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"跡" を 辿って。

国分氏 | 桓武平氏 良文流 千葉氏庶流 の 氏族

2015-07-15 15:00:00 | 氏族 考察
 

城         不明
所領変遷      旧宮城郡南部(仙台市南部・名取市)?


時代        鎌倉後期?~室町前期(1363年)?
家祖        千葉常胤の五男 : 国分胤通
代々        初代~不明


出自(本姓)    桓武平氏 良文流 千葉氏系 国分氏

家紋        九曜
通字        胤、盛



著名な人物     初代 胤通
内訌        不明
入嗣        不明


水系        広瀬川水系?
隣接領主      亘理氏?、留守氏?



登場文献      『 吾妻鏡 』?、『 封内風土記』
研究文献(系図等) 『 平姓国分系図 』、『 古内氏系図 』
棟札等記録     不詳



源頼朝に従った 奥州征伐 の行賞として 千葉常胤 が与えられた所領の一部である 旧宮城郡南部を、五男の 胤通 が拝領した。(ちなみに 次男が 三春辺り?相馬?、三男が 亘理・丸森、四男が いわき?を与えられたとか、られてないとか。)諸説あるが実際には下向していないのではないかと見る。活動の記録が殆どないのは 国分氏 に限らないが、それにしても 平姓国分氏 については皆無である上、様々な混乱も見られる。 それに当時の出来立ての政府の指示の効力など、東北と言う辺境の地で如何なるものかと言うものだ! 関東から見知らぬ輩がやって来て今日からここからここまでが俺様の土地になったと宣言したところで誰も信じないのでは無いだろうか。




( たとえ、奥州藤原氏系統がそれまでの首領だったとして、その氏族が滅んだからと言って末端まで廃止の命令が届くのだろうかというものだ。なにひとつ関係なく日々の暮らしを送っていたのではないだろうか。)




※平成18年発行の『 仙台市史 』でも、平姓国分氏 に対して否定的な記述がなされていた。



ところで、胤通から数えて 6代目頃の 盛胤 の頃、飯田・日辺・今泉を領していたかもしれない国分氏は、1351年(観応2)の 観応の擾乱の東北版で、吉良貞家 とともに 畠山国氏・高国 & 留守家冬 と戦って勝利する。 しかし、国分誰某が戦ったのか等の記録も全く無く戦歴は判然としておらずそれにも増して、たった 10年程経た 1363年(貞治2)には、理由も分からぬままこの領地は没収され、相馬氏 に与えられるという不思議が起こっている。




平姓国分氏の居城は 小泉城 だったとか 千代城 だったとか諸説あるがそれも疑わしいと感じる。 小泉城陸奥国分寺 という政府直轄施設の至近に立地しているが故に相当の身分でないと居住するのは無理だろう。また 千代城 周辺は 伊達政宗 が入城し街割をして初めて立派な都市となったもので、それ以前は田圃等無く辛うじて畑作程度の出来る不毛に近い高台に過ぎないと察する、税など取れたものではない。




ゆえに 平姓国分氏 は 陸奥 を拠点とする事無く、もちろん下向すること無く、この地からフェイドアウトして行ったに違いないと思うのだ。 尚、『 国分淡路守 』に関する考察は、同ブログの 留守氏 を参照されたい。




菩提寺      未詳



 

 

◆ 小迫の延年


ところで、宮城県栗原市金成町小迫地区 に 平安時代 から伝わる 小迫の延年 と言う舞などを演ずる祭「 白山神社 例大祭 」( 併催 : 金成春祭り、毎年4月の第1日曜日開催 )がある。 延年 とは、平安時代室町時代僧侶稚児たちが寺院で盛んに行なっていた遊演舞台のひとつだが、小迫 のは 由来・保存スタイルともに独特、固有の特徴があるそうだ。 1979年(昭和54)2月3日、国の重要無形民俗文化財 に 指定されている。数ある演目の中の台詞に「 大同2年(807年) 」と出て来るそうだから、遅くとも 平安中期 には延年として成立していたと考えられる。 平泉藤原の延年と融合しながら年を経ることに完成度を高め時事ネタに発する舞を加えながら増強と洗練を繰り返し 小迫の延年 は、今のスタイルへと昇華した。



最後の演目『 馬上渡し 』は、源頼朝奥州征伐 の 帰途、この地において 野祭 を行ったものがそのまま真似られ残ったものとも言われる。源平合戦 のひとつ 屋島の戦い治承・寿永の乱、1185年間)で、那須与一 が 船上に掲げられた扇を射抜くという有名なワンシーン(『 平家物語 』" 扇の的 " )そのままである。 そしてここに 平姓国分氏 の先祖、千葉常胤 も登場する、与一の前に射手に指名された坂東武士の鑑・畠山重忠 も、奥州征伐で大活躍をしたという 和田小太郎義盛 も、後藤兵衛実基 も。 1000年の時を経て民へと受け継がれる彼らの名と行賞。いずれの武将もこの地に根を下すことは無かったが、何故か不思議な繋がりを感じてしまったのだった。



※ 参考 : 小迫の延年



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