日々どんどん断片的な思考をツイッターに書きまくると、ブログに書く事がなくなるわけですが(そうやって更新頻度が落ちているブロガーは多い)イベントの告知しかないブログというのも淋しい。「体温」が感じられないというか。お前はそんなに自分の宣伝にしか興味がないのか!と自分にツッコミを入れたくなるというか。
とはいえ現在、来月初演のトロンボーン独奏曲の書き下ろしと、いよいよ来週に迫った"座長公演"の準備でひいひい言ってる状況なので、そんな合間にツイッターに書いたものを整理するぐらいしかできないのだー。
ちなみに昨今「ブログは長文/ツイッターは短文」と使い分ける人も多いようだが、こんなふうに、ツイッターを「クイック・キャプチャー」としてメモがわりに使い、残しておきたいものはそこからピックアップしてブログにまとめる、というスタイルもアリかもしれないと思う。「ツイッター:短期記憶(フラッシュメモリー)/ブログ:長期記憶(アーカイヴ)」という感じ。
で、とりあえず本日のツイートまとめてみました。参加しているバンド「ブラックベッツ」に関しての感想、というか覚悟のようなものの表明です。
■ 今日のベッツ会議も著作権の話に終始。ベッツはカバー曲しかやらないバンドなので権利処理問題から逃れることはできないのだが、個人的には、その一点をもって現状の音楽文化への意見表明を続けてるつもりでもある。
■ 楽譜出版に端を発する印税ビジネスの世界では楽曲のアイデンティティ=旋律(譜面)という慣習が続いてきた。しかし80年代ぐらいから、明確な旋律を持たずサウンドそのものがアイデンティティであるような楽曲がどんどん増えた。ハウスやテクノやアンビエントのように。
■ 和歌には「本歌取り」という技巧がある。よく知られている古い歌や詩からキーワードや「趣向」をわざと取り入れ、その世界観を利用して、全く別の新しい視点を創り出すものだ。
■ ベッツにおける「編曲」も、この「本歌取り」に似ている。よく知られた既製の旋律を全く別のコンテキストに置いてみたり、どう考えても無関係な楽曲にわざと接合してみたりすることで、人々が原曲や、もっと言えばポピュラー音楽自体に対して無意識に持ってしまっている固定観念を、あえて前景化する。
■ 美術におけるポップアートやシミュレーショニズム、また80年代にジョン・ゾーン、ジョン・オズワルド、カール・ストーンらの音楽に私淑して「サンプリング原理主義者」を標榜した作曲活動を展開した自分と、ベッツでムード音楽をヒョロヒョロ弾いてる自分の間に、だから全くブレはないのである。
今回、ベルベッツのCDがメジャーの会社からリリースされる事になった途端、これまでインディーズの世界ではそこまで配慮する必要のなかった「業界の慣習」やら「権利者の意向」やら「レコード会社や音楽出版社どうしの取引」的なものまで含めて、著作権処理に膨大な時間がかかる事になってしまった。
トラブルを未然に回避するための作業で、それはそれで必要なのだろう。プロデューサーと担当者にはこの場を借りて御礼申し上げます…我々が面倒くさい曲を面倒くさい編曲しまくるせいで、こんな事になって(とはいえそれがこのバンドの特徴なので仕方ないのだが…笑)
そんな背景もあり、あらためて「特定の旋律を発明した人間が、そんなにエラいのか?」という根本的な疑問を強く感じたのが、以上の文章の背景にはある。
聴き手側の素直な感覚としては、「音楽の鑑賞」って旋律をたどるだけでなく、リズム、ハーモニー、編曲、音色、サウンド…最終的にはメディアの解像度や空気感まで含めた「全体像」を鑑賞する行為ではないのか。場合によっては、旋律なんて「お題」みたいなもので、それを使ってどんな"世界"を作るかの方が、よほどクリエイティヴな行為ではないのか? …とまで考える時がある。
まあ著作権に関しては、僕がそんな問題提起したところで法律上どうなるものでもないが、少なくとも思考を続けることは大事だと思うのだ。
とはいえ現在、来月初演のトロンボーン独奏曲の書き下ろしと、いよいよ来週に迫った"座長公演"の準備でひいひい言ってる状況なので、そんな合間にツイッターに書いたものを整理するぐらいしかできないのだー。
ちなみに昨今「ブログは長文/ツイッターは短文」と使い分ける人も多いようだが、こんなふうに、ツイッターを「クイック・キャプチャー」としてメモがわりに使い、残しておきたいものはそこからピックアップしてブログにまとめる、というスタイルもアリかもしれないと思う。「ツイッター:短期記憶(フラッシュメモリー)/ブログ:長期記憶(アーカイヴ)」という感じ。
で、とりあえず本日のツイートまとめてみました。参加しているバンド「ブラックベッツ」に関しての感想、というか覚悟のようなものの表明です。
■ 今日のベッツ会議も著作権の話に終始。ベッツはカバー曲しかやらないバンドなので権利処理問題から逃れることはできないのだが、個人的には、その一点をもって現状の音楽文化への意見表明を続けてるつもりでもある。
■ 楽譜出版に端を発する印税ビジネスの世界では楽曲のアイデンティティ=旋律(譜面)という慣習が続いてきた。しかし80年代ぐらいから、明確な旋律を持たずサウンドそのものがアイデンティティであるような楽曲がどんどん増えた。ハウスやテクノやアンビエントのように。
■ 和歌には「本歌取り」という技巧がある。よく知られている古い歌や詩からキーワードや「趣向」をわざと取り入れ、その世界観を利用して、全く別の新しい視点を創り出すものだ。
■ ベッツにおける「編曲」も、この「本歌取り」に似ている。よく知られた既製の旋律を全く別のコンテキストに置いてみたり、どう考えても無関係な楽曲にわざと接合してみたりすることで、人々が原曲や、もっと言えばポピュラー音楽自体に対して無意識に持ってしまっている固定観念を、あえて前景化する。
■ 美術におけるポップアートやシミュレーショニズム、また80年代にジョン・ゾーン、ジョン・オズワルド、カール・ストーンらの音楽に私淑して「サンプリング原理主義者」を標榜した作曲活動を展開した自分と、ベッツでムード音楽をヒョロヒョロ弾いてる自分の間に、だから全くブレはないのである。
今回、ベルベッツのCDがメジャーの会社からリリースされる事になった途端、これまでインディーズの世界ではそこまで配慮する必要のなかった「業界の慣習」やら「権利者の意向」やら「レコード会社や音楽出版社どうしの取引」的なものまで含めて、著作権処理に膨大な時間がかかる事になってしまった。
トラブルを未然に回避するための作業で、それはそれで必要なのだろう。プロデューサーと担当者にはこの場を借りて御礼申し上げます…我々が面倒くさい曲を面倒くさい編曲しまくるせいで、こんな事になって(とはいえそれがこのバンドの特徴なので仕方ないのだが…笑)
そんな背景もあり、あらためて「特定の旋律を発明した人間が、そんなにエラいのか?」という根本的な疑問を強く感じたのが、以上の文章の背景にはある。
聴き手側の素直な感覚としては、「音楽の鑑賞」って旋律をたどるだけでなく、リズム、ハーモニー、編曲、音色、サウンド…最終的にはメディアの解像度や空気感まで含めた「全体像」を鑑賞する行為ではないのか。場合によっては、旋律なんて「お題」みたいなもので、それを使ってどんな"世界"を作るかの方が、よほどクリエイティヴな行為ではないのか? …とまで考える時がある。
まあ著作権に関しては、僕がそんな問題提起したところで法律上どうなるものでもないが、少なくとも思考を続けることは大事だと思うのだ。
とか、言い出すと大変なことになりますよね。
私は昨年まで、その権利処理の仕事でホンネとタテマエを使いわける日々でした。