長崎は九日、六十一回目の原爆の日を迎えた。長崎市松山町の平和公園では「被爆六十一周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、市民は犠牲者の冥福を祈り、世界平和への思いを新たにした。
伊藤一長長崎市長は「長崎平和宣言」で、「世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面している」として核兵器保有国や保有・開発疑惑国を名指しで批判、「二〇〇六年を再出発の年とし、恒久平和の実現に力を尽くす」と決意表明した。
被爆者代表の中村キクヨさん(82)は「平和への誓い」で「私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい」と切実な願いを訴えた。
皆さんは今日午前11時02分に黙祷を捧げてくれたでしょうか。 おっさんは仕事中でしたが、NHKのテレビ放送に合わせて、一分間の黙祷を捧げました。
原爆という突発的な大惨事は、長崎のまちに壊滅的な打撃を与えました。
爆心地付近の建物は完全に燃え尽き、瓦礫(がれき)と化しました。人々の体にも熱線は降り注ぎ、通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらしました。
鉄橋をゆがませ、鉄筋コンクリートの建物さえ押しつぶす爆風が、人々を吹き飛ばし、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びせたのです。
11時02分で止まった柱時計は、原爆の炸裂した爆風や熱線の激しさを物語っています。
原爆による被害状況は。
・死者: 7万3884人
・負傷者: 7万4909人
・り災人員: 12万820人(当時の長崎市の人口約24万人)
・り災戸数: 1万8409戸
(消失面積は670万2300m2に及びました。)
こういった被害の中、自らの命を捧げた医学博士がいました。彼の名は「永井隆」博士です。
博士はこのとき、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室にいた。あいつぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの白血病と闘いながら診察中の被爆だった。
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。
台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)
自らのラジウムによる白血病にて余命3年との診断を下された博士に、決定的な被曝を負うことになった。爆心地より700mの長崎医科大研究室にて被曝。それによる原子病により
苦闘の原爆症患者、相次ぐ死者を助けたいと歩き診療するが、自身が危篤状態に陥り、無念にも救援活動を中止せざる終えなくなる。
永井博士につき「如己堂」と永井博士、これは皆さんがもし知らないのなら、知っていただきたいと。
明日も書いていきます。
前の投稿にて、「平和公園」=「爆心地公園」との間違い的な書き方をしてしまいました。ここでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
伊藤一長長崎市長は「長崎平和宣言」で、「世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面している」として核兵器保有国や保有・開発疑惑国を名指しで批判、「二〇〇六年を再出発の年とし、恒久平和の実現に力を尽くす」と決意表明した。
被爆者代表の中村キクヨさん(82)は「平和への誓い」で「私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい」と切実な願いを訴えた。
皆さんは今日午前11時02分に黙祷を捧げてくれたでしょうか。 おっさんは仕事中でしたが、NHKのテレビ放送に合わせて、一分間の黙祷を捧げました。
原爆という突発的な大惨事は、長崎のまちに壊滅的な打撃を与えました。
爆心地付近の建物は完全に燃え尽き、瓦礫(がれき)と化しました。人々の体にも熱線は降り注ぎ、通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらしました。
鉄橋をゆがませ、鉄筋コンクリートの建物さえ押しつぶす爆風が、人々を吹き飛ばし、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びせたのです。
11時02分で止まった柱時計は、原爆の炸裂した爆風や熱線の激しさを物語っています。
原爆による被害状況は。
・死者: 7万3884人
・負傷者: 7万4909人
・り災人員: 12万820人(当時の長崎市の人口約24万人)
・り災戸数: 1万8409戸
(消失面積は670万2300m2に及びました。)
こういった被害の中、自らの命を捧げた医学博士がいました。彼の名は「永井隆」博士です。
博士はこのとき、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室にいた。あいつぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの白血病と闘いながら診察中の被爆だった。
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。
台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)
自らのラジウムによる白血病にて余命3年との診断を下された博士に、決定的な被曝を負うことになった。爆心地より700mの長崎医科大研究室にて被曝。それによる原子病により
苦闘の原爆症患者、相次ぐ死者を助けたいと歩き診療するが、自身が危篤状態に陥り、無念にも救援活動を中止せざる終えなくなる。
永井博士につき「如己堂」と永井博士、これは皆さんがもし知らないのなら、知っていただきたいと。
明日も書いていきます。
前の投稿にて、「平和公園」=「爆心地公園」との間違い的な書き方をしてしまいました。ここでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。