ワニさんの『パワフルおっさん連Ⅲ』

『おっさん』が思うまま、感じるままのんびり行きます!!

きょう長崎原爆の日 平和公園で祈念式典

2006-08-10 00:07:36 | Weblog
長崎は九日、六十一回目の原爆の日を迎えた。長崎市松山町の平和公園では「被爆六十一周年原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が営まれ、市民は犠牲者の冥福を祈り、世界平和への思いを新たにした。
伊藤一長長崎市長は「長崎平和宣言」で、「世界の核不拡散体制は崩壊の危機に直面している」として核兵器保有国や保有・開発疑惑国を名指しで批判、「二〇〇六年を再出発の年とし、恒久平和の実現に力を尽くす」と決意表明した。
被爆者代表の中村キクヨさん(82)は「平和への誓い」で「私たちが生きている時代に、平和な世界になってほしい」と切実な願いを訴えた。


皆さんは今日午前11時02分に黙祷を捧げてくれたでしょうか。 おっさんは仕事中でしたが、NHKのテレビ放送に合わせて、一分間の黙祷を捧げました。

 原爆という突発的な大惨事は、長崎のまちに壊滅的な打撃を与えました。
 爆心地付近の建物は完全に燃え尽き、瓦礫(がれき)と化しました。人々の体にも熱線は降り注ぎ、通常の火傷では考えられないほどの被害をもたらしました。
鉄橋をゆがませ、鉄筋コンクリートの建物さえ押しつぶす爆風が、人々を吹き飛ばし、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びせたのです。

11時02分で止まった柱時計は、原爆の炸裂した爆風や熱線の激しさを物語っています。

原爆による被害状況は。
・死者: 7万3884人
・負傷者: 7万4909人
・り災人員: 12万820人(当時の長崎市の人口約24万人)
・り災戸数: 1万8409戸
(消失面積は670万2300m2に及びました。)

こういった被害の中、自らの命を捧げた医学博士がいました。彼の名は「永井隆」博士です。

博士はこのとき、爆心地からわずか700mしか離れていない長崎医科大学の研究室にいた。あいつぐ空襲で負傷した患者であふれた教室で、自らの白血病と闘いながら診察中の被爆だった。
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。
台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)

自らのラジウムによる白血病にて余命3年との診断を下された博士に、決定的な被曝を負うことになった。爆心地より700mの長崎医科大研究室にて被曝。それによる原子病により

苦闘の原爆症患者、相次ぐ死者を助けたいと歩き診療するが、自身が危篤状態に陥り、無念にも救援活動を中止せざる終えなくなる。

永井博士につき「如己堂」と永井博士、これは皆さんがもし知らないのなら、知っていただきたいと。
明日も書いていきます。

前の投稿にて、「平和公園」=「爆心地公園」との間違い的な書き方をしてしまいました。ここでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。









あす長崎原爆の日 世界に核兵器廃絶訴え

2006-08-08 23:41:17 | Weblog
8月6日原爆記念日をむかえ、悲しみも新たにした被爆地広島に続き。
3日ごには原爆で約75000人もの被災者をだした、長崎市が明日8月9日61回目の「あの日」を迎えます。

長崎市の「原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」は、午前十時四十分から松山町の平和公園(爆心地公園)で始まり、原爆投下時刻の午前十一時二分の黙とうで死没者を追悼。世界に核兵器廃絶を訴える。
国際情勢は、昨年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の「失敗」を引きずり、核拡散が加速する危険性をはらんでいる。

米国は現在保有する核弾頭に代わって新型の「信頼性のある代替核弾頭(RRW)」を開発中。核兵器開発疑惑が指摘されているイランには国連安全保障理事会がウラン濃縮のような核関連活動の全面停止を要求したが、イランは反発しており、解決への道筋は見えてこない。

 七月には北朝鮮がミサイル七発を発射し、北東アジア情勢は一気に緊迫した。中東でもイスラエル軍とレバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラが交戦状態にあり、混迷を深めている。

 一方、被爆者の高齢化が進んでおり、核廃絶と援護の充実を訴えてきた運動は岐路に立たされている。
今年三月末の被爆者の平均年齢は七三・八五歳。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は十日に結成五十周年を迎えるが、加盟していた奈良県の被爆者団体が三月に解散。組織維持の困難さが表面化した。

 被団協が進めている原爆症認定の集団訴訟は大阪、広島両地裁でいずれも全面勝訴したが、国が認定制度を見直す気配はない。被爆者は残された時間を意識しながら焦りを募らせている。

やはり長崎でも広島でも被爆者の高齢化が進み、被曝者団体の組織維持は困難を極めているようです。被爆者達の経験、言葉を風化させないためには、二世でもある私達が少しでも語り継ぐことが大事なのでしょう。
          
           ◆ 高さ9.7メートルの平和祈念像

原爆落下の中心地とその北側に世界平和を願って造られた公園である。公園中央に立つブロンズ像は高さ9.7m重さ30t 天を指す右手は原爆の脅威を水平に伸ばした左手は平和を示し、閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈る姿という。
               
      ◆ 「水を」と言って死んだ人の冥福を祈る「平和の泉」

公園内には水を求めてさまよった少女の手記がきざまれた「平和の泉」や世界各国から贈られた平和の像建ちならび、世界恒久平和を願う長崎市のシンボルゾーンとなっている。
明日8月9日には平和祈念像の前で原爆で亡くなった約7万5000人の人々の慰霊祭と平和記念式典が行われる。

まだ現在でも被災者の数は年々増えています。死没者名簿の数が増えていくことは悲しい事です。

皆さんも午前11時2分原爆被災者に黙祷を捧げていただきたいと思います。










61年目の慰霊、広島で平和記念式典

2006-08-06 13:02:26 | Weblog
▽4万5000人が参列、市長「核廃絶、市民の責任」と訴え
米国による原爆投下から六十一年目の「慰霊の日」を迎えた六日、広島市中区の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)があり、四万五千人(市発表)が参列した。
秋葉忠利市長は、平和宣言で「核兵器からの自由をもたらす責任は今や、私たち世界の市民と都市にある」と強調。固い意志と情熱を持って目覚めるときが来たと核兵器廃絶への行動を呼び掛けた。

午前八時、秋葉市長と遺族代表が原爆死没者名簿を原爆慰霊碑に納めた。この一年間に亡くなったり、死亡が確認された被爆者は五千三百五十人に上り、名簿登載者の総数は二十四万七千七百八十七人になった。
死没者の名簿は、今年初めて奉納する「氏名不詳者 多数」と記した一冊を含めて四冊が加わり、八十九冊になった。

 原爆が投下された時刻と同じ八時十五分―。遺族代表の米倉正明さん(46)=中区=と、こども代表で青崎小六年の三登百合子さん(11)=南区=が「平和の鐘」をつくと、参列者は起立して、一分間の黙とうをささげた。

秋葉市長は平和宣言で、国際司法裁判所(ICJ)が十年前に出した「核兵器の使用・威嚇は一般的に国際法に違反する」との勧告的意見に触れ、核兵器廃絶が、その後実現できなかった危機感とその反省を基に、核軍縮に向けた「誠実な交渉義務」を果たすように求めるキャンペーンに取り組む決意を表明した。

政府に対しては、世界に誇るべき平和憲法を守り、核兵器廃絶に向けた誠実な交渉義務を果たすよう核保有国に迫る世界的運動の展開を要請。高齢化した被爆者の実態に即した人間本位の援護策充実も求めた。

 続いて、南観音小六年の新谷望君(12)=中区=と、楽々園小六年のスミス・アンジェリアさん(12)=佐伯区=のこども代表二人が「平和への誓い」を読み上げた。

 六年連続の参列となった小泉純一郎首相は「今後とも憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持する。核兵器廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立ち続けることをあらためて誓う」とあいさつした。

▽平和記念式典
平和記念式典は、原爆死没者の慰霊と世界平和の実現を祈るのが目的で始まった。原爆投下2年後の1947年8月6日に開かれた平和祭で、当時の浜井信三広島市長が初めて「平和宣言」を読み上げた。以来、原爆の日の式典は朝鮮戦争(50―53年)のあおりで、50年に一度中止になったのを除いて、毎年続けられている。昨年は、被爆60年の節目で首相、衆参両院議長、最高裁長官の「三権の長」のあいさつがあったため、式典の時間は例年より20分長い65分間となったが、今年は例年通りの時間に戻された。


61年目の今日も無事式典は行われました。秋葉市長も平和宣言で世界に向けて新たなる核廃絶への宣言をされました。
小泉首相も6回目となる参列で、「今後とも憲法の平和条項を順守し、非核三原則を堅持する。核兵器廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立ち続けることをあらためて誓う」と挨拶されたのですが。
世界の核保有国ではアメリカが一番多いのですが、小泉首相は挨拶は上手ですが、上っ面だけですね。言いなりなのは変わりないのです。



これは先月の24日にネットを通じて知り合えた友達が福井から来られたとき、写したものです。アメリカの臨界前核実験から150日今日で162日目ですこの時計は核の番人でもあります。この時計を戻す事が無い事が平和の証明ではないでしょうか。

まるでブッシュ大統領のことを友達のように振舞ってますが、小泉首相それでいいのですか。

何かどんどん暮らしにくくなって行くように感じてるのは、おっさんだけなんですかね・・・。









61年後の明日

2006-08-05 22:40:28 | Weblog
ヒロシマ、あす「原爆の日」

広島は六日、米国による原爆投下から六十一回目の「あの日」を迎える。
苦難から立ち上がった被爆者は年老いた今なお、「絶対悪」とする核兵器の廃絶を世界に訴え続けている。
しかし、その道筋は見えず、アジアや中東など各地で緊張と戦火はやまない。
力ではなく、対話と理性を重視するヒロシマの心をいかに引き継ぎ、どう共鳴者を増やしていくのか、被爆地の責務は重みを増している。

             
全国の被爆者は三月末現在で、二十五万九千五百五十六人。二十年前より十万人以上も減り、
二十六万人を割り込んだ。平均年齢は七三・八五歳と、昨年三月末より〇・七六歳上がった。最も若い原爆小頭症患者も還暦を迎えた。

そうした被爆者の不安をかきたてる出来事が世界で続く。イランの核開発問題や、
核兵器製造を宣言した北朝鮮のミサイル発射、イスラエルのレバノン侵攻など核拡散の懸念や対立は絶えない。
国内でも、地域住民の思いとは裏腹に、米海兵隊岩国基地(岩国市)への空母艦載機移転に象徴される在日米軍再編が進む。被爆体験を礎として築き上げてきた戦後平和の基盤を揺るがす動きが相次いでいる。

中国新聞社が実施した全国の被爆者団体へのアンケートでは、活動は今後長くても「あと十年」とする回答が目立った。被爆体験継承と核兵器廃絶を急げ、とのメッセージにも受け取れる。

 広島は決して昔話ではないことが四日、あらためて示された。原爆症認定集団訴訟の判決で広島地裁は、内部被曝をはじめ放射線の人体影響は、科学的に未解明な領域が多く、「人知の壁」の存在を突き付けた。放射線の人体影響にも終わりはない。

 秋葉忠利市長は六日の平和宣言で、世界の都市と市民に目覚め、行動するときだと呼び掛ける。先頭に立つべき被爆地に再びめぐり来る「あの日」。慰霊と平和への願いに包まれる中、果たすべき役割を静かにかみしめたい。

いよいよあの日がやって来ます、61年前のこの夜を広島市民はどんな気持ちで過ごしていたのでしょうか。明日午前8時15分世界で初めて落とされる原爆の事など知らず、家族で暑くても楽しい夜を送っていたのでしょうか。
男も女も子供もお年寄りも明日と言う日が一瞬でなくなってしまうなんて、思っても見なかったでしょう。

これまで、充分とは言えませんが、お知らせしてきた、事、画像など、いよいよなんです。











            

どうして今更・・・。

2006-08-04 23:42:11 | Weblog



41人全員の原爆症認定 集団訴訟、国また完敗

被爆者援護法に基づく原爆症の認定申請を国が却下したのは違法だとして広島、山口、東京の被爆者ら四十一人が却下処分の取り消しなどを求めた訴訟で、広島地裁(坂本倫城裁判長)は四日、四十一人全員を原爆症と認める原告勝訴の判決を言い渡した。一人当たり三百万円を求めた国家賠償の請求は退けた。
 原告九人全員の勝訴とした五月の大阪地裁判決に続き、国は事実上完敗したことになり、今後の原爆症認定や被爆者援護行政の在り方に大きな影響を与えそうだ。

坂本裁判長は判決理由で「(国の認定基準は)残留放射線による外部被ばくや、内部被ばくを十分に検討しておらず、

限界や弱点がある」と指摘。現行の審査方法で算出される被ばく放射線量は「最低限度の参考値」とした。

 裁判では、疾病と放射線との因果関係をめぐる認定基準の妥当性が最大の争点となり、

爆心から二キロ以上離れた場所で被爆した「遠距離被爆者」や、原爆投下後に爆心地近くに入った「入市被爆者」が原爆症と認められるかが注目されていた。

厚生労働省は二○○一年五月、爆心地からの距離に基づく被ばく放射線量と、年齢や性別、病名を組み合わせ、病気が原爆に起因するかを判断する新基準「原因確率」を導入した。
 大阪地裁判決は国の基準について「機械的に適用することは相当でない」と指摘していた。

 集団訴訟は全国十五地裁で提起され、判決は大阪地裁に次ぎ二番目。

何時まで、なんで裁判なんて行われているんだ?誰が悪いんだ?良く考えてくれ、
広島の三日後には長崎に原爆は落された、原爆記念日は広島と長崎で27万人以上もの被災者をだしたんだ!

今時のばかたれぞろいの先生では教えることも出来ないでしょうか。
原爆二世である私達には被爆者であった亡くなった父と残された被爆者である母を見守るしかできないのですか。





61年目の「あの日」

2006-08-03 22:45:34 | Weblog
あの日8月6日が迫りました。

8・6の祈り包むテント。

広島市中区の平和記念公園で6日に営まれる平和記念式典の準備が着々と進められている。

             

2日は、炎天の中、参列者が猛暑をしのぐための大型テントが原爆資料館の北側に設営された。

約1万3000席のいすも5日までに設置され、61年目の「あの日」を迎える

いよいよ迫った8月6日、原爆の日です、被爆者ももうお年寄りばかりになりましたが、現在でも被爆者認定のための裁判が行われていることも確かな真実です。
年月が経てば経つほど証言できる証人や証拠も少なくなってしまいます。

被爆者である事の認定を受ける事が出来ず、亡くなっていった方も多数おられます。
証明する事がどんどん難しくなって行くのに・・・。






下らんことで忙しいです・・・。

2006-06-13 23:06:54 | Weblog
いろいろと、つまらない用事が出来なかなか思ったようにブログの更新が出来ません。

一段落付きましたら、のんびりではありますが、ブログの更新していきたいと思います

このブログをご覧の方がおられましたら、済みません。
出来るだけ早い更新を目指しますので宜しくお願いします。

シンドラーのリスト

2006-06-11 23:02:48 | Weblog
事故のエレベーター、不具合情報引き継がれず

男子高校生が死亡した東京都の港区住宅公社マンションのエレベーターで過去三年、トラブルが四十三件も続発したにもかかわらず、メンテナンスを担当する保守管理会社が交代した際、情報が十分に引き継がれていなかったことが十一日、同区の調べで分かった。

また、独立系の保守業者にメーカーから十分な技術情報が提供されていない実態も判明。警視庁は、保守管理態勢の問題が事故につながった可能性もあるとみて、関係者から事情を聴いている。

事故が起きたエレベーターは一九九八年に稼働。当初は製造元のシンドラーエレベータが保守も担当した。港区は二○○四年、保守業者の選定を指名競争入札に変更。○四年度はシンドラー社が落札したが、○五年度は独立系の日本電力サービス、○六年度は同様に独立系のエス・イー・シーエレベーターが請け負った。

しかしトラブルはマンションの防災センターにある業務日誌に記載されるだけで、詳細な内容が後継業者に伝えられることはなかったという。

事故機では今年一~二月、ドアが開かないトラブルが相次いだ。日本電力サービスは原因を特定できず、シンドラー社の調査で、制御盤とエレベーターのかごをつなぐケーブルの断線が見つかった。

保守業者でつくるエレベーター保守事業協同組合は「エレベーター業界は非常に閉鎖的。自社系列の保守業者以外には、情報を秘匿する」と非難。

あるメーカーの社員は「各メーカーそれぞれ独自の技術も多く、系列の点検会社なら技術も情報もある。独立系会社がどのような点検を行っているのか、メーカー側では不透明」と指摘した。
シンドラーのリストとは、封建的でミスを隠してしまうリストなのか。エレベーター業界がそうなのだとすれば、全ては闇の中・・・。








シンドラー?

2006-06-10 01:22:03 | Weblog
シンドラー社幹部から聴取 国土交通省
ドンドン出るボロ・・・。これは事故ではないでしょう。

東京都港区のエレベーター事故で国土交通省は九日、製造元の「シンドラーエレベータ」幹部を国交省に呼び、同社が設置したエレベーターのリストの提出を受け、保守管理の状況などについて事情を聴いた。

エレベーターの数について同社はこれまで七千数百基と説明していたが、実際は八千基を超えることが明らかになった。

リストには施設や建物の名称、住所、納入時期などが記載されている。国交省は地域別に分類して都道府県に情報提供し、公共施設については名称などを公表する方針。

同社は事故発生直後、国交省が設置状況を問い合わせた際に「個人情報保護」を理由にリストの提供を拒否。その後、制御システムなどが事故機と同じエレベーター十二基の所在地を報告した。七日の東京都の事情聴取には「会社の方針」を理由に、約千七百基とされる都内の設置場所は明らかにしなかった。

北側一雄国交相は九日の閣議後の記者会見で「国にも自治体にも誠実に対応していただきたい。(個人情報保護のために提供を拒むのは)全く理由にならない」と苦言を呈していた。

国交省は既に、提出が義務付けられている定期検査報告書などを基に同社のエレベーターを特定し、過去に事故やトラブルがなかったかどうか調査するよう都道府県に指示。二十八日までに回答するよう要請している。

会社の方針?個人情報保護って、(゜Д゜)ハァ?
『シンドラーのリスト』って感動の映画があったよな・・・。
で、このシンドラー社のリストって何だ?
殺人マシンリストか?






縮景園の8月6日

2006-06-09 01:33:37 | Weblog
最終回8月6日の縮景園です。

四百年近い歴史を持つ国の名勝「縮景園」(広島市中区)は中国地方を代表する名園である。今は深緑に覆われ、静かさをたたえる庭園も六十年前のあの日、木々は焼き尽くされ、炎に追われた多くの人たちが逃げ込んだ。知られざる縮景園の一面です。

家元の祈り
 
息絶えた人へ 献茶で供養式

「縮景園の戦前と戦後をつなげる役目を果たしてくれた」茶道上田宗箇流家元の上田宗嗣さん(60)=広島市西区=は自宅で、一枚の古絵図を慎重に広げた。
           

原爆で灰じんに帰した園が再び開園したのは一九五一年。近くの山から持ってきた木が植えられただけだった。正門や茶室など本格的な復旧はさらに十年後。大いに役立ったのが上田家に伝わる江戸後期の絵図だった。

縮景園は、広島藩家老で茶人の上田宗箇によって造られた。宗箇から数えて十六代目の上田さんは「園内では今も亡くなった数多くの人の思いを感じる」と言う。上田さんもまた、父と祖父母を原爆で失っている。

宗箇から数えて十六代目の上田さんは「園内では今も亡くなった数多くの人の思いを感じる」と言う。上田さんもまた、父と祖父母を原爆で失っている。

今回で8月6日の縮景園最終回です。

お付き合い有難う御座いました。中国新聞よりの抜粋が基本でお知らせしました。

次は検討中ですがあまり堅い記事にならないように頑張って見ます。