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思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

教育について考える

2012-03-23 22:58:55 | 随想

 人は生まれながらにして、生きるために必要ないろいろな能力を持っている。その中に、学習する能力がある。原始的な生物になるほど、生きるために必要な能力を、生まれながらにして身に付けている度合いが高くなる。したがって、原始的な生物になるほど学習能力の度合いは低くなる。つまり、より行動がパターン的、固定的なものになり、環境の変化に対応する能力が低くなる。クマムシのように、活動ができない環境になると、一種の冬眠状態になって環境変化への耐性を増し(空気がなくても、餌がなくても、水がなくても、摂氏150度以上またはマイナス150度以下の温度でも、生き延びることができると言われている)、活動できる環境になるまで待つという戦略をとっている生物もある。しかし、人は環境の変化への対応能力を高める方法として、生まれてから死ぬまで学習ができるようになるというかたちで進化してきた。だからこそ教育というものが成り立つ。学習能力がないものに教育はできないからだ。

 教育とは、学習能力があるもの(すべての人にある)に対して、その外部から施すものである。その一つに、外部環境そのものが教えるという形がある(施す側に意図がないので、施すと言うと語弊があるかもしれないが)。人は常にその外部環境(自然環境、社会環境)に対して何らかの働きかけをしながら生きている。働きかけをすると、当然に外部環境から何らかの反応が返ってくる。その反応が働きかけた目的にかなうものであったり、心地よいものであったりするときは、当初の働きかけを正しい方法、自身にとって有益な方法として学習し、その反対であったときには、間違った方法、有害な方法として学習することになる。これが脳の中に記憶され、この作業を繰り返すこと、すなわち試行錯誤によって、この世界をより正しく、広く、深く知るようになり、そのことが目前に現れた問題を解決する能力を高めてゆく。これが人の成長だと思う。

 しかし、この方法には限界がある。人は長くても100年程度しか生きられない。懸命に試行錯誤を繰り返しても、その年月で可能な範囲の学習しかできない。そこで、人による意図的な人の教育というものが生まれる。人は時間的、空間的に広がって存在する。子供が産まれ、その子供がまた子供を産みというように、時間的につながって生きている。また、地理的にも、社会的にも異なる環境に広がって生きている。ひとりひとりができる試行錯誤には限界があるが、人全体としてはある意味で無限に広がって試行錯誤を繰り返している。その成果を伝えることが教育であり、それによって、人は個人の限界を超えて、過去および同時代の他人の経験や知識を自分のものとして活かすことができる。これが教育の本来の目的だと思う。人は、この世界についての知識を正しく、広く、深く得れば得るほどに、世界に対して適切な働きかけができるようになるからだ。

 最も一般的なレベルで考えるとこのようになるが、現実には、人が人を教えることになるので、いろいろな問題が出てくる。門外漢がこれ以上言うと、どこかから叱られるかもしれないが、敢えて二言、三言わせてもらいたい。

<価値観の相違と教える側の意図>

 人が遺伝子で受け継いだ性質、生まれ育った環境は、ひとりひとり違う。だから、ひとりひとりが、異なる価値観を持つのは当然だし、自然なことだ。一国の国民が同じ価値観で統一されていたとすれば、それは異常なことで、歴史的に見れば、大変危険な状態にあると考えるべきだ。

 人によって価値観が異なるとすれば、教える側の価値観、意図が重要になってくる。これは、教えられる側が意識的に教える側を選択できる状態にあるときはあまり問題にはならない。しかし、ほとんど選択の自由がない場での教育においては大きな問題となる。教える側の価値観、意図が強制されることになるからだ。特に、学校教育など、これから社会を担ってゆく世代に対して行なう教育において、大きな問題となる。現実に問題になっている。

 この問題に対する一つの考え方だが、これからの社会を担ってゆく世代に、具体的なレベルでの社会のあり方を強く方向付けることはすべきではないと思う。若い世代も、いまある社会の中で生きてゆくことからスタートする必要があり、そのために役立つ知識を与えることは必要だ。しかし、いまある社会が最善ではないのは当然なので、大切なことは、いまある社会を批判的に見る能力、いまある社会の問題を把握する能力、そして、その問題を解決し、つぎの社会をつくり出してゆけるような能力を、許育において養うことではないだろうか。

 いまある社会で成功している人たちは、いまある社会に対する思い入れが強く、それを強く肯定する価値観を持っていることだと思う。だからといって、その価値観を次世代に強制することをすべきではないと思う。たとえば、経済的環境がどんどん変化している現在、企業において、いまあるその企業のあり方に固執し、その状態を守ってゆくことが社員の使命だという社内教育をするような企業は、たぶん生き残ってゆくことは難しいだろう。企業にとって必要なのは、いまある企業のあり方の問題を見つけ出し、それを改善、改革してゆけるような社員ではないだろうか。


<人の個性>

 先にも述べたが、人が遺伝子によって受け継いだ性質、個性はひとりひとり異なる。そうであれば、当然に得手不得手も異なり、潜在的なものも含めて能力も異なる。社会にとっては、それぞれの人が、得意な分野で、その能力を最大限に発揮してくれることだと思われる。個人にとっても、得意なことで、その能力を生かせることは喜びであり、そこに生きることの意味を見出したりすることができる。もし、学校教育が各個人の能力を引き出し、育て、伸ばすことができるようなものであれば、社会はいまとはずいぶん違ったものになるのではないか。

 社会はいろいろな能力を必要としている。また、社会の変化に応じて要求される能力も変化し、人の能力も変化する。閉塞した社会の状況を突破する能力も必要だ。画一化され、固定化された教育では、既存の制度に見合う能力は養成できるかもしれないが、それを超えてつぎの社会をつくってゆくような種類の能力を育てられないし、伸ばすことはできない。かえってその芽を摘んでしまうことにもなる。ある意味で、現在の日本がこの停滞状態から抜け出せないのは、現状の教育制度、教育内容にあるとも言えるのではないか。

 現在の学校においては、個性の違いを考慮した教育をすることは困難なように思われる。現在の学校教育における最高価値は、より有名な上位段階の学校に入学するためのテストに合格する生徒をより多く出すことであるように見える。良い学校とは、有名な上位段階の学校に他校より少しでも多くの生徒を入学させる学校であり、よい先生とは、その入学テストに合格させるテクニックを教えることが上手な先生ということになる。そして、そのテクニックをより良く身につけた生徒が評価される。学校教育というものがそういうものならば、塾に任せたほうがよい。塾はその目的に特化されている。


<愛国心>

 このごろ気になるのは、国旗、国歌への敬意を教え、愛国心を育てるという教育だ。国というものに限らず、敬う気持ち、愛する気持ちというものは、感情であり、教えられるものではなく、それにふさわしい対象と出会えば、自然に沸き上がってくるものだと思う。これを敬え!とか、あれを愛せ!と強制することによって湧き上がらせることなどできないと思う。国について言えば、まず、国というものが、尊敬され、愛されるようなものとして在らねばならない。それが実現すれば、自然と敬われ、愛されるようになるはずだ。「国を愛せ!」という為政者こそ、国をそのような存在とする責任を負い、そうする努力をする必要があると考えるがどうだろうか。自身がそうする前に、まず、「国を愛せ!」と強制するのは本末転倒と言わざるを得ない。

 愛国を強制する人たちが言っている国というものは眼に見えない。感覚器官で直接に感じ取ることはできない。だから、国民は、国会議員や、内閣、官僚、警察官、検察官、裁判官など、国の権能を体現している人たちの言動を見て、国というものがどんなものかを判断している。ところが、彼らの不正、不祥事が後を絶たない。それなのに、愛国心を持てと言われても困ってしまうのが国民の本音だと思う。ましてや、まだ十分な判断能力が育っていない小学生や中学生に対して、それでも国旗を敬え、国歌を歌え、国を愛せと教え、それをしない先生はこうなるぞ!と罰を与えて見せしめにするなどもってのほかだと思う。それでは、まるでどこかの国と同じになってしまうのではないか。


 教育は大変重要で大きな問題であり、まだまだ考えなければならないことが多い。またの機会に別の側面から考えてみたい。



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