エクレシア

へっぽこクリスチャン・翔の暴走爆裂ブログ

祈りの祭典決起集会

2007-09-17 03:15:31 | ICF
今日は礼拝後、CFNJ聖書学院にて来月行われる「祈りの祭典in北海道」の決起集会がありました。

内容は賛美と実行委員長であるY師からのメッセージ、N師のリードによる祈り。
メッセージの中心聖句は第二歴代誌16章9節。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
「全く」つまり心が主と完全に合っている者を主は探しておられる。「完全に」と言われると「難しいな」とつい考えてしまうのは不信仰だろうか?
「リバイバルはひとりひとりから始まります」
メッセージの中、最も印象に残った言葉。
この言葉に対してアーメン、と何度言ってきたことだろうか。
常日頃から主の御心を窺い、主が
 「せよ」と仰せになるならば「はい」と、
 「やめよ」と仰せになるならば「はい」と、
 「手放せ」と仰せになるならば「はい」と、
躊躇することなく従えるようになりたい。
やはりというか、従うのが難しい選択を迫られるときもあることと思う。が、その時は損に思えるようなことだとしても、長い視点で見れば嫌でも主の御心に従うほうが絶対に良いと断言できるだろう。霊的な目をもっともっと養いたいなぁ。

そしてもうひとつ印象深かったのが「リラックスしましょう」というもの。
伝道に熱心であったり、奉仕活動に熱心であったりするのは、もちろん尊く、良いことである。だけどもう少しリラックスしてはどうだろうか、というメッセージ。キリストの品性を現すクリスチャンは、その存在そのものがキリストの証となるのだから。
かつて私のホームページ(今はブログに移行したので存在していない)に
「キリスト教を求めるのではなく、キリストを求めよ」
という一文を載せていた。
主に対する熱心さからか、いつの間にやらどこか宗教的になり「自分たちが正しい。あそこは間違っている」などと裁いてしまいがち。しかし究極的には、何が正しくて何が間違いかは神さまにしか正しい判断は出来ないところだ。
近年では多くの集会が教団・教派を問わない超教派で行われるようになってきた。「祈りの祭典」は、超教派よりも一歩進んだ「違いをお互いに認め合う教派」、言うなれば「認教派」とでも言うべきだろうか?
全てを無にして一致しましょう、ではなくそれぞれのカラーを受け入れつつ一致しましょうというものです。
これまでお互い裁きあってきて一番傷ついているのは聖霊派でも福音派でもなく、主ご自身です。

それにしてもN師による祈りのリードの合間に語られた証が印象的。師の活動力には改めて驚かされる。近々開催される大集会に、師の大胆な行動が大きな影響を与え、教団・教派を超えた一致という目標を前進させた。
聖霊派と福音派。これまで一緒に歩みつつもどこかすれ違ってきた仲であったが、いよいよ御霊による完全な一致が実現するのだろうかと思うと期待せずにはいられない。

最新の画像もっと見る