みかん栽培と、その周辺の四季

みかんの木を栽培しています。四季折々の周辺作業を紹介したいと思います。これを通じて交流できたらと期待しています。

豊臣秀吉の小田原城攻め-天正庵跡

2009年07月03日 22時16分16秒 | 南神奈川の自然
天正庵跡の説明書の紹介

ミカン畑の帰り道、だいたい県道135号線を通ります。
海岸沿いに真鶴道路が出来る前は、この山沿いの道が幹線道路でした。
真鶴から小田原に向かって走ると、「江の浦」付近に、バス停留所「天正庵跡」があります。
これまでは、まったく通過するだけでしたが、今回はチョット寄り道して、
あらためて「天正庵跡」の説明書をよんでみました。

 『天正庵跡』
「ここは、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原戦役の際、秀吉が千利休に命じて、大野五郎兵衛の屋敷内に茶室を設けたところである。
 『天正庵由来記』によれば、「天正18年5月の頃、秀吉公、小田原の北条を責める折柄、諸将の労を慰めんとて、利休、前波半入らに命じて当村五郎兵衛屋敷内に数寄屋(茶室)を囲い結ばしめ、橋立の茶壺、玉堂の茶入れ、その他の名器等をかざりつけ、公(秀吉)手づから茶を点じ、徳川家康、織田信雄、細川忠興、蒲生氏郷などに給り、饗応の中、公興のあまりに、給仕の青女房に金の扇子10本ばかり取り出し、躍れ躍れと利休、半入、女房達と共に興じければ、諸将各長陣の労を忘れける」とある。ここは天正庵の大野家には、秀吉から拝領の酒器、木杯や、秀吉が使用したといわれる碁盤が保存されている。」と書かれてありました。

1590年の4月には小田原城は圧倒的な秀吉軍により完全に包囲されていました。7月には北条勢は降伏します。天正庵の茶会はその間のことです。
秀吉は小田原城からも見える位置に、別に大きな「一夜城」という城をつくっています。
その一夜城が公の場としたら、それとは別に戦場から少し離れて相模湾をみわたすこの小さな庵で、諸将をあつめて、内々でどんな話をしたのでしょう。

とにかく、天下統一に向けて、秀吉が京・大坂から小田原攻めに遠路出かけてきたこと、ここで諸将との打ち合わせがもたれたこと。
そうした歴史の舞台が、道の途中にひっそりと残されていました。


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