1960年代半ば以降、周辺の南部アフリカ諸国が次々と独立したり、武装解放闘争が激化すると、南ア政府もその対応を迫られることになる。 1966年に首相になった『フォルスター』は、国内では分離発展政策を進め、対外的には 『緊張緩和(デタント)』政策を進めたが、1975年のアンゴラ、モザンビークの独立と社会主義化、国内では1976年のソウェト(ヨハネスバーク近郊の黒人居住区)蜂起によりデタント政策は失敗し、折からの情報省スキャンダルに連座して失脚する。
ANC、PACの非合法化の後の反政府活動は、教会と学生に委ねられ『黒人意識運動』がおき、多くの共鳴者を得た。しかしソウェト事件以後は、その活動も禁止され、それに代わって1978年に『アザニア人民機構(AZAPO)』や『インカタ自由党』が結成される。この年に首相になった『ボータ』は、南部アフリカへの共産主義の侵入を防ぐと言う名目で、国家総動員の上に立つ全面戦略を実施する。
ボータは、周辺諸国に対してはアメとムチを使う不安定工作を行い、ANC基地撤去と引き換えに経済援助を与えると言う友好不可侵条約を結んでいった。国内では分離発展政策によってアフリカ人の隔離を強化し、その反面では一部のカラードとインド人を白人側に取り込み、人種別三院制議会を作り、1984年に大統領となる。そしてこの年、タウンシップ(出稼ぎ労働者の隔離宿舎)を拠点としておきた反政府運動に非常事態宣言をして弾圧を加える。そのために国際社会の非難を引起こし、対南ア経済制裁は一層強化されてしまう。そこでボータは、反政府運動を弾圧する一方で、身分証法等の一部のアパルトヘイト法の緩和を余儀なくされる。そして1989年の始めに、ボータが脳溢血で倒れると、与党国民党の中でもボータの政策に反対する声が強くなり、大統領代行であった『デクラーク』が大統領となるのである。
[日本と南アの関係]
1961年、南ア政府は内務省通達によって日本人に『名誉白人』の称号を与えた。それは日本人は人種的にはアジア人であるが、居住区、施設では白人待遇を与えると言うものである。原因は、前年のシャープビル事件に因って、欧米資本が南アから撤退し、更にイギリス連邦からの脱退で国際的に孤立化の危機感があったからである。勿論アジア諸国からは激しい非難が有ったが、1960年代には日本の自動車企業が進出する。1962年トヨタ、1964年に日産が現地工場の操業を開始する。日本政府は、1962年の国連総会でのアパルトヘイト非難決議を支持し、1968年には日本企業の対南ア直接投資を禁止したが、原料を海外に依存するために、貿易には制限を設けなかった。
1970年代には、日本の大手商社は次々と支店を開設し、更には日立、東芝、松下、三洋、シャープ等も進出する。一方、南ア航空と観光局が東京に事務所を設け、民間の友好協会が出来たりしたが、政府はスポーツ、文化、教育の交流は禁止した。
1980年代始めには、南アは日本にとって、輸出で第三位、輸入で第二位の国になっていたが、1985年の非常事態宣言のため、従来の禁止措置に加えてアパルヘイト執行機関へのコンピューターの輸出禁止とかを決め、その上、南ア政府にアパルトヘイト解消努力がないとして、鋼材の輸入禁止、観光ビザの発行停止、航空機乗り入れ禁止などの措置をしたがドル安や制裁措置の不徹底によってドル建の表示で日本が最大の貿易相手国に成ってしまう。こうなると米国を始めとする国際社会の非難が高まり、1988年の国連総会では日本を名指しした非難決議までされてしまい、政府・産業界に大きな衝撃を与える。
しかし、1991年にデクラークは、アパルトヘイト法の撤廃を決定したので日本政府は徐々に制裁措置を解除し、1992年には外交関係を再開している。
⑥マンデラ獄中生活とウィニーの健闘
1964年、マンデラは国家反逆罪で終身刑となり、仲間と共にロベン島に収檻される。彼が獄中にある間、彼の妻のウィニーと仲間たちは彼らの釈放を求める運動を続ける。刑務所の中では監守たちにどう扱われるかは、こちらの態度次第であるとして彼等は闘った。乱暴な監守が彼に暴力を振るおうとしたときマンデラは『私に指一本でも触れて見ろ、お前をこの世で一番金のかかる法廷に引きずり出してやる、裁判が終わったらお前は教会に巣くう鼠より貧乏になっているぞ』と恫喝したと言う。看守たちは囚人たちが出所する時には、この国では白人がボスであると分かるようにしてやるという考えであった。
1965年には、石灰の石切り場に連れていかれて、六か月で終わるからそうしたらもっと軽い作業をさせると言われたが、ここの作業は 13 年も続いたのである。
マンデラが逮捕されてから 15 年目の1977年、ウィニーはオレンジ自由州の『ブランドフォート』へ追放される。丁度フォルスターが首相のときである。彼女は住居として床もない小さな小屋をあてがわれたが、この地域は、セソト語圏でコーサ語は全く通用しなかった。しかし彼女は地域に働きかけ女性グループを作り、女性の自立を呼び掛ける。そして『自らの手で問題を解決しよう。主導権は我にある、自由を掴む日は近い。我々に力を』というマンデラの言葉を伝え、『一人一票』の理想を説く。
当時外相の『ビク・ボタ』は、記者団の一人一票についての質問には、こんな物はとにかく実現しないと言い切る。二千万の黒人を無視するのか?に対しても、数などは問題ではないと言ってのけた。全く同じ問題に就いて、ウィニーは『一人一票の可能性は十分にある。一人一票は必ず実現し、黒人が多数派となる。そして人々に和解をもたらす。指導者は当然マンデラです』と明言する。
『政府は人殺しだ』『マンデラを釈放せよ』『今こそ立ち上がろう』というプラカードを持ち、[マンデラに自由を]と歌いながらのデモが盛んに行なわれた。
七年間の追放の後、ウィニーは政府に抵抗してソウェトの自宅に戻ろうとするが、官憲に逮捕される。しかしブランドフォートへ戻ることを条件に釈放されるた彼女はそれを無視して多くの若者を引き連れて自宅に凱旋する。(この親衛隊が後に事件を起こし、ウィニーを離婚と破滅に向かわせる。)『やっと家に帰れました。今こそ国を取戻すときです。例え武器はなくても、我々には石やマッチがある』とのウィニー演説に民衆は燃え上がり政府側への抵抗は流血を伴ないながらも続いて行く。
1978年から南アの大統領となったP・W・ボタは、マンデラを釈放し、対話をする積もりはあるか?と質問され『憲法改革の対話には応ずるが、革命を望む者と話す気はない』と言い、ANCからの脱退を条件にマンデラの釈放を提案するが、反体制集会で彼の娘の
ジンジ・マンデラは『私は今までも、そして今後もANCの一員であり続ける。死を迎える日まで私は闘い続ける。皆さんの自由と私の自由は不可分の物である』と言う父の声明を読み上げる。この集会ではノーベル平和賞に輝く『ツツ大主教』も『我々はマンデラを必要とする。彼は我々のリーダーである。リーダーを釈放せよ』と演説した。
そして1989年の始め、ボタは病に倒れ、当時国民教育相で大統領代行であったデクラートが総選挙後の 9月に新大統領に就任する。彼の選挙公約は国際的制裁、国内政情不安定を打開するために、アフリカ人との対話路線であり、その公約の実践のため、1990年 2月の国会演説でアフリカ人との交渉を最優先課題とし、その為にアフリカ民族会議ANC、
パン=アフリカニスト会議PAC、南ア共産党を合法化し、統一民主戦線など33の反政府組織の活動禁止令を解除した。そして 2月 11 日には、遂にマンデラを無条件釈放する。彼は釈放後、本拠のあるザンビアの首都ルサカにいき、ANC副議長に就任し、病気療養中のタンボに代わって事実上ANC議長職を代行する。
しかし、釈放から数か月後、あれほど健闘したウィニーは、暴行、誘拐、殺人の罪で告訴される。この二年前に、ストンシー・モエケーシーと言う当時 14 歳の活動家が、スパイ容疑でウィニーのボディーガードによって彼女に家に連れさられ、後に死体となって発見された事件であった。マンデラは、ストンシーの事件の責任が彼女にあるとは信じなかったが、1992年に、彼女には誘拐容疑に関してだけ執行猶予の付いた有罪判決が出る。
⑦アパルトヘイト廃止への難産
和解に向けた動きの中で、白人側では保守党及び右翼団体アフリカーナー抵抗運動(AWB)等が、白人だけの居住区を求めて反対し、アフリカ人側もインカタ自由党が自分たちを主要勢力として認めるように主張したし、PAC、黒人意識運動の流れを汲むアザニア人民機構(AZAPO)が反対し、暴力を伴なう騒乱となりつつあったが、デクラークはこうした暴力的な動きを只、手をこまねいて見ているだけであった。 1990年 5月、対話による解決と言う手段を認めたANCと政府の第一回の予備交渉が行われたが、刑務所で 27 年間過ごしたマンデラは、新生アフリカに向けたこの交渉の中心人物となる。三日間の討議の末、双方は『フロート・シュール議定書』に署名する。その内容は
(1) 政治犯の釈放、亡命者の帰還に対する作業委員会の設置
(2) ANC全国執行委員など重要政治犯の仮釈放と政治活動の許可
(3) 治安関係法の見直し
(4) 政府側の非常事態宣言解除に向けての作業とANC側の黒人武力衝突終結への努力 (5) 黒人間武力衝突終結のための双方連絡網の確立
であったが、マンゴスツ・ブレテジ率いるインカタ自由党は『政府と一部の党が他を無視して協議し、国の将来を決定する事に憤りを覚える』と表明して反対する。彼等はANC系の統一民主戦線(UDF)との対立が激しく、黒人間の武力衝突を激化させていたのである。マンデラは『仲間同志の闘いに身を投じているみなさん、銃を、ナイフを、パンガ刀を海に投げ捨ててくれ、私たちは肌の色も民族も問わず、話す言葉も問わない新しい国を作るのである』と必死に抗争の沈静化に務める。
第二回予備交渉は、1990年 8月に行われる。ここでANC側は始めて武力闘争停止を認め政府側も治安関係法の見直しを確約し、政治犯の釈放期限を1991年 4月とした。 この間でも黒人間の抗争は終らない。
マンデラの呼び掛けも余り効果はなかったが、漸く1991年 1月にダーバンで会談が成立。 (1) 双方は党員に対して直ちに武力衝突を止めるように呼び掛ける。
(2) インカタ党首ブレテジに対する非難を止める。
(3) 脅しや強制による組織加入を止める。
(4) 共同監視機構を使って協定の実施を監視する。
(5) マンデラとブレテジが共同で被災地を回り和平を呼び掛ける。
との五項目で合意した。
1991年 2月 1日、反アパルトヘイト運動と、国際社会の注視の中で開催された国会開催演説で、デクラークはアパルトヘイト全廃と言う歴史的演説を行ない、同時に後日の青写真とも言うべき、『新生南アフリカのための宣言』を公表した。しかし大統領は同時にANCが要求する『制憲会議の開催』と『暫定政府の設立』は拒否し、多党会議による新憲法の討議を主張した。
ANCはアパルトヘイト全廃は高く評価したが、制憲会議の開催と暫定政府の設立の拒否には失望の色を隠せなかった。この演説は海外では、特に西欧諸国からは賞賛を浴びたが国内的に全面賛成したのは、インカタのみで極右は反対、PACとAZAPOは制憲会議の開催と暫定政府の設立の拒否を非難した。
相変わらずの黒人間抗争で、 5月にインカタはANCと断絶を宣言、ANCも政府との交渉を中断する。
しかし国会では、 6月に国土の 87%を白人のものと決めた『土地法』と、人種的に居住地を決めた『土地関連法』等が次々と廃止され、更にはアパルトヘイトの根幹であった『人口登録法』廃止が可決され、アパルトヘイトは全廃となる。
一方、黒人間の武力衝突に付いては、教会と財界が仲介して政府、インカタ、ANCの会談が持たれ収束へ向かう。ANCは、7 月に 30 年振りの全国大会をダーバンで開催、新議長にマンデラが選ばれる。
1991年 12 月、複数政党間での正式交渉が開始されるが、これが民主南アフリカ会議である。デクラークが『和平協定に反して武装闘争を続けるこのような組織は信頼できない。ANCとの協定違反が交渉を難航させている』と演説する。会談を妨害する為に、極右グループが地方で暴動を引き起こし、AWBアフリカーナ抵抗運動は、会議場に乱入する。こんな妨害にも関わらず、選挙の日は1994年 4月と決定された。
マンデラは、ウィニーの事は全く語らなかった。自分が傷付いたことは口にしなかったのであるが、遂に正式に別居することを決意する。1992年 4月 13 日、『妻であり同志であるウィニーと私の関係が、マスコミで取り沙汰されている。彼女への愛は今も変わらないが、いくつかの点に於いて、夫婦間に意見の相違と緊張が生じた。そこで別居が最善と言う合意に達した。私の心痛をご理解下さい』と発表する。これは彼にとっては、悲劇的な決定ではあったが、必要な、しかも正しい決定であった。
1993年 10 月 15 日、ノルウェーのオスロで、彼はノーベル平和賞をデクラークと共に受ける。その時『過去の苦難を振返っているときではなく、南アの将来に付いて語り合う時である。最善の策を見出ださなくてはならない。デクラーク氏とは政治では敵どうしではあるが、共に賞を受ける事を決意しました。私はこれを和解の印とも考えている』と演説しデクラートと握手する。
いよいよ選挙キャンペーンが始まる。ダリブンカは『平和を説く正しきものよ、苦難の日々は去った。真実は永遠に真実の儘、賢きものは言葉を巧みに操り、ボーアの言葉も、英語も豊に語る、マディバよ、共に飛ぼう、鷲のごとく、おおらかに』とエールを送る。
しかし、オレンジ自由州の選挙事務所が爆破される事件が起きる。彼は卑劣な手段を使って選挙の延期を企てても、極右勢力に屈すること無く、投票は予定どうり 4月 27 日に断固実施すると決意を改めて表明する。
選挙の一か月前、ヨハネスブルクでのデモ行進のとき、インカタ自由党はANCと衝突する。インカタの参加なしには平和な選挙は望めない。最後の手段は党首のブレテジとの交渉となる。
クルーガー国立公園で行われた選挙会議でブレテジは『選挙後の国民統一政府が施行する法律条項は受入れ不可能である』と言い切ってしまう。マンデラも『今回の会議には過度の期待を寄せすぎていた』と落胆する。しかし彼はブレテジの件に関して大統領と直接に話し合い、選挙直前になって、政府、ANCとブレテジの間に密約ができた。選挙の一週間前に、ブレテジは突然『インカタは選挙に参加する』事を発表する。マンデラは『今回の合意は、平和と和解、国家建設の総選挙に向かう大きな一歩となる』と喜ぶ。
遂に一人一票が実現した選挙の日がくる。民衆は投票のため、草原に長い列を作り、順番を待つ。
結果はマンデラの勝利となり、就任式は120 か国からの来賓で賑わう。1994年 5月 10 日のことである。『共和国と国民のためにこの身を捧げる』と宣誓した彼は『自分に与えられた使命を人々と祖国のために成し遂げた時、人は始めて静かに休息することができる。その時こそ私は永遠の眠りにつく』と言っていた。
マンデラの夢を結実させた新生南アフリカの恒久憲法は、1997年に発効され、アパルトヘイトに終止符をうち、白人政権最後の指導者デクラークは政界を去った。マンデラ自身も1999年の大統領選には出馬しない事を表明し『遠かった夜明け』の後を引き継ぐのは、次ぎの世代の仕事になる。
[民衆が歌い続けたマンデラ賛歌]
歴史を変えるには、長い年月が必要だった
苦しみを越えるにも、長い年月が必要だった
弱きものを痛め付けた抑圧は消える
悪が私の心を閉ざすとき、悲しみの叫びを聞いた
そしてあの人が現れた 憎しみを憂いながら
彼等はやってきた 太鼓に音を求めて
今我々に そのリズムを選ぶ自由はない
悪魔の歌声が甲高く響く 私は応える
銃の高言に石の言葉で炎を燃やし続けるために 命を落とすものがいる
彼の意志は強く 心の中に歌がある
悲しみのメロディーが 火の粉となって降り懸かる
彼は叫ぶ『アフリカを返せ』と
歌えアフリカ声高く 全ての者に届くように
ネルソン・マンデラに自由を マンデラを自由の身に
捕らわれの身で27年 つらい日々を送ってる
体は疲れ果てたけど 心は自由に飛び回る
ネルソン・マンデラに自由を マンデラを自由の身に
おお マンデラ アフリカの子よ 自由の父、愛の使者よ
マティバ 心の友よ
貴方を称えよう この歌を歌おう
私達の未来のために ホリササは生まれた
貴方に導かれる日を 私達は待ち続けた
あなたの生きる姿に 平等の意味を知った
そしてあの人がやって来た 憎しみを憂いながら
アパルトヘイトは去っても 痛みを忘れずにいよう
手と手をつないで一つの輪になろう
祖国よ 涙を拭いて大統領を称えよう
大統領のために歌おう 大統領のために祈り
大統領のために声を上げ踊ろう
自由の戦士マンデラのために
神よ 感謝します 祈りは聞き届けられた
さあ 祝おう 我らが大統領のために
ANC、PACの非合法化の後の反政府活動は、教会と学生に委ねられ『黒人意識運動』がおき、多くの共鳴者を得た。しかしソウェト事件以後は、その活動も禁止され、それに代わって1978年に『アザニア人民機構(AZAPO)』や『インカタ自由党』が結成される。この年に首相になった『ボータ』は、南部アフリカへの共産主義の侵入を防ぐと言う名目で、国家総動員の上に立つ全面戦略を実施する。
ボータは、周辺諸国に対してはアメとムチを使う不安定工作を行い、ANC基地撤去と引き換えに経済援助を与えると言う友好不可侵条約を結んでいった。国内では分離発展政策によってアフリカ人の隔離を強化し、その反面では一部のカラードとインド人を白人側に取り込み、人種別三院制議会を作り、1984年に大統領となる。そしてこの年、タウンシップ(出稼ぎ労働者の隔離宿舎)を拠点としておきた反政府運動に非常事態宣言をして弾圧を加える。そのために国際社会の非難を引起こし、対南ア経済制裁は一層強化されてしまう。そこでボータは、反政府運動を弾圧する一方で、身分証法等の一部のアパルトヘイト法の緩和を余儀なくされる。そして1989年の始めに、ボータが脳溢血で倒れると、与党国民党の中でもボータの政策に反対する声が強くなり、大統領代行であった『デクラーク』が大統領となるのである。
[日本と南アの関係]
1961年、南ア政府は内務省通達によって日本人に『名誉白人』の称号を与えた。それは日本人は人種的にはアジア人であるが、居住区、施設では白人待遇を与えると言うものである。原因は、前年のシャープビル事件に因って、欧米資本が南アから撤退し、更にイギリス連邦からの脱退で国際的に孤立化の危機感があったからである。勿論アジア諸国からは激しい非難が有ったが、1960年代には日本の自動車企業が進出する。1962年トヨタ、1964年に日産が現地工場の操業を開始する。日本政府は、1962年の国連総会でのアパルトヘイト非難決議を支持し、1968年には日本企業の対南ア直接投資を禁止したが、原料を海外に依存するために、貿易には制限を設けなかった。
1970年代には、日本の大手商社は次々と支店を開設し、更には日立、東芝、松下、三洋、シャープ等も進出する。一方、南ア航空と観光局が東京に事務所を設け、民間の友好協会が出来たりしたが、政府はスポーツ、文化、教育の交流は禁止した。
1980年代始めには、南アは日本にとって、輸出で第三位、輸入で第二位の国になっていたが、1985年の非常事態宣言のため、従来の禁止措置に加えてアパルヘイト執行機関へのコンピューターの輸出禁止とかを決め、その上、南ア政府にアパルトヘイト解消努力がないとして、鋼材の輸入禁止、観光ビザの発行停止、航空機乗り入れ禁止などの措置をしたがドル安や制裁措置の不徹底によってドル建の表示で日本が最大の貿易相手国に成ってしまう。こうなると米国を始めとする国際社会の非難が高まり、1988年の国連総会では日本を名指しした非難決議までされてしまい、政府・産業界に大きな衝撃を与える。
しかし、1991年にデクラークは、アパルトヘイト法の撤廃を決定したので日本政府は徐々に制裁措置を解除し、1992年には外交関係を再開している。
⑥マンデラ獄中生活とウィニーの健闘
1964年、マンデラは国家反逆罪で終身刑となり、仲間と共にロベン島に収檻される。彼が獄中にある間、彼の妻のウィニーと仲間たちは彼らの釈放を求める運動を続ける。刑務所の中では監守たちにどう扱われるかは、こちらの態度次第であるとして彼等は闘った。乱暴な監守が彼に暴力を振るおうとしたときマンデラは『私に指一本でも触れて見ろ、お前をこの世で一番金のかかる法廷に引きずり出してやる、裁判が終わったらお前は教会に巣くう鼠より貧乏になっているぞ』と恫喝したと言う。看守たちは囚人たちが出所する時には、この国では白人がボスであると分かるようにしてやるという考えであった。
1965年には、石灰の石切り場に連れていかれて、六か月で終わるからそうしたらもっと軽い作業をさせると言われたが、ここの作業は 13 年も続いたのである。
マンデラが逮捕されてから 15 年目の1977年、ウィニーはオレンジ自由州の『ブランドフォート』へ追放される。丁度フォルスターが首相のときである。彼女は住居として床もない小さな小屋をあてがわれたが、この地域は、セソト語圏でコーサ語は全く通用しなかった。しかし彼女は地域に働きかけ女性グループを作り、女性の自立を呼び掛ける。そして『自らの手で問題を解決しよう。主導権は我にある、自由を掴む日は近い。我々に力を』というマンデラの言葉を伝え、『一人一票』の理想を説く。
当時外相の『ビク・ボタ』は、記者団の一人一票についての質問には、こんな物はとにかく実現しないと言い切る。二千万の黒人を無視するのか?に対しても、数などは問題ではないと言ってのけた。全く同じ問題に就いて、ウィニーは『一人一票の可能性は十分にある。一人一票は必ず実現し、黒人が多数派となる。そして人々に和解をもたらす。指導者は当然マンデラです』と明言する。
『政府は人殺しだ』『マンデラを釈放せよ』『今こそ立ち上がろう』というプラカードを持ち、[マンデラに自由を]と歌いながらのデモが盛んに行なわれた。
七年間の追放の後、ウィニーは政府に抵抗してソウェトの自宅に戻ろうとするが、官憲に逮捕される。しかしブランドフォートへ戻ることを条件に釈放されるた彼女はそれを無視して多くの若者を引き連れて自宅に凱旋する。(この親衛隊が後に事件を起こし、ウィニーを離婚と破滅に向かわせる。)『やっと家に帰れました。今こそ国を取戻すときです。例え武器はなくても、我々には石やマッチがある』とのウィニー演説に民衆は燃え上がり政府側への抵抗は流血を伴ないながらも続いて行く。
1978年から南アの大統領となったP・W・ボタは、マンデラを釈放し、対話をする積もりはあるか?と質問され『憲法改革の対話には応ずるが、革命を望む者と話す気はない』と言い、ANCからの脱退を条件にマンデラの釈放を提案するが、反体制集会で彼の娘の
ジンジ・マンデラは『私は今までも、そして今後もANCの一員であり続ける。死を迎える日まで私は闘い続ける。皆さんの自由と私の自由は不可分の物である』と言う父の声明を読み上げる。この集会ではノーベル平和賞に輝く『ツツ大主教』も『我々はマンデラを必要とする。彼は我々のリーダーである。リーダーを釈放せよ』と演説した。
そして1989年の始め、ボタは病に倒れ、当時国民教育相で大統領代行であったデクラートが総選挙後の 9月に新大統領に就任する。彼の選挙公約は国際的制裁、国内政情不安定を打開するために、アフリカ人との対話路線であり、その公約の実践のため、1990年 2月の国会演説でアフリカ人との交渉を最優先課題とし、その為にアフリカ民族会議ANC、
パン=アフリカニスト会議PAC、南ア共産党を合法化し、統一民主戦線など33の反政府組織の活動禁止令を解除した。そして 2月 11 日には、遂にマンデラを無条件釈放する。彼は釈放後、本拠のあるザンビアの首都ルサカにいき、ANC副議長に就任し、病気療養中のタンボに代わって事実上ANC議長職を代行する。
しかし、釈放から数か月後、あれほど健闘したウィニーは、暴行、誘拐、殺人の罪で告訴される。この二年前に、ストンシー・モエケーシーと言う当時 14 歳の活動家が、スパイ容疑でウィニーのボディーガードによって彼女に家に連れさられ、後に死体となって発見された事件であった。マンデラは、ストンシーの事件の責任が彼女にあるとは信じなかったが、1992年に、彼女には誘拐容疑に関してだけ執行猶予の付いた有罪判決が出る。
⑦アパルトヘイト廃止への難産
和解に向けた動きの中で、白人側では保守党及び右翼団体アフリカーナー抵抗運動(AWB)等が、白人だけの居住区を求めて反対し、アフリカ人側もインカタ自由党が自分たちを主要勢力として認めるように主張したし、PAC、黒人意識運動の流れを汲むアザニア人民機構(AZAPO)が反対し、暴力を伴なう騒乱となりつつあったが、デクラークはこうした暴力的な動きを只、手をこまねいて見ているだけであった。 1990年 5月、対話による解決と言う手段を認めたANCと政府の第一回の予備交渉が行われたが、刑務所で 27 年間過ごしたマンデラは、新生アフリカに向けたこの交渉の中心人物となる。三日間の討議の末、双方は『フロート・シュール議定書』に署名する。その内容は
(1) 政治犯の釈放、亡命者の帰還に対する作業委員会の設置
(2) ANC全国執行委員など重要政治犯の仮釈放と政治活動の許可
(3) 治安関係法の見直し
(4) 政府側の非常事態宣言解除に向けての作業とANC側の黒人武力衝突終結への努力 (5) 黒人間武力衝突終結のための双方連絡網の確立
であったが、マンゴスツ・ブレテジ率いるインカタ自由党は『政府と一部の党が他を無視して協議し、国の将来を決定する事に憤りを覚える』と表明して反対する。彼等はANC系の統一民主戦線(UDF)との対立が激しく、黒人間の武力衝突を激化させていたのである。マンデラは『仲間同志の闘いに身を投じているみなさん、銃を、ナイフを、パンガ刀を海に投げ捨ててくれ、私たちは肌の色も民族も問わず、話す言葉も問わない新しい国を作るのである』と必死に抗争の沈静化に務める。
第二回予備交渉は、1990年 8月に行われる。ここでANC側は始めて武力闘争停止を認め政府側も治安関係法の見直しを確約し、政治犯の釈放期限を1991年 4月とした。 この間でも黒人間の抗争は終らない。
マンデラの呼び掛けも余り効果はなかったが、漸く1991年 1月にダーバンで会談が成立。 (1) 双方は党員に対して直ちに武力衝突を止めるように呼び掛ける。
(2) インカタ党首ブレテジに対する非難を止める。
(3) 脅しや強制による組織加入を止める。
(4) 共同監視機構を使って協定の実施を監視する。
(5) マンデラとブレテジが共同で被災地を回り和平を呼び掛ける。
との五項目で合意した。
1991年 2月 1日、反アパルトヘイト運動と、国際社会の注視の中で開催された国会開催演説で、デクラークはアパルトヘイト全廃と言う歴史的演説を行ない、同時に後日の青写真とも言うべき、『新生南アフリカのための宣言』を公表した。しかし大統領は同時にANCが要求する『制憲会議の開催』と『暫定政府の設立』は拒否し、多党会議による新憲法の討議を主張した。
ANCはアパルトヘイト全廃は高く評価したが、制憲会議の開催と暫定政府の設立の拒否には失望の色を隠せなかった。この演説は海外では、特に西欧諸国からは賞賛を浴びたが国内的に全面賛成したのは、インカタのみで極右は反対、PACとAZAPOは制憲会議の開催と暫定政府の設立の拒否を非難した。
相変わらずの黒人間抗争で、 5月にインカタはANCと断絶を宣言、ANCも政府との交渉を中断する。
しかし国会では、 6月に国土の 87%を白人のものと決めた『土地法』と、人種的に居住地を決めた『土地関連法』等が次々と廃止され、更にはアパルトヘイトの根幹であった『人口登録法』廃止が可決され、アパルトヘイトは全廃となる。
一方、黒人間の武力衝突に付いては、教会と財界が仲介して政府、インカタ、ANCの会談が持たれ収束へ向かう。ANCは、7 月に 30 年振りの全国大会をダーバンで開催、新議長にマンデラが選ばれる。
1991年 12 月、複数政党間での正式交渉が開始されるが、これが民主南アフリカ会議である。デクラークが『和平協定に反して武装闘争を続けるこのような組織は信頼できない。ANCとの協定違反が交渉を難航させている』と演説する。会談を妨害する為に、極右グループが地方で暴動を引き起こし、AWBアフリカーナ抵抗運動は、会議場に乱入する。こんな妨害にも関わらず、選挙の日は1994年 4月と決定された。
マンデラは、ウィニーの事は全く語らなかった。自分が傷付いたことは口にしなかったのであるが、遂に正式に別居することを決意する。1992年 4月 13 日、『妻であり同志であるウィニーと私の関係が、マスコミで取り沙汰されている。彼女への愛は今も変わらないが、いくつかの点に於いて、夫婦間に意見の相違と緊張が生じた。そこで別居が最善と言う合意に達した。私の心痛をご理解下さい』と発表する。これは彼にとっては、悲劇的な決定ではあったが、必要な、しかも正しい決定であった。
1993年 10 月 15 日、ノルウェーのオスロで、彼はノーベル平和賞をデクラークと共に受ける。その時『過去の苦難を振返っているときではなく、南アの将来に付いて語り合う時である。最善の策を見出ださなくてはならない。デクラーク氏とは政治では敵どうしではあるが、共に賞を受ける事を決意しました。私はこれを和解の印とも考えている』と演説しデクラートと握手する。
いよいよ選挙キャンペーンが始まる。ダリブンカは『平和を説く正しきものよ、苦難の日々は去った。真実は永遠に真実の儘、賢きものは言葉を巧みに操り、ボーアの言葉も、英語も豊に語る、マディバよ、共に飛ぼう、鷲のごとく、おおらかに』とエールを送る。
しかし、オレンジ自由州の選挙事務所が爆破される事件が起きる。彼は卑劣な手段を使って選挙の延期を企てても、極右勢力に屈すること無く、投票は予定どうり 4月 27 日に断固実施すると決意を改めて表明する。
選挙の一か月前、ヨハネスブルクでのデモ行進のとき、インカタ自由党はANCと衝突する。インカタの参加なしには平和な選挙は望めない。最後の手段は党首のブレテジとの交渉となる。
クルーガー国立公園で行われた選挙会議でブレテジは『選挙後の国民統一政府が施行する法律条項は受入れ不可能である』と言い切ってしまう。マンデラも『今回の会議には過度の期待を寄せすぎていた』と落胆する。しかし彼はブレテジの件に関して大統領と直接に話し合い、選挙直前になって、政府、ANCとブレテジの間に密約ができた。選挙の一週間前に、ブレテジは突然『インカタは選挙に参加する』事を発表する。マンデラは『今回の合意は、平和と和解、国家建設の総選挙に向かう大きな一歩となる』と喜ぶ。
遂に一人一票が実現した選挙の日がくる。民衆は投票のため、草原に長い列を作り、順番を待つ。
結果はマンデラの勝利となり、就任式は120 か国からの来賓で賑わう。1994年 5月 10 日のことである。『共和国と国民のためにこの身を捧げる』と宣誓した彼は『自分に与えられた使命を人々と祖国のために成し遂げた時、人は始めて静かに休息することができる。その時こそ私は永遠の眠りにつく』と言っていた。
マンデラの夢を結実させた新生南アフリカの恒久憲法は、1997年に発効され、アパルトヘイトに終止符をうち、白人政権最後の指導者デクラークは政界を去った。マンデラ自身も1999年の大統領選には出馬しない事を表明し『遠かった夜明け』の後を引き継ぐのは、次ぎの世代の仕事になる。
[民衆が歌い続けたマンデラ賛歌]
歴史を変えるには、長い年月が必要だった
苦しみを越えるにも、長い年月が必要だった
弱きものを痛め付けた抑圧は消える
悪が私の心を閉ざすとき、悲しみの叫びを聞いた
そしてあの人が現れた 憎しみを憂いながら
彼等はやってきた 太鼓に音を求めて
今我々に そのリズムを選ぶ自由はない
悪魔の歌声が甲高く響く 私は応える
銃の高言に石の言葉で炎を燃やし続けるために 命を落とすものがいる
彼の意志は強く 心の中に歌がある
悲しみのメロディーが 火の粉となって降り懸かる
彼は叫ぶ『アフリカを返せ』と
歌えアフリカ声高く 全ての者に届くように
ネルソン・マンデラに自由を マンデラを自由の身に
捕らわれの身で27年 つらい日々を送ってる
体は疲れ果てたけど 心は自由に飛び回る
ネルソン・マンデラに自由を マンデラを自由の身に
おお マンデラ アフリカの子よ 自由の父、愛の使者よ
マティバ 心の友よ
貴方を称えよう この歌を歌おう
私達の未来のために ホリササは生まれた
貴方に導かれる日を 私達は待ち続けた
あなたの生きる姿に 平等の意味を知った
そしてあの人がやって来た 憎しみを憂いながら
アパルトヘイトは去っても 痛みを忘れずにいよう
手と手をつないで一つの輪になろう
祖国よ 涙を拭いて大統領を称えよう
大統領のために歌おう 大統領のために祈り
大統領のために声を上げ踊ろう
自由の戦士マンデラのために
神よ 感謝します 祈りは聞き届けられた
さあ 祝おう 我らが大統領のために
今回インビクタスという映画について
調べており、背景を知る上で大変参考になりました。
特に、投獄中のウィニーの活躍。インビクタスの原書にはない記述を見て納得いたしました。
「自由への長き道のり」を読むとわかるのでしょうか。。まだ読んでないです。
私、映画を視覚障碍者と一緒に見るシティライツというボランティア団体で活動しており、今回インビクタスという映画を音声ガイド付きでサポートいたします。しかしそれだけでは十分に視覚障害者の方に状況を説明するのが難しく、事前にある程度背景を解説いたします。
このブログを参考にさせていただき解説をしたいと思っております。
ありがとうございました。
少しでもお役に立てば幸いです。
マンデラの勝利から十数年、再び南アは荒れてしまいました。ワールドカップまで呼び込んだのに残念です。
私は何時も思います。帝国主義万能の時代に
無力のため不幸にして強国の支配下になった国々は形だけ独立しても実態を伴っていません。先進国の大きな罪なのか?力を持たなかった
其の国民が悪いのか?
災害のとき、略奪が起きるかどうかで民度が
推定できますが、旧植民地は横溢する近代兵器で相手を倒すことは出来ますが、運営能力は
殆どゼロ。テロの温床地域も殆どが旧植民地、
少年少女が学校にも行かずに銃を手にするーー
そんな世界がまだまだ続きそう。