ましく、手に入れたいと思う。けれど、手に入れてしまえばそれは欲しがっていたものではなくなってしまい、永遠に満たされない欲求のみが残る。
きっと、ちょっと気をつけていればヨアヒムもたくさんのものを手に入れていたのでしょうけれど、他人のものばかりが気になってしまい、自分が手に入れていたであろうものの大切さに気がつけず、どんどん手放していってしまっていたのでしょう。
果たして、ヨアヒムにとってこの「最期」は救いであったのか、どうなのか…

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Zは時代に殺された。

2005-10-31 08:18:00 | Review...
『ZガンダムⅡ 恋人たち』を見て。

正直、前々から期待していたこともあってか、限りなく絶望した。
それはもう、怒りを覚えるくらいに。
なぜか。
それは、主人公たちの心があまりに薄っぺらで、そこにあるのはただの「ポーズ」、表面的な身の振り方のみで、実(じつ)のこもっていない、スカスカの恋愛が描かれているだけ。
これは作品自体においても言え、確かに映像的には見るものがあるのだけれど、中の構造を見てみれば何の実もなく、ただ虚があるのみ。一年戦争のパロディ的な描画の部分も、たしかにファンにとってはうれしいものではあるのだけれど、その描画自身に意味を与えることには失敗しいる感じが強く、ただ空しいだけで、むしろオリジナルの描画をバカにしている感があり、逆に腹立たしいくらいだった。

『ZガンダムⅡ』を一言で言ってしまえば、次のような映画だ:
「一年戦争を見た若者たちが、それに憧れて“表面的に”マネているだけの姿を描いた映画」
気をつけなければならないのは、上の「若者」というのは映画スタッフの事を指しているのではなく、「映画に登場してくる人物たち」を指している、ということだ。
言ってしまえば、ZガンダムⅡの登場人物たちは、その映画の中で、「他の誰か」――自分にとっての憧れの「誰か」――を演じようとしているだけの、空虚なキャラクターでしかない!



『Zガンダム 星を継ぐ者』を見たときにもレビューを書こうと思っていたのだけれど、なんだかんだで書かずに着てしまったので、以下にどんなことを書こうと思っていたのかを軽く書いておこうと思う。

『Zガンダム』において描かれていた構造は、腐敗した大人の社会による子供たちの憤慨と、それに立ち向かった子供たち、というものだ。
(後で書きます)



ここで改めて『ガンダム』(1年戦争)の構造と対比してみると、面白いことが見えてくる。
すなわち、ガンダムにおける「思想の『現れ方』」(※思想自体ではなく、その思想がどういうレベルで、強調のされ方)がどのように変化してきたのかを考えてみると、(ちゃんと年表を調べたわけではないけれど)日本における若者の姿がどう変わってきたのかというのとほぼ同じ構造が得られる、ということだ。
(書き途中だけど、時代性と文化の関係、というエントリで述べた構造からすれば、これは何の不思議なことでもない)



さて、そうした上でもう一度『ZガンダムⅡ』の構造を見て欲しい。
実はこれは、当時の(そして今に続く)若者における構造と同等のものであることが分かる。
(後で書きます。)

結局、『ZガンダムⅡ』は、当時の時代性によってもはや『ガンダム』と呼べるものではなくなってしまった。
Zは時代に殺された、そういっても過言ではないだろう。

(書き途中で、ガンダムの構造における興味深い例もあとで加えていくつもりです。

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『スターウォーズ エピソード3 ~シスの復讐~』。

2005-07-19 20:48:00 | Review...
『スターウォーズ エピソード3 ~シスの復讐~』を見てきた。

『心に少年少女の輝きを』のkagamiさんがレビューを書いていて、面白そうなので見てきました。

んで、感想です。
時間がないのでざっと書きます。

う~ん、なんともなぁ、という感じです。
小説版を読んでいないからか、正直kagamiさんのような、ジェダイ=理性的(悪く言えば教条的)、シス=人間的、という感想は抱かなかったですねぇ。
どちらかというと、ジャダイ=道教的、シス=ルサンチマン、という感じが強かったと思います。
パルパティーンもなんというか、そんなにアナキン思いには思えない。
パルパティーンにしろ、アナキンにしろ、「自分が」「自分が」という我の強さばかりが目立っていて、それゆえにこの悲劇が起きたとしか思えないんですよねぇ。
アナキン、なんというか、この悲劇の原因を絶対自分には認めないですよね。そこにあるのは逆恨みのみ。

ちょこっと思ったことに、アナキンの姿は3段の変化をそのまま表しているんじゃないのかなぁ、ということ。
最初は、教条的なジェダイにただ従う姿。(駱駝)
次に、そういったジェダイ・秩序を破壊していき、自らも傷つく姿。(獅子)
そして、最後はそういったのを超えて、自分の思うままに動く姿。(幼子)
(んー、最後が怪しい(^^;

まぁ、内容はおいといて。
やはり今回の作品の一番の見所は「映像」でしょうねぇ。
もう、ステキの一言。
スピード感あふれるアクション(ライトセーバーのちゃんばらシーン)や、その背景のマグマの様子とか、なんか凄かったです。
宇宙船もスマートな感じではなく、ゴツゴツした感じがあって、むしろこっちの方がかっこいいなぁ、と思いました。
それと、一番最後の夕日が美しかった…
あんな夕日を、一度でいいから見てみたいものだなぁ、と思いましたね。

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『飾られた記号』の読み方。

2005-06-19 00:56:00 | Review...
前回予告したとおり、『飾られた記号』に出てくる、作者いわく「雰囲気作り」の文章の解説。
当然ながら、前回の比較にならないほどのネタバレがあるのでご注意を。

問題の条件

以上のような思考を辿れば、人間の意志が世界を構築し、また満たしていると結論づけることがあながち的外れでないことが分かる。というのも、両者が主観性において互いを了解しているのであれば、その明証性は物体全般に適用可能であり、したがって意思を持たない器物、あるいは意志をもっているとしてもその証明が遥かに困難であるところの生物に関しても同様の帰結を導く論理上の可能性を考慮できるからだ。



これはおそらく、情報場に関する論文からの引用、という設定に思われます。
人間同士なら、お互いが他人を「自分の主観」によって捕らえていることを認めるわけです。
それならば、人間と物、あるいは物と物だって、そこに「意志」や「意思」があるかは別として、何らかの主観性――自己に内在し、他者によって影響を受け、自己を決定するもの――によって他者を捕らえているのではないか、という論理ですね。
そして、それこそが情報場なわけです。

具体的に電気の話をしてみれば、電荷によって電場は作られます。どのような電場が作られるのかはその電荷自身の性質によるものです。(内在性)
そして、他の電荷によって作られる電場によって影響を受けます。(影響性)
そして、その影響の受け方は電荷自身に依りますし、逆に言えばその影響の受け方で電荷自身の様子を知ることが出来ます。(決定性)
(※上の述語は自分が作ったテキトーなものです。あしからず。)

電荷はただプラスとマイナスがあるだけのスカラーですが、これが物体という多次元のベクトルであると考えれば、そのベクトルによって作られるベクトル場こそ情報場と言えるでしょう。
これは、あとで本文中に出てくる情報場の説明と一致します。



そのあとの文章。

これは数学的に厳密に議論することが可能ですが、定義が曖昧のでスルーの方向で。(無限の濃度の話や測度、位相の話をする必要があります。)
この文章の中で面白いのは、次の部分。

存在が、消滅や喪失の前提なら、
不在は、実現や発展の基礎になる。



これ、微妙に間違ってますが、意図するところは面白いと思います。すなわち、不在=実現や発展するための余裕がなければ、実現や発展は不可能、っていうわけです。成長の限界、ではないですが、世界が無限でない以上やはり発展には限りが出てきますよねぇ。
ちなみになぜ間違いかというと、この文前半の形は「存在する⇒消滅や喪失」と表せますが、「消滅や喪失⇒存在する」(消滅や喪失をするならば、存在していなければならない)というのが正しく(これは対偶を調べれば明らかです。すなわち、「消滅や喪失をしないならば、存在しない」とは言えませんが、「存在しないならば、消滅や喪失をすることもない」というのは正しいわけです。)、これを正確に表現すれば、「存在が、消滅や喪失に必要なら」(あるいは、「存在が、消滅や喪失の必要条件なら、」)となるからです。もちろん、作者もそのつもりで書いたのでしょうが、ここらへんを正確に表現するのは難しいですからねぇ。



問一
仮想から現実への展開実例とそれに伴う必要条件――MRの可能性における論理的問題の考察

MRが何なのかが本文中に言及がないような…
必要条件、という言葉が分かりにくいと思いますが、論理学通り解釈するのであれば、仮想から現実への展開が行われたときに(=空想の世界のものが現実へ実現したとするときに)、必然的に起こるものが何なのか、ということ。
ミステリーというと前提条件はあくまで現実世界になるわけだけれども、さらに公理系を付け加えた空間において(つまり、情報場という設定を付け加えた世界において)、どのような犯罪が可能になるのか、ということでしょうか?
となれば、問一というか、この作品自体の書かれた目的(の一つ)、と考えることも出来るでしょう。

七つの橋の問題は、不可能性を論じるにおいて確かに数学的な証明を必要とする。他方、ゼノンのパラドクスに関しては、我々がありありとした日常を生きる上でのいわゆる常識、換言すれば<反省>を以って矛盾を解くことができる。重要なのは、前者の証明は後者の証明の、その過程そして動機を基盤とするところである。



これは本文中で後に語られた客観性と主観性に関わる問題のことです。

まず、七つの橋の問題、ゼノンのパラドックスというものが何なのか、というのがありますが、前者は「ケーニヒスベルクの問題」、後者は「アキレスと亀の問題」を指していると思われます。
この2つは、厳密な話をすればどちらも数学で証明する必要があるのですが、著者の意向では、前者は直感では証明不可能で、数学での証明があって初めて納得されうるもの、後者は数学の証明がなくても直感的に間違っていることが分かるもの、と見なされているようです。

すなわち、引用した部分の“重要なのは~”以降は次のように読み替えることができます。
「数学による証明は(=客観性による証明は)、直感的な証明(=主観的な証明)の過程、動機を基にしている」

実際、抽象化された議論というものは、日常で直感的に正しいと見なされるような推論から、特に正しいと思われる推論を無条件に「正しい」(すなわち、公理である)と認めてまとめられた論理体系を元に行われますし(つまり、日常で行われる推論が抽象的な議論における推論の基になっている)、どうやって証明していくかという点についても、直感的に進めていく推論を、論理体系に反することなく記号運用してその直感的な推論を抽象的な推論に書き直していく、というふうになっています(つまり、どうやって証明していこうか、という方針(=動機)は、直感を基にしている)。

なので、そもそも直感による推論があって、けれどそれは間違いを含むことも多々あるので、そこから常に正しいと認めうるものを公理として認めることで作られたものが客観的な推論、となります。
その意味で、客観性というのは主観性を基にしているわけですが、本文中にもあるとおり、ついつい客観性というものは主観性とは別にそもそも存在するものとして見られ、そして主観性よりも重視されることが多くなるわけです。

「……古来、人間は絶対を求めてきた。原始の時代では自然そのものが、中世では神に代表される超越者がそれを代行した。やがて神が死に、数学と物理学がこれに取って代わった。それは人々に安心を与える武器であると同時に、後世、特に二十世紀末から現代に至るまでの呪いの始まりだった。
 数学の絶対性。これは疑うべくもない。だから数式によって記述される物理学の真理性も、非常に強いものになった。
 それは、客観の権威を増大させることに繋がった。主観的な視点は排斥され、あるいは軽んじられた。」
(『飾られた記号』問三、日阪のセリフより、一部省略)




長くなったので、続きは別エントリで書きます。

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『飾られた記号』。

2005-06-16 10:02:00 | Review...
『飾られた記号』を読んで。
(ネタバレを含みますよー)

んー、ネットでも酷評されているようですが、自分はミステリー云々は詳しくないのでそこは置いておいて、気になった点をいくつか。

まず、文体。
あとがきでも言及されている森博嗣という人の作品を読んだことがないのでよく分からないんだけれど、ネットでの評判いわく、表面を真似ているだけだ、と。
別に、この点についてはどうでもいいと思うわけで。
文を短く切って進めていくのは(よいか悪いかは別として)ラノベではよくある手法だし、それ自体は別に非難されるものでもないわけで。(けど、『しにがみのバラッド。』のハセガワケイスケ氏にはそろそろこの文体を卒業して欲しい…この形は読むテンポを読者に「強制的に」変えさせるので、「ここからは今までとはちょっと違った展開、雰囲気になってるんだよー」というのを伝えるには便利なんだけれど、その変化が急激な分、気持ち悪く感じる。わざわざこの表現を使わなくても、文章をしっかり書きさえすればこれらはちゃんと伝えられるわけで。もちろん、プロローグみたいなのでこの形を使うのは、雰囲気を出すという意味で有効なんだけど)

ただ、一人称の、というか、文章の性別が、はっきり「男」なんですよ。こちらが限りなく重症。
文章って不思議なもので、男性が書いたものと女性が書いたものとで雰囲気に微妙な差が出るものなんですよね。
問一の頭の部分を読んでいて、主人公は男なのかなぁ、と思ってしまったほどです。
しばらくして、一人称「わたし」が出てきて、あれ…?、となり、さらにちょっとして会話の部分が出てきてはじめて、あ、主人公は女の子だったんだ、と気がついたわけで。
会話の部分は別にしても、どうにも地の文が男っぽいんですよねぇ。(まぁ、作者が男だからしょうがないのかもしれませんが)
だったらせめて、一人称の文でなく三人称の文で書いたほうがまだ自然なんだけれどなぁ。この人が三人称の文を書けるかどうかは、また別の話ですが。

それと、あとがきの文体が限りなくいただけない。
自分もこの文体に近いわけですが、(←ですます調とである調の混在系ですね。)なんというか、ブチッと切ってしまっている、という印象が強く、すっごく文が下手に見えます。
んー、全体的に流麗さが足りないのかもしれない。

話は変わって。
ミステリーの部分は、正直どうなんだろう、という感じです。
そもそも、謎解きしてないしね
これ、犯人の自白じゃん。ついでに言えば、自白しなければたとえ使ったトリックが判明しても犯人が一人に絞れないから、捕まらないし。
それに、論理的に考えれば、そのトリックを使ったんだ、という証拠がない以上、矛盾は起きなくてもそのトリックはあくまで十分条件であり、必要条件ではない、となるわけです。(よく探偵物で追い詰められた犯人が「証拠は?確かにその方法なら殺人は可能かもしれないけれど、その方法を使ったっていう証拠がないのなら他の人が他の方法で殺したという可能性だってあるわけでしょ?」と逆ギレするやつですね)

にしても、あとがきで「作中に数学用語を多用したのは、例外なく雰囲気作りのため」とカミングアウトしているわけだけれど、これもなぁ(^^;
正直、文章を男っぽくしてしまっているだけで、雰囲気を作るのにうまく使えているかというと、限りなく微妙。
そもそも、雰囲気っていうのはそういった小道具によってではなく、文章自体によって作られるんじゃないかなぁ、と思うわけです。(例えば菊池秀行とか壁井ユカコとかはそうですよね。文章自体が雰囲気を醸し出してる。

各章のタイトルや冒頭の文も「雰囲気作り」となっているけれど、これはちょっと怪しい。
というのもしっかりと読めば意味が取れるうえ、実は本編の内容とも繋がっているところがあり、作者としては雰囲気作り以上のものをこれらの文には持たせようとしていたのではないかなぁ、と思えるからです。
それらの説明・考察は長くなりそうなので、情報場の説明・考察と共に、次のエントリで書きたいと思います。
(書き途中のエントリが溜まってるなぁ…

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