クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

ネルソン・マンデラ 自由への長き戦い(1)

2009年02月23日 | 欧州・中東関連
        ネルソン・マンデラ
                自由へのかくも長き戦い

①マンデラの勇退
1999年 6月 14 日、南アフリカ共和国では、ターボ・ムベキ副大統領が新大統領に選出され、16日にネルソン・マンデラ大統領からバトン・タッチを受ける。マンデラは、政治犯として 27 年間の獄中生活に耐え、人種隔離政策(アパルトヘイト)を撤廃に導いた人物として、歴史にその名を刻むと共に『アフリカの誇り』を呼び覚ました『英雄』である。その彼が、惜しまれながら政治の表舞台を去る事になった。
今年の五月、地元テレビのお別れ会見で、『白人は私の期待を遥かに越える反応を示してくれた。人種和解に関して白人の役割が目に映らない人は、盲目の人か、或いはそれに目を向けない人である』と語り、南ア民主化に対する白人社会の貢献に賛辞を贈った。
白人政権に投獄されながら、寛容の精神で彼等を自政権内に迎えた大統領ならではの言葉である。
1964年、反逆罪で終身刑を言い渡された裁判で『全ての人が手を取合い、対等な機会を与えられて共存する、この理想のためには私は死をも覚悟している』と、言い切った彼の理想は、南アの人種和解と言うことで結実した。
民主化へ向けた交渉では、権力分有を原則として、少数白人政党も参画させた国民統合政府を樹立している。
彼はアパルトヘイト時代の人権侵害を調査する『真実和解委員会』を創設する一方で、その基本精神は、かっての抑圧者に対する裁きでは無くて赦しを優先させた。こうした和解の呼び掛けに黒人弾圧を指揮した政治家や警官らは次々と罪を告白した。中には涙を流して恩赦を求めた白人極右団体の指導者もいる。
マンデラの偉業には国際社会も敏感に反応、彼には世界各国から招待状が殺到し、在任中の五年間で 85 か国を歴訪している。南アを平和的に民主化に導いた英雄として、世界各地の紛争解決での期待も高く、ザイール(現コンゴ共和国)、アンゴラ、スーダン内戦を始め、東ティモール問題、コソボ紛争でも仲介依頼が舞い込んだ。最大の功績は、永年の国際懸案であった 1988 年のパンナム機爆破事件でのリビア人容疑者の国際法廷への引き渡しの実現である。
経済制裁下で国際的孤立状態にあった1980年代には、南アは 25 ケ国に在外公館を置くにすぎなかったが、マンデラ政権発足後は、英連邦への再加盟、アフリカ統一機構OAUへの加盟など、外交が活発化し、現在は 178ケ国と国交を結んでいる。しかもマンデラ人気と経済力を背景に、域内指導国として、その影響力を増しているのである。
マンデラ自身は、口癖のように『私個人の力ではない。私は周囲の人達と何時も相談をして決断している。その人達の力なのである』と言っているように、指導力を表面に翳すこと無く黒子に徹して、大統領の座も一期で引退を表明した。
与党アフリカ民族会議(ANC)党首の座も、1997年には今回後継大統領に選出されたムベキ氏に譲っている。                 
1960年代のアフリカ諸国の独立ラッシュ以降、独裁的な長期政権が乱立したアフリカで、国家元首が一期だけで引退するのは、極めて異例なことであるが、この政権は、米国がテロ支援国家と見做すリビア・イラン・キューバとも関係を維持している。米国の批判に対しては、反アパルトヘイト闘争を支援してくれた友人を裏切る事は出来ない、と説明している。アフリカも大国も主権国家として対等という、大統領の姿勢は、アフリカが失いかけている独立時の『誇り』を呼び覚ましているのではないか?
彼は家族との時間を大切にしたいとして、勇退後は、南部の生まれ故郷クヌで過ごす事を望んでいる。しかし、政治的指導者として屈指の存在としてのマンデラ氏であるから、紛争調停や民主的価値観の遊説行脚等、マンデラ大統領が私人として活躍することへの期待感は消えそうにない。
1998年 2月、マンデラはテレビ会見で、二度目の結婚を明らかにした。しかも相手の人は1986年に飛行機事故で不慮の死を遂げた隣国モザンビークのサモラ・マシェル大統領の妻であったグラサさんであり、彼の 80 歳の誕生日の 7月 18 日に結婚した。
彼の前妻のウィニーさんは、自身も自宅軟禁状態にありながら、黒人解放闘争の同志として獄中の夫を支えた。しかし解放後の夫を迎えたこの最愛の妻は、少年の誘拐、殺人事件への関与を始め、年下の愛人にまつわる不正疑惑にまみれて、マンデラを傷つけた。
二人は 1996 年に離婚し、彼は一時深い孤独に陥ったが、グラサさんとの出合いで、活力を恢復、その後の多忙な政治生活を乗切った。

②生い立ち
一千年以上の昔、アフリカ人たちはアフリカ大陸を南へ、南へと移動していった。その中のコーサ族は、家畜と共に現在の南アフリカ東部に定住する。ヨーロッパ人がこの地に住み始めたのは 17 世紀の半ばであり、彼等はアフリカ人と戦って彼等を追い出し、何世紀にも亘る憎しみの種を蒔いたのである。
この地、イースタンケープでネルソン・マンデラは、 1918 年に生まれる。彼はケープの族長たちの末裔であるから、王家の血が流れていることになる。コーサ族の中で、彼は
『ホリササ・ナミバ・ラリルンガ・マンデラ』と言われていたが、最初に学校にいったとき、先生から洗礼名を聞かれ、無いと答えると『ネルソン』と付けられた。それ以来彼は『ネルソン・マンデラ』になったのである。
彼の父は『一夫多妻者』であり、彼は、四人の妻と九人の子供と言う家族のなかで、家畜の世話をしながら草原で成長する。
病気になった父親は、首長に、頭も良く大きな可能姓を秘めている子供であったマンデラを預け、教育を依頼する。彼は九才の時、トランスカイ・ムケケズウェニの首長の家に連れて行かれる。そして首長の子供ジャスティスと同等に扱われて教育される。この首長は『ジョギンタバ・デヘビット・ダリンティエボ』と言う。
首長の家は、原住民の王族の宮廷である。ここで彼は部族の習慣や掟に精通した長老たちの世話をする。この時代に彼は長老たちから、白人とコーサ族の百年以上に亘る古い戦争の伝承を聴く。彼等の祖先は白人の火薬に対して槍だけで戦ったのである。
                                        その後、成長した彼は、大学入学のためヘルドタウンへ行く。その大学の校長ウエリントンはナポレオンを打ち負かした、かの有名なウエリントン公爵の末裔であった。或時高名な詩人ムガイがこの大学を訪問した時の講演で、ムガイは世界の国々に呼び掛けた。
『…星を分配するから皆私の回りに集まれ、ヨーロッパ人、イギリス人、ドイツ人、フランス人には、最も多くの星から成っている大きな星座を与えよう。貪欲な国民、ヨーロッパ人達よ、君達は領土を求めて争ってばかりいる。君達が始めた戦争は世界中の何百万と言う人々に苦しみと深い悲しみを撒き散らしている。……』それから彼はアジアとアフリカの民族に呼び掛け、最後にコーサ語で『君達には明けの明星を与えよう。人類の歩んで来た歳月を数える星を』と結んだ。
コーサ族の習慣に割礼がある。マンデラは自分が16歳の時、これを受けたときの首長の訓話を今でも覚えている。『……君達はもう立派に部族の一員である。君達は又学校に戻っていくのであるが、この国に於いては何者にもなれないであろう。なぜならこの国は白人のものだからである。兵士となっても自分の自由のために戦う日は、決して来ないであろう。何故なら銃を持つ事ができないからである。それにも拘らず我々は、君達がいつの日か、白人が我々に課した束縛からの人民の解放のために、戦うことを期待する。…』

③都会への旅立ち
1941年 4月、結婚問題のゴタゴタから逃れるため、マンデラは首長の息子のジャスティスと共に村を離れ、大都会ヨハネスブルクに来ていた。1940年代のヨハネスブルクは急速な発展を遂げ、若者二人も職を求めて町に殺到する人の群れに加わる。彼等は郊外にあるクラウン鉱山に職を得て働き始める。しかしこの二人の許に首長のジョギンタバから、至急家に帰るようにとの電報が届く。しかしマンデラは帰らなかった。仕事も金もない23歳のこの黒人青年は、アレクサンドラに辿り着く。
ここはヨハネスブルク郊外の黒人ゲットーである。黒人はヨハネスブルク市内での居住は禁止されていたので、彼は毎日ゲットーから通ったが、仕事は惨めで賃金も酷いものであった。この頃には黒人の実業家などは殆ど居なかったが、例外が不動産会社を経営する ウォルター・シスル(南アフリカ民族会議ANCリーダー)である。マンデラにとっては黒人が事務所を持ち、タイピストを置いて仕事をするなどは思いもよらなかった。彼はシスルを訪問し、弁護士になりたいと申し出る。シスルはマンデラが将来指導的立場に付けそうだと感じた。
1942年、彼はソウェト(ヨハネスブルク郊外の黒人居住区)にあるシスルの小さな家に移り住み、昼は法律事務所の事務員で働き、夜は法律の勉強に集中する。やがて彼はシスルの影響で次第に政治の世界に興味を持つようになる。
シスルが重要メンバーであったANCは、1912年に創設された白人少数支配に対抗する最初で最大の政治組織である。マンデラに多大な影響を与えたもう一人の人物は、同じく弁護士を目指す才気溢れる論客のオリバー・タンボである。タンボの頭の良さはマンデラもかなわなかった。常に物ごとを熟考する性格でマンデラも彼を尊敬し、二人のパートナーシップは重要なものであった。この三人の結束でANCは次第にアフリカ解放運動に力点を動かす。       
1948年、南アでは国民党が勝利して、D・マランが国民党単独政権を作り、人種差別を強化する。オリバーは『大いに結構、これで敵が誰だかはっきりした。間もなく民衆を結集する絶好の機会が我々に訪れるであろう』と、闘志を燃す。
アパルトヘイトの創始者H・フルウールトは『[アパルトヘイト]と名付けたこの政策が誤解されているようであるが、これは差別ではなく共存するための政策である。人種の違いは確かに存在している。その違いを認めて、受け止めるべきである。分別のある隣人となら、助け合い共存する事も可能である』と説明していた。
白人が支配し、黒人が奉仕する、と言うのがこのアパルトヘイトの現実であった。それを日々象徴するのが黒人が持たされた身分証である『通行証』であった。警官は何時でもどこでもこの通行証の検閲をし、不所持は即、監獄送りである。黒人ゲットーが白人居住区域に近いと言うだけで壊されたり、移動させられていた時代である。
1952年、マンデラたちは、不正な法律を六つ選びだし、それに敢えて抵抗し、監獄に入る事で、人々の関心を集めることを狙ったキャンペーンを実施する。それには先ず被害者に政府側の挑発にどうやって抵抗するかを教え、訓練しなくてはならなかった。参加者全員は決して暴力を使わないように徹底的に訓練され、全員がこの方法を受入れた。どんなに状況が困難でも、何時も真っ先に立ち上がるのはマンデラであった。誰が1950年 6月のストライキを指導したのか?誰が市民不服從の計画を練ったのか?いずれもマンデラであった。彼は組織内の地位争いは常に避けていたが、1953年にマンデラとタンボは、南ア史上初めての黒人による法律事務所を開く。その事務所はまるで込み合った病院の待合室のようであった。弁護士としてはタンボの方がネルソンに勝っていたが、法廷弁護士としてのネルソンは、その圧倒的な存在感でこれに敵うものは誰もいなかった。傍聴人は言うに及ばず、検察官も判事も通訳もそれに警官までもが彼に注目した。

④抵抗運動そして投獄                              1955年、ANCは対立する全ての民族主義グループに呼び掛け、これに応えて自由憲章を承認するために多くの人が集まった。6 月 25 日の『人民会議集会』である。憲章には自由と民主主義と多民族平等国家への要求が、『国民が統治すべきである』『各民族は等しい権利を持つべきである』『国の富は国民が分け合うべきである』『土地は耕すものに与えるべきである』と詳細に綴られていた。マンデラは、この集会の主催者の一人であったが、警察当局から集会への一切の参加を禁じられていたので、彼は表には出ずに成り行きを見守っていた。
妻ウィニーとの出合いはこの頃であるが、彼には既に最初の結婚でできた子供もいたのである。
1956年12月、警察当局は自由憲章計画に参画した 156名を反逆罪の容疑で逮捕する。彼等運動家を罠にはめる綿密な計画がされていたのである。予審尋問はヨハネスブルクで行なわれたが、この事が人々の間に熱狂的な行動を呼び起こしたのである。人々の団結は日増しに強くなっていったが、その中心には背の高いマンデラの姿が何時も見られた。人々を指揮し影響力を持ち、尊敬を得る事で彼のリーダーシップは更に研かれていった。この裁判期間中彼は、裁判所通いと集会への出席でろくろく、ウィニーと生まれたばかりの子供の待つ自宅には帰れないほどの多忙さであった。この裁判は四年も続いたが、その間に警察官の偽証が明らかになったりして政府の主張は崩れ、被告は全員無罪を勝ち取る。運動の幹部たちは四年半も拘束されてはいたが、その間でも街頭で、ゲットーで抵抗は続けられていた。
1960年 3月 21 日、シャープビルで身分証法に反対する住民が警察署の前に集まる。彼等はANCから分裂したパン=アフリカニスト会議(PAC)の抗議集会である。彼等は 『命あるうちにアフリカに自由を』と主張するが、警察は無差別発砲で攻撃し、多数の死者を出す。これがシャープビル事件である。政府は非常事態を宣言し、反政府運動は禁止され数千人が投獄される。当然ANCもPACも非合法化される。マンデラは誰かが地下に潜って運動を指揮しないとだめだと感じ、あらゆる困難を覚悟してその役目を引き受ける。この時は国中の警官がマンデラの写真を持ち姿を見掛けたら直ぐ逮捕する用意をしていた。彼は車を頻繁に変え、帽子を被り目隠しまでしていたが、報道陣に対して『南アは多民族国家であるが共存できると信じている。我々が望むのは[一人一票]である。しかし政府が譲歩しないし、非武装の市民に銃を向けるのであるから、最早話し合いによる解決は無理であり、武力闘争に訴える以外の道はない。しかし政府が話し合いに応ずるならば行動を控える用意がある』と表明した。この間、南アはイギリス連邦を離脱し、共和国になる。資金調達と武力衝突に備えた軍事訓練のため、マンデラは国を離れるが、帰国した途端に逮捕、拘束される。1962年のことである。この法廷で彼は、ウィニーの差し入れた民族衣装で出廷し判事を圧倒する気迫であったという。そして彼は不法出国とスト扇動の罪により五年の刑を言い渡される。この期間に彼の仲間シスルもムベキも捕まり、銃ゃ爆弾、そしてマンデラの有罪を証明する文書が押収され、現行犯逮捕の形で今度は反逆罪で死刑になる恐れもあった。
シスルの妻アルベルティーナの証言では、弁護士からは、この事件では希望を持つな、事態は極めて不利であると聞かされたと言う。彼等はいかにして身を守るかを考えたが、歴史をゆがめる事は言うまいとした。この時マンデラの行なった演説が詰め掛けた民衆の魂を奮い立たせた。それは『私は白人支配と闘ってきた。黒人支配とも戦ってきた。民主的で自由な社会を理想に掲げてきた。人々が平等の権利を持って協調し共存して行ける社会である。私はこの理想の実現のために、生涯を賭けている。その為の必要とあれば死をも厭わない』と言うものである。
マンデラは、国家反逆罪で終身刑となり、同志たちと一緒にロベン島送りとなる。ここはケープタウン沖にある悪名高い孤島の刑務所である。

⑤南ア共和国の民族…ここで南アの歴史を少し整理する。
かって南アフリカの地には、狩猟採集民のサン族(ブッシュマン)や牧畜民のコイ族(ホッテントット)が先住しており、十五世紀頃から農耕民のバンツー語族系アフリカ人が北方からやってきた。南アに最初に到着した白人は、十七世紀半ばのオランダ人であり、オランダ東インド会社の東洋航路の補給基地としてケープタウンに入植した。その後は東インド会社の支配が続いたが、ナポレオン戦争中に、イギリスがケープタウンを占領し、
1814年にはイギリスの植民地としてしまう。
現在の人種構成は、白人 16 % 、カラードと言われる混血 9 %、インド人主体のアジア人 3 %、アフリカ人 72 % となっており、その文化も様々で地域的にもカラードはケープタウン、インド人はダーバン、アフリカ人はホームランドと言う一部の地域に隔離されて居た。白人もオランダ系のボーア人と、イギリス系に別れているのである。
ボーア人は、オランダ東インド会社の入植以降の本国からの移民であり、十九世紀のイギリスによるケープタウン占領によって内陸部に大移動し、トランスバール共和国とオレンジ自由国を建国するが、1910年の南ア連邦結成で州として組み込まれた。彼等の多くは、オランダ改革派教会の信徒であり、その『選民思想』から黒人を蔑視するアパルトヘイトが生まれる。一方イギリス系の白人は主に沿岸のケープ州とナタール州に住むが、これらの地は、もともとイギリス植民地であるので、気風もよりリベラルである。1948年以降、国民党政権によってボーア人が政治権力を握ったのに対して主として経済界を牛耳っていた。
カラードは混血で正確には人種とはいえないが、オランダ人入植の初期に現地人であったホッテントット、ブッシュマン、マレー出身の奴隷との混血の子孫である。従って外見は黒人に近い人とか、殆ど白人に見える人となど様々である。
インド系は、十九世紀にサトウキビの栽培が行なわれ始めたときに、インドから移入された契約労働者の子孫である。
アフリカ系は、既にホッテントット、ブッシュマンは南ア国内にはおらず、隣国ボツナワに少数残っている。現在の南アのアフリカ人は、バンツー語系であり、コーサ族、ズールー族、ツワナ族、ツォンガ族、北ソト族、南ソトベンダ族、スワジ族の八つの言語グループに分かれ、南ア政府の分離政策によって10のホームランドに居住していた。

19世紀の半ばに、オレンジ自由国のキンバリーでダイヤが発見されると、イギリスは直ちにそれを領有し、続いてトランスバールで金が発見されると、イギリスはその領有を目指して1880年から1902年の間に、二度のボーア戦争を起し、ボーア軍を破り、1910年の連邦結成に繋げたのである。しかし1924年にはボーア人のヘルツォーク政権となり、ボーア戦争で破れた同胞のボーア人を保護する目的で、一連の人種隔離法アパルトヘイトを制定していった。この人種隔離法のもう一つの原因は、彼らの選民思想である。このため、1936年からアフリカ人から参政権を奪い、アフリカ人を全国土の 13 % の地域に隔離。 これに対抗していたのがANCである。第二次大戦後には、アジアでの民族主義の高揚がアフリカにも波及してくると、マランが『黒禍(ブラックペリル)』を掲げて1948年の選挙に勝ち、始めて国民党の単独政権が成立した。マランは選挙公約にしたがって、背徳法雑婚禁止法、人口登録法、集団地域法などのアパルトヘイト法を次々と制定する。こうした中で、1950年代に不服従運動が展開されたのである。
そして1960年のシャープビル事件を経て、ANC、PACの非合法化、1962年のマンデラ逮捕となる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿