城 中新田城、名生城
所領変遷 大崎地域
知行 不明
時代 室町初期(1354)~安土桃山時代(1590、奥州仕置 : 除封)
家祖 斯波家兼
代々 初代 : 家兼~13代 : 義隆
出自(本姓) 清和源氏義国流斯波氏(足利氏一門)
家紋 足利二つ引
通字 兼
著名な人物 3代 : 詮持、13代 : 義隆
内訌 11代 : 義直(家臣団による)
入嗣 伊達氏(12代 : 義宣)
分家 高清水、百々、雫石
水系 鳴瀬川川水系
隣接領主 葛西氏
登場文献 『余目氏旧記』
研究文献(系図等) 不詳
棟札等記録 不詳
1354年(文和3/正平9)斯波家兼 が 奥州管領 に任ぜられ下向、中新田城を拠点として大崎氏を名乗った。
そもそも 斯波氏 には 足利氏嫡流 というプライドがある。 足利氏嫡流 は、源(八幡太郎)義家 に端を発しており、代々北条家一門の女性を妻に迎えている。 これが鎌倉幕府視点で見ても、源氏として嫡系の血筋という訳だ。
さらには 斯波氏 初代 の 家氏 は、足利 11代 : 泰氏 の長男である。 母方の伯父が起こした不祥事のために結果 宗家放出となったが、鎌倉幕府・将軍の直臣たる 御家人 の地位をしっかり獲得しており、実は室町時代になっても暫くは斯波姓を名乗っていなかった。 その苗字がその時代の文書に登場することはないのだ。 逆に、『 武衛家 』・『 勘解由小路武衛 』と周囲から呼ばれ、洛中の勘解由小路の本邸は、武衛陣 (京都市上京区武衛陣町)と称されるほどだった。
(ちなみに、足利宗家は、北条得宗家 系 の男子が継承した。 また、室町幕府を開いた 足利尊氏 にしても、嫡男ではなく側室の第1子であり、直義は第2子だったから尚、であった。)
さて、鎌倉幕府の完全倒幕間も無い往時に下向した 家兼 はどう立ち居振る舞ったのだろうか。
多賀城 でなく 中新田 に居を置いたのも、こうしてみると分からなくもない。
北朝方を援護して 東北版 観応の擾乱 を平定したのは確かに大崎氏かもしれない。 しかし時を経て 13代 : 義隆 の時に家臣を含めた家内に内乱が発生、親戚の 黒川氏 が入嫁関係のある伊達氏を裏切ってでも大崎に加勢すると( 大崎合戦 )優勢となるが、小田原参戦出来なかった事もあり 1590年、奥州仕置 により除封となったのだ。
そこで 末代13代 : 義隆 は、上洛して石田三成にお家存続を願い出た。 しかし地元では 葛西・大崎一揆 が発生、一縷の望みも潰えた。
尚、子孫は会津や最上に逃げ、それとなく暮らしたらしい。
菩提寺 未詳
戒名 長谷寺殿円承(初代 : 家兼)
***
所領変遷 大崎地域
知行 不明
時代 室町初期(1354)~安土桃山時代(1590、奥州仕置 : 除封)
家祖 斯波家兼
代々 初代 : 家兼~13代 : 義隆
出自(本姓) 清和源氏義国流斯波氏(足利氏一門)
家紋 足利二つ引
通字 兼
著名な人物 3代 : 詮持、13代 : 義隆
内訌 11代 : 義直(家臣団による)
入嗣 伊達氏(12代 : 義宣)
分家 高清水、百々、雫石
水系 鳴瀬川川水系
隣接領主 葛西氏
登場文献 『余目氏旧記』
研究文献(系図等) 不詳
棟札等記録 不詳
1354年(文和3/正平9)斯波家兼 が 奥州管領 に任ぜられ下向、中新田城を拠点として大崎氏を名乗った。
そもそも 斯波氏 には 足利氏嫡流 というプライドがある。 足利氏嫡流 は、源(八幡太郎)義家 に端を発しており、代々北条家一門の女性を妻に迎えている。 これが鎌倉幕府視点で見ても、源氏として嫡系の血筋という訳だ。
さらには 斯波氏 初代 の 家氏 は、足利 11代 : 泰氏 の長男である。 母方の伯父が起こした不祥事のために結果 宗家放出となったが、鎌倉幕府・将軍の直臣たる 御家人 の地位をしっかり獲得しており、実は室町時代になっても暫くは斯波姓を名乗っていなかった。 その苗字がその時代の文書に登場することはないのだ。 逆に、『 武衛家 』・『 勘解由小路武衛 』と周囲から呼ばれ、洛中の勘解由小路の本邸は、武衛陣 (京都市上京区武衛陣町)と称されるほどだった。
(ちなみに、足利宗家は、北条得宗家 系 の男子が継承した。 また、室町幕府を開いた 足利尊氏 にしても、嫡男ではなく側室の第1子であり、直義は第2子だったから尚、であった。)
さて、鎌倉幕府の完全倒幕間も無い往時に下向した 家兼 はどう立ち居振る舞ったのだろうか。
多賀城 でなく 中新田 に居を置いたのも、こうしてみると分からなくもない。
北朝方を援護して 東北版 観応の擾乱 を平定したのは確かに大崎氏かもしれない。 しかし時を経て 13代 : 義隆 の時に家臣を含めた家内に内乱が発生、親戚の 黒川氏 が入嫁関係のある伊達氏を裏切ってでも大崎に加勢すると( 大崎合戦 )優勢となるが、小田原参戦出来なかった事もあり 1590年、奥州仕置 により除封となったのだ。
そこで 末代13代 : 義隆 は、上洛して石田三成にお家存続を願い出た。 しかし地元では 葛西・大崎一揆 が発生、一縷の望みも潰えた。
尚、子孫は会津や最上に逃げ、それとなく暮らしたらしい。
菩提寺 未詳
戒名 長谷寺殿円承(初代 : 家兼)
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