杉原千畝とシンドラー
虐殺から救ったビザとリスト
先日、杉原千畝氏の事を纏めたが、その関連で彼の妻の幸子さんの言葉で、『私たちの事は、金の絡んだシンドラー氏の事とは違います』と語ったとされているのが、気になって仕方がなかった。何故なら私自身がシンドラーについては良く知らなかったし、ユダヤ人救済に関しては二人は同じ立場にいたと思っていたからである。幸いにして、テレビ番組がその事を解明してくれたので、私自身のためにもこの件を整理して置く。
繰り返された大量殺戮、戦争の世紀と言われた血なまぐさい歴史となった廿世紀の中でも最大の虐殺は、第二次大戦中にナチス・ドイツが行った600 万人に及ぶユダヤ人殺害であった。1985年、ドイツ大統領ヴァイツゼッカーは、ドイツ敗戦 40 周年追悼演説で『…過去に目を閉ざすものは結局のところ、現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、再びそうした危険に陥りやすい。人間は何をしかねないか?これを我々は自らの歴史から学び取る。…』と語っている。
この二十世紀に、人々は時として人間の心さえ見失うことがあった。しかしその中で、時代の波に抵抗し、一人の人間として生き抜いた男達がいた。
1994年、アカデミー賞7部門を独占した映画に『シンドラーのリスト』がある。自らもユダヤ系米国人であるスティーブン・スピルバーグ監督が、ユダヤ人を救ったドイツ人、オスカー・シンドラーを描いたものである。
1999年 10 月、一つの発見が新聞紙面を賑わせた。それはシンドラー氏が所有していたトランクから『シンドラーのリスト』と言われる文書の原本が発見されたのである。このリストこそ、第二次大戦中に1.200 名のユダヤ人を救うためシンドラーが作成したものであった。ユダヤ人を虐殺したナチス党員であり、ユダヤ人を自らの工場で強制労働させていた彼が、何故たった一人でナチスに抵抗し、命懸けでユダヤ人を救ったのであろうか?
そしてこの映画が公開された1994年、東京麻布の外交史料館に、日本にもユダヤ人を救ったリストがあることが判明した。終戦から半世紀を経て公開されたこの資料とは『本邦通過査証発給表』であり、リトアニア駐在の外交官・杉原千畝領事代理が、6.000 人のユダヤ人を虐殺から救った『命のビザ』のリストである。ユダヤ人たちは、千畝(チウネ)の事を呼びやすい音読みで(センポ)と呼び、イスラエル建国 50 周年の記念切手でユダヤ人を救った 5人の外交官の一人としてその肖像を記念に残した。
このリストによると、1940年 7月 9日から 8月 31 日の間に、2.139 枚のビザが発給されている。家族一つで一枚であるから、6.000 人を越える人々がその対象となったことになる。この二人は、今世紀最大と言う虐殺の渦に飲み込まれながらも、その中に溺れることもなく、救出者となり得たのである。
1933年 3月 30 日、全てはこの日から始まった。アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任したのである。彼の打ち出した政策こそは、ユダヤ人差別政策その物である。今も残る彼の演説では『全ての富を独占するユダヤ人を俳除せよ。彼等は、我々の同胞とはなり得ない』と絶叫して扇動している。独裁者の道を突き進んだ彼は、1935年にユダヤ人を人間として認めないと言う『ニュルンベルク法』を公布する。これはドイツ人の血統保持者とユダヤ人との性交・婚姻の禁止などで、ユダヤ人への迫害を強めていったものである。
1939年、歴史は動いた。ドイツのポーランドへの電撃的侵攻が始まったのである。当時このポーランドに在住していたユダヤ人の330 万人は、全ての財産を没収され、周囲を塀に囲まれた狭いゲットー(ユダヤ人居住区)に押し込まれた揚げ句に、強制労働に駆り立てられたのである。
この年、ポーランドのクラクフの町に、一攫千金を夢見た男が、トランク一つ提げてやってきた。オスカー・シンドラー31歳であった。この時の彼は、ユダヤの富に群がるハイエナの様な企業家の一人にすぎなかった。事実ナチスの党員であった彼は、ナチスが没収したユダヤの工場を格安で買取り、ユダヤ人たちをタダ同然で強制労働させ、エナメル食器を軍に売り込み巨万の富を築いて行くのである。
1940年、逃げ場を失ったユダヤ人は当時ソ連とドイツの間の緩衝地帯で、ナチスの手の届かなかったバルト三国の一つリトアニア(ポーランドの北隣り)に大量に流れ込んでいたのである。しかし、この地にもナチスの手が伸びてくるのは、もう時間の問題であった。彼等ユダヤ人は、何としてもヨーロッパ本土から脱出しなくてはならなかった。追い詰められた彼等は、ある国の領事館に押しかけることになる。それはリトアニア日本領事館であった。そこには杉原千畝が領事代理としてその年に赴任していたのである。
その日のことを彼は、その晩年に手記の中で『…忘れもしない1940年 7月18日早朝のことであった。表通りに面した領事館の門前が、突然人の喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬ喚き声が高まった。私はカーテンの隙間から外を窺った。何とそれは大部分がヨレヨレの服装をした老若男女で、ざっと百人近くも領事館の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が目に映った。…』と記している。一体この異様な光景が何を意味しているのか?領事としてヨーロッパの事情に精通していた杉原氏は、それがナチスに追われたユダヤの難民であったことは直ぐに分かった。こうして突然の様に、杉原氏の苦悩と闘いの日々が始まったのである。ナチスの手を逃れてリトアニアに流れ込んでいたユダヤ人たち、彼等が生き残るためにはヨーロッパを脱出しなくてはならなかった。しかしこの時は既に、陸路で南下して脱出することも、海路で大西洋を渡ることも不可能になってしまっていた。ヨーロッパ中に張り巡らされたナチスの包囲網にどうしても触れてしまうのである。残された道は、ナチスと敵対するソ連を横断してそこから日本を通過して、当時唯一ユダヤ人を受け入れていたカリブ海のオランダ領キュラソー島に行くしかなかった。このキュラソー島とは、南米のベネズェラ北方沖のカリブ海にあるアンチル諸島の中の一つである。これが唯一の脱出ルートであった。つまり、リトアニアの日本領事館のあったカウナスからモスクワに行き、シベリヤ鉄道でイルクーツク・ハバロスク・ウラジオストックを経て、敦賀に上陸し、日本から海外航路を使ってはるばる南米まで行こうと言うのである。因みに彼等が日本に着いたときには既に、日本の戦時体勢のため海外航路は停止になっており、彼等は上海に渡ることになる。そこで彼等は、日本の通過ビザを求めて殺到したのである。杉原氏は余りのユダヤ人の多さに言葉を失うほどであった。杉原氏は、彼等を助けるべきか?それとも見て見ぬ振りをすべきか?苦悩の決断を迫られる。この時、彼等全部を助けることは、日本政府の命令に背くことになっていたのである。
1900年 1月 1日と言う新しい時代の幕開けに、岐阜県加茂郡八百津町で彼は生まれた。尋常小学校での成績は極めて優秀で一家の者から医者の道に進む事を期待される。しかし、1919年、彼の目に飛び込んで来た一つの新聞広告が彼の運命を決める。それは外務省留学生募集の広告であった。これに夢を抱いた彼はこれの選考試験に合格、ハルビンの『ハルビン学院』に留学する。ここで彼の天才的な語学の才能が花開き、ロシア人も驚くほどの流暢なロシア語を操るようになる。
1932年、日本は傀儡皇帝溥儀を担ぎ出して満州国を建設する。彼は卒業後に、外務省の要請によって、満州国外交部に勤務する。しかし、そこで彼の目に映ったものは、理想郷を讃いながらその実、軍が幅を利かせ中国の人々を支配下に置いている現実であった。彼は後の回想録にも、日本は中国人を同じ人間だとは思っていなかったと書いて居る。
一方、千畝から後れること 8年、1908年4 月 28 日、当時ドイツ領のチェコ・ツヴィタウでシンドラーは生まれる。彼の家は農業機具の製造工場を経営していて、町一番の資産家であった。彼は、父ハンスの財産で青春時代は、オートバイのレースに明け暮れる。こんな何一つ不足のない生活にも落とし穴が待っていた。それは1920年代後半から、世界を覆った大不況の煽りを受けて、1929年にはドイツも恐慌に襲われ、コーヒー一杯のためにトランク一杯の紙幣が必要と言われた前代未聞のインフレの中で、父の工場は倒産し、家も破産する。突然に全てを奪われ、夢見たレーサーへの道も絶たれたのである。
この頃、杉原氏は日本の中国支配にやり切れぬ思いを抱いたまま、1935年に満州国外交部を辞任して帰国し、日本の外務省勤務となっていた。所が当時の外務省は、東京帝国大学の出身者の閥があり、ロシア語専問職で採用されたノンキャリアの彼には、出世の道など全く無かった。
1935年、菊地幸子と結婚した彼は、間もなくフィンランドに赴任する。彼の仕事は外交官として、語学の才能を生かして他国の情報を集める事であった。この頃、事態は急転しつつあった。ヨーロッパではナチス(ドイツ国家社会主義労働党)が台頭し、その触手は、欧州全土に伸びようとしていた。1939年、彼は、ロシアとドイツの情報を集めるために、フィンランドを離れて混乱を極めるリトアニアに領事代理として赴任した。しかし外交官として情報を集める彼の耳に飛び来んできたのは、ナチスによるユダヤ人迫害の事実であった。そして1940年 7月、彼は窓から領事館に押しかけたユダヤ人を見ることになったのである。この時ユダヤ人の代表として、杉原氏と交渉した 5人の一人、バルファフティクは当時を振り返り『ナチスは、ポーランドのユダヤ人を皆殺しにしようとした。我々は皆リトアニアを目指した。そこでオランダ領のキュラソー島が残された最後の道であると知った。日本の通過ビザがなければロシアがビザを出さなかったので、どうしても日本のビザが必要であった。…』と、その時の事情を説明している。 何とか彼等を救う方法はないものか?彼は直接日本の外務省に電報を打ち、ユダヤ難民の処置を問い合わせた。この頃の日本政府の考えは、人種差別反対が旗印であった。この旗印のある以上はユダヤ人への差別待遇はいけないとされ、他国と同等に扱うと言うのが基本であった。しかし、このとき彼の許に返ってきた外務省の返事は、『行き先国の入国手続きを完了し、且つ、旅費及び日本滞在費に必要な携帯金のない者に対しては、通過査証を与えないように取り扱う事…』であった。つまり所持金を持たない貧しいユダヤの難民は受け入れないと言うのである。当時では米国も英国も全てこの条件であり、ユダヤ難民は米国・英国領事館では全て断られているから、日本だけが特に厳しかった訳ではない。
しかし、現実には杉原氏に助けを求めてきているユダヤ人逹は、旅費など持っていない者が大半である。目の前の難民を見捨てて本国の指示に従うのか?悩む杉原氏を決意させたのは、ある朝、彼が見たユダヤの子供たち、女や老人たちの疲れ切った顔であった。
彼は、もう本省と議論しても無駄であると考え独断でビザの発給を始めたのである。全てが手書きのため、発行のペースは上がらなかった。後の処罰を予想して、彼は妻には一切の手伝いをさせていない。最も多い 7月29日でも 259枚、食事もろくにとらず休む間も無しにビザを書き続けた。毎晩妻は硬直した夫の腕を揉みほぐした。時間はなかった。既にリトアニアに進攻していたソ連政府から、彼に国外退去命令が出たのである。一枚でも多くのビザを発行したいために、彼は番号付け、手数料の徴収も止め、果ては自分サインの判子も作り、ユダヤ人を助手にして大量発行をし始めた。このとき発給の手伝いをした ズプニック氏は、ポーランドの神学生のリーダーであり、教師と生徒350 人のビザを必要としたからである。
その頃、杉原氏のビザを手に続々と日本にユダヤ人が到着し、日本の新聞にも『戦火に追われて漂泊する北欧人、ハマの宿屋は大入り満員』と書かれた。この状況に慌てた外務省は、『ユダヤ避難民の後始末に、窮しおる実情なるに、これ以後は厳重にお取り扱いありたし』と言う電報を打っている。
1940年 8月 28 日、日本からも日本領事館閉鎖・退去の命令がくる。彼は領事館からホテルに移る。(ホテルメトロポリス・現ホテルリエトバ)しかし難民たちはホテルまで追いかけてくる。既にスタンプ等ビザ発給の道具は、ドイツに送ってしまっていた。それでも彼はビザに代わる『渡航証明書』をホテルの一室で書き続けた。そして 9月 5日、ベルリンへ向かうため、リトアニア・カウナス駅にくる。ベルリン行きの脱出最後の列車に乗るためである。しかし発車前の列車の中でも彼は必死でペンを動かし続けた。発給が間に合わず発車を見送るユダヤ人たちからは、悲痛な呻き声が漏れた。
彼は後の手記でこの時のことを『……許して下さい。私にはもう書けない……』と記す。杉原氏がリトアニアを去ってから時を置かず、ナチがリトアニアに進攻し、残されたユダヤ人はゲットーや収容所に集められ、厳しい強制労働を課せられる。
しかし、まさかこの時期、杉原氏と同じ奇跡を起こし、ユダヤ人を救う救世主がドイツ人の中から現れようなどとは誰も想像すらしていなかった。その男こそ、オスカー・シンドラーである。家が破産し、無一文になった彼が目指したのは、ポーランドのクラクフである。ここで彼は軍がユダヤ人から接収した工場を格安で買取り、軍に納入して莫大な富を得ていた。この事業で儲けた金で派手に社交界で遊ぶ彼には、他のドイツ人とは違った一つの特色があった。彼は工場で働くユダヤ人を『私のユダヤ人』と呼び、大切に扱ったのである。ナチス党員でありながら彼には、ユダヤ人が人間として映っていたのである。
それはシンドラーの少年時代の淡い思い出にあるのかもしれない。隣に住んでいたユダヤ人の二人の息子たちと遊んだ記憶が、無意識のうちに彼の中からユダヤ人差別を追い出していたのかもしれない。しかしこの考えは当時のドイツでは危険思想である。ユダヤ人を認める事は、ヒトラーに対する反逆と見做されたからである。事実彼は親衛隊に『ジューキッサー』の容疑で三度も逮捕されている。『ジュー・キッサー』とはユダヤ人にキスする人間と言う意味である。彼はその都度、多額の賄賂で釈放されているが、ヒトラーに対する反抗心が少しずつ芽生え始めて行く。
この頃、シンドラーのユダヤ人が収容されていたのは、ポーランド・クラクフ郊外のプワシェフ収容所であるが、ここの所長のアーモン・ゲイトは、残忍極まり無い性格であり、眠気覚ましと称して丘の上の所長の家から、収容所内のユダヤ人を狙撃する程であった。シンドラーは、このアーモンの所を訪問した時、アーモンがユダヤ人を縛り首にし、その遺体に銃弾を打ち込み、笑みを浮かべているのを目撃する。シンドラーはこんな事ができるのは既に人間ではないと、激しい怒りに襲われる。そして、全力を尽くしてこの組織を打ち負かしててやろうと決意する。
1942年、遂にナチスは、ヨーロッパに住む1.100 万人のユダヤ人に対して、一つの決定を下す。それは全ヤダヤ人の抹殺計画『最終的解決』であった。ある者は収容所への死の行進に倒れ、ある者は収容所の毒ガスで殺された。その数、最終的に 600万人である。そんな濁流に飲み込まれるように、シンドラーの工場も閉鎖され、ユダヤ人の工員たちは、プワシェフ収容所内に閉じ込められた。彼等がユダヤ人の虐殺工場と化したアウシュビッツに送られる事は明白であった。シンドラーは、ユダヤ人たちをガス室行きから救う手立てはないか?と模索する。そして彼は極秘の計画を実行に移した。
先ず彼は、自らの故国であるチェコのブリンリッツに工場を建設し、今まで蓄えた私財の全てをドイツ軍幹部に賄賂としてバラ撒き、ユダヤ人たちを自らの工場に呼び寄せることを認めさせた。その後、彼は工場の作業員リストを少しずつ増やして行く。彼は体に障礙のある者にさえ、熟練工の資格を付けてリストに加えている。その数は何時しか 1.200名にも及んでいた。このリストこそ『シンドラーのリスト』と言われるものである。ブリンリッツの工場でユダヤ人を終戦まで匿おうとしたのである。その目的がナチス側に漏れれば、彼自身が簡単に抹殺されると言う危険な賭であった。こうしてかれは危険を冒してユダヤ人救出に全てを捧げた。しかしこの間には、計画通りクラクフのプワシェフ収容所から、リストによってブリンリッツの工場へユダヤ人を移送中、手違いから 300人がアウシュビッツに送られてしまったことがある。彼は自らアウシュビッツに乗り込み、大芝居を打って彼等を救出した。この事件は、映画でも最も迫力ある場面として描かれている。
これは、彼等を死の瀬戸際から救い出すと言う彼の命懸けの離れ業を象徴するものであった。この時、九死に一生を得たリストの一人は『我々は、アウシュビッツから出されて別の収容所に移された。その新しい収容所の門が開いとき、そこにはシンドラーが立っていた…』とその時の喜びを語っている。
1945年 5月 7日、ドイツは無条件降伏し、ヨーロッパを焦土に変えた欧州での大戦は終結する。そしてユダヤ人逹は、廿世紀最大の悪夢から遂に開放されたのである。だが、開放された1.200 人のユダヤ人を工場に残して、逃げ出さなくてはならなかったのは、皮肉にも、この瞬間に敗戦国民になったドイツ人のシンドラー自身であった。
一方、リトアニアを脱出した杉原氏は、外交官として欧州を転々とし、終戦はルーマニアのブカレストで迎えた。その後、敗戦国民の杉原一家は、ウクライナのオデッサ収容所に収容される。苦しい収容所生活と二年の流転が続き、1947年の春、漸く博多まで辿り着いた。やっと平和の中で仕事が出来ると思った彼を待っていたのは、外務省の思いも掛けない退職勧告であった。彼がやったビザ発行の件で、責任を問われていると言うものであった。この時 47 歳。
戦後のシンドラーを待っていたのも、ユダヤ人救出成功とは裏腹の苦労の生涯であった。終戦を機に、一文無しになった彼は、新しいチャンスを求めてアルゼンチンのブエノスアイレスに渡る。そして農園の経営をするも完全な失敗に終わる。そして彼は人々の記憶から消えていった。
外務省を追われた杉原家も、三男の晴生が僅か7 歳で小児ガンで死亡すると言う不幸に見舞われる。彼は全ての過去を忘れようと務め、彼自身も歴史の波の中に消えていった。 しかし、杉原氏のことを忘れない人達がいた。彼のお陰で世界各国に安住の地を得た人達である。彼等は戦後になって、命の恩人である『センポ・スギハラ』を探し続けた。彼等は音読みの名前『センポ』で探していたために、外務省への問い合わせも該当者無しの返事しか返ってこなかった。こうして 20 年の月日が空しく過ぎていった。そんな1968年 8月、突然彼の家の電話が鳴る。この時、彼は様々な職業を転々として、ある貿易会社に勤務し、日本とロシアを往復する生活を送っていた。もう彼は 68 歳に成っていた。その電話はイスラエル大使館からの呼び出しであった。訳も分からずに大使館を訪れた杉原氏に、一人の男が一枚の紙を差し出した。その古びてボロボロになった紙を見て彼の中に衝撃が走る。それは自分が発行したあのビザであったのである。自分のビザが人々の命を救っていた、あの時の決断は間違っていなかったと、彼の中に封印した思い出が暖かい記憶となって蘇った。彼等は 23 年も恩人を捜し続け、遂に彼を捜し当てたのである。彼を捜し当てた在日大使館員ニシュリ氏は、リトアニアで彼と発給の交渉をした5 人の代表の一人であった。ニシュリ氏にとっては 28 年目の再会である。
『センポ』発見の報は、全世界のユダヤ人に伝えられた。そして彼は1969年に、イスラエルに招かれる。当時、彼と折衝に当たったあの5 人の一人バルファフティク氏は、イスラエルの宗教大臣になっていた。彼は、杉原への思いは、時を経ても色褪せることはなかったと言い切っている。
事業に失敗して再び全てを失ったアルゼンチンのシンドラーにも、彼が救ったユダヤ人たちから救いの手が差し延べられる。1967年、彼はその功績を称えられ、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を受賞する。イスラエルに招かれたときだけ、彼は自信に満ちたかっての姿を取り戻した。彼は、1974年10月 9日、66歳でドイツのフランクフルトで息を引き取るが、遺言によって、その遺骨はエルサレムに運ばれ、彼に救われたユダヤ人たちの手で埋葬されたのである。
そして1985年、 85 歳になった杉原氏にも日本人初の(ヤド・バシェム賞)が贈られる。彼はその手記の中で、『私のしたことは外交官としては間違ったことだったのかもしれない。しかし、私には頼って来た何千人もの人を見殺しにすることは出来なかった。私の行為は歴史が審判してくれるであろう…』と書き残している。
1986年 7月 31 日、彼は静かにこの世を去った。享年 86 歳である。
今でも世界の各地で生きる杉原氏とシンドラー氏が救った人々の一族たちがいる。 イスラエルには、シンドラーを記念したキャロプの木、杉原を記念した杉の木が植樹されている。それらは、二人のリストとビザで救ったユダヤ人の命が膨むかの様に、スクスクと成長している。 二人のもらったヤド・バシェム賞のメダルの裏には『一人の人間の命を救うものは、全世界を救う』と刻まれている。
虐殺から救ったビザとリスト
先日、杉原千畝氏の事を纏めたが、その関連で彼の妻の幸子さんの言葉で、『私たちの事は、金の絡んだシンドラー氏の事とは違います』と語ったとされているのが、気になって仕方がなかった。何故なら私自身がシンドラーについては良く知らなかったし、ユダヤ人救済に関しては二人は同じ立場にいたと思っていたからである。幸いにして、テレビ番組がその事を解明してくれたので、私自身のためにもこの件を整理して置く。
繰り返された大量殺戮、戦争の世紀と言われた血なまぐさい歴史となった廿世紀の中でも最大の虐殺は、第二次大戦中にナチス・ドイツが行った600 万人に及ぶユダヤ人殺害であった。1985年、ドイツ大統領ヴァイツゼッカーは、ドイツ敗戦 40 周年追悼演説で『…過去に目を閉ざすものは結局のところ、現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、再びそうした危険に陥りやすい。人間は何をしかねないか?これを我々は自らの歴史から学び取る。…』と語っている。
この二十世紀に、人々は時として人間の心さえ見失うことがあった。しかしその中で、時代の波に抵抗し、一人の人間として生き抜いた男達がいた。
1994年、アカデミー賞7部門を独占した映画に『シンドラーのリスト』がある。自らもユダヤ系米国人であるスティーブン・スピルバーグ監督が、ユダヤ人を救ったドイツ人、オスカー・シンドラーを描いたものである。
1999年 10 月、一つの発見が新聞紙面を賑わせた。それはシンドラー氏が所有していたトランクから『シンドラーのリスト』と言われる文書の原本が発見されたのである。このリストこそ、第二次大戦中に1.200 名のユダヤ人を救うためシンドラーが作成したものであった。ユダヤ人を虐殺したナチス党員であり、ユダヤ人を自らの工場で強制労働させていた彼が、何故たった一人でナチスに抵抗し、命懸けでユダヤ人を救ったのであろうか?
そしてこの映画が公開された1994年、東京麻布の外交史料館に、日本にもユダヤ人を救ったリストがあることが判明した。終戦から半世紀を経て公開されたこの資料とは『本邦通過査証発給表』であり、リトアニア駐在の外交官・杉原千畝領事代理が、6.000 人のユダヤ人を虐殺から救った『命のビザ』のリストである。ユダヤ人たちは、千畝(チウネ)の事を呼びやすい音読みで(センポ)と呼び、イスラエル建国 50 周年の記念切手でユダヤ人を救った 5人の外交官の一人としてその肖像を記念に残した。
このリストによると、1940年 7月 9日から 8月 31 日の間に、2.139 枚のビザが発給されている。家族一つで一枚であるから、6.000 人を越える人々がその対象となったことになる。この二人は、今世紀最大と言う虐殺の渦に飲み込まれながらも、その中に溺れることもなく、救出者となり得たのである。
1933年 3月 30 日、全てはこの日から始まった。アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任したのである。彼の打ち出した政策こそは、ユダヤ人差別政策その物である。今も残る彼の演説では『全ての富を独占するユダヤ人を俳除せよ。彼等は、我々の同胞とはなり得ない』と絶叫して扇動している。独裁者の道を突き進んだ彼は、1935年にユダヤ人を人間として認めないと言う『ニュルンベルク法』を公布する。これはドイツ人の血統保持者とユダヤ人との性交・婚姻の禁止などで、ユダヤ人への迫害を強めていったものである。
1939年、歴史は動いた。ドイツのポーランドへの電撃的侵攻が始まったのである。当時このポーランドに在住していたユダヤ人の330 万人は、全ての財産を没収され、周囲を塀に囲まれた狭いゲットー(ユダヤ人居住区)に押し込まれた揚げ句に、強制労働に駆り立てられたのである。
この年、ポーランドのクラクフの町に、一攫千金を夢見た男が、トランク一つ提げてやってきた。オスカー・シンドラー31歳であった。この時の彼は、ユダヤの富に群がるハイエナの様な企業家の一人にすぎなかった。事実ナチスの党員であった彼は、ナチスが没収したユダヤの工場を格安で買取り、ユダヤ人たちをタダ同然で強制労働させ、エナメル食器を軍に売り込み巨万の富を築いて行くのである。
1940年、逃げ場を失ったユダヤ人は当時ソ連とドイツの間の緩衝地帯で、ナチスの手の届かなかったバルト三国の一つリトアニア(ポーランドの北隣り)に大量に流れ込んでいたのである。しかし、この地にもナチスの手が伸びてくるのは、もう時間の問題であった。彼等ユダヤ人は、何としてもヨーロッパ本土から脱出しなくてはならなかった。追い詰められた彼等は、ある国の領事館に押しかけることになる。それはリトアニア日本領事館であった。そこには杉原千畝が領事代理としてその年に赴任していたのである。
その日のことを彼は、その晩年に手記の中で『…忘れもしない1940年 7月18日早朝のことであった。表通りに面した領事館の門前が、突然人の喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬ喚き声が高まった。私はカーテンの隙間から外を窺った。何とそれは大部分がヨレヨレの服装をした老若男女で、ざっと百人近くも領事館の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が目に映った。…』と記している。一体この異様な光景が何を意味しているのか?領事としてヨーロッパの事情に精通していた杉原氏は、それがナチスに追われたユダヤの難民であったことは直ぐに分かった。こうして突然の様に、杉原氏の苦悩と闘いの日々が始まったのである。ナチスの手を逃れてリトアニアに流れ込んでいたユダヤ人たち、彼等が生き残るためにはヨーロッパを脱出しなくてはならなかった。しかしこの時は既に、陸路で南下して脱出することも、海路で大西洋を渡ることも不可能になってしまっていた。ヨーロッパ中に張り巡らされたナチスの包囲網にどうしても触れてしまうのである。残された道は、ナチスと敵対するソ連を横断してそこから日本を通過して、当時唯一ユダヤ人を受け入れていたカリブ海のオランダ領キュラソー島に行くしかなかった。このキュラソー島とは、南米のベネズェラ北方沖のカリブ海にあるアンチル諸島の中の一つである。これが唯一の脱出ルートであった。つまり、リトアニアの日本領事館のあったカウナスからモスクワに行き、シベリヤ鉄道でイルクーツク・ハバロスク・ウラジオストックを経て、敦賀に上陸し、日本から海外航路を使ってはるばる南米まで行こうと言うのである。因みに彼等が日本に着いたときには既に、日本の戦時体勢のため海外航路は停止になっており、彼等は上海に渡ることになる。そこで彼等は、日本の通過ビザを求めて殺到したのである。杉原氏は余りのユダヤ人の多さに言葉を失うほどであった。杉原氏は、彼等を助けるべきか?それとも見て見ぬ振りをすべきか?苦悩の決断を迫られる。この時、彼等全部を助けることは、日本政府の命令に背くことになっていたのである。
1900年 1月 1日と言う新しい時代の幕開けに、岐阜県加茂郡八百津町で彼は生まれた。尋常小学校での成績は極めて優秀で一家の者から医者の道に進む事を期待される。しかし、1919年、彼の目に飛び込んで来た一つの新聞広告が彼の運命を決める。それは外務省留学生募集の広告であった。これに夢を抱いた彼はこれの選考試験に合格、ハルビンの『ハルビン学院』に留学する。ここで彼の天才的な語学の才能が花開き、ロシア人も驚くほどの流暢なロシア語を操るようになる。
1932年、日本は傀儡皇帝溥儀を担ぎ出して満州国を建設する。彼は卒業後に、外務省の要請によって、満州国外交部に勤務する。しかし、そこで彼の目に映ったものは、理想郷を讃いながらその実、軍が幅を利かせ中国の人々を支配下に置いている現実であった。彼は後の回想録にも、日本は中国人を同じ人間だとは思っていなかったと書いて居る。
一方、千畝から後れること 8年、1908年4 月 28 日、当時ドイツ領のチェコ・ツヴィタウでシンドラーは生まれる。彼の家は農業機具の製造工場を経営していて、町一番の資産家であった。彼は、父ハンスの財産で青春時代は、オートバイのレースに明け暮れる。こんな何一つ不足のない生活にも落とし穴が待っていた。それは1920年代後半から、世界を覆った大不況の煽りを受けて、1929年にはドイツも恐慌に襲われ、コーヒー一杯のためにトランク一杯の紙幣が必要と言われた前代未聞のインフレの中で、父の工場は倒産し、家も破産する。突然に全てを奪われ、夢見たレーサーへの道も絶たれたのである。
この頃、杉原氏は日本の中国支配にやり切れぬ思いを抱いたまま、1935年に満州国外交部を辞任して帰国し、日本の外務省勤務となっていた。所が当時の外務省は、東京帝国大学の出身者の閥があり、ロシア語専問職で採用されたノンキャリアの彼には、出世の道など全く無かった。
1935年、菊地幸子と結婚した彼は、間もなくフィンランドに赴任する。彼の仕事は外交官として、語学の才能を生かして他国の情報を集める事であった。この頃、事態は急転しつつあった。ヨーロッパではナチス(ドイツ国家社会主義労働党)が台頭し、その触手は、欧州全土に伸びようとしていた。1939年、彼は、ロシアとドイツの情報を集めるために、フィンランドを離れて混乱を極めるリトアニアに領事代理として赴任した。しかし外交官として情報を集める彼の耳に飛び来んできたのは、ナチスによるユダヤ人迫害の事実であった。そして1940年 7月、彼は窓から領事館に押しかけたユダヤ人を見ることになったのである。この時ユダヤ人の代表として、杉原氏と交渉した 5人の一人、バルファフティクは当時を振り返り『ナチスは、ポーランドのユダヤ人を皆殺しにしようとした。我々は皆リトアニアを目指した。そこでオランダ領のキュラソー島が残された最後の道であると知った。日本の通過ビザがなければロシアがビザを出さなかったので、どうしても日本のビザが必要であった。…』と、その時の事情を説明している。 何とか彼等を救う方法はないものか?彼は直接日本の外務省に電報を打ち、ユダヤ難民の処置を問い合わせた。この頃の日本政府の考えは、人種差別反対が旗印であった。この旗印のある以上はユダヤ人への差別待遇はいけないとされ、他国と同等に扱うと言うのが基本であった。しかし、このとき彼の許に返ってきた外務省の返事は、『行き先国の入国手続きを完了し、且つ、旅費及び日本滞在費に必要な携帯金のない者に対しては、通過査証を与えないように取り扱う事…』であった。つまり所持金を持たない貧しいユダヤの難民は受け入れないと言うのである。当時では米国も英国も全てこの条件であり、ユダヤ難民は米国・英国領事館では全て断られているから、日本だけが特に厳しかった訳ではない。
しかし、現実には杉原氏に助けを求めてきているユダヤ人逹は、旅費など持っていない者が大半である。目の前の難民を見捨てて本国の指示に従うのか?悩む杉原氏を決意させたのは、ある朝、彼が見たユダヤの子供たち、女や老人たちの疲れ切った顔であった。
彼は、もう本省と議論しても無駄であると考え独断でビザの発給を始めたのである。全てが手書きのため、発行のペースは上がらなかった。後の処罰を予想して、彼は妻には一切の手伝いをさせていない。最も多い 7月29日でも 259枚、食事もろくにとらず休む間も無しにビザを書き続けた。毎晩妻は硬直した夫の腕を揉みほぐした。時間はなかった。既にリトアニアに進攻していたソ連政府から、彼に国外退去命令が出たのである。一枚でも多くのビザを発行したいために、彼は番号付け、手数料の徴収も止め、果ては自分サインの判子も作り、ユダヤ人を助手にして大量発行をし始めた。このとき発給の手伝いをした ズプニック氏は、ポーランドの神学生のリーダーであり、教師と生徒350 人のビザを必要としたからである。
その頃、杉原氏のビザを手に続々と日本にユダヤ人が到着し、日本の新聞にも『戦火に追われて漂泊する北欧人、ハマの宿屋は大入り満員』と書かれた。この状況に慌てた外務省は、『ユダヤ避難民の後始末に、窮しおる実情なるに、これ以後は厳重にお取り扱いありたし』と言う電報を打っている。
1940年 8月 28 日、日本からも日本領事館閉鎖・退去の命令がくる。彼は領事館からホテルに移る。(ホテルメトロポリス・現ホテルリエトバ)しかし難民たちはホテルまで追いかけてくる。既にスタンプ等ビザ発給の道具は、ドイツに送ってしまっていた。それでも彼はビザに代わる『渡航証明書』をホテルの一室で書き続けた。そして 9月 5日、ベルリンへ向かうため、リトアニア・カウナス駅にくる。ベルリン行きの脱出最後の列車に乗るためである。しかし発車前の列車の中でも彼は必死でペンを動かし続けた。発給が間に合わず発車を見送るユダヤ人たちからは、悲痛な呻き声が漏れた。
彼は後の手記でこの時のことを『……許して下さい。私にはもう書けない……』と記す。杉原氏がリトアニアを去ってから時を置かず、ナチがリトアニアに進攻し、残されたユダヤ人はゲットーや収容所に集められ、厳しい強制労働を課せられる。
しかし、まさかこの時期、杉原氏と同じ奇跡を起こし、ユダヤ人を救う救世主がドイツ人の中から現れようなどとは誰も想像すらしていなかった。その男こそ、オスカー・シンドラーである。家が破産し、無一文になった彼が目指したのは、ポーランドのクラクフである。ここで彼は軍がユダヤ人から接収した工場を格安で買取り、軍に納入して莫大な富を得ていた。この事業で儲けた金で派手に社交界で遊ぶ彼には、他のドイツ人とは違った一つの特色があった。彼は工場で働くユダヤ人を『私のユダヤ人』と呼び、大切に扱ったのである。ナチス党員でありながら彼には、ユダヤ人が人間として映っていたのである。
それはシンドラーの少年時代の淡い思い出にあるのかもしれない。隣に住んでいたユダヤ人の二人の息子たちと遊んだ記憶が、無意識のうちに彼の中からユダヤ人差別を追い出していたのかもしれない。しかしこの考えは当時のドイツでは危険思想である。ユダヤ人を認める事は、ヒトラーに対する反逆と見做されたからである。事実彼は親衛隊に『ジューキッサー』の容疑で三度も逮捕されている。『ジュー・キッサー』とはユダヤ人にキスする人間と言う意味である。彼はその都度、多額の賄賂で釈放されているが、ヒトラーに対する反抗心が少しずつ芽生え始めて行く。
この頃、シンドラーのユダヤ人が収容されていたのは、ポーランド・クラクフ郊外のプワシェフ収容所であるが、ここの所長のアーモン・ゲイトは、残忍極まり無い性格であり、眠気覚ましと称して丘の上の所長の家から、収容所内のユダヤ人を狙撃する程であった。シンドラーは、このアーモンの所を訪問した時、アーモンがユダヤ人を縛り首にし、その遺体に銃弾を打ち込み、笑みを浮かべているのを目撃する。シンドラーはこんな事ができるのは既に人間ではないと、激しい怒りに襲われる。そして、全力を尽くしてこの組織を打ち負かしててやろうと決意する。
1942年、遂にナチスは、ヨーロッパに住む1.100 万人のユダヤ人に対して、一つの決定を下す。それは全ヤダヤ人の抹殺計画『最終的解決』であった。ある者は収容所への死の行進に倒れ、ある者は収容所の毒ガスで殺された。その数、最終的に 600万人である。そんな濁流に飲み込まれるように、シンドラーの工場も閉鎖され、ユダヤ人の工員たちは、プワシェフ収容所内に閉じ込められた。彼等がユダヤ人の虐殺工場と化したアウシュビッツに送られる事は明白であった。シンドラーは、ユダヤ人たちをガス室行きから救う手立てはないか?と模索する。そして彼は極秘の計画を実行に移した。
先ず彼は、自らの故国であるチェコのブリンリッツに工場を建設し、今まで蓄えた私財の全てをドイツ軍幹部に賄賂としてバラ撒き、ユダヤ人たちを自らの工場に呼び寄せることを認めさせた。その後、彼は工場の作業員リストを少しずつ増やして行く。彼は体に障礙のある者にさえ、熟練工の資格を付けてリストに加えている。その数は何時しか 1.200名にも及んでいた。このリストこそ『シンドラーのリスト』と言われるものである。ブリンリッツの工場でユダヤ人を終戦まで匿おうとしたのである。その目的がナチス側に漏れれば、彼自身が簡単に抹殺されると言う危険な賭であった。こうしてかれは危険を冒してユダヤ人救出に全てを捧げた。しかしこの間には、計画通りクラクフのプワシェフ収容所から、リストによってブリンリッツの工場へユダヤ人を移送中、手違いから 300人がアウシュビッツに送られてしまったことがある。彼は自らアウシュビッツに乗り込み、大芝居を打って彼等を救出した。この事件は、映画でも最も迫力ある場面として描かれている。
これは、彼等を死の瀬戸際から救い出すと言う彼の命懸けの離れ業を象徴するものであった。この時、九死に一生を得たリストの一人は『我々は、アウシュビッツから出されて別の収容所に移された。その新しい収容所の門が開いとき、そこにはシンドラーが立っていた…』とその時の喜びを語っている。
1945年 5月 7日、ドイツは無条件降伏し、ヨーロッパを焦土に変えた欧州での大戦は終結する。そしてユダヤ人逹は、廿世紀最大の悪夢から遂に開放されたのである。だが、開放された1.200 人のユダヤ人を工場に残して、逃げ出さなくてはならなかったのは、皮肉にも、この瞬間に敗戦国民になったドイツ人のシンドラー自身であった。
一方、リトアニアを脱出した杉原氏は、外交官として欧州を転々とし、終戦はルーマニアのブカレストで迎えた。その後、敗戦国民の杉原一家は、ウクライナのオデッサ収容所に収容される。苦しい収容所生活と二年の流転が続き、1947年の春、漸く博多まで辿り着いた。やっと平和の中で仕事が出来ると思った彼を待っていたのは、外務省の思いも掛けない退職勧告であった。彼がやったビザ発行の件で、責任を問われていると言うものであった。この時 47 歳。
戦後のシンドラーを待っていたのも、ユダヤ人救出成功とは裏腹の苦労の生涯であった。終戦を機に、一文無しになった彼は、新しいチャンスを求めてアルゼンチンのブエノスアイレスに渡る。そして農園の経営をするも完全な失敗に終わる。そして彼は人々の記憶から消えていった。
外務省を追われた杉原家も、三男の晴生が僅か7 歳で小児ガンで死亡すると言う不幸に見舞われる。彼は全ての過去を忘れようと務め、彼自身も歴史の波の中に消えていった。 しかし、杉原氏のことを忘れない人達がいた。彼のお陰で世界各国に安住の地を得た人達である。彼等は戦後になって、命の恩人である『センポ・スギハラ』を探し続けた。彼等は音読みの名前『センポ』で探していたために、外務省への問い合わせも該当者無しの返事しか返ってこなかった。こうして 20 年の月日が空しく過ぎていった。そんな1968年 8月、突然彼の家の電話が鳴る。この時、彼は様々な職業を転々として、ある貿易会社に勤務し、日本とロシアを往復する生活を送っていた。もう彼は 68 歳に成っていた。その電話はイスラエル大使館からの呼び出しであった。訳も分からずに大使館を訪れた杉原氏に、一人の男が一枚の紙を差し出した。その古びてボロボロになった紙を見て彼の中に衝撃が走る。それは自分が発行したあのビザであったのである。自分のビザが人々の命を救っていた、あの時の決断は間違っていなかったと、彼の中に封印した思い出が暖かい記憶となって蘇った。彼等は 23 年も恩人を捜し続け、遂に彼を捜し当てたのである。彼を捜し当てた在日大使館員ニシュリ氏は、リトアニアで彼と発給の交渉をした5 人の代表の一人であった。ニシュリ氏にとっては 28 年目の再会である。
『センポ』発見の報は、全世界のユダヤ人に伝えられた。そして彼は1969年に、イスラエルに招かれる。当時、彼と折衝に当たったあの5 人の一人バルファフティク氏は、イスラエルの宗教大臣になっていた。彼は、杉原への思いは、時を経ても色褪せることはなかったと言い切っている。
事業に失敗して再び全てを失ったアルゼンチンのシンドラーにも、彼が救ったユダヤ人たちから救いの手が差し延べられる。1967年、彼はその功績を称えられ、『諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)』を受賞する。イスラエルに招かれたときだけ、彼は自信に満ちたかっての姿を取り戻した。彼は、1974年10月 9日、66歳でドイツのフランクフルトで息を引き取るが、遺言によって、その遺骨はエルサレムに運ばれ、彼に救われたユダヤ人たちの手で埋葬されたのである。
そして1985年、 85 歳になった杉原氏にも日本人初の(ヤド・バシェム賞)が贈られる。彼はその手記の中で、『私のしたことは外交官としては間違ったことだったのかもしれない。しかし、私には頼って来た何千人もの人を見殺しにすることは出来なかった。私の行為は歴史が審判してくれるであろう…』と書き残している。
1986年 7月 31 日、彼は静かにこの世を去った。享年 86 歳である。
今でも世界の各地で生きる杉原氏とシンドラー氏が救った人々の一族たちがいる。 イスラエルには、シンドラーを記念したキャロプの木、杉原を記念した杉の木が植樹されている。それらは、二人のリストとビザで救ったユダヤ人の命が膨むかの様に、スクスクと成長している。 二人のもらったヤド・バシェム賞のメダルの裏には『一人の人間の命を救うものは、全世界を救う』と刻まれている。