並木たより

写真付き日記

花と虫

2006-04-13 14:11:26 | 日記・エッセイ・コラム

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花は少し離れて見るのが良い。樹全体あるいは山全体が桜に覆われた美しさは筆舌に尽くし難い。

間近に見ると、美しい花ほど虫がつき易い。蜂や蟻ばかりでなく、小さな虫たちも蜜を慕って集まっている。それもそのはず、花は人に見られるために咲くのではなく、虫を呼ぶために咲いているのだ。

人は虫を嫌うが、花と虫は仲良しだ。人にいくら愛でられても、虫が訪れなければ花は結実しない。自然の営みは人間の好悪評価を超えている。

人も厳しく詮議すれば、聖人も義人も「有罪判決」をまぬかれない。しかし、罪なき御独り子の受難によって、贖いが完成し「すべて甚だ良し」という創造の秩序が回復された。「罪ある者を罪あるままに罪なき者とする」福音。

「義人はいない、ひとりもいない」(ロマ書3:10)

あっという間に花は散り/あっという間に樹はみどり/草木はこんなに変わるのに/わたしの心は変わらない/変わらないまま/そのままで/そのままで/エス様わたしを包まれる/だめで頑固な/そのままで/エス様わたしを愛される/それでいいのだ/大丈夫/それでいいのだ/大丈夫  (作:藤尾正人) http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/

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切腹と十字架

2006-04-12 18:07:39 | 日記・エッセイ・コラム

武士には切腹が名誉である。同じ死罪でも、打ち首や獄門とは大違いの誇り高い立派な最期とされている。一方、西洋の騎士道では、無実で鞭打ちの刑に遭い、弱音を吐かずに苦痛に耐えるのは、賞賛すべき立派な行為である。

イエス・キリストの受難も騎士道的に解釈して、雄々しい立派な忍従の態度と誤解されている。それに倣(なら)って、たとえばカトリックの修道士は不眠・断食・禁欲、或いは、自分自身の体を鞭打って、肉体的苦痛をみずから課して修行とする。体を苦しめることは、実は、精神的には誇り、即ち快楽、なのである。

「パッション」という映画でも鞭打ちの苦痛を強調する。しかし、新約聖書のマルコによる福音書で、受難の記事(14章:53節~15章32節)の単語を数えると、「殴る」「平手打ち」「葦の棒で叩く」が各1回、「唾を吐きかける」「拝む」「侮辱する」「罵る」が各2回で肉体的苦痛を与える暴行の言葉よりも精神的苦痛を与える侮辱の言葉の方が圧倒的に多い。

主が受けられたのは肉体的苦痛よりも精神的な苦痛であった。主の十字架刑は佐倉惣五郎の磔(はりつけ)や石川五右衛門の釜茹(かまゆで)のような雄々しく誇り高い英雄的な身代わり刑ではなく、あの悪名高いアブグレイブの裸の囚人達のような、名誉も誇りも奪われた、惨めで悲惨な陵辱の姿なのである。

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「顔をおおって忌み嫌われる者のように彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」(イザヤ書53:3)

「裸であったときに着せず、獄にいたときに尋ねてくれなかった」(マタイ伝25:43)


山笑う

2006-04-11 00:22:20 | 日記・エッセイ・コラム

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「山笑う」は春の季語。散り残った桜の花に葉芽が混ざり、さまざまな木々の芽吹きが山全体をパッチワークのように彩(いろど)る。写真の散歩道でも、落葉樹は、尖った冬枯れの枝々の先がややにやわらかく丸みをおび、常緑樹の濃い緑の間には、明るい黄緑がほころびはじめている。

自然は確実にめぐり来るが、人は逝って還らない。逝く者を現世に引き戻そうと虚しい願いに心を塞がれず、往き先なる来世に新しい生を希求すべきではないか。

受難週である。人の心の冬に、命の春を取り戻させようと、神の独り子が恥辱に苦しまれた記念の季節である。その贖いによって来世が約束され、復活の希望が、人の心に命の春を来たらせる。

冬の心を持った暗い顔の人々の間に、復活の希望に生きる人々の明るい顔が、パッチワークのように広がり、地球全体を彩(いろど)って、「地笑う」という日が来るのは、いつのことだろう。

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ書4:4)

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構成体論的経済学

2006-04-10 00:17:09 | 日記・エッセイ・コラム

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4月9日(日)朝、鷺宮の待晨会堂において、東條隆進早大教授を講師に、酒枝義旗記念会が開催された。

日曜礼拝の形式で行われたが、コンテンツは「構成体論的経済学の再評価と待晨集会の歴史的意味」に関する、経済学的、社会学的、牧会学的、宗教社会学的な講義で、近来稀な名講義であった。

集団形成形態として、M.ウェーバーを引用し(付会し)た、伝統的、科学的、構成体論的という三形態の紹介が印象的であった。「カリスマ的とは即ち、カリス(恩恵)的」との説明も新鮮であった。

信愛学舎新入舎生の早大生4名が、舎監に引率されて参加聴講した。「切支丹(キリシタン)禁制の高札」の前での記念写真には、東條教授に、酒枝教授のカリス性が継承されているのを見ることができる。

「あなたがたはキリストの肢体である」(コリント前書6:15)

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世界標準語

2006-04-09 00:12:04 | 日記・エッセイ・コラム

「石原都知事が英語必修化を批判」と報じられた。日本語を完全にマスターすることが先決との趣旨らしい。危機管理のできない、典型的な「賞味期限切れ政治家」の発言と思う。

確かに自国語のマスターは大事である。しかし、日本語は難しい。漢字の書き取りや熟語の意味がクイズとして通用し、しかも立派な大人にも正解できないことが結構多いのである。日本語をマスターするのを待っていたら、外国語を学ぶチャンスを失ってしまう。

しかも今話題の「英語」は、従来のいわゆる「第一外国語」ではなく、まさに到来しつつあるグローバル化時代の「世界標準語」なのである。「標準語」をマスターしていないために大変な苦労を強いられている人が、現在急速に増えている。

昭和30年代、テレビの普及が日本全国に標準語を普及させた。世界共通語たる「標準英語」の普及にもテレビを利用すべきであると思う。NHKが「公共放送」と称するなら、BSかCSのどれか1チャンネルを24時間英語放送に充てるのが適当ではないか。