天声俊語-俊坊が語る-

 キチガイ芸術家、俊坊の毎日更新ブロク。
 主な内容は友人アーティストの楽曲紹介と、拙作「王善本紀」の製作記録です。

「死ぬ覚悟→殺す覚悟→生きる覚悟」

2006年04月23日 | 修行・鍛錬
■覚悟の自論:「死ぬ覚悟→殺す覚悟→生きる覚悟」

「恐怖を知らない人間は、皆、未熟なうちに滅びてしまう。
 恐怖を知っている人間だけが、それをバネにして本当に強くなり、やがては、その恐怖を克服できるのだ。」
□出典:松田隆智・藤原芳秀「拳児」

 何事にも覚悟は大切である。
 特に武技や闘争においては更に意味を増す。
 なぜなら覚悟の有る無しが勝負を大きく、しかもハッキリと分けるからだ。

 覚悟には大きく分けて3種類ある。
1.(自分が)死ぬ覚悟。
2.(悪や敵など自分以外の者を)殺す覚悟。
3.(自分に何があっても)生きる覚悟。

 ①の「死ぬ覚悟」。
 一般的に「覚悟」と言う単語はこれを意味するだろう。
 我が国が世界に誇る武士道の古典「葉隠」にも「武士道とは死ぬ事を見つけたり」との有名な言葉がある。
 だが同じく我が国が世界に誇る兵法(この場合は剣術)の奥義書で剣聖・宮本武蔵が記した「五輪書」にはこうある。
「大形武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬるといふ道を嗜む事と覚ゆるほどの儀なり。
 死する道におゐては、武士斗(ばかり)にかぎらず、出家にても、女にても、百姓以下に至る迄、義理をしり、恥をおもひ、死する所を思ひ事は、其差別なきもの也。」
 訳するとこうなる。
「大体武士と言うのはただ死ぬ覚悟だけをすれば良いと世間では思われている。
 だが死を覚悟する事は武士の専売特許ではない。
 僧侶でも、女性でも、百姓以下庶民に到るまで、義理と恥を知って死を覚悟する事に人間である以上変わりは無い。」
 確かに覚悟といえば死ぬ覚悟であるが、あくまでも第一段階に過ぎないのでここでストップするのは良くない。
 それに人間はいつか必ず死ぬ。
 医療テクノロジー、特に再生医学の発達で近未来に人間の不老長寿は実現するだろうが、それでも人間である以上不老不死は不可能だと思う。
 以上の事を踏まえても死ぬ覚悟は持っていて当然とも思える。

 ②の「殺す覚悟」。
 ①の自分が死ぬ覚悟があるのなら、次は第2段階として自分以外の誰かを殺す覚悟を持つべきだと私は思う。
 人は死ぬ覚悟は簡単に持てても、殺す覚悟は中々持てないものだ。
 私自身殺す覚悟が無かった為、昔日にとんだ生き恥を晒す事があった。
 大変恥ずかしい話ではあるのだが、敢えてここで語り後世の為の教訓として残したい。
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 手に竹棒を持つ。
 長さは刀剣としても槍棒としても使える絶妙の長さ。
 そして目前の敵に対し、剣道で言う所の「中段の構え」に近い状態で構える。
 わたしは剣道の経験が無い。
 だがそんな事は関係無い。
 要は奴をぶち殺せば良いのだ。
 勝つ為には手段を選ばない。
 幸いにも奴はわたしをナメきっている。
 猫背の棒立ちで靴はスリッパ履き、竹棒の持ち方もなっていない。
 油断大敵という言葉を知らないようだ。
 ぶっ殺してやる!
 地獄で後悔しろ、クズが!

 「我(ガァッ)!」

 逆袈裟返しに振り上げる。
 狙いは奴の左耳。
 敵もとっさにガードを上げ、私の棒を受けようとする。

 ガッ

 本当に音がしたかどうかはわからない。
 わたしの棒が、ガードした奴の棒を折って敵の左耳にコンタクトした。
 狙い通り鼓膜を破裂させ、奴の左耳の穴からは血がどろりと流れ出る。
 これが差だ!
 迫害者達を殺傷する事を考えて日々鍛錬・修行しているわたしと、享楽にふけっている奴とでは一撃の重みが違う。
 「卑怯だぞ!下から突き上げるなんて!」
 後ろから野次が聞こえる。
 バカめ、わたしがやっているのは喧嘩じゃない、殺し合いだ。
 命がけの死闘に卑怯もクソも無い。
 第一わたしのやっている事が卑怯なら、貴様らがわたしを集団リンチしようとしている事の方が余程卑怯である。
 そんな連中に情け容赦は必要無い。

 クズ野郎、死ね!

 棒の持ち方(グリップ)を刀剣術から槍棒術のそれへとシフトしつつ次に狙いを定める。
 鼓膜を打ち破った事で敵の体は大きく崩れた。
 後は、
 「突(トッ)!」
 咽喉を突いて呼吸と動きを止め、
 「死(セイッ)!」
 後に回りこみ絞め技で窒息、そして首の骨を折る。
 突く・打つ・払うだけが槍棒を含めた長兵術ではない。
 余り知られていないが長柄を利用した強力な絞め技も存在するのだ。
 そして1人目を斃した後、残る2人も片付ける。
 はずだった・・・。

 が、そこでわたしの棒は止まってしまった。
 咽喉を突けない。
 殺らなければ殺られる。
 殺られなくてもナメられる。
 わたしの様に混血で貧乏人という少数派(マイノリティー)かつ弱者はナメられたらお終いだ。
 生き地獄はもうたくさん。
 こいつらをぶっ殺して地獄から抜け出してやる。

 「突!」

 咽喉が突けないなら鳩尾を突く。
 体が崩れる。
 後に回りこんで首を絞める。
 だが、またもや掛け声と棒が止まる。
 恐れている、このわたしが。
 自分以外の誰かを殺す事を。
 強敵と戦う事も、その結果自分が殺される事も怖くは無い。
 苦痛も死も恐れない。
 それなのに殺す事はこんなにも恐ろしい。
 今気付いた。
 わたしには「死ぬ覚悟」はあっても、「殺す覚悟」は無かった。
 何と未熟で軟弱な事か・・・。

 「キャア-ッ!!!」
 その叫び声で我に帰った。
 通行人の女性がこの現場を見て叫び声を挙げる。
 その方に向き直って弁解しようとした時、脇腹に痛みを覚える。
 控えていた2人の内の1人がわたしを蹴ったのだ。
 直ぐに棒で応戦する。
 こいつは地元では有名な拳法家の息子で、その地位と腕っ節(ぷし)を頼んでかなり悪い事をやっている奴だ。
 先程のド素人とは違い、正規の訓練を受けている強敵である。
(対するわたしの場合はナイフ以外は正規の訓練を受けていない我流・・・。)
 隠し持つナイフ代わりの暗器で、ボールペンやアイスピックや千枚通しを使えば訳無く殺れるが衆目に曝すのは得策ではない。
 そうこうしている間に3人目が集まった野次馬に対してこう言った。
 「あいつがオレたちを殺そうとしたんすよ。」
 クズどもめ、あべこべにわたしを悪人に仕立て上げやがった!
 ボールペンを咽喉ないし眼球に突き刺して殺してやりたい所だが、このままでは分が悪い。
 おのれらは悪人で加害者だからわたしに殺されても文句が言えないが、善人のわたしを陥れるとは許せん。
 怒鳴らない、怒らない。
 静かに、黒き殺意の炎を燃やす。
 棒での攻撃と見せかけ、片手を離して敵の眼に掌底突きをかます。
 フラッシュ(めくらまし)なんて生易しいものではなく、敵の眼球に内傷でのダメージを与えて失明させる殺し技。
 ガードされて多少軌道がズレたものの、それでも顔面に命中したのでフラッシュにはなる。

 「多(タッ)!」

 そのスキに突きまくる。
 当時のわたしは点穴の存在すら知らなかったので突ける場所を兎に角突いた。
 その後3人は退いたが、野次馬どもは奴らの言葉を鵜呑みにしたままわたしを遠巻きに見ていた。
 非常に重苦しい雰囲気の中、わたしは静かに立ち去る。

 その翌日を境にわたしに対する迫害は段々と無くなっていったが、自身としては勝った気分になれず素直に喜べない。
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 随分と長くなった。
 殺す覚悟が無かった為に私は今でもこの連中にナメられている。
 歴史にもしもは無いが、もしもこの場で奴らを殺していれば私の人生はもっと良い方向へと変わっていたであろう。
 状況は正当防衛なのでたとえ殺しても罪に問われる事は無い。
 ましてや奴らは私の左眼を潰した連中なのだ。
 情けをかける理由などどこにも無い。
 なのに私は殺す事をためらった。
 これは私の心が弱かったからに他ならない。
 中国武術の諺にこうある。
 「手を出す時は、心に情けを残すな。
  心に情けが残っている時は、手を出すな。」
 私はめったな事では人を殴ったりはしない。
 逆に人を殴る時はすべからく確実な殺意を持ってやる。
 怒らず感情は無く、冷静かつ正確に。
 瞬き一つせずに淡々とやる。
 私にとって悪人や敵対人物は人間ではない。
 生物学的には確かに「ヒト」であるが、私の認識では殺されて当然である害虫の類と何ら変わらないのだ。
 こういった殺す覚悟、即ち非情さは闘争において特に重要な要因(ファクター)となる。
 あの時は殺れなかったが、私は少しも後悔していない。
 後悔と自虐は何も生まないからだ。
 これは③に続く。

 ③の生きる覚悟。
 後悔していないならどうしているのか。
 あれ以来私は非情でありたいと願い今に至る。
 そして当然の事ながら次の機会の為に魂を研いでいる。
 次こそは殺す為に、生き延びている。
 LIVE TO KILL.(生きる為に殺し)
 KILL TO LIVE.(殺す為に生きる)
 人間生きている限り必ずチャンスはあるのだから、何があっても諦めてはいけない。
 確かに左眼が見えなくなって色々不便はある。
・遠近感と立体感がつかみにくい。
・事務やPC作業の際に眼が疲れやすい。
・残った右眼に疲労が集中するので、右眼の視力も落ちている。
 だがそれでも人生諦めずにやってこれたのは連中に対する怨恨があったからだろう。
 その怨恨が生きる覚悟となり、やがては希望へと繋がったのだと思う。
 それで現在の私が在る。
 たとえ手足を失っても、両眼が潰れても、喋れなくなっても・・・。
 私は生きる事を諦めない。
 どんな卑怯なマネをしても生き延びる。
 何を犠牲にしても生き延びる。
 自分以外の全てを敵に回しても生き延びる。
 自分以外の全てが死滅しても生き延びる。
 今までそうやって生きてきたのだから、これからもそうやって生きてやろうと思う。

 以上「3つの覚悟」について語ったが、私はどれも大切だと思う。
1.「死ぬ覚悟」をする事で常に自らの死を意識して一瞬一瞬を悔いなく生き、
2.「殺す覚悟」で誰にも殺されずに、自分以外の誰かを殺しても平常心を失わない理性(即ち非情さ)を持ち、
3.「生きる覚悟」で生きている限り最期まで諦めない魂を持つ。
 これが私が理想とする人間の在り方だと思う。

「質×量×速さ」

2006年04月09日 | 修行・鍛錬
 今日の本題は武技や闘争において重要な意味を持つ「質×量×速さ」の法則について私の持論。
 以前メールでkatagiさんにも話した事をブログ用に改訂して更新する。
 尚「武技」とは武術・格闘技の略である。
 質×量×速さ。
 この3つの内で一番大事なのは「質」であり、一瞬一瞬にありったけのクオリティーを込める事で初めて「量」が活きる。
 「継続は力なり」とか「習うより慣れろ」と諺(ことわざ)に言うが毎回毎回、言い換えれば一瞬一瞬に全力を込め、ありったけの「質」をつぎ込む事で初めて「量」と「速さ」の概念は意味は持つ。
 現実の芸術ないし武術・格闘技の世界では、下手な鉄砲はいくら撃っても”絶対に”当たらない。
 始めに「質」、次に「量」をクリアして、最後に「速さ」を求めるのだ!

 私のナイフ・ファイティングの修行の時もそうだが、やはり「質→量→速さ」の原則は変わらない。
 例えば得意技の「突き」を覚えた時もそうであり、先ず最初に「質」つまり正確なフォームを習得(マスター)する。





 最初から速く動くと正確な「突き」の軌道(フォーム)が出来ないので、フォームをマスターするまではナイフの切っ先に蜻蛉(トンボ)や蝶々(ちょうちょう)の止まる位ゆっくりとした動きで、「突き」を行う。
(大体これを2500回位やるとゆっくりながら正確なフォームをマスター出来る。)

 フォームをマスターしたら次はそのフォームを保ったまま回数、つまり「量」ををこなす修行に移行する。
 最初は1日10回から始めて、最終的には1日100回ぐらいやる事。
(これも5000回やってやっと最終段階に入る。)

 最後は「速さ」、つまり実戦投入する為のスピードを得る鍛錬。
 「質」と「量」で既に威力(パワー)は得ているので、最後は敵に命中させる為の「速さ」を得てようやく実際の戦闘で使える「技」となる!
 この段階は1万回の素振りで完成し、初めて基本技を完璧にマスター出来る。
 私には武技の才能が全く無かったので、実際の練習量ではその倍以上の素振りをやったのだが。

 ついでなので更にこれまでの「基本」から「応用」に触れると、図やサンドバッグに描いた人体急所の「点」に正確に「突き」を命中させたり、天井から吊るした5円玉の穴を正確な「突き」で貫いたり、ロウソクの炎の根っこを「突き」や斬撃で消したりする。
 勿論友人と(玩具のゴムナイフや爪ヤスリ等の代用品を使って)スパーリングしたり、木刀を用いた対練(たいれん/組手の事)もしておこう。
(といっても周りには武技をやっている人間が殆どいないので中々これが出来ないのだが・・・)
 これらの「基本」と「応用」を全てクリアして初めて、基本技は実戦でも十分な殺傷能力を持つ、即ち文字通りの「必殺技」に進化する。

 基本は「質→量→速さ」である。
 応用は実戦でも使える様にアレンジする事。
 一般の格闘技でも、基本技を徹底的に磨いて「必殺技」に進化させればそれだけでも数倍は強くなれる。
 実戦(=殺し合い)の為の武術と、試合競技(=スポーツ)の為の格闘技では技の質が違うのも当然だが、格闘技の試合の映像等を見ていると急所攻撃における命中精度の悪さがどうしても気になる。
 だから今格闘技で伸び悩んでいる人は「必殺技」を身に付ける事で他の格闘家に差を付けるのがベストだと思うのだ。

 そもそも私がナイフ・ファイティングを始めた理由は?
 私はいじめや虐待を受けて命の危険を感じ、生きる為にナイフ・ファイティングを(独学ながらも)練習し始めた。
 故に素振りやシャドーの時も常に殺し合いをイメージしてやっている。
 現在「3年千枚絵」に専念している最中なので、筋トレや走り込み等の体力作りを含めた全てのナイフの修行を一時中断しているが、絵の修行が終わり次第また再会したいと思う。
 何せ3年間以上全く運動しなくなるので再開時のブランクはかなりのものと予想されるが、「武技は天辺(てっぺん)にいる時よりも、どん底から這い上がる時の方が楽しい」とよく人は言うので大して気にならない。
 腕がなまったら鍛え直せば良い!
 弱くなったらまた強くなれば良い!
 実に単純な話ではないか!
 だからこれを読んでいる諸君も小さい事にはくよくよするな。