クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

動乱のチェコ・政治に翻弄された五輪の星たち

2009年02月23日 | 欧州・中東関連
        激動のチェコ
           政治に翻弄された五輪の星

往年の陸上長距離界の鉄人エミール・ザトペックと体操界の名花ベラ・チャスラフスカ、チェコの生んだ二人のオリンピックのヒーローは、プラハの春からビロード革命に至る、チェコ民主化への激動期をどの様に生き抜いたのか?戦いの最中、抵抗と自己批判と言う対極の立場に身を置いた二人にとってそれは今も尚、心に痛みの残る四半世紀であった。1968年春から夏に掛けて頂点を迎えたチェコの民主化改革が『プラハの春』と言われる。1968年1月に誕生したドプチェク政権は『人間の顔をした社会主義』の標語の下に、自由化路線を打ち出し、検閲廃止、言論・集会の自由などの改革に着手する。4 月に『行動綱領』を採択、 6月には改革促進を求める知識人が『二千語宣言』を発表した。しかしチェコの共産圏からの離脱と、他の東欧諸国への波及を恐れたソ連が、 8月20日に数十万単位のワルシャワ条約機構軍を投入してチェコを制圧してチェコ事件を起こし、プラハの春は挫折する。ドプチェクの跡を継いだフサークは、ソ連ブレジネフ政権と歩調を合わせて、粛正と自由弾圧に乗り出す冬の時代に逆流させる。その反面で不満をそらすために、経済重視政策を進めたが、1980年代後半には停滞が目立ちはじめた。その後、ペレストロイカの影響で政治、経済面の自由化を求める声が徐々に高まり、1989年11月に反体制組織、文化人らに依る市民フォーラムが結成される。デモやストが連日繰り返され、共産党政権は崩壊する。同年12月には劇作家ハベル氏が大統領に選出され、無血で民主化が成立した。これがビロード革命と言われるものである。
人間機関車の異名で一世を風靡したザトペックは、今 76 歳、ブラハ郊外の緑濃い自宅で年金暮らしをしている。彼は1922年の生れ、1945年に軍隊に入り、1948年のロンドン五輪で 1万㍍金、 5千㍍銀。1952年のヘルシンキでは長距離で三冠を達成したが、1956年のメルボルンの無冠で引退する。1977年国家体育功労賞、1985年IOC五輪功労賞、1997年チェコ陸連20世紀再優秀選手賞を受けている。
彼は日常の穏やかさを伺わせるような静かな暮しをしているし、民主化も実現し、歳月が経ったにも拘らず、競技生活以外の話題には未だに拒否反応が先にたち、臆病そうに身構える。
律義な熱血漢として知られるザトペックではあるが、躊躇するにはそれなりの理由が潜んでいる。その拘りに付いてチェコ・オリンピック委員の一人がその背景を説明する。
『彼は人一倍誠実で責任感が強い。とっくに名誉回復しているのに、ソ連の圧力に最後まで抵抗したかっての仲間たちに対して重い十字架を背負い続けようとしている。自己批判したと言う事実に対するある種の負い目と敗北感のようなものが、恐らく心の奥深くに刻み込まれているからだと思う』と。
プラハの春の挫折は多くの市民の心に傷を残したが、彼には英雄故の格別の苦しみがあったのである。                                  立場とか状況は異なるがチャスラフスカも癒しがたい傷を心に秘めている。しかも彼女の場合は、後の家庭環境に暗い影を落とす事になる遠因が、当時の戦いの日々に潜んでいただけにやりきれなさを誘う。彼女にはプラハの春が挫折した直後には、使命感と無力感とが絶えず交錯していた。それでも人間性を取り戻すためにと、懸命に自分を奮立たせた。世界的な体操選手として外国と接して来ただけに祖国への熱い思いは人一倍強かったのである。                                     彼女は1942年 5月のプラハ生れで今年57歳になる。1957年に国内ジュニア優勝、1960年のローマ五輪では団体銀、個人総合 8位に止まったが、1964年の東京五輪では個人総合、跳馬、平均台と金三個、団体銀で世界体操界の女王になる。続くメキシコでも金 4個を獲得し、1990ハベル大統領捕佐官兼顧問、チェコ五輪委会長、1995年にはIOC委員の経歴を持つ。
『社会主義共同体全体の利益は、個々の国家主権に優先する』とするブレジネフ・ドクトリンを盾に、ワルシャワ条約機構軍が1968年 8月 20 日の夜から翌日の未明に掛けて、突如チェコに侵攻する。この時、プラハの春は一気に圧殺される。この日のことを彼女は忘れる事は出来ない。丁度この時、彼女は一か月後に迫ったメキシコ五輪に備えて、ポーランドとの国境近くの小都市スンベルクで強化合宿中であった。深夜に突然プラハへの戦車乱入を知らされ、驚きと共にオリンピックどころか、国が滅びるのではないかとの不安がよぎる。この時から二か月前に発表された『二千語宣言』には、ザトペックらの急進派文化人と共に、彼女も進んで署名して居た。民主化を強烈に訴えたこの公開書簡が、ソ連の軍事介入を刺激した事は疑う余地もない。当然の事ながら署名者たちは『反革命分子』として厳しく追及された。このため彼女はメキシコへの出発迄、山中深く身を隠し最後の調整も不十分な儘でのメキシコ行きとなった。
しかし本番では強敵ソ連勢を相手に一歩も引かず、女王の座を死守し、世界中で人気が沸騰した。この時のことを『小国でも大国に勝てることを、世界中に示したかった。祖国を踏みにじった大国ソ連の理不尽さと、踏みにじられた屈辱感とが金メダルへの起爆剤になった。それには世界中の声援が支えであった』と語る。打倒ソ連への執念を燃焼し盡くした彼女の演技が勝利をもたらし、悲運に泣くチェコの存在を世界に訴えるダブル効果になったのである。
一方、ザトペックの当時の反ソ対決姿勢は、一際激しく精力的であった。プラハ占拠二日後には、民主化運動の中心地バツフラ広場に姿を現し、街頭やテレビを通じてソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍の軍事介入を激しく非難、戦車が友好の象徴なのか?と抗議し、ソ連こそメキシコ五輪への参加資格はないと訴えた。チェコ選手団のメキシコ五輪参加が危ぶまれ始めていただけに、あの時示したザトペックの勇気と行動が、市民や選手を勇気づけた。この時、彼が果たした功績は後に自己批判した事への非難などを遥かに超越するものであった。
                                        束の間の『プラハの春』の後には、『正常化』という名の弾圧と迫害が、二人の身にも一気に襲いかかった。既に陸軍大佐にまで昇進していたザトペックは、党除名の他、国防省教育担当官、国家体育文化連盟中央委員等の要職からは全て追放、僅かに得たのは小スポーツクラブのコーチ補佐と地質、水質検査の現場作業員と言う転落振りであった。
若い選手の養成が夢であったチャスラフスカも職場を追われ、失業生活が五年も続いたが二千語宣言への署名撤回強要や様々な迫害にも屈せず、徹底抵抗の姿勢を貫き続けた。
しかし不幸にもその一方では家庭が犠牲になる。メキシコでの晴れやかな挙式で話題になった陸上選手の夫とは1987年に離婚し、1993年にはその元夫を成人した長男が口論の末に死亡させると言う痛ましい悲劇にまで発展した。弾圧、迫害の冬の時代に生じた夫婦間の意見の対立が尾を引いて、その後の家庭と人生に影響を及ぼしたのである。
こんな離婚、刑事事件、裁判、減刑嘆願と相次ぐ心痛に彼女へのダメージは大きかった。長期入院療養を余儀なくされた彼女は六年近くに及んだチェコ五輪委会長の座から自ら退いた。
既に国民的英雄であったザトペックには、ソ連と党からの風当たりが強かった。1971年に突然世界に衝撃が走った。チェコ共産党機関紙に『ザトペック自己批判』の記事が掲載されたからである。プラハ市民の多くも『ザトペックよ お前もか?』との思いに駆られて民主化闘士の突然の転向に落胆した。彼は『私は個人名誉と誇りのためにスポーツをやって来た。しかし長い間スポーツマンとして優遇されたし、一般の人とは違う恩恵もうけてきた。こうした恩恵に対しては素直に、又感謝の気持ちを公に表明するべき立場にあると思った』と述懐している。こうして受けた恩恵への感謝の念と、自己の信念との板挟みになって苦しみ抜いた。筋を通すも曲げるも地獄であったに違いない。これを境にして彼への処遇は徐々に改善され、再び後進の指導や講演の場に姿を表すようになった。
抵抗姿勢を続けていたチャスラフスカにも、1974年頃から漸く若手育成コーチの場が与えられ、外国への禁足状態も緩んだ。
そして東欧自由化の波はやがてチェコにも一気に押し寄せる。立ち上がった学生に市民が加わり1989年のビロード革命で民主化が実現する。除名全党員と共に二人も復権し名誉は回復された。
復帰後の彼女はハベル大統領に請われて、大統領補佐官兼顧問に就任して脚光を浴び、その後はオリンピック運動の幹部推進者として活躍中である。既に年金生活のザトペックは悠々自適の毎日である。
民主化の達成から満十年、激動の時代を潜り抜けた二人がいま抱く祖国への評価は『民主化は素晴らしいが、貧富の差が大きくなり社会もスポーツ界も混乱した』と言うザトペック。『本当に世の中が良い方向に向いているのか?良く分からない』と言うチャスラフスカ。政治の荒波に翻弄された五輪のヒーローたちが心の痛みを未だ払拭できないように、国民は祖国に追い求めてきた本当の答えを未だ見出だせないでいる。

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