⑤毛沢東の栄光と悲惨…
1976年 9月 9日、中国医学院の徐静は特殊任務を受けている。それは毛沢東の遺体を保存する事であった。ソ連ではレーニンの遺体をどう保存したのか?孫文の遺体保存が失敗したのは何故か?長沙の馬王堆の女性遺体は何故二千年の間保存されていたのか?まで検討がされる。『毛主席の遺体を長期間しっかりと保存し、子々孫々に亘って人民大衆にしっかり仰ぎ見させる』というのが華国峰首相逹当時の首脳陣の狙いであったのである。そして今その遺体は『毛沢東記念堂』に安置されているが、どうもこの記念堂は後継者としての地位を固めたかった華国峰の思惑等の政治の匂いで塗り固められている。記念堂が一般公開されてからの来訪者総数が一億人を遥かに越えていることは中国を解放した毛沢東への敬愛心、神秘性に満ちた生涯への強い関心を示す証左である。但し唯物論者の毛沢東にとっては自分の亡骸が保存・公開されるなどは不本意ではないのか?1977に三度目の復活を果たし、華国峰を追い落とした登小平は華国峰が毛沢東の遺体を政治利用したと非難している。記念堂は今もアンタッチャブルな空間であり続け、毛沢東とは何か?と言う本質的疑問への答えは未だ模索の途上にある。毛沢東の実像は遺体と共に石造りの霊廟の中に封印されたままである。
1927年 9月末、当時三十三才の青年革命家の毛沢東は湖南省での武装蜂起に失敗し、江西ー湖南省境に横たわる羅霄山脈の麓、井岡山に逃げ込んだ。井岡山の冬は森も大地も堅く凍える。緯度こそ沖縄とほぼ同じであるが、標高二千米級の山々に囲まれて最低気温は氷点下十度迄になる。樹木は厚い霧氷に覆われ、山全体が巨大な氷室になるような所を原点に、毛沢東は未来にどんな光明を見いだしたのであろうか?率いる残存部隊は約一千人、苦しい行軍の途中では脱落兵が相次ぎ軍規も緩みがちであった。
国共合作の統一戦線は1927年 7月、蒋介石の4.12クーデターによって僅か三年半で崩壊していた。中国共産党はコミンテルンの指令を受け、武力による権力奪取へと路線を転換する。8 月には江西省の南昌で武装蜂起し、党独自の軍隊を始めて持つに至ったが、都市での蜂起に固執する『瞿秋白』らの党中央の戦略はことごとく裏目に出て『収秋蜂起』の後に組織は深刻な打撃を受ける。従って毛沢東の 9月の井岡山入りは労農革命軍の存亡を掛けた選択であったのである。
この辺りの経過をもう少し詳しく辿ると、8 月 1日、南昌蜂起を指揮したのは『周恩来』で、二万の兵力で南昌市街を占領したが、6 日にはここを放棄し広東省に向けて南下。
8 月 7日、党中央は緊急会儀を開き、秋の収穫期に湖北・湖南・江西・広東の四省で武装蜂起する方針を決める。これが『収秋蜂起』と言われるものである。そして国民党との妥協路線を採り、瞿秋白らを中心とする新指導部を選んだ。しかし収秋蜂起はいずれも失敗するのであるが、南昌蜂起の意義を党が自前の軍隊を始めて持ったと言う事で、8 月1 日は中国人民解放軍の建軍記念日となっている。
井岡山の生活は劣悪であった。関係者の回想によると、毛沢東も兵士らと一緒に苦い野菜を食べ、『政治的栄養は豊富である。これを食べられるならもっと多くの苦難を克服できる』と励ましたと言われる。しかし険しい連山と深い森が、敵にとっては攻めにくく、自らは守りやすい天然の要塞を複雑に形成していた。しかも国民党が統治している都市部からは遠く離れ、自給自足の農業経済が成立っていた。毛沢東は敵の支配権が十分及ばない農村に革命軍の生存空間を見いだして、根拠地建設に邁進する。人口の圧倒的多数を占める農民を、土地改革などを通じて味方に付け、広大な大陸に点在する都市を攻略すると言う、いわゆる農村から都市を包囲すると言うのが、毛沢東流の革命路線であった。これらは瞿秋白とかその後、党の実権を握った李立三が極左冒険主義で無謀な都市攻撃路線を採る事と対立しながら、辺境から中国の現実を冷徹に見据える中で骨格を整えていく。
井岡山の根拠地は最盛期には五十万の人口に拡大し、抑圧された農民の熱いエネルギーを解放して行く中国革命の大きな原点となったのである。又それ以上に、都市労働者に依拠したロシア革命のモデルと、その影響によって中国農村の重要性を無視したコミンテルンと中共指導部の教条的革命思想に対して、農民出身の毛沢東が生の現場から突き付けた強烈なアンチテーゼでもあった。
毛沢東の農村革命の成功には二つの重要な政策に支えられたと言われている。その一つは土地の所有問題の解決に全面的に取り組んだことである。当時は60% が地主に握られ、農民の手にあるのは40% 以下と言われて居たが、地主の土地を没収し実際に田畑を耕す者に公平に分配することによって、自分の土地を持ちたいと言う農民たちの最大の欲求に応えて広範な支持基盤を築いたのである。第二には労農革命軍を名実共に人民のための軍隊に改組、その為の精神を叩き込んだのである。創設間もない軍の中には流民等も少なくなく農民から食糧を奪ったり挑発品を勝手に山分けするなどの事件が多かった。このため毛沢東は厳格な軍規を定め、人民からは針一本、糸一筋も奪わないなどの方針を徹底させている。毛沢東の政策は理論的武器としては、マルクス・レーニン主義の衣を纏ってはいるが『食べ物があれば皆で食べ、着るものがあれば皆で着る』と言う中国に伝統的な平等主義のユートピア思想の影を引きずっているとも言える。
中国式にマルクス主義を消化した毛沢東の革命路線は他方、『銃口から政権が生まれる』との哲学の実践を通じて、党の主流を為していく。1930年代の初め、全国の党員は10万、紅軍は 6万を数え、根拠地も中央根拠地のほかに十数地区に達していた。こうして共産党は1931年、江西省南部の瑞金に『中華ソビエト共和国臨時中央政府』を樹立する。しかし国民党軍はこの根拠地に五回に亘り大規模包囲戦を展開し、紅軍もゲリラ戦で対抗したが抗し切れずに1934年10月に瑞金を脱出、約一年掛けて陝西省北部迄、11省・12000 粁を踏破する長征を行なった。出発の時の30万の兵力は長征の終了時には3 万になっていたと言う。この長征の途中、毛沢東は貴州省遵義で1935年 1月に開かれた政治局拡大会議で党・軍の指揮権を獲得、1937年には党中央は『延安』に本拠地を定める。これ以降の情勢は、『小さな火花も広野を焼き尽くす』との毛沢東の言葉通りに展開していった。
毛沢東が建国の後、大躍進・文化大革命などの重大な失策を積み重ねながら基本的には肯定的評価を得ているのは、毛沢東の全面否定は党の全面否定に繋がると言う理由のみではなく、人口の 8割の農民に依拠したからであろう。
中国の現職のトップの殆どが井岡山詣でをしていることは、彼等が自らの権力の源流を尋ね、正当性を再確認する聖地にしているからである。
新中国成立後、偉大な革命家・建国の父として毛沢東の威信は絶大であった。しかしながら解放前の乱世に於て遺憾なく発揮された彼の指導力は共産主義ユートピアの急速な実現を追及する余り、中国の生産発展状況や国民感情を適確に把握できなくなり、次第に現実から乖離していった。新国家が必要としたのは最早井岡山根拠地時代の体制への反逆では無く、着実に経済を再建し、人民の生活・文化を向上させる指導者であったのに、彼の強烈な個性は異常な『個人崇拝』を生み、残虐な政治闘争を繰返していく。大躍進・人民公社の破綻、文革の悲劇もその延長線上にあったのである。文革十年の犠牲者は『冤罪死数十万、被害者数千万、死傷者数百万』と言われている。
文革中、二度も失脚の憂き目を体験した登小平は『毛主席の晩年は自分と異なる意見には容易に耳を貸そうとしなかったので、民主集中制、集団指導制が破壊された』と証言しているし、党史研究室では毛沢東個人崇拝の前段階として1957年から1959年に掛けて反右派闘争による知識人らの言論弾圧、党内の異なる意見の封殺があり、更には1966年林彪副主席が毛主席をマルクス・レーニン主義の最高峰と持ち上げたことにより、個人崇拝が強まったと指摘している。しかし最大の悲劇は革命闘争であれだけ事実に基づいて真理を探る(実事求是)と言う考えを実践した彼が、晩年には自らその精神に背いてしまった点にある。彼を建国の父と仰ぐ中国国民にとっては余りに巨大な代価であった。
毛沢東の失政の代表の一つとされるものに大躍進と人民公社がある。1957年彼はモスクワの世界共産党会議で『中国では15年の内に鉄鋼生産で英国に追いつき追い越す』と気宇壮大な生産目標をぶち挙げた。現実よりも共産主義の理想に囚われた彼は帰国の後、党内の慎重論を撥ね除けて大衆動員による技術改革運動などを通じて生産の飛躍を目指す『大躍進運動』を開始した。そして翌年の 8月には農村の人民公社設立を決め、全国74万の農業合作社が 2万 6千の人民公社に生まれ変わった。しかし人民公社は行き過ぎた平均主義で農民の労働意欲を大きく減退させる事となってしまう。大躍進も食料生産の水増し報告や粗悪な鉄の大量生産などの浪費を生み、自然災害も加わって食料の大幅減産と広範囲な飢餓をもたらしただけであった。しかしこれに意見を挟んだ幹部は反党的の烙印を押され解任されている。
⑥整風運動…
これは余り有名ではないが私は文革にも繋がるものとして、毛沢東の暗部の最大の物の一つと考えている。
1990年代の初め、一人の作家の冤罪が半世紀振りに晴らされた。その名は『王実味』、 1940年の初め、共産党の革命根拠地だった陝西省延安で毛沢東が起こした『整風運動』の際、幹部の特権化を批判した事が毛沢東の逆鱗に触れ国民党のスパイ等の容疑で逮捕され1947年に41歳で処刑された。当時事件の処理を担当した『温済沢』は証拠に疑問は持ったが上層部の決定には逆らえなかったと語る。後悔に駆り立てられた温済沢は1980年代になってから再審査を求める報告書を党に提出した。そして党中央組織部は事実関係を再調査し、当時延安にいた老同志十人にも意見を求め、全員の同意の下に名誉回復が決定したのである。
この整風運動は大衆を動員した思想改革運動として提唱されたが、知識人の間では最初から党への不満が噴出する。この先頭に立ったのが王実味であった。彼は党中央機関紙の『解放日報』で党の腐敗や毛沢東ら指導者の特権意識を攻撃したのである。しかし整風運動が逆に彼への集中砲火的批判へと発展する中、温済沢は王実味に誤りを認めるように説得すると同時に党にも穏便な処置を願い出たが、上司から『王実味はトロッキストで国民党のスパイである』と聞かされ愕然とする。王実味は反党集団の頭目と言う罪名を加えられて1943年に逮捕されるのである。
ソ連でスターリンに対抗したトロッキーの一派を指すトロッキストはソ連指導下の中国共産党にとっては天敵その物であった。王実味が過去に彼等と交遊があったことからのでっち上げ罪状であったのである。
この整風運動はソ連の粛清機関の流れを汲む党中央社会部(康生部長)が介入し粛清の嵐となり、証拠もなく逮捕して自白を強要したのである。検挙者は四川・湖北・河南・雲南等十数省にも及ぶ。
温済沢が王実味の名誉回復に奔走していた1988年に『王事件は冤罪である』と言い切った論文が上海の月刊誌にのった。書いたのは女流作家の『戴晴』、しかし月刊誌は停刊させられ、彼女も翌年天安門事件を批判し党を去った。彼女は『整風運動は毛沢東が党内で独裁体制を敷くために実施した』と言い切る。その解説する所は、毛沢東は1935年の遵義会議で党内の軍事・政治指導権を確立するが、思想面ではまだソ連留学組の影響下にあったので、この運動によってソ連派を一掃し、毛沢東の個人崇拝を高めようとしたのであると言う。運動後の1945年の第七回党大会で毛沢東は党の最高指導者に就いた。それと同時に毛沢東思想が党規約に盛り込まれる。この事を戴晴は民主を標榜した共産党は毛沢東一人が全てを決定する党へと変質したと指摘している。彼女によれば毛沢東は王実味の処刑を見せしめとして党への批判を弾圧したのであると言う。毛の権威確立のためこの運動の反省は極めて不十分な物となり、後に反右派闘争や文革で同じ過ちを犯すことになる。
尚、整風運動で粛清に辣腕を振るった康生は文革の際にも劉小奇国家主席の追い落としを蔭で演出しているし、江青の庇護者としても著名である。
⑦文化革命…死を選んだ国民作家
1966年 8月23日、著名作品で知られる文豪『老舎』は北京の孔子廟で赤い腕章を付けた
『毛沢東の親衛隊』紅衛兵逹から殴る蹴るの暴行を受け、重傷を負った。翌日自宅を出たまま行方不明となった彼は、市街地北西の太平湖で水死体となって発見された。遺体の発見時、湖面には紙片が漂いそれには老舎の字で毛沢東作の詩が記されていた。彼の長男の舒乙氏はこれを謎として捕らえている。『父の死後、当局から遺品は返却された。しかしあの紙片だけは、見せてももらえ無いし、勿論返してもらっていない。紙片には毛主席の詩だけでは無く父の何らかの言葉が記されている筈だ。作家たる者が自らの言葉を書き残さないと言う事はあり得ない』と確信しており、当局の対応はその公開を憚るような内容であったことを意味すると語っている。彼は父の自殺の理由を究明する手掛かりをつかむためその作品を再読吟味するうちに奇妙な符合に気が付いた。『詩人』と題する随筆の中に『社会に明らかに災難が生じたとき、詩人は身を持って諫めんと入水し難に殉ずる』との一文を発見したのである。老舎は果たして文革と言う災難が祖国を破滅へと導くことを憂い自らの死を通じて未曾有の混乱を引起こした毛沢東を諫めようとしたのであろうか?中国作家協会副主席の要職にあった老舎が名誉回復を果たし、党・政府による公式の追悼式が行われたのは、死去から十二年後の1978年の事であった。
四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)の打破と言う文革の狂気の中で紅衛兵に吊しあげられたり、造反派の闘争大会で肉体的、精神的暴行を受けて死に追いやられた文化人、知識人は、もとより老舎一人ではない。農民作家の『趙樹理』も『反革命修正主義分子』の汚名を着せられ、迫害を受けた末、1970年に非業の死を遂げている。舒乙氏は『作家たちは全て打倒された。共産党が非常に評価していた作家も例外では無かった。唯一地位を保ったのは、過去の作家では『魯迅』だけであり、現存の作家の中では『浩然』のみ、文革が文芸界に与えた衝撃の激しさが分かる』と語る。
1957年、毛沢東は『百家斉放・百家争鳴』運動の中で国民に自由な意見の発表を呼び掛けたが、党批判の声が噴出したことで一転して批判者を『右派』と決め付け、厳しい弾圧を行なった。この反右派運動の主な標的になったのが『知識人』である。これ以後、党内民主は失われ、文芸・学術界の討論や理論はストレートに政治問題に転化すると言う風潮になった。その帰結が文革中の悲劇である。1978年以降、必要な処置ではあったが拡大したのは誤りであったと党が認め、大半の右派の名誉は回復されたが政治に弄ばれてきた知識人の心の傷は今も癒えていない。
⑧文化革命…国覆う愚行と狂信
湖南省の小さな町を舞台に文革の迫害に耐え抜いた男女の愛を描いた映画『芙蓉鎮』の監督『謝晋』は『あの作品での主要テーマは文革のような悲劇が中国で再び起こる事は絶対に許さないと言う点にあった。当時は北京や上海は言うまでもなく、あんな田舎街でさえ同じ事が起きた。これで国に希望がありますか?』と文革に付いて語る。チベットに進駐する中国人民解放軍を悪役に見立てた米国映画『セブンイヤーズ・イン・チベット』を
くそったれの一言で切り捨てる愛国者の謝晋監督も、こと文革に関しては『毛主席が犯した誤りは誰も否定できない』との立場は崩していない。長年上海で仕事をしてきた彼自身も文革では数々の辛酸をなめている。文革前夜の1964年、越劇の女優姉妹を主人公にした映画『舞台姉妹』を撮ったが、後に四人組と言われる毛沢東夫人江青、上海市党委書記
張春橋から『害毒を流す作品』との批判を受け、更に文革中は牛小屋(闘争の対象にされた人々の軟禁場所)での労働を強いられるなどの迫害を受けている。この作品の批判の背景には文芸界を突破口に権力の拡大を図ろうとした江青らの政治的野心があり上海に於ける文革の序章となる。
文革は実質的には政治動乱であるが、『文化』の名称が付けられているのは、その闘争が先ず文化の分野から始められた事に依るのである。
毛沢東を除くと文革と言う政治劇の主役たちは、林彪と四人組である。四人組とは王洪文副主席、毛沢東夫人江青、姚文元政治局員、張春橋政治局員であり、文革の混乱に乗じて台頭し、周恩来、登小平と対立したが、毛主席死後の1976年反革命集団として逮捕されている。林彪は廬山会議で国防相に就任、文革開始後は毛沢東思想学習運動を積極的に展開して毛の個人崇拝を煽った。1969年には毛の後継者に指名され只一人の副主席になったが1971年に毛暗殺のクーデターを計画して失敗、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死している。林彪と江青は1966年に林彪の依頼を受けた江青が上海で人民解放軍部隊の文芸工作座談会を開いた事から結び付く。ここでは文芸界は建国以来、反党・反社会主義の反動路線が支配してきたと決め付け文化戦線の大革命を行うと宣言し全党に伝達された。文化の冠はあっても政治問題化の意図が明確であったのでこれが権力闘争へと発展するには、さして時間は掛からなかった。これを機に二人は権力奪取の共闘関係を深めて行く。
林彪らの暗躍があったにしても毛沢東を文革の全面発動へと駆り立てたものは『社会主義でも階級闘争は継続し、資本主義は復活し得る』と言う彼の認識である。その結果として農村での生産責任性を支持していた劉少奇国家主席、登小平総書記らは資本主義の道を歩むものとして打倒されるのである。
文革の異常性は毛主席に忠誠を誓う『忠の字踊り』や主席の肖像の前で朝に指示を仰ぎ、夕方報告をするなどの愚かしい現象を多く生じた。毛自身も大衆の崇拝と言う手助けを必要としていたので、文革での個人崇拝は頂点に達する。
中国のフルシチョフとの汚名を着せられた劉少奇は1968年、党から除名され病身でありながら強制的に河南省開封へ送られ獄中で病死する。ある意味では文革の最も悲惨な犠牲者であったが、謝晋氏の言うように、国全体から見れば庶民は皆、文革の苦しみを味わったと言うのが現実である。文革の始まった時は、建国後の政治運動は毎年のように有ったのでこれが十年も続くとは誰も思わなかった。毛主席自身も長引きは予想して居なかったろう。彼は災いの一杯はいったパンドラの箱を開けてしまったのである。文革の生々しい記憶は今も中国の大地を徘徊しているのである。
1976年 9月 9日、中国医学院の徐静は特殊任務を受けている。それは毛沢東の遺体を保存する事であった。ソ連ではレーニンの遺体をどう保存したのか?孫文の遺体保存が失敗したのは何故か?長沙の馬王堆の女性遺体は何故二千年の間保存されていたのか?まで検討がされる。『毛主席の遺体を長期間しっかりと保存し、子々孫々に亘って人民大衆にしっかり仰ぎ見させる』というのが華国峰首相逹当時の首脳陣の狙いであったのである。そして今その遺体は『毛沢東記念堂』に安置されているが、どうもこの記念堂は後継者としての地位を固めたかった華国峰の思惑等の政治の匂いで塗り固められている。記念堂が一般公開されてからの来訪者総数が一億人を遥かに越えていることは中国を解放した毛沢東への敬愛心、神秘性に満ちた生涯への強い関心を示す証左である。但し唯物論者の毛沢東にとっては自分の亡骸が保存・公開されるなどは不本意ではないのか?1977に三度目の復活を果たし、華国峰を追い落とした登小平は華国峰が毛沢東の遺体を政治利用したと非難している。記念堂は今もアンタッチャブルな空間であり続け、毛沢東とは何か?と言う本質的疑問への答えは未だ模索の途上にある。毛沢東の実像は遺体と共に石造りの霊廟の中に封印されたままである。
1927年 9月末、当時三十三才の青年革命家の毛沢東は湖南省での武装蜂起に失敗し、江西ー湖南省境に横たわる羅霄山脈の麓、井岡山に逃げ込んだ。井岡山の冬は森も大地も堅く凍える。緯度こそ沖縄とほぼ同じであるが、標高二千米級の山々に囲まれて最低気温は氷点下十度迄になる。樹木は厚い霧氷に覆われ、山全体が巨大な氷室になるような所を原点に、毛沢東は未来にどんな光明を見いだしたのであろうか?率いる残存部隊は約一千人、苦しい行軍の途中では脱落兵が相次ぎ軍規も緩みがちであった。
国共合作の統一戦線は1927年 7月、蒋介石の4.12クーデターによって僅か三年半で崩壊していた。中国共産党はコミンテルンの指令を受け、武力による権力奪取へと路線を転換する。8 月には江西省の南昌で武装蜂起し、党独自の軍隊を始めて持つに至ったが、都市での蜂起に固執する『瞿秋白』らの党中央の戦略はことごとく裏目に出て『収秋蜂起』の後に組織は深刻な打撃を受ける。従って毛沢東の 9月の井岡山入りは労農革命軍の存亡を掛けた選択であったのである。
この辺りの経過をもう少し詳しく辿ると、8 月 1日、南昌蜂起を指揮したのは『周恩来』で、二万の兵力で南昌市街を占領したが、6 日にはここを放棄し広東省に向けて南下。
8 月 7日、党中央は緊急会儀を開き、秋の収穫期に湖北・湖南・江西・広東の四省で武装蜂起する方針を決める。これが『収秋蜂起』と言われるものである。そして国民党との妥協路線を採り、瞿秋白らを中心とする新指導部を選んだ。しかし収秋蜂起はいずれも失敗するのであるが、南昌蜂起の意義を党が自前の軍隊を始めて持ったと言う事で、8 月1 日は中国人民解放軍の建軍記念日となっている。
井岡山の生活は劣悪であった。関係者の回想によると、毛沢東も兵士らと一緒に苦い野菜を食べ、『政治的栄養は豊富である。これを食べられるならもっと多くの苦難を克服できる』と励ましたと言われる。しかし険しい連山と深い森が、敵にとっては攻めにくく、自らは守りやすい天然の要塞を複雑に形成していた。しかも国民党が統治している都市部からは遠く離れ、自給自足の農業経済が成立っていた。毛沢東は敵の支配権が十分及ばない農村に革命軍の生存空間を見いだして、根拠地建設に邁進する。人口の圧倒的多数を占める農民を、土地改革などを通じて味方に付け、広大な大陸に点在する都市を攻略すると言う、いわゆる農村から都市を包囲すると言うのが、毛沢東流の革命路線であった。これらは瞿秋白とかその後、党の実権を握った李立三が極左冒険主義で無謀な都市攻撃路線を採る事と対立しながら、辺境から中国の現実を冷徹に見据える中で骨格を整えていく。
井岡山の根拠地は最盛期には五十万の人口に拡大し、抑圧された農民の熱いエネルギーを解放して行く中国革命の大きな原点となったのである。又それ以上に、都市労働者に依拠したロシア革命のモデルと、その影響によって中国農村の重要性を無視したコミンテルンと中共指導部の教条的革命思想に対して、農民出身の毛沢東が生の現場から突き付けた強烈なアンチテーゼでもあった。
毛沢東の農村革命の成功には二つの重要な政策に支えられたと言われている。その一つは土地の所有問題の解決に全面的に取り組んだことである。当時は60% が地主に握られ、農民の手にあるのは40% 以下と言われて居たが、地主の土地を没収し実際に田畑を耕す者に公平に分配することによって、自分の土地を持ちたいと言う農民たちの最大の欲求に応えて広範な支持基盤を築いたのである。第二には労農革命軍を名実共に人民のための軍隊に改組、その為の精神を叩き込んだのである。創設間もない軍の中には流民等も少なくなく農民から食糧を奪ったり挑発品を勝手に山分けするなどの事件が多かった。このため毛沢東は厳格な軍規を定め、人民からは針一本、糸一筋も奪わないなどの方針を徹底させている。毛沢東の政策は理論的武器としては、マルクス・レーニン主義の衣を纏ってはいるが『食べ物があれば皆で食べ、着るものがあれば皆で着る』と言う中国に伝統的な平等主義のユートピア思想の影を引きずっているとも言える。
中国式にマルクス主義を消化した毛沢東の革命路線は他方、『銃口から政権が生まれる』との哲学の実践を通じて、党の主流を為していく。1930年代の初め、全国の党員は10万、紅軍は 6万を数え、根拠地も中央根拠地のほかに十数地区に達していた。こうして共産党は1931年、江西省南部の瑞金に『中華ソビエト共和国臨時中央政府』を樹立する。しかし国民党軍はこの根拠地に五回に亘り大規模包囲戦を展開し、紅軍もゲリラ戦で対抗したが抗し切れずに1934年10月に瑞金を脱出、約一年掛けて陝西省北部迄、11省・12000 粁を踏破する長征を行なった。出発の時の30万の兵力は長征の終了時には3 万になっていたと言う。この長征の途中、毛沢東は貴州省遵義で1935年 1月に開かれた政治局拡大会議で党・軍の指揮権を獲得、1937年には党中央は『延安』に本拠地を定める。これ以降の情勢は、『小さな火花も広野を焼き尽くす』との毛沢東の言葉通りに展開していった。
毛沢東が建国の後、大躍進・文化大革命などの重大な失策を積み重ねながら基本的には肯定的評価を得ているのは、毛沢東の全面否定は党の全面否定に繋がると言う理由のみではなく、人口の 8割の農民に依拠したからであろう。
中国の現職のトップの殆どが井岡山詣でをしていることは、彼等が自らの権力の源流を尋ね、正当性を再確認する聖地にしているからである。
新中国成立後、偉大な革命家・建国の父として毛沢東の威信は絶大であった。しかしながら解放前の乱世に於て遺憾なく発揮された彼の指導力は共産主義ユートピアの急速な実現を追及する余り、中国の生産発展状況や国民感情を適確に把握できなくなり、次第に現実から乖離していった。新国家が必要としたのは最早井岡山根拠地時代の体制への反逆では無く、着実に経済を再建し、人民の生活・文化を向上させる指導者であったのに、彼の強烈な個性は異常な『個人崇拝』を生み、残虐な政治闘争を繰返していく。大躍進・人民公社の破綻、文革の悲劇もその延長線上にあったのである。文革十年の犠牲者は『冤罪死数十万、被害者数千万、死傷者数百万』と言われている。
文革中、二度も失脚の憂き目を体験した登小平は『毛主席の晩年は自分と異なる意見には容易に耳を貸そうとしなかったので、民主集中制、集団指導制が破壊された』と証言しているし、党史研究室では毛沢東個人崇拝の前段階として1957年から1959年に掛けて反右派闘争による知識人らの言論弾圧、党内の異なる意見の封殺があり、更には1966年林彪副主席が毛主席をマルクス・レーニン主義の最高峰と持ち上げたことにより、個人崇拝が強まったと指摘している。しかし最大の悲劇は革命闘争であれだけ事実に基づいて真理を探る(実事求是)と言う考えを実践した彼が、晩年には自らその精神に背いてしまった点にある。彼を建国の父と仰ぐ中国国民にとっては余りに巨大な代価であった。
毛沢東の失政の代表の一つとされるものに大躍進と人民公社がある。1957年彼はモスクワの世界共産党会議で『中国では15年の内に鉄鋼生産で英国に追いつき追い越す』と気宇壮大な生産目標をぶち挙げた。現実よりも共産主義の理想に囚われた彼は帰国の後、党内の慎重論を撥ね除けて大衆動員による技術改革運動などを通じて生産の飛躍を目指す『大躍進運動』を開始した。そして翌年の 8月には農村の人民公社設立を決め、全国74万の農業合作社が 2万 6千の人民公社に生まれ変わった。しかし人民公社は行き過ぎた平均主義で農民の労働意欲を大きく減退させる事となってしまう。大躍進も食料生産の水増し報告や粗悪な鉄の大量生産などの浪費を生み、自然災害も加わって食料の大幅減産と広範囲な飢餓をもたらしただけであった。しかしこれに意見を挟んだ幹部は反党的の烙印を押され解任されている。
⑥整風運動…
これは余り有名ではないが私は文革にも繋がるものとして、毛沢東の暗部の最大の物の一つと考えている。
1990年代の初め、一人の作家の冤罪が半世紀振りに晴らされた。その名は『王実味』、 1940年の初め、共産党の革命根拠地だった陝西省延安で毛沢東が起こした『整風運動』の際、幹部の特権化を批判した事が毛沢東の逆鱗に触れ国民党のスパイ等の容疑で逮捕され1947年に41歳で処刑された。当時事件の処理を担当した『温済沢』は証拠に疑問は持ったが上層部の決定には逆らえなかったと語る。後悔に駆り立てられた温済沢は1980年代になってから再審査を求める報告書を党に提出した。そして党中央組織部は事実関係を再調査し、当時延安にいた老同志十人にも意見を求め、全員の同意の下に名誉回復が決定したのである。
この整風運動は大衆を動員した思想改革運動として提唱されたが、知識人の間では最初から党への不満が噴出する。この先頭に立ったのが王実味であった。彼は党中央機関紙の『解放日報』で党の腐敗や毛沢東ら指導者の特権意識を攻撃したのである。しかし整風運動が逆に彼への集中砲火的批判へと発展する中、温済沢は王実味に誤りを認めるように説得すると同時に党にも穏便な処置を願い出たが、上司から『王実味はトロッキストで国民党のスパイである』と聞かされ愕然とする。王実味は反党集団の頭目と言う罪名を加えられて1943年に逮捕されるのである。
ソ連でスターリンに対抗したトロッキーの一派を指すトロッキストはソ連指導下の中国共産党にとっては天敵その物であった。王実味が過去に彼等と交遊があったことからのでっち上げ罪状であったのである。
この整風運動はソ連の粛清機関の流れを汲む党中央社会部(康生部長)が介入し粛清の嵐となり、証拠もなく逮捕して自白を強要したのである。検挙者は四川・湖北・河南・雲南等十数省にも及ぶ。
温済沢が王実味の名誉回復に奔走していた1988年に『王事件は冤罪である』と言い切った論文が上海の月刊誌にのった。書いたのは女流作家の『戴晴』、しかし月刊誌は停刊させられ、彼女も翌年天安門事件を批判し党を去った。彼女は『整風運動は毛沢東が党内で独裁体制を敷くために実施した』と言い切る。その解説する所は、毛沢東は1935年の遵義会議で党内の軍事・政治指導権を確立するが、思想面ではまだソ連留学組の影響下にあったので、この運動によってソ連派を一掃し、毛沢東の個人崇拝を高めようとしたのであると言う。運動後の1945年の第七回党大会で毛沢東は党の最高指導者に就いた。それと同時に毛沢東思想が党規約に盛り込まれる。この事を戴晴は民主を標榜した共産党は毛沢東一人が全てを決定する党へと変質したと指摘している。彼女によれば毛沢東は王実味の処刑を見せしめとして党への批判を弾圧したのであると言う。毛の権威確立のためこの運動の反省は極めて不十分な物となり、後に反右派闘争や文革で同じ過ちを犯すことになる。
尚、整風運動で粛清に辣腕を振るった康生は文革の際にも劉小奇国家主席の追い落としを蔭で演出しているし、江青の庇護者としても著名である。
⑦文化革命…死を選んだ国民作家
1966年 8月23日、著名作品で知られる文豪『老舎』は北京の孔子廟で赤い腕章を付けた
『毛沢東の親衛隊』紅衛兵逹から殴る蹴るの暴行を受け、重傷を負った。翌日自宅を出たまま行方不明となった彼は、市街地北西の太平湖で水死体となって発見された。遺体の発見時、湖面には紙片が漂いそれには老舎の字で毛沢東作の詩が記されていた。彼の長男の舒乙氏はこれを謎として捕らえている。『父の死後、当局から遺品は返却された。しかしあの紙片だけは、見せてももらえ無いし、勿論返してもらっていない。紙片には毛主席の詩だけでは無く父の何らかの言葉が記されている筈だ。作家たる者が自らの言葉を書き残さないと言う事はあり得ない』と確信しており、当局の対応はその公開を憚るような内容であったことを意味すると語っている。彼は父の自殺の理由を究明する手掛かりをつかむためその作品を再読吟味するうちに奇妙な符合に気が付いた。『詩人』と題する随筆の中に『社会に明らかに災難が生じたとき、詩人は身を持って諫めんと入水し難に殉ずる』との一文を発見したのである。老舎は果たして文革と言う災難が祖国を破滅へと導くことを憂い自らの死を通じて未曾有の混乱を引起こした毛沢東を諫めようとしたのであろうか?中国作家協会副主席の要職にあった老舎が名誉回復を果たし、党・政府による公式の追悼式が行われたのは、死去から十二年後の1978年の事であった。
四旧(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)の打破と言う文革の狂気の中で紅衛兵に吊しあげられたり、造反派の闘争大会で肉体的、精神的暴行を受けて死に追いやられた文化人、知識人は、もとより老舎一人ではない。農民作家の『趙樹理』も『反革命修正主義分子』の汚名を着せられ、迫害を受けた末、1970年に非業の死を遂げている。舒乙氏は『作家たちは全て打倒された。共産党が非常に評価していた作家も例外では無かった。唯一地位を保ったのは、過去の作家では『魯迅』だけであり、現存の作家の中では『浩然』のみ、文革が文芸界に与えた衝撃の激しさが分かる』と語る。
1957年、毛沢東は『百家斉放・百家争鳴』運動の中で国民に自由な意見の発表を呼び掛けたが、党批判の声が噴出したことで一転して批判者を『右派』と決め付け、厳しい弾圧を行なった。この反右派運動の主な標的になったのが『知識人』である。これ以後、党内民主は失われ、文芸・学術界の討論や理論はストレートに政治問題に転化すると言う風潮になった。その帰結が文革中の悲劇である。1978年以降、必要な処置ではあったが拡大したのは誤りであったと党が認め、大半の右派の名誉は回復されたが政治に弄ばれてきた知識人の心の傷は今も癒えていない。
⑧文化革命…国覆う愚行と狂信
湖南省の小さな町を舞台に文革の迫害に耐え抜いた男女の愛を描いた映画『芙蓉鎮』の監督『謝晋』は『あの作品での主要テーマは文革のような悲劇が中国で再び起こる事は絶対に許さないと言う点にあった。当時は北京や上海は言うまでもなく、あんな田舎街でさえ同じ事が起きた。これで国に希望がありますか?』と文革に付いて語る。チベットに進駐する中国人民解放軍を悪役に見立てた米国映画『セブンイヤーズ・イン・チベット』を
くそったれの一言で切り捨てる愛国者の謝晋監督も、こと文革に関しては『毛主席が犯した誤りは誰も否定できない』との立場は崩していない。長年上海で仕事をしてきた彼自身も文革では数々の辛酸をなめている。文革前夜の1964年、越劇の女優姉妹を主人公にした映画『舞台姉妹』を撮ったが、後に四人組と言われる毛沢東夫人江青、上海市党委書記
張春橋から『害毒を流す作品』との批判を受け、更に文革中は牛小屋(闘争の対象にされた人々の軟禁場所)での労働を強いられるなどの迫害を受けている。この作品の批判の背景には文芸界を突破口に権力の拡大を図ろうとした江青らの政治的野心があり上海に於ける文革の序章となる。
文革は実質的には政治動乱であるが、『文化』の名称が付けられているのは、その闘争が先ず文化の分野から始められた事に依るのである。
毛沢東を除くと文革と言う政治劇の主役たちは、林彪と四人組である。四人組とは王洪文副主席、毛沢東夫人江青、姚文元政治局員、張春橋政治局員であり、文革の混乱に乗じて台頭し、周恩来、登小平と対立したが、毛主席死後の1976年反革命集団として逮捕されている。林彪は廬山会議で国防相に就任、文革開始後は毛沢東思想学習運動を積極的に展開して毛の個人崇拝を煽った。1969年には毛の後継者に指名され只一人の副主席になったが1971年に毛暗殺のクーデターを計画して失敗、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死している。林彪と江青は1966年に林彪の依頼を受けた江青が上海で人民解放軍部隊の文芸工作座談会を開いた事から結び付く。ここでは文芸界は建国以来、反党・反社会主義の反動路線が支配してきたと決め付け文化戦線の大革命を行うと宣言し全党に伝達された。文化の冠はあっても政治問題化の意図が明確であったのでこれが権力闘争へと発展するには、さして時間は掛からなかった。これを機に二人は権力奪取の共闘関係を深めて行く。
林彪らの暗躍があったにしても毛沢東を文革の全面発動へと駆り立てたものは『社会主義でも階級闘争は継続し、資本主義は復活し得る』と言う彼の認識である。その結果として農村での生産責任性を支持していた劉少奇国家主席、登小平総書記らは資本主義の道を歩むものとして打倒されるのである。
文革の異常性は毛主席に忠誠を誓う『忠の字踊り』や主席の肖像の前で朝に指示を仰ぎ、夕方報告をするなどの愚かしい現象を多く生じた。毛自身も大衆の崇拝と言う手助けを必要としていたので、文革での個人崇拝は頂点に達する。
中国のフルシチョフとの汚名を着せられた劉少奇は1968年、党から除名され病身でありながら強制的に河南省開封へ送られ獄中で病死する。ある意味では文革の最も悲惨な犠牲者であったが、謝晋氏の言うように、国全体から見れば庶民は皆、文革の苦しみを味わったと言うのが現実である。文革の始まった時は、建国後の政治運動は毎年のように有ったのでこれが十年も続くとは誰も思わなかった。毛主席自身も長引きは予想して居なかったろう。彼は災いの一杯はいったパンドラの箱を開けてしまったのである。文革の生々しい記憶は今も中国の大地を徘徊しているのである。
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