楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H25 初夏 ③ 本山寺 妙音寺 延寿寺 興隆寺廃寺 観音寺 伊吹島へ

2013-07-26 | 四国遍路

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本山寺仁王門

本山寺の仁王門は、国の重要文化財に指定されています。本堂は国宝です。
本山寺の建物が、からくも長宗我部元親の兵火から免れたについて、「太刀受けの弥陀」という身代わり話が残っているそうです。



五重塔と国宝本堂

長宗我部軍は、拒絶する住職に太刀をあびせ、境内に侵入しました。ところが、切ったはずの住職が無傷で、代わりに、御本尊の脇に侍する阿弥陀如来が血を流していました。元親は阿弥陀様に手をかけたと知り、兵を引きました。結果、本堂や仁王門は焼失を免れた、ということです。ただし元親は以後も、ひるまず、四国制圧に突き進み、数多の寺社を焼き払います。


枯れ木地蔵

本山寺は「一夜建立の寺」、つまり弘法大師が一夜で建立した寺、と言い伝えられています。
その用材は阿波の井内谷(いのうちだに)から運ばれたとされますが、途中、一柱を落としてしまったのだそうです。その落とした柱から彫り出されたのが、ここに祀られている、「枯木地蔵」さんだといいます。本山寺の東、一㌔ほどの所にあります。


本山寺の奥の院 妙音寺

白鳳時代(7世紀後半)の創建といわれ、現存する古代寺としては、四国で一番古いと考えられています。
その証拠の一つが、ここから発掘される古瓦です。使われている粘土、刻まれている文様が、藤原京跡から出土する古瓦と同定されるのだといいます。妙音寺から5㌔ほど北の、「宗吉瓦窯」で造られた瓦で、そこには今も、「瓦谷」という地名が残っています。


七宝山へ

写真奥の山を「七宝山」(しっぽうざん)といいます。私がこれから訪ねる興隆寺(廃寺)は、この山の、一つの谷筋に在りました。興隆寺は、本山寺の旧奥の院と考えられています。

「七宝山」という山名の興りを、寂本さんが次のように書いています。
・・・又(弘法)大師七種の珍宝を此山に納め国家の鎮押とし玉ふの故に七宝山と称すなり・・・「四国遍礼霊場記」(観音寺の項)


竿川

国土地理院の地図では、観音寺(札所)や琴弾神社がある山は、「琴弾山」と表示されています。実際、「七宝山」と表示されている山塊とは、平地で隔てられていますので、地理学的には別々の山と考えられるのでしょう。
しかし、山号でいう「山」は、spiritual な「山」です。「琴弾山」も含めた一帯が「七宝山」であっても、おかしくはなく、68番神恵院、69番観音寺、70番本山寺、本山寺奥の院・妙音寺、いずれもが「七宝山」を、その山号としています。そして(先の話になりますが)、(観音寺の沖合に浮かぶ)伊吹島の泉蔵院も、七宝山泉蔵院、です。


二毛作

取り入れ前の麦畑に、早苗田が囲まれていました。麦作と稲作の二毛作がおこなわれています。この辺は、古くから麦作りが盛んで、讃岐うどん誕生の素地となっています。
なお、もう一つの素地、出汁用イリコは、伊吹島が産地として知られています。私の今夜の宿泊地です。


畑焼き

麦を収穫した後、切り株を焼き、その灰を鋤込んで水田を作ります。


畑焼き

煙が問題になっているようです。畑焼きを控える農家もあると聞きました。


予讃線

興隆寺跡は地図には載っていません。延寿寺を目指して進みます。ただし延寿寺も、今は無住で、地図上に寺名を見つけるのは、やや困難です。
本山寺で尋ねると、・・・あそこは今は無住で、なにかの時は、うちがお手伝いしております、・・・とのことで、丁寧に道を教えてくださいました。延寿寺を「えんじゅうじ」と発音されるのが、心地よく耳に響きます。西日本では母音が大切に発音されますので、「じゅ」が「じゅう」と聞こえるのです。


延寿寺

今回の遍路では、とりわけ、道を尋ねたいと思っていると、不思議に誰かと出会うことができました。ここでもそうでした。
さて延寿寺はどこだろう、誰かいないかなあ、と思っていると、農作業着の女性が歩いてきました。それなら一緒に行きましょう、自分も近くまで行くところです、とのことで、話ながら歩いてくださいました。
・・・延寿寺は、本山寺に並ぶ真言の寺でしたよ、ところが住職さんが居られなくなってねぇ・・・、それでも皆で担当交代して、掃除などもしているのだけれど、うーん、だいぶ荒れてきたねぇ。桜がきれいな寺なんですよ・・・。


延寿寺の鐘の歌

後先になりますが、「不動の滝」に、延寿寺を詠み込んだ歌碑があったので、ご紹介します。久保田良民という方の歌だそうです。
・・・生き難く 志保に迷ひて ありしかば われ呼び戻す 延寿寺の鐘・・・
鐘の音が良民さんに呼び戻そうとします。延寿寺の鐘は、良民さんの生活に、じんわり溶け込んでいたと見えます。鐘と住民の、こんな関係って、あったんですよね。犬塚池の犬は、我を失いましたが・・・。


延寿寺の鐘

明治6(1873)6月26日、延寿寺の梵鐘が乱打されました。「西讃血税一揆」の始まりでした。一味同心した者4万を数える、大規模な一揆でした。打ち壊し、焼き討ちに遭った役場、役人宅、小学校などの数は、600ヵ所にのぼると言われ、鎮圧には軍隊が出動しました。

背景に農民の「無知」があった、と流布されています。「子ぅ取り婆あ」の出現を農民が信じてしまったとか、「血税」の意味を、ほんとうに身体から血を抜かれると誤解してしまった、などと言われています。そんな不安が農民を暴動に駆り立てたんだと、もっともらしく語られています。農民を馬鹿にした話ではあります。


延寿寺

徴兵制への怒りと、義務(強制)教育への抗議が、農民を一揆に駆り立てました。兵隊として我が子(の命)を取り上げる「国家」を、農民たちは「子ぅ取り婆あ」と罵って、竹槍もて歯向かったのでした。
「義務教育」に対する、当時の感情は、今日では理解しにくいのですが、子は幼くとも、当てにすべき一家の働き手であったこと、当初、「義務」教育は「有料」で、多大な負担を強いるものであったこと、子の教育は(生きる術と心構えは)、伝統的に、親が自らの生き様を通して子に伝えるべきものであったこと、などを考え合わせる必要があります。
寺社はこのように、時として歴史に登場します。


神恵院の大師堂は・・・

写真は神恵院の大師堂です。ふつう大師堂は宝(方)形造で、頭に宝珠を戴いているのですが、神恵院のはちょっと変わってる、そんなことを思った方も、いらっしゃるのでは?
その訳が分かりました。この建物は、元は延寿寺の本堂だったのです。本堂が大師堂になったのですから、様式が違っていても仕方がないんです。もっとも、神恵院の本堂は、もっと変わっているのですが。


荒魂神社 

延寿寺に隣接して神社があります。祭神は大国御魂神のようですが、はっきりしません。神仏習合の時代には、同体だったのでしょう。


興隆寺跡へ

さて、いよいよ興隆寺廃寺へ向かいます。
寺と神社の間の道を歩き、谷筋に入ってゆきます。傾斜は、ほとんどありません。道は「西国三十三カ所」の道になっています。


興隆寺跡へ

五来重さんは、本山寺の御詠歌「・・・春こそ手折れ手向けにぞなる」から、おそらく奥の院(興隆寺)は、亡くなった人の供養のための寺だったろう、とお考えになり、・・・火葬骨を五輪塔の中に入れたようです、と書いておられます。


石塔群

側の案内板に、・・・これら石塔群は、鎌倉後期から室町末期にかけて約200年間、継続的に造立された・・・、とあります。
とすると、時代は武士の時代ですから、これら石塔は武士階層を供養している、とも考えられます。ようやく武士階層が(支配階層となって)、弔いの形式を我がものとした、その頃の姿が、ここに在る、ということでしょうか。


墓塔群

庶民階層の供養の様子は、弘長元(1261)、執権時頼が出した布告から覗うことが出来ます。
・・・病者、孤子(みなしご)の死屍を路辺に棄つるを禁じる・・・
庶民にとって葬式や法事は、まだまだ高嶺の花だったようです。庶民レベルで葬式が一般化してくるのは、寺請制度が確立される江戸期に入ってからです。


墓塔群

石塔群は上下二段に分かれ、下段には、磨崖仏(不動明王)を中心とした五輪塔が30基、列をなしています。
上段は、五輪塔や宝塔など、その数70基とのことです。凝灰岩壁を庇状に造成し、その下に並べてあります。そのため、きわめて風化が軽微です。


不動明王

ウグイスの声が絶え間なく聞こえるなか、明日お参りする予定の弥谷寺のことを考えていました。弥谷寺も、供養のための寺です。


ぶどう園

七宝山の山裾を南下し、不動の瀧に向かいます。
ぶどう園で作業をしている女性と出会いました。立ち話をしました。この辺は、知られたブドウの産地です。


お嫁さんの実家方向

・・・私は向こうの山から、こっちの山ヘ嫁に来たんですよ。その頃はここから実家が見えていましてねぇ、ちょっと寂しかったりもしたもんですよ・・・むこうに見えるは 親のうち、なんてね・・・


不動の瀧

「不動の滝」の名は、弘法大師修行の際、この岩に不動明王の像を刻んだことに由来しているといわれています。
一昨日訪ねた仙龍寺の清瀧では、晴天続きで、ほとんど水が流れていませんでした。新宮ダムも貯水量がずいぶん減っていました。しかし、この不動の瀧は、結構の水量があります。どうやら人工的に調節しているらしいです。


さんか・ばし

七宝山から財田川堤防を下ってきました。
「さんか・ばし」は、三つの橋(太鼓橋)が続いて架かっていたことから「三架橋」と書かれます。また、琴弾八幡宮へ「参賀」する橋であることから、「参賀橋」と書かれたりもするようです。(写真は河口方向から撮ったものです)。


観音寺

写真奥に観音寺の山門が見えます。古い両側街です。


二つ札所

二つ札所となるに至る経緯は略します。山号は「七宝山」です。


銭形と伊吹島

沖に、伊吹島が見えます。この島には、琴弾八幡宮の分霊が勧請され、観音寺の数坊が遷されています。海を挟んで、「信仰」でつながっています。
私は今夜、この島に泊まります。


琴弾八幡宮拝殿

元の68番札所です。ここから長い石段を降りてゆきます。
二つの札所については、 (→前回の観音寺参拝) もご覧ください。


財田川河口付近

松並木がきれいに残っています。
澄禅さんは「四国遍路日記」で、ここいらの景色を次のように書いています。
・・・向ハ雲辺寺ノ峰ヨリ初テ名山ドモ重リ、麓ハ観音寺千軒ノ在家在、川口ハ大船ドモ何艘トモ不知ツナギ置キタリ・・・
雲辺寺に連なる山々、観音寺の在家千軒、河口に浮かぶ何艘もの大船、いい景色です。


たった350年前

水遣りをしている女性と話しました。この寺(薬師寺)は、ここらでは2番目に新しく、たった350年前なんです、とのこと。
なるほど、川向こうの琴弾八幡宮は大宝3(703)の創建だそうですから、比較すれば、「たった350年前」でしかないんでしょう。
350年を「たった」と言う観音寺の街、ぜひ探索してみたかったのですが、果たせませんでした。次の機会を待ちます。

伊吹島へ


出港

どうせ客は私一人くらいだろう、と思っていたら、ほぼ満席でした。島民が一番多いのですが、釣りに行く人たちも見られました。


ニュー伊吹

観音寺-伊吹島真浦港に就航しています。市営。通常は一日4便。約25分で着きます。

・・・「伊吹島」の名付け親はお大師さんでした。・・・ 昔、西の海面が光りはじめ、漁師達は恐れて、漁に出なくなりました。弘法大師がそれを知り、光の正体をつきとめて下さいました。珍しい木が海に浮かび、光を放っていたのです。大師はその木から薬師像を彫り出されました。以来、この島は「異木島」と呼ばれ、やがて「伊吹島」となった・・・、のだそうです。

伊吹島は、短い滞在でしたが、とても魅力的な島でした。次回、報告します。
更新予定は、8月16日です。

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2 コメント

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Unknown (天恢)
2013-07-26 09:54:08
 高野山へ行って参りました。 初日は早朝に横浜へ出て、11時半には裏参道の極楽橋から不動坂を上り、女人堂→奥の院→金剛峯寺→壇上伽藍→宿坊まで。 二日目は高野山・根本大塔から町石道(まちいしみち)百八十町を慈尊院・九度山駅まで歩き通しました。 炎天下の二日間で、道に迷ったり、道草したり、汗をかきながら40km以上歩いたようです。
猛暑という言葉に圧倒され、思考までが停止して遅くなりましたが、前回の続きで、野宿遍路さんの『それにしては、宝寿寺本堂の改築は、なかなか終わりませんがねぇ』 についてです。
宝寿寺の旧本堂はH17年から改築準備に入ったようです。 私もH22年、H24年と旧本堂を実際に見て、気になるのは建物が年々傷みが進んでいることです。 改築(建築かも)計画がなぜ進まないのでしょうか? 札所も88ヵ所もあれば台所事情はそれぞれでしょうが、過疎化で苦しむ地方の寺社に比べれば、黙っていても巡礼者が押し寄せる88ヶ所札所の懐具合はそれなりに安定してはずです。今回のブログにも登場する古刹だった興隆寺や延寿寺の現状を見るに付け複雑な思いです。
それともう一つ、天恢にとってこの宝寿寺は特に思い出ある札所なのです。 H24年の納経所でのことです。 天恢は2巡目から200円でカラーの御姿もいただいてまいりました。 掛け軸にする場合、やはり白黒よりカラーの方が見栄えがする単純な理由からです。 いつものように500円出して、「カラーもお願いします」とお願いしたら、「終わりました」という意外な答えが一言返ってきたのです。 増刷のことも、どうすればいいのか? にも、まったく応じてくれないのです。 もう「ガーン」です。 その時、天恢は悟ったのです。 「冥土への手形」収集にうつつを抜かし、終にはこんな紙切れ一枚にこだわる自分の愚かしさに・・・。 この顛末は善通寺にある霊場会にて無料で発行していただいて個人的にはケリがついております。
 ただ、宝寿寺については納経の時間に昼休みがあるとか? 参拝者の不満、ご近所の評判とかいろいろあるようです。 これらが旧本堂改築遅延とどう関わるか? は不明ですが、札所も88ヶ所あればいろいろあるのでしょう。 ただ天恢にとっては2巡目のお礼参りも終わって、これからは納経も、札所巡りも気にせずに「楽しく遍路」ができそうな予感だけはしてくるのです。

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Unknown (楽しく遍路)
2013-07-27 13:27:38
天恢さん お帰りなさい。暑い中、ご苦労様でした。一区切りではありますね。

私も高野山は考えています。できれば、丁石道から小辺路→熊野本宮を考えています。
「できれば」の意味は、たぶん出来ないのだが、諦めてはいない、です。そこで、自分を励まさんとて、夏のバーゲンを利用してザックを新調しましたよ。こうなれば、行かざぁなるまい・・・、です。
宝寿寺さんを巡っては、いろいろあったのですね。しかし、おっしゃるように、2巡目のお礼参りも終わりました。一度流して、次を楽しもうではありませんか。
私も、この秋で2巡目が終わると思います。遍路の、新たな視点を求めたいと思います。
またよろしくお願いします。
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