
新宿御苑のハクモクレン(その2)
3月11日の朝日新聞の『(多事奏論)隷従している人たちへ 自由になるのは簡単ですよ』(国分高史 編集委員)という記事に次のような一節があった。
……15年5月の党首討論だ。当時の岡田克也民主党代表が安全保障関連法案をめぐり、自衛隊の海外での武力行使についての首相の説明と法案内容との矛盾を突いた。
すると、首相はこう答えた。「我々が提出する法律の説明は、全く正しいと思いますよ。私は総理大臣なんですから」
それ以降、「首相は首相であるがゆえに正しい」と、閣僚や官僚らが奔走させられることになったのだと見る。
「私は総理大臣だから正しい」と言う。この言明が正しい場合というのは、「総理大臣」というものは、豊富な経験と知識を持ち、嘘をつかず、国民全体のために適確に問題に対処できる存在であるということを、国民みんなが認めており、そして、当の総理大臣がそれに該当する人物である場合だけである。なお、そのような総理大臣は、自身の言動の矛盾を指摘されたとき、自ら「私は総理大臣なんですから正しい」などとはけっして言わないことも確かである。安倍総理大臣は自分が何を言っているのかわかっていないと思う。わかっていたら、はずかしくて、こんなことを言えるはずがない。(この人には「はずかしい」という感情が欠如しているようにも思えるが)
いまこの国の総理大臣については、不信感を持っている人が多いと思う。その理由の例をあげればきりがない。改憲、森友、加計、集団的自衛権行使容認、共謀罪、沖縄辺野古基地建設、原発島根3号機の新設、赤坂自民亭、桜を見る会、お友達の収賄、選挙違反、準強姦事件の不起訴、NHKなどマスメディアへの介入、検察官人事への違法な介入、国会での質問者へのヤジ、嘲笑、官僚作成原稿の棒読み答弁、聞かれたことに答えないはぐらかし答弁、事前に作成されたQ&Aによる記者会見芝居、「私が解決する」と大見得を切った拉致被害者取り戻し失敗、北方領土問題の後退、TPP絶対反対から180度の転換、農家に脅威を与える種子法の導入、アベノミクス失敗、結果としての格差拡大、消費増税、新型コロナウィルスへの対応……
* 何度も紹介するが、改憲問題については、第一次安倍内閣の法務大臣である長勢甚遠が、安倍首相列席のもと、安倍首相が会長を務める「創生『日本』」の東京研修会(平成24年5月)で述べたつぎの言葉を忘れてはならない。彼のこの言葉のあと、会場から大きな拍手が起こっている。彼以外の人たちの発言も聞いてほしい。彼らがどんな憲法にしたいと考えているのかがはっきりわかる。ここに動画がある。長勢甚遠の話は最初から14分30秒くらいのところから始まる。
「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」……「たとえば人権がどうだとか言われたりすると、平和がどうだとか言われたりすると怖気づくじゃないですか」
本人が認識しているかどうかは別にして、「私は総理大臣なんですから正しい」という言葉には重大な意味が含まれている。それは「力こそ正義だ」という意味である。
国民の信頼を欠いている総理大臣が「総理大臣であるから正しい」と言うときに意味するのは、「総理大臣はこの国で最大の権限を持ち、権力者であり、逆らえないものなのだから、総理大臣が正しいと言えば正しいのだ」ということにしかならない。つまり、何が正しいかは「私=総理大臣」が決めるのであり、決めた当人が正しいと言うのだから正しいのだということである。これは典型的な独裁政治である。独(ひとりで)裁(正誤を判断して決める)である。
「力こそ正義」というわけである。しかし、「力こそ正義」という考え方は、歴史的経験から、多くの人を不幸に陥れるものであることがわかっており、人類が常に乗り越えようと努力してきたものであり、乗り越えつつあるものでもある(いまだに「力こそ正義」を信じている人の多いのも事実であるが)。民主主義制度はそれを乗り越えるための一つの(最善、最終のものではないが)答えである。そして、この国も含め、世界中の多くの国がその制度を導入している。北朝鮮や中国、ロシアなどを露骨に批判する人たちは、それらの国が民主的でない、独裁的だと言って批判している。皮肉なことに、そういう人たちが独裁的な安倍政権を無批判に応援している。ほとんど漫画である。
では、いったいどうすればいいのだろう。
実は、冒頭の記事は、その表題が示すとおり、「自由になるのは簡単ですよ」が主題であり、権力者を独裁者にしてしまう仕組みを明らかにしている。
16世紀のフランスを代表する思想家、モンテーニュに影響を与えた彼の親友であるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシという人がいて、その著書『自発的従属論』で権力構造の本質をあばいているとのこと。この著書が、2013年に新訳の文庫としてよみがえり、いまの日本で着実に版を重ねているとのこと。
ラ・ボエシは、絶対王制時代の権力をこう論じる。「圧政は支配する者自身が持つ力によってではなく、むしろ支配に服する者たちの加担によって支えられる。その構造は次のようにしてできあがる。1人の圧政者は数人の取り巻きを重用し、恩恵を与える。取り巻きは恩恵を失うまいと、圧政者の権力維持に加担する。取り巻きはまた自らの取り巻きに恩恵を与え、権力のおこぼれを求めて自発的に隷従する者が、鎖のようにつながっていく」。
権力者の取り巻きたちの行動原理を、ラ・ボエシは記す。「この者たちは、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない」。
なんと、およそ450年前のこの著書は、まさにいまの日本の現状をそのまま述べているようである。人間とは、ここまで変わらず、同じ過ちを繰り返すのかと、改めて考えさせられる。最近、週刊文春によって公開された、森友問題で自死を選んだ赤木俊夫さんの遺書は、「権力者の取り巻きたちの行動原理」の一端を明らかにしている。政府はこの遺書の内容が国民の前に明らかにされても、「再調査の必要はない」としている。赤木さんの妻は言う。「安倍首相、麻生大臣。あなた方は調査される側で『再調査しない』と言える立場にありません」。この言葉を、野党やテレビ、新聞はいったいどう理解しているのだろう。再調査によって追求される側に「再調査せよ」と言っても、「再調査は必要ない」「もう終わったことだ」と答えるのは、はじめからわかりきっていることである。あらかじめ、逃げ道を作ってあげておいて、そこに誘導するかたちで追求をしているようなものである。
法治国家であれば、再調査するのは、検察、警察の仕事である。ところが、検察、警察は動かない。この機関も権力者から利益供与を受ける側となり、権力者を忖度する存在となっているからだろう。黒川検事長の露骨で違法な定年延長は、そのことを明らかにしている。追求するなら、こういう点だろう。
ラ・ボエシは、人々が自由を取り戻すためになすべきことも書き残している。
「もう隷従はしないと決意せよ。するとあなたがたは自由の身だ。敵を突き飛ばせとか、振り落とせと言いたいのではない。ただこれ以上支えずにおけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を奪われた巨像のごとく、みずからの重みによって崩落し、破滅するのが見られるだろう」。
つまり、安倍政権を支えているのは、お側に使えている大臣や官僚たちであり、恩恵を与えられ、それを失うまいとしている者たちであり、権力のおこぼれを求めて自発的に隷従する者たちであり、引いては、日本国民であるということだ。
「もう隷従はしないと決意せよ。……ただこれ以上支えずにおけばよい」
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