コテツの日々

日々の出来事を写真に込めて楽しい話題をお伝えします。 
コテツは愛犬パグの愛称

徳川家三代の江戸城

2019-06-23 20:37:21 | 日記
★★★
タイトル→先人達の底力→徳川三代の天守
放送日→6月11日(前編)6月18日(後編)→NHKBS3→10時~

今から400年前に建立された江戸城には天守が存在してた。その天守台跡は
今も皇居内の東御園にこの写真の様に残ってます。

★★★
徳川家康が建てた初代江戸城は→富士山の様に白く高くそびえ立っていた。

★★★
徳川家康の城に対するこだわりとは?400万石の力を諸国に見せつける❗️

★★★
豊臣家に対する対抗心→何事においても豊臣家を凌ぐ事❗️
大阪城との比較→秀吉没後→豊臣秀頼との関ヶ原の合戦で勝利する為の戦略

★★★
耐火性、耐久性、へのこだわり→壁は白い漆喰の壁。屋根瓦は軽い鉛を使用
★★★

総構えとは→城下町の形成→江戸城14km→守りを固める。大阪城8kmを凌ぐ。

★★★
築城費用は天下普請→諸国の大名達に公共事業として築城させる。それも豊臣恩顧の
武家の大名を指名して金を使わせ、秀頼との接触を弱め築城で疲弊させる。

★★★
初代江戸城は16年後に徳川秀忠によって改築される。戦国時代が終わり守備型から
生活型への改築を進める。

★★★
2代目江戸城も14年後秀忠の子の家光により改築される。

こうして時代と共に徳川三代の天守の変遷が終わった。

★★★
天守は何故無くなったのか?→1665年明暦3年→江戸城大火による焼失。
江戸幕府は直ぐに加賀前田藩に工事を命じ着工したが待ったをかけた人物が!
会津藩主の保科正之で3代家光の異母弟に当り天守復活より大火により焼失した城や
城下町の復興が優先と主張、4代家綱も後見人の意見を受け入れた。
戦国時代の武断政治から文治政治へと変わり徳川家康が天守を建てた50年後に
江戸城の天守は再建される事なく今日に至る。
★★★天守とは?→戦国時代の大名の武力の象徴。
城の上にある大きな櫓の事。今の皇居に残る2つの櫓は二重橋の後方にある
伏見櫓、東京駅寄りにある富士見櫓です。
この写真が4月に行った皇居の富士見櫓です。確か日本に残る天守のあるお城は
8ヶ所か12ヶ所だったと思う?2~3年前東京駅のKITTEで催事で見たので次の
機会にお知らせします。18日の後編は途中で新潟村上の地震速報に切り替わり
ました。あれから6日、被災地の復興を願ってます。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
江戸城 (hibochan)
2019-06-25 07:08:55
最近お城ブーム何かと取り上げられます
江戸城詳しく紹介されよくわかりました
天守もなく皇居のイメージ
新宮殿 乾通 東御苑訪れました
皇居が庶民に近くなってように思います
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Unknown (y_motoki_kotetsu)
2019-06-25 13:00:56
こんにちは

大阪城は天守が存在するのに江戸城は何故無いのか?ずっと
疑問に思ってました。昨日3時からBS3で江戸城炎上を見て
更によく理解出来ました。磯田道史さん他の識者の方も出て
老中保科正之の判断の成否を分析、結果天守より江戸市内の
再建を優先させ現代の東京の基礎作りを果たした。
その一番の功績は江戸城内に通じる橋を架けた事だそうです。
武蔵の国と常総国を繋げる両国橋!大火により10万人が死亡
橋がなく川に飛び込んで死んだ市民が大多数!橋を架ける事で
流通や商売が良くなり武士と町民の往き来が良くなり繁栄の礎を築いた。
長文ですみませんでした。
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