山崎元の「会社と社会の歩き方」

獨協大学経済学部特任教授の山崎元です。このブログは私が担当する「会社と社会の歩き方」の資料と補足を提供します。

【6月17日】金融業の付加価値の源泉について

2010-06-16 15:53:19 | 講義資料
 今回は、金融業の付加価値の源泉について考えてみよう。
 以下の文章は私(山崎元)が「現代ビジネス」に寄稿した原稿で、日本振興銀行と木村剛氏について書いたものだ。
(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/712)
 今回のテーマに関係があるのは、文中の半ばくらいにある、振興銀行のビジネス・モデルに関する考察の部分だが、「金融業の付加価値はどこから出てくるのか」、「金融業の競争力とは何か」ということを考えながら読んで欲しい。

 その後、以下の点について考えよう。
(1)「ミドルリスク、ミドルリターン」のビジネスモデルが難しいのは、なぜか。たとえば、ハイリスク、ハイリターンの消費者金融と較べて、どこが難しいのか?
(2)日本人は、なぜ低金利でも預金を好むのか?
(3)振興銀行はどうして上手く行かなかったのか?

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●秀才と街金。木村剛氏に金貸しはできるのか?

 日本振興銀行に警視庁の家宅捜索が入り、先に会長を辞任した木村剛氏にも任意の事情聴取があったと報じられている。目下の嫌疑は検査妨害で、重要案件に関わる社内メールの大量削除などがあったらしい。メールの削除があったことについては、西野社長が認めている。但し、木村氏は今のところこの件への関与を否定しているという。
 振興銀行への金融庁検査は、異例の長期間にわたって続いていた。加えて、先の決算は51億円の赤字で、これはSFCGによる債権の二重譲渡問題の影響を含まない業績だ。ビジネス的には傍目からも変調と見える状況だった。木村氏は、先般、この決算の責任を取る形で会長を辞任した。
 加えて、報道を見る限り、出資法違反の疑いが濃い。SFCGから買い取った債権を一ヶ月後にSFCGに買い戻させる実質的に融資になる取引で、この際の手数料は経済的には金利に外ならない。手数料を利回りに換算すると年利45.7%にもなり、出資法の上限金利29.2%を上回っているとされる問題だ。当時会長で行内随一の権力者だったはずの木村氏が、こうした重要案件について認識していなかったとは想像しにくい。
 これらの問題がどの程度の拡がりを見せるか、現時点では分からないが、振興銀行は、木村氏にとって一つの「挫折」であったように思える。

 筆者が木村氏に最初に会ったのは、村上龍氏が主宰するメールマガジン「JMM」(Japan Mail Media; http://ryumurakami.jmm.co.jp/)の座談会の席上だった。当時、木村氏は、竹中経済財政担当大臣のブレーンとして、不良債権処理のアドバイスで活躍していた。座談会でも弁舌爽やかで、終了後に村上龍編集長も感心していた。
「木村さんという人は、最終的に、ご本人としては何をやりたいのでしょうか。政治家になろうとしているのかな。そうでもないのかな?」と仰っていたのが、記憶に残っている。以後、「木村剛(氏)は、何をしたいのか?」という問いが、筆者の頭の中にずっと引っ掛かっている。

 木村氏は、その後「竹中プラン」の中心人物の一人として日本の銀行の不良債権問題に当たり、金融庁の顧問も務めた。同時に、精力的に著作を発表し、自身のコンサルティング会社も業容を拡大して行った(業績が本当に順調であったのかどうかは分からないが、活動は多岐にわたっていた)。
 この頃、筆者が、確か二度目か三度目に木村氏にお会いした時に、「いいですか、ヤマザキさん、日本には評論家はもういらないのです。必要なのは実践家だ」と仰っていたのを記憶している。
「論を正しく論じるなら、評論家にも『一人前』程度の存在意義はあるのではないか」と反論したいのをぐっと堪えつつ、弁も筆も立つ論客であった木村氏が、評論家を捨ててこれから何をしたいのか、筆者は注目していた。

 木村氏の次の一手は、日本振興銀行の設立だった。中小企業向けの融資を中心に行い、日本経済を底上げしたいと語った、あの時が彼のこれまでのキャリアの中で絶頂期だったのではないか。
 低利で安全な大企業にだけ貸すような「ローリスク、ローリターン」でもなく、街金(まちきん)のようなもの高利貸しでもない、「ミドルリスク・ミドルリターン」のビジネスモデルを追求する、という当時の木村氏の説明は理路整然としていた。金融機関の「貸し渋り・貸し剥がし」が社会問題化している中で、颯爽としたチャレンジだった。

 ただ、当時から、日本振興銀行のビジネス・モデルに対しては、筆者も含めて、幾ばくかの疑問を抱いていた人もいた。
 借り手に(貸し手から見て)ローリスクな借り手とハイリスクな借り手がいて、その中間のミドルリスクの借り手が存在するはずだということは分かる。このミドルリスクの借り手に対して適切な金利のプライシングを行えば儲かるのではないか。また、ミドルリスクの案件を多数こなして分散融資すると、全体としてリスクを落とすことが出来るのではないか、ということも理屈上は納得できる。
 しかし、「理屈上は、こんなに上手く行きそうなのに、それでは、どうして既存の銀行がこの分野を手掛けないのか?」という疑問が湧く。まして、日本の銀行は過去少なくとも20年、貸し先の開拓に苦しんで、有価証券運用を積み上げてきた。「ミドルリスク、ミドルリターン」のビジネスモデルが上手く行くなら、彼らが手掛けていても良さそうなものではないか。
 スタート時からそんな疑問があったのだが、自信満々の木村氏なら何とかするのだろうと、他方で期待もしていた。

 しかし、結局のところ、ミドルリスクの借り手を正確に評価することと、ミドルリスクと見える相手と適切な契約を行うことは、情報に不完全性がある現実の世界では極めて難しかった。たぶん、与信判断としては、このゾーンが最も難しい。
 相対的に上質の借り手は少しでも低利で借りようとする。そして、「ミドルリスクだが優秀な借り手」だと明らかに分かる場合は、既存の金融機関もこの貸し先に貸したいだろうから競争が発生する。加えて、本来ハイリスクの借り手がミドルリスクの顔をして紛れ込んでくる。これらを見分けることは簡単ではない。まさに、金融業の総合力を問われる種類の判断だ。
 既存の金融機関だって、何も考えていないわけではない。リスクとリターンから判断して間尺に合う借り手を懸命に探しているが、これが見つからないというのが現実だ。
 結局、振興銀行の方が、彼らよりも情報が豊富であるか、審査力があるといえる根拠がなければ、彼らのビジネスモデルは成立しない。新興勢力でもあり、情報の蓄積も乏しいはずの振興銀行で、この分野の勝負に乗り出すことは無謀だったのではないか。
 「中小企業向けの『少し高利』の融資」が上手く行かないのは、一足先に行き詰まった新銀行東京の例を見ても分かる。日本郵政の資金運用を論ずる際にも、「中小企業向けの融資」という言葉が出て来やすいが、これは非現実的な暴論だということが分かる。

 結局、振興銀行は、きれいなビジネスモデルでは勝負にならなかったのだろう。収益を挙げるために、貸金業者の債権を買い取ったり、あるいは振興銀行が影響力を行使できる企業のネットワークを作り、これを利用して実質的に高利の貸金業を行ったりする、実質的には「ハイリスク、ハイリターン」の街金・高利貸し的なビジネスモデルに移行せざるを得なかったのではないか。
 しかし、切った張ったのハイリスク金融道に、制度に通じているとはいえ、元秀才の木村剛氏は不向きだったように思われる。

 振興銀行に関しては、設立当初から、次のような指摘もあった。
 振興銀行は銀行免許を持って預金を受け入れる銀行なので、この銀行の預金も当然預金保険の対象になる。従って、預金者から見ると1千万円までの預金の元本と利息の両方が保護の対象になるので、お金は集まるだろう。あとは、これをリスクの高い分野に投入して、儲かれば良し、失敗したら預金保険で預金者に弁済するという「究極のモラルハザード銀行」が可能だというものだ。
 預金保険付で1千万円までノーリスクなら、少し高い金利を付けたらお金は集まるはずだ、という目の付け所は制度に通じた木村氏らしい。振興銀行の定期預金金利は、1年物0.6%、10年物2.0%(「振興ダイレクト」6月7日現在。何れも税引き前)と高めに設定されている。事実、振興銀行には、預金はそこそこに集まっており、21年度末には5927億円の残高があった。この辺りには、市場メカニズムが確かに働いている。
 尚、制度としての預金保険が、本来銀行のリスク水準を反映して決まるべき金利の部分まで含んで元本と共に保証することは不適切なのではないだろうか。元本のみの保証とするか、最低レベルの金利の保証とすべきだろう。
 木村氏が、メインシナリオとして運用(貸し出し)失敗を描くとは思えなかったから、設立当初に「モラルハザード銀行を作ろう」と考えていたとは思わないが、スタート時から毀誉褒貶のあるビジネス・プランであった。

 振興銀行は、スタートして間もなく、創業メンバーの一人で当初は社長に就任する予定だった落合伸治氏と木村剛氏がいわば仲間割れし、結局、落合氏の持ち株を木村氏側が買い取って、落合氏を振興銀行の経営から排除することで決着したトラブルがあった。この際に、木村氏の親族名義の会社に対して振興銀行が行った融資が不適切だったのではないかという疑義が持ち上がったこともあった。
 実は、筆者は木村氏と落合氏が揉めている時期に、あるパーティーで落合氏に会ったことがある。
 この時、筆者は落合氏に振興銀行について訊いてみた。
「木村さんのやり方で、振興銀行は儲かりますか?」と筆者が訊くと、落合氏は、「木村さんのような、あんな、銀行員みたいなことをやっていても儲かるわけないでしょう」と腹の底から笑って答えた。「では、落合さんが経営する儲かりますか?」と訊くと、「ええ、儲かります。それなりのやり方をしなければなりませんが、私がやれば儲かりますよ」ときっぱり答えた。正確なやりとりについては覚えていないが、「それなりのやり方」とは、当時の街の金融業者のような、厳しい条件での融資と取り立てを行うことのようであった。
 この時に、落合氏が木村氏のビジネス・プランを心底から嗤っていたことと、落合氏の醸し出す「一種の迫力」から、「ああ、木村氏は、彼には手に負えない世界に手を出してしまったのだな」と思ったこととが、今も記憶に残っている。
 木村氏、落合氏の何れかに対して、悪いとかレベルが低いとか言いたいわけではない。彼らが別世界の住人であることが、実感として分かったのだ。

 論者としての木村剛氏は、登場当初の「金融行政に通じたキレ者で政策立案者」から「中小企業のオヤジの浪花節も分かる経営のカリスマ」に、いつの間にか立ち位置を移してきた。彼が、今、最も大切にしている支持層は、中小企業の経営者たちであるようだ。これは、彼なりに考えたマーケティング上の戦略だろう。著作では、自らも経営者として苦労していることを強調する。
 前述のように、木村氏は弁も筆も立つ。講演は、緩急が巧みで聴衆を飽きさせない。文筆家としても多産で、単行本をゴーストライターを使わずにどんどん自力で書ける。近年では「コンプライアンス不況」といった適切な言葉を捻り出すような造語能力もある。また、早くから始めていたブログや、彼が立ち上げた雑誌「フィナンシャル・ジャパン」の誌面を見ると、編集的な才能も持っているように思える。
 加えて、自分よりも年上の有力者に支持して貰う術を心得ている「爺殺し」の技の持ち主でもある。彼のバックアップをしてきたのは、たとえば小泉純一郎元首相や竹中平蔵元経財相、福井俊彦前日銀総裁といった面々で、これらの人々の他にも、「木村君のためなら、一肌脱ごう」という有力者が何人も居た。
 個人としての木村氏が、豊かな才能と可能性を持っていることは間違いない。

 木村氏は、それこそ、政治家にでもなれば良かったのかも知れないが、実践の場としてビジネスを選んだ。
 筆者は、ここ数年、木村氏と年に二、三回会っていた。雑誌やテレビ番組の対談ということもあれば、木村氏の主宰する「フィナンシャル・クラブ」等が主催するセミナーの講師を頼まれて、その際に会うこともあった。今年に入ってからは、一度振興銀行の顧客に向けた講演を頼まれたことがある。
 会う度に木村氏は、筆者に対して、
「ヤマザキさん、今、何をやりたいと思っているのですか。株式会社マイベンチマークは順調に発展していますか?」(注;株式会社マイベンチマークとは筆者が経営する小さな会社。投資教育のコンサルティング等を業とする)と質問する。「大事なのは、ビジネスなのですよ」と念押しするかのようなニュアンスを感じた。
 彼にとっては、ビジネスこそが実践であり、ビジネスで成功することが持論の正しさを証明することだと考えているようだった。振興銀行は、木村氏にとって、必ず合格点を取らなければならないテストのようなものだったのではないか。そこで「成功して見せる」ことが是が非でも必要で、そのための無理を重ねた結果が、今回の問題につながったような気がするのだが、どうだろうか。
 ただでさえ難しいビジネスに挑むのに、「失敗したらやり直せばいい」という気楽さではなく、「絶対に失敗できない」とばかりに自らを追い込むのでは厳しい。
 それにしても、金融の世界には深い闇がある。たとえば、出資法違反に関する報道が事実だとすれば、金融検査に通じた理論派の木村氏が、法人向けの貸金業者であったあのSFCGを相手に、高利のお金を貸し付けて、違反行為に走った事になる。常識的には想像しにくい事であり、お金がお金を生む世界の魔力というしかない。

 今回の件の捜査の結果がどうなるは、筆者には未だ分からない。しかし、白と出るにせよ黒と出るにせよ、木村氏には、振興銀行でこれまでにやってきた事の総括的説明を求めたい。「再チャレンジ」はそれからだ。
 もちろん、木村氏にも法的な防御権があるし、ビジネス上秘密にしておきたい事柄もあるだろうが、最大限に率直にありのままを公開して欲しい。かつて不良債権問題の処理にあたった木村氏であれば、オープンに説明できないビジネスやそれに関わる債権が「ろくなものではない」ことをよくご存知だろう。今後の金融業界の浄化のためにも、何が問題だったのか、行政の不備も含めて総括して欲しい。振興銀行は、金融ビジネスを考える上では貴重な実験だったし、失敗の実験からも学べる点は多々あるはずだ。
 振興銀行に関する総括を済ませた後であれば、多才な木村氏には、今後いくらでも再起の機会があるだろう。「キムラさん、次は何がしたいのですか?」という質問は、その時まで取っておこう。

 以上
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【6月17日】転職の理由と目的

2010-06-16 06:01:36 | 講義資料
 以下の文章は、私(山崎元)がリクルート・エージェント社のサイトに書いたもので、転職の理由について説明したものだ。
(「転職原論」第5回。http://www.r-agent.co.jp/guide/genron/genron_05.html)
 
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★転職に「攻め」も「逃げ」もない

転職の理由は何でもいい。本人の心の中にごまかしが無ければ、本当に何でも構わない。

しかし、世間を見渡すと、若者の転職にケチを付ける大人の言動が少なくない。たとえば、「攻めの転職はいいけれども、逃げの転職は良くない」などという、分かった風な言い草だ。転職に慣れていない人は不安もあるし、現在の職場を離れることに対して後ろめたい気分を持つことがあるので、自分がしようとしている転職は「逃げ」なのではないか、などと気に病む場合がある。

しかし、転職自体は自分の取引相手となる会社を変えるだけのことであり、何らやましいことではない。

「逃げはいけない」と言っている人は、やりかけの仕事から離れることがよくないと言っていたり、嫌な環境を克服できないことがよくないと言っていたりするようだ。そして、もう少し現在の職場で時間を使えば「逃げ」が必ずしも「逃げ」ではなくなる、というようなことを言う。

だが、基本的に仕事に責任を負っているのは会社の代表者や上司の側であり、彼らの要求を無限に聞く必要はないし、それを聞かないことを「逃げ」呼ばわりされるいわれはない。また、職場との相性は誰にでもある。転職でこれを改善しようとするのは普通のことだ。

そして、もっと大切なことは、時間は無限ではないし、チャンスには限りがあることだ。「よりよい職場」があるなら大体は早く移る方がいいし、転職のチャンスがいつでもあるとは限らない。説教好きの大人は、しばしば若者の持つ時間の価値に対して鈍感だ。無意識のうちに、若者が持っている時間に嫉妬しているのかも知れない。

★人間関係が理由で辞めても構わない

転職の「実質的な理由」でたぶん一番多いのは、職場の人間関係だろう。世間の転職の半分以上が、そうではないだろうか。上司との関係で悩む人も多いし、同僚との人間関係がしっくりいかないという人もいる。人間同士が集まって仕事をしている以上、これは仕方がない。自分が他人に対してそうならないという保証はないが、「嫌な人」「苦手な人」というのは、どこにでもいるものだし、これが我慢できないこともある。不必要な我慢はしなくていいし、不可能な我慢は不必要な我慢である。

ただ、転職の「実質的な理由」と書いたように、対外的な説明では、必ずしも人間関係の困難を、転職したい主な理由として述べる必要はない。最初に転職を考えたきっかけが人間関係だとしても、具体的な転職を決めるときには「こちらよりも、こちらがいいと思ったから」という理由があるはずだ。もっとも、この場合でも、転職を決意した理由の一部として人間関係を挙げることは何ら悪いことではない。

経営学者の故P・F・ドラッカー氏は組織を辞めることが正しい時として「組織が腐っているとき、自分がところを得ていないとき、あるいは成果が認められないとき」を挙げている。人間関係が上手く行かないと感じているときの多くは、これら三つの何れかに該当するのではないだろうか。

★転職の三つの理由

筆者の転職にも、特に若い頃には、職場の人間関係がきっかけだった場合が何回かある。しかし、もう少し距離を取って個々の転職の意味を考えると、自分の転職には次の三通りの「意味」あるいは「目的」があった。

若い頃の転職で多かったのは、「仕事を学ぶ」ための転職だった。最初の転職は、ファンドマネジャーの仕事を覚えるための転職だったし、その後二回の転職も目的は、もっと自分の仕事のスキルのレベルを上げられる職場に移ることだった。

外資系の会社に移る頃からの転職の典型的な理由は「機会を得る」ということだった。経済的な条件も考慮しないわけではなかったが、主な目的は、よりよい仕事の環境を得ることだった。尚、この段階に入ってからも、よりよい仕事を覚えることに主目的のある転職が二回ほど混じっている。

最近二回の転職は40歳代になってからのものだが、これらの目的は「ライフスタイルの実現」であった。会社の仕事と自分の仕事を並行して行う形を作り、また、自分の名前で自由に意見を発表できるような仕事の条件をつくることが、転職の目的だった。自分が働きたい形で働けるようにということもあるし、将来への準備を早めに始めるという意味もある。

読者がしようとしている転職も、「仕事を学ぶ」・「機会を得る」・「ライフスタイルの実現」の何れかの意味があるのではないだろうか。
「前」と「後」を冷静に比較して決める

転職の理由は場合によっていろいろだが、他人の言葉や評価を気にする必要はない。但し、転職を決めるにあたっては、現在の職場よりも、これから移ろうとする職場を冷静に偏り無く評価して、後者の方が総合的に「良い(のではないか)」という明確な理由が必要だ。

「偏り無く」というのは現実には難しいが、一般論としては、人は、これから手に入れるものよりも、現在手に入れているものの価値を過大に評価しがちなので、この点に注意すべきかも知れない。これは、全く同等と思える場合は、新しい会社の方がいいという意味だ。

何れにせよ、転職に明確な理由があれば、それを他人にも堂々と説明できる。この点は精神衛生上大変重要だ。
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以上

【6月17日】12回の転職の中で大きかった3回の転職

2010-06-16 05:55:55 | 講義資料
 以下の記事は、5年ほど前に『読売新聞』に載ったもので、私(山崎元)の転職にあって、大きな意味があったと本人が思う3回の転職について説明している。上下二回に分かれていて、読売オンラインで読むことが出来る。

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12回の転職の中で大きかった3回の転職(上) 山崎 元さん

 決して自慢になる話ではないが、筆者はこれまでに12回の転職を経験した。多くの転職を重ねたことを、決して恥じてはいないのだが、「想定の範囲外」であったことは認めざるを得ないし、転職に伴ってかかった有形無形のコストも小さくなかった。

 ちなみに、「コスト」というのは、たとえば、転職の時期によって貰えるはずのボーナスを満額貰い損なったり(合計6回ある)、退職金や年金で損をしていたり、新しい職場に適応するために手間が掛かったり、といったことだ。少なくとも経済的な損得からいえば、転職すること自体は得ではないから、覚悟されたい。しかし、幸い、筆者の場合はそれ以上に自分の仕事の内容や環境を自分で選択できたことのメリットが大きかった。

 さて、12回の転職は、後から振り返ってみると、自分にとって全てが等価であったわけではない。今回は、自分の職業人としてのライフスタイルの選択に大きく関わっているという意味で、自分にとって大きな意味を持っていた三つの転職について少し詳しく触れてみよう。
(1) 最初の転職(三菱商事→野村投信)

 最初の会社に就職する時から「十年も経てば世の中が変わっているだろうから、その時にまた考え直そう」というくらいの気持ちではあったのだが、4年目の時点で、世間的には「いい会社」といわれることの多い会社を辞めるにあたっては、かなり考えた。かれこれ1年以上かけて行き先を探していたのではあったが、現実に転職先が見つかってみると、「日本にあって、最初に勤めた会社を辞めても大丈夫なものだろうか」という事について、理屈では「大丈夫だろう」と思っていても、実感がないので自信が持てなかったのだ。

 結局、〈1〉仮に多少損になることはあっても、〈2〉心身共に元気で且つ人並みの勤労意欲があれば、〈3〉食うには困らないだろう、と最悪の事態について見当を付けることによって、自分の選択を肯定した。

 実際にやってみてどうだったのか、といえば、まだ大きな企業からの転職が珍しかった時期(1985年)のことでもあり、新しい職場への適応や、転職者であることへの自意識に苦労をしなかったといえば嘘になるが、結果的にはプラス面が大きかった。

 プラスと思えた要因は、〈1〉新しい仕事を覚えて職業人としての価値を向上させることができた、〈2〉自分で進路を選択して無事働けたことで自信がついた、〈3〉特に前の会社との「距離感」が分かって、会社というものを客観視する事ができるようになった、という三点だ。

 三点目について補足すると、一つの会社の中にずっと居ると、世の中におけるその会社の重要性や自分個人にとっての重要性がどれくらいのものかが分からなくなり、同時に会社にとって自分がどれくらい重要なのかも分かりにくくなる。しかし、一度転職を経験すると、自分が所属している会社が世間や自分にとって不可欠なまでに重要なものではないことや、自分が居なくてもその会社は無事に動いている、というようなことが分かる。

 要は、会社についても、自分についても、客観的な視点を持てるようになるということなのだが、筆者以外の転職経験者の話を聞いてみても、大なり小なりそのような実感を持つようだ。たぶん、転職を経験すると「少しオトナになる」ということなのだろう。

つづく
(2005年5月27日 読売新聞)
http://job.yomiuri.co.jp/howto/experience/ex_05052701.htm


12回の転職の中で大きかった3回の転職(下) 山崎 元さん

(2) 外資系的な雇用契約へ(住友信託銀行→シュローダー投信)

 最初の転職をクリアして、二度目、三度目の転職は、結果の成否はともかく、自分の意思でコース選択することができた。かくして辿り着いた会社は、当時の同僚に恵まれたこともあって、気に入った職場だった。

 しかし、ここでは事の詳細には触れないが、会社の方針について筆者としてはどうしても許すことができない点があって、せっかく張り合いのあった職場を早く離れた方がいいと思うような事態に至った。それまでに、三回転職していることもあり、日系の会社で良い就職口を探すのは大変だろうと思われたし、また、当時の日系の会社にはさほど魅力的な会社が見つからなかった。

 そんな訳で、「そろそろ外資に出る頃合いかな」と思って、外資系の会社に転職したのが、33歳の時であった。

 外資系の会社では、基本的に、報酬は個々人が別々に決まるし、何といっても、「クビ」の心配がある。近年は、日系の会社でもクビがあるし、年俸制の契約もあるが、外資系の会社の緊張感はまた少しちがう。

 しかし、考えてみると、一人一人違う個人が「自分の仕事」を売るわけだから、「給与テーブル」によってではなく、個々人が個別に評価され、かつ個人と会社が合意の上で取引をするのが当たり前の姿だろう。ちなみに、日本企業の「成果主義」は、マネジメント構造をそのままにして相対評価にお金を絡める「陰気な成果主義」だが、外資系のそれは、会社によって差はあるとしても、成果(≒利益)への貢献に対して喜んで報酬を払う「陽気な成果主義」であって、両者は似て非なるものだ。

 外資系の会社に転職して以降、筆者は日系の会社に勤める場合も、個人として年俸を決めるような形で会社と契約して働く道を選択している。勤め人ではあっても、ある意味では個人事業主の感覚だ。雇用の保障は曖昧になるが、近年では、日系の会社でも交渉次第で外資系的な年俸を払うようになっている。

(3) より自由な働き方を求めて(明治生命→UFJ総研)

 大きかったと思う三つ目の転職は、働き方を大きく変えた11回目の転職だ。

 それまで三社ほど、日系の会社に外資系的な報酬で勤める形を取っていたのだが、もっと自由な時間あるいは仕事が欲しかったことと、特に自分個人の名前で(正々堂々と)意見を言いたいという欲求が強まってきた。数年前から、かなりの頻度で雑紙に原稿を書いたり、専門書を書いたりしていたのだが、前者では多くが匿名ないし筆名の原稿であって、意見発表の形態としては不満であった。

 また、年齢的にも40代に入り、当面はいいとしても、50代以降に自分のペースでできる仕事の基礎を作っておきたいということも考えた。

 さりとて、いわゆる「起業」が好適とも思えなかったので、次のような仕組みを考えた。先ず、(1)勤務の日と時間が自由で、(2)個人としての発言の自由が確保され、(3)副業(もちろん本業と競合しないものだが)を認める、という条件の職場を探した。ただし、自由度が大きい代わりに、(4)収入は少なくても(前職の半分以下で)満足する。そして、自分の活動(ほぼフリーの個人としての活動と友人との会社的活動の両方)とサラリーマンとしての立場を両方確保するライフスタイルを軌道に乗せようと試みたのだ。

 この働き方は、現在も試行錯誤的に進行中だが、個々の仕事の稼ぎ能率はそれほど良くないものの、収入源が多方面にわたる分リスク分散が働いており、何よりも個人としての自由度が大きい。自分で自分を要領よくマネジメントしなければならない、といった多少の苦労もあるが、今のところ気分も経済的条件もまあまあだ。

 一人が一社に完全に取り込まれる形以外にも、会社と個人双方にとってリーズナブルな雇い方・雇われ方(より正確には対等の契約なのだが)があるのではないか。働き方にはまだまだ多くの工夫が可能なのだろうと思う。

以上
(2005年6月8日 読売新聞)
http://job.yomiuri.co.jp/howto/experience/ex_05060801.htm
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以上