SEPIA color

"跡" を 辿って。

国分氏 | 藤原北家 秀郷流 小山氏一門 長沼氏系 の氏族

2015-07-20 15:00:42 | 氏族 考察
城         小泉城松森城、( 南目城、茂ヶ崎城、千代城 )
所領変遷      旧宮城郡南部? → 旧宮城郡北部? → 秋田
知行        1,000~527石


時代        室町時代?~安土桃山時代(1590年、奥州仕置)
家祖        不明
代々        想定初代~17代 盛重 + 秋田伊達氏 9代


出自(本姓)    藤原北家 秀郷流 小山氏一門 長沼氏系 国分氏
家紋        左三つ巴
通字        盛、重、宗



著名な人物     想定17代 盛重
内訌        不明
入嗣        伊達氏(17代 盛重)
分家        郷六氏?


水系        名取川(広瀬川)水系? → 七北田川水系 → 秋田武鑑
隣接領主      留守氏




源頼朝に従った 小山政光 の 次男 : 宗政 が 現 真岡市 に領地を得て 長沼氏 を称したが、ここで言うこの 国分氏 はその庶流ではないかと個人的に推察している。


何故ならこの 小山氏 系の士族は、親戚同士の内訌が多すぎるというか、結果その勝敗によって所領を追い出される結末を知りながら、親戚同士が絡む争いにも臆せず参戦し、負けてはあちこち拠点を転々とせざるを得なくなっていると言う特徴がある。良く言えば身軽なのだが、根無し草的無茶苦茶感がどうしても拭えない。


その中でも 長沼氏 の行動は事は理解に苦しむ支離滅裂さがある気がする。なので、ある日ひょっこり支配のユルい土地にやって来て勝手に 国分氏 を名乗り

「 今日からココは自分たちが支配することになった!」

とか平然と宣言して居座ってしまっても何らおかしくない感じがしてしまうのだ 。


また、先述の 小山政光 の三男 : 朝光結城氏 の 祖 となったが、江戸時代の地誌類に、結城氏の活動が仙台市周辺であったらしいとの調査・研究が残されている。 しかしこれも、都合のいい時だけ親戚・結城氏 の威光を利用した 長沼系 国分氏 の活動によるものではないだろうか。( ちなみに 朝光 の五男 : 朝良 は 現 成田市長沼 に居住して 下総長沼氏 の 祖 となっている。 )それとも 長沼氏 でなく 結城氏 の庶流が 国分氏 と名乗ったものか、長沼や結城から 国分氏 への入嗣があった故か。


この、藤原姓(長沼氏系)国分氏 はいつから( 旧宮城郡の )何処を本拠としたのかは不明だ。小泉城陸奥国分寺 という国の施設に近接する土地柄ゆえ、鎌倉時代の 奥州征伐 直後から居住していたとは考えにくい。 またその頃は 平姓国分氏 に 名取周辺( 旧宮城郡南部 )が与えられていたとされる説が一般的だ。( しかし間も無く没収されている。)




※平姓国分氏
鎌倉殿の13人に登場もする 千葉常胤( 桓武平氏良文流 )の五男( 胤通 )を祖とする。奥州藤原氏討伐の戦功により宮城郡国分荘( 郷六に築城したとの説あり )を賜ったとするのが起源らしい。











出処不確かだが、

1412年(応永19)、亘理重胤( 亘理氏 9代 ) と名取郡川上村で合戦、亘理胤茂( 亘理氏 10代 )に敗れて 国分盛経 戦死。

1480年(文明12)、国分盛行 が子の 国分盛綱 に家督を譲り 小泉村 に別荘を作って隠居。

1450~1570年代にかけては、芋沢村愛子村 (仙台市青葉区)の 神社の棟札に『 藤原朝臣長沼~ 』の文字が。

慈覚大師 が中興した 山の寺( のちに廃寺 )では、国分盛行 が修繕を補助した、とか伝わるらしい。




さて、想定17代 : 盛重 は 伊達家 からの入嗣以降、家臣団の統率に失敗し米沢に呼び戻された。それをもって実質的に 国分氏 は滅んだ事になるが、家中や血縁者には「 国分 」へのこだわりが強く残っていたに違いない。 盛重 が 秋田佐竹氏 のもとに出奔して 秋田伊達氏 となった後にも 秋田伊達氏 5代 : 處宗 の次男 と、8代 : 敦重 の 三男が、国分氏 を称した。『 三百藩家臣人名辞典 』には、秋田伊達氏の嫡流以外の男子には全て 国分氏 を名乗らせたとあるらしい。



ところで、留守氏 の 所領する 岩切城 と 国分氏 所領 の 松森城 の 距離が物凄く近いことにずっと違和感を持っていた。『 仙台領古城書上 』には、

「 此城主 国分彦九郎盛重 小泉村より取移、天正年中迄居住 」

とある。 松森地域への進出は 伊達家から養子( 政宗の父 : 輝宗の弟で 留守政景 の弟 )を迎えてから 奥州仕置(1590年)までというさほど長くない年月での居住の模様、やっと納得できた。



ちなみに、同じ 政宗の叔父なのに 留守政景 と違って 国分盛重 は、豊臣秀吉側への人質として指名される( 葛西・大崎一揆 後 の 下草会談 )など、待遇が著しく良くなかった気がする。秋田への出奔には、こうしたことひとつひとつが影響していたのだろうと思う。




登場文献      『 三百藩家臣人名辞典 』
研究文献(系図等) 『 奥州余目記録 』、『 平姓国分系図 』、『 古内氏系図 』
棟札等記録     宇那弥太大明神 : 1466年(文正元)、1536年(天文5)、1562年(永禄5)(仙台市青葉区芋沢)
          愛子諏訪神社 : 年不明(仙台市青葉区愛子)
          瀧門山洞雲寺( 日本三山寺 のひとつ ) : 青銅製の鐘 鋳造(1518年、永正15)(仙台市泉区山の寺)



菩提寺        白馬寺(秋田伊達氏)


***


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。