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佐野
境目峠を下り、国道192号から佐野に入ってきました。徳島県三好市池田町佐野です。
わずかなカーブをみせて道が一本通り、両側に家が並んでいます。重い屋根をのせた古い家もあれば、ちょいと洒落た昭和の家もあり、旧街道の趣を残しています。
阿波から伊予に抜ける街道であることから、伊予街道と呼ばれていました。
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馬路谷川
境目峠の辺を源流とする、馬路谷川(うまじたに川)です。佐野を貫流しています。
吉野川の支流で、吉野川が北流から東流に転じる手前、・・池田大橋が架かる辺りで・・吉野川に合流しています。
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馬路谷川
馬路谷川が造った谷を利して、かつては伊予街道が通っていましたが、今は、国道192号と徳島自動車道が取って代わっています。
なお「馬路谷川」は、佐野の辺だけの呼び名なのかもしれません。国土地理院地図では、「馬路川」となっています。「馬路」は、もう少し下流の地域名です。
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雲辺寺山方向
佐野は、雲辺寺山の南山嶺に位置しています。しかし佐野から雲辺寺を見ることは、出来ません。雲辺寺は、尾根筋に並ぶ右端の鉄塔から、さらに林道を3キロほど歩いたところに在ります。
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雲辺寺へ
雲辺寺登坂口にむかって歩きます。とりあえずの目標は、「右端の鉄塔」です。
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雲辺寺へ
道標は、よく整備されています。加えて宿では夕食時、念入りな道案内もいただけました。
だから、まず迷うことはないと思われましたが、・・
後の話になりますが、それでも迷った方がいました。私たちは知らない土地を歩いているのだと、痛感します。
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選挙
参院選の前でした。
なんと「徳島県及び高知県選挙区」ですと!一票の格差問題とは別に、問題がありはしませんか。
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青色寺遠望
大屋根の建物は、青色寺(せいしょく寺)という、珍しい名前のお寺です。
境内の由緒看板に、創立は慶長3(1598)で、公費(藩費)で建立された、とあります。つまり青色寺は、慶長3、徳島藩が定めた、駅路寺の一だったと考えられます。
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青色寺
駅路寺には真言八ヶ寺が選ばれ、藩内の主要街道に配置されていました。青色寺は伊予街道に置かれた駅路寺でした。
四国遍礼名所図会には、次のように記載されています。
・・(青色寺は)国守より辺路人の為に建堂なり。山の麓にあり・・。
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寺名碑
青色寺は、私が訪ねた、5番目の駅路寺です。これまで訪ねた駅路寺は、・・
瑞運寺(撫養街道 上坂に在る、現在の六番札所安楽寺) →二巡目の阿波路2
長谷寺(撫養街道 鳴門に在る「ちょうこく」寺 ) →H23秋6
打越寺(土佐街道 山河内に在る) →H26秋3
円頓寺(土佐街道 穴喰に在る、現在の大日寺) →H26秋4
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佐野神社
佐野の鎮守として祀られています。
明治11(1878)、佐野の妙見神社に、馬路の境宮神社を合祀し、佐野神社としたようです。明治の廃仏毀釈では、寺だけでなく、神社にも統廃合の手が入っています。
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登り口へ
左に入ります。写っていませんが、道標はしっかりとついています。
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道標
徳右衛門道標です。左に上がる道は、民家の私道です。
是より雲辺寺まで(以下埋没)
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道
前を行くのは、同宿だった方です。今夜の泊まりは観音寺だそうで、早足に歩いています。
私は大興寺のすこし先までですから、急ぎません。
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道
ここからが、本格的な登りになります。
以下の写真でもおわかりになると思いますが、しばらくは、擁壁がしっかりとつき、路面も簡易舗装されています。
おかげさまで楽に登れるのですが、思うに、かつてこの辺は、険しい山坂だったでしょう。
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道
四国遍礼名所図会に、・・是より雲辺寺迄伍拾町なり。廿丁ばかりの間は甚だけわし・・とあります。
「是より」は、「青色寺より」を意味します。駅路寺の青色寺が起点です。
へんろ道は、左に切れ上がってゆきます。
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道
ふたたび上がります。
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徳島自動車道
徳島自動車道の下をくぐります。
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徳島自動車道
徳島自動車道を下に見ながら進みます。
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上がる
またまた上がります。雲辺寺3.5キロ、とあります。
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山道
ここから土の道です。
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放棄
放置自転車がありました。舗装の道が切れ、押し上げることが出来なくなったのでしょうか。
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道
この道には、多くの地蔵丁石が残っています。
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道
これはその一つ、四十二丁石です。
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道
空が見えてきました。もうすぐ林道と思われます。
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林道へ
林道に出ました。
この地点の標高は665㍍です。佐野小学校が243㍍でしたから、420㍍ほど登ってきたわけです。
そして、雲辺寺の標高は910㍍ですから、さらに245㍍ほど登ることいなります。ただし3キロほど歩くなかでの245㍍ですから、それほど苦にはなりません。
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鉄塔
林道に上がって左方(曼陀峠方向)を見ると、鉄塔が建っています。前述の「右端の鉄塔」が、これです。
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林道
雲辺寺は、林道を上がって右方向に進みます。
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道標
ガスってきました。前方は伐採林です。皆伐しています。
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山門跡
ここは、かつての山門の跡です。かつては、この道が雲辺寺参拝の主導線でした。
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旧山門
H19(2007)に撮った、旧山門です。
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二丁
二丁の地蔵丁石です。
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夫婦杉
雲辺寺には「三大巨木」があるのだそうです。これはその一、夫婦杉です。
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雲辺寺
雲辺寺に着きました。左上に上がることは出来ますが、それでは山門から入ることにならないので、道なりに直進します。
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新山門へ
この坂を上がると広場になり、新山門があります。
右の建物は信徒会館です。
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山門
新山門です。佐野方面から登ってきた人には、やや遠回りとなりましたが、ロープウェイや車で上がってきた人には、便利な位置に在ります。
乗り物利用の方の中には、足が弱っている方など、いらっしゃるでしょうから、これでいいのだと思います。ただ、山門の向こうの石段は、ちょっと厳しそうですが。
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大師堂
石段を上がると、正面に大師堂があります。導線が変わった関係で、こうなったのでしょう。
本堂と間違えてしまう人がいたのでしょうか、ここは大師堂ですよ、と大書されています。
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本堂
雲辺寺のご本尊は千手観音菩薩。脇に不動明王と毘沙門天を配しています。
堂内がカラフルにライトアップされているのには、ちょっと驚きましたが、驚く方が古いのかもしれません。
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おねがい札
雲辺寺には茄子がいっぱい。写真は、茄子の「おねがい札」です。他にも「お願いなす」の椅子やお守り、「なすたんぷ」(なす+スタンプ)などもあります。
「親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はない」とか。「お願いなす」にハズレは、千に一つもありません。
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銀杏
三大巨木の大師乳銀杏(大師ちち銀杏)です。粉ミルクなどはない時代に、お母さんの乳の出の良し悪しは、赤ちゃんの生死にかかわる問題でした。
三大巨木のもう一つは、三位一体の霊木(カシ・ハンノ木、カエデの木が一体化したもの)です。これは、展望台へ行く途中、確かに見たのですが、撮り忘れています。
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釈迦入滅
讃岐は涅槃の道場です。その最初の札所に、釈迦入滅=大般涅槃(大はつねはん)の場面が再現されています。
釈迦が般涅槃(完全なる涅槃)に入ろうとするのを、多くの弟子達が見守っています。
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五百羅漢
五百羅漢が居並んでいます。
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毘沙門天像
展望台に行きました。塔の上には、大きな毘沙門天像が立っています。
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らせん階段
入場は無料です。上がってみました。
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石鎚方向
四国遍礼霊場記に、・・堂宇雲につヽめり。雲辺の名 むべときこゆ・・とあります。
まさにそのとおり、辺りは雲につつまれていました。せっかくの石鎚も見えません。晴れていれば、今治までも見えるそうですが。
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県境
寂本さんは四国遍礼霊場記に、・・西は与州直下に見、北は中国の諸州一望し、東南は讃阿土の三州めぐれり。其蟠根(ばんこん)四国にわたり、むかしは四国坊とて四ヶ寺ありとかや。今は此一寺にて、阿州の城主より造立し給いぬれど、讃州の札所に古来属せり。・・と記しています。
雲辺寺は、所在地は徳島県三好市池田町白地(はくち)ですが、存在としては、讃岐の札所とされ、讃岐の関所寺となっています。
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下山
67番大興寺に向けて下山します。一人でこの中に消えてゆくのは、ちょっと不安・・
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道標
道標で「小松尾寺」が案内されています。小松尾寺とは、私たちが大興寺として知る寺です。
昭和末までは小松尾寺の名で呼ばれていたといいますが、今でも地元の方は、たいていが「小松尾さん」と呼んでいます。
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雲
四国遍礼霊場記(寂本)に、・・豊田郡小松尾の邑に寺がある故に、小松尾寺ともよび、山号とするかし。・・とあります。
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下り道
少し降りると、階段状に切られた道にかわります。これが長くつづきます。
ベンチで休んでいると、上から鈴の音が聞こえてきました。昨晩、同宿だった方です。聞けば、道に迷ったのだそうでした。
どこで迷ったのです?と尋ねると、うーん、それがわからんのよ、やっぱり疲れているのかなあ、とのこと。
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下り口
山道が終わりました。
これからは、県道240号=粟井-観音寺線を下ります。大興寺まで、およそ5キロです。
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県道240号
この辺が粟井です。
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ねぎ坊主
巡礼を 見送りゐるは 葱坊主 青柳志解樹
ちょいと見送り坊主の数が多すぎる気が、しないでもありませんが。
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白藤大師堂
鍵がかかっていて、入ることは出来ませんでした。ただ、地区が管理しておられるので、お願いすれば、開けていただけるようです。
野宿の方たちがお世話になる話も、耳にしています。
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地蔵さんの道
県道240号は、お地蔵さんの道といってもいいくらい、お地蔵さんが立っています。
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地蔵さんの道
その多くは地蔵丁石です。
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岩鍋池
岩鍋池です。室町後期、大永7(1527)の築堤だそうです。
ここでは、寛永7(1630)、この池の改修を仕切った西島八兵衛について、記しておきます。西島八兵衛は、かの満濃池をよみがえらせた人物として、私たちが識っていてもよい人物です。
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満濃池
満濃池は空海による改修後も決壊を繰り返し、鎌倉、戦国時代には、もはや改修は放棄され、廃池となっていました。干上がった池跡に人が住みはじめ、その名も「池内村」という村が、出来ていたといいます。
西島八兵衛は、その満濃池を400余年ぶりに改修。よみがえらせることに成功しました。
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岩鍋池
西島の業績を、三重県津市のHPは、次のように記しています。・・大小95カ所に及ぶため池の修築や新築、川の付け替え、堤防の建設、新田の開発などを行い、生駒藩(高松藩)領内の荒廃地を美田によみがえらせた。
津市と西島八兵衛の関わりは次のようです。・・生駒藩主・生駒高俊は幼君であったため、外祖父である津幡の藤堂高虎により、後見されていました。西島八兵衛は、高虎が後見のため生駒高松藩に派遣した、家臣団の一人だったのです。そんな縁で津市のHPで取りあげられています。実は、やがて高虎の家臣団と譜代家臣団の軋轢が「生駒騒動」を惹起し、生駒家は改易となるのですが、それはまた別の話。
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小松尾寺道標
右 こまつお寺
すぐ こんぴら道
左 かんおん寺
「すぐ」は、(真っ直ぐ)の意です。
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休憩所
休憩所を建てたいと願う人と、鏝絵の技術を伝える左官さんとの出遭いが、こんな素敵な休憩所を実現させました。
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こてえ
代表的な鏝絵の画題・技術が紹介されています。
野ざらしにもかかわらず、ほとんど作品に損傷が見られません。漆喰の雨風にたいする強さがわかります。
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道
右の古い道標は、小松尾寺を案内しています。左の平成の道標は、雲辺寺をを案内する面が見えています。
道の左側に見えるのは、蓮池です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/b1/09b95ed1b93861bce3f8ca65abf34f05.jpg)
七宝山系遠景
蓮池越しに、観音寺の七宝山が見えました。
「七宝山」は、一つの頂を指す場合もありますが、稲積山、志保山、七宝山、妙見山などの山系を言うこともあります。
弘法大師が七つの宝を埋めたという「七宝山」が、いづれの七宝山を指すかはわかりませんが、68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、本山寺奥院の妙音寺、麓の檀家寺・総持寺など、近辺いくつもの寺が、山号を七宝山と号していることを思うとき、後者ではないかと、私には思われます。さて、どうでしょうか。 →H25初夏③
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急坂
大興寺は丘の上にあります。山門は、この坂を上り、向こう側に下った所にあります。
上から境内に入ることは、出来るには出来ますが、脇から入り込む形になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/22/ee10f5532d8a7b982e479fe392c50a05.jpg)
門前畑
岡を下りてくると、田圃が広がっています。山門前の田圃は、昔さながらの景色と思われます。
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山門
田圃に向かって、山門が建っています。
浄めの川を渡り、山門を潜ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/60/0738bfb5c2e315d0401df1d6fa9c2b1b.jpg)
仁王 阿
仁王像は四国で一番大きい仁王像だとのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/98/2f06995ebf9a4293fb0c2c20ba34ebf8.jpg)
仁王 吽
運慶の作ともいわれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/87/09db7cef50eda34e556c55211985b9a7.jpg)
榧(かや)
・・弘法大師四国修行の砌、榧の種子、植えられたと伝えられている。・・と説明がついています。
樹高は20㍍。樹齢は、当然、1200年余となります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/46/186ca3dc73587a3a6b929f59d7bbb782.jpg)
楠
大楠です。こちらの樹齢は、700年と推定されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/88/14f75d94e548bd33878e8ddf39fd211a.jpg)
石段
山門から入り、石段を上ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/65/7d42772153ed8c83f5e000821353a31d.jpg)
本堂
本堂は、寛保元年(1741年)に再建されたものだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/ba/b506903f86f51c3e281bf2d288803693.jpg)
伝教大師 大師堂
大興寺はかつて、真言宗と天台宗、二教の修行道場として栄えていたそうです。
そんな歴史を伝えて、本堂に向かって右には、天台宗第三祖智顗(ちぎ)を祀る大師堂が、・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/50/4fbc7a775d2055e8c592a414b02c383e.jpg)
弘法大師 大師堂
向かって左には、弘法大師を祀る大師堂があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/47/8cff8c353760004b6bc81d1c3ab9569d.jpg)
熊野三所権現
弘法大師堂の隣には、熊野三所権現が祀られています。大興寺が別当寺でした。
ただし、神仏分離された今では、熊野三所権現と大興寺は、境内が仕切られています。
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号では、砥石観音から68番神恵院、69番観音寺へと進みます。更新は11月20日の予定です。
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さて、今回の「池田町佐野から 66番雲辺寺 67番大興寺」の道中記ですが、ゆったりした気分にさせられて楽しく読ませていただきました。 天恢の2巡目、7年前の遍路も佐野の宿からスタートして、雲辺寺、大興寺を参拝したところまでは同じですが、更に一山ニ霊場の観音寺・神恵院、 そして銭形砂絵を見学して、70番本山寺まで歩いていました。
その頃は、ただひたすら前を向いて歩くしかなかった恥ずべき自身の遍路ですが、 「楽しく遍路」さんの「H25 初夏」、古い遍路アルバム集の「H19復活へんろ 三角寺-宇多津」を併せて読んでいただければ、雲辺寺も大興寺も実に見所の多い札所で、遍路の楽しさが倍増します。 とくに晴れた日の雲辺寺からの阿波、伊予、讃岐への眺望は一見です。 戦国時代の武将・土佐の長宗我部元親がここに登り、四国統一の野望を募らせた故事も納得できそうです。
さてさて、今回のタイトル『♪古いアルバムめくり ありがとう ってつぶやいた ~』は、森山良子作詞、BEGIN作曲による「涙(なだ)そうそう」の出だしです。 2001年にBEGINと同郷の夏川りみがシングルカバーし120万枚突破の大ヒットとなりました。 今回のタイトルの由来は、ブログからは相応しいタイトル名が浮かばなくて、最近の台風ラッシュの大雨による大災禍から、これは人災による天からの涙ということで「涙(なだ)そうそう」を連想しました。 「涙そうそう」は沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味だそうです。
それにしても、昨年は西日本を中心に極めて甚大な被害が出た「平成30年7月豪雨」、今年は東日本を中心に同規模以上の大被害をもたらした「令和元年台風第19号」が発生しました。 昨年とまったく同じコメントになりますが、このところ狭い日本でも、数十年に一度の豪雨が毎年のように発生しています。 自然破壊による地球規模の異常気象変動の始まりで、これからも世界中で繰り返されるのは確実です。 万事「お金中心」の経済政策が今後とも推進されれば、地球はどうなるか? わかりません。 言えることは、天からの「涙そうそう」を何とか止めなければ、人類に未来はありません。
佐野から本山寺までとは、ずいぶん歩かれましたね。「恥ずべき」などとは、とんでもない。よい修行であったにちがいありません。
恥ずかしいといえば、それは私の方です。私はこれまで、雲辺寺に三度お参りしましたが、そのいずれもが佐野発→大興寺止まりです。
ちょっとふり返ってみます。
一度目は平成19(2007)で、これは椎間板ヘルニア手術後の遍路でしたから、まあ仕方なかったと思います。むしろよく歩いた方かもしれません。朝早くから夕方やや暗くなるまで、たっぷり一日かけて、ようやく佐野→雲辺寺→大興寺を歩いたのでした。
翌日は多少の痛みもあって、本山寺で止まってしまいましたので、天恢さんの一日分を、2日かけて歩いたということになりました。川沿いの、あの五重塔が見える道で、何回立ち止まったことか・・。遠かったです。
しかし今も遍路が続いているのは、あのときすこしがんばったおかげだとは思っています。
二度目は平成25(2013)で、足はすっかり治っているにもかかわらず、萩原寺をまわったことを口実に、大興寺で止まっています。
これは反省ものです。せめて観音寺までは進むべきでした。まだ体力的には余裕もあったし、早く着きすぎた宿で、グータラしていたのですから。
どうやらこの辺から、楽しく歩くこととダラダラ歩きとの、混同が起きているようです。
三度目は今年6月で、砥石観音参拝を理由として、またもや大興寺で止まっています。佐野から砥石観音を一日の行程に入れるのは、無理と判断したのです。
歳も歳だし、無理はしない方がいいのではないかと、早々に大興寺止まりを決めてしまい、無理をしてみようかなどとは、小指の先ほども考えませんでした。
これはもう、体力よりも、精神の衰えというべきでしょうか。
なお砥石観音については、次号で報告の予定です。
さて、・・
孫が生まれたとき、まわりの皆からおめでとうを言われ、可愛いでしょうと言われました。
私はもちろん、可愛いと思いましたから、ええ、可愛いですと答えましたが、本当はもう一言、付け加えたいことがありました。
・・ええ、可愛いです。でも、ふびんさの方が先立ってしまって、・・
この子達の生涯は、私がこれまでに経験したことがないような、きびしい出来事の連続であるにちがいない。
それは未曾有の災害であったり、食糧不足であったり、争いごと→戦争であったりもするだろう。
この子達はそれらを、自力で越えなければならない。自己責任といえば聞こえはいいが、実体は、多くの場合、共助の放棄です。助けは期待できません。
はたしてこの子達は成人して、結婚しようとするだろうか、結婚という夢を持てるだろうか。子を持ち、親子で幸せに暮らしたいと思うだろうか。思えるような社会だろうか。結婚率の急激な低下は、すでにそれを物語っているのではないだろうか。
こんなことを、・・老婆心ながら、・・考えたのでした。
グレタさんは、”なんてことをしてくれたのだ!”と世界の指導者を糾弾しました。人類の未来が閉ざされかねないとの、危機感の表明です。
それでもなお、温暖化はフェークだなどと宣っている、大国の指導者がいます。世も末ではすまされないのですが・・。
♫水は天からもらい水・・どうか、ほどほどの水が、いただけますように。