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四国遍路のアルバム

H23秋 ⑥ 1番霊山寺 十輪寺 東林院 長谷寺 岡崎(撫養港)

2011-12-28 | 四国遍路
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10月8日 最終日 晴  1番霊山寺-十輪寺-東林院-長谷寺-岡崎(撫養港)



最終日の朝を、おかげさまで元気に迎えることが出来ました。この場からですが、霊山寺に手を合わせました。それから、ちょっと場所をずらし、大麻比古大神鎮まれる大麻山を視界に入れて、柏手を打ちました。

東北東に進路をとり、撫養港(岡崎)まで歩きました。
撫養街道は川北街道とも呼ばれていますが、この辺はすでに吉野川河口地帯で、もう「川北」の印象はありません。

十輪寺

十輪寺は「第一番前札所」と呼ばれるそうです。朱印もそう押されるとのことですので、自称でもあります。
近畿や近畿以北の遍路たちは、淡路島の福良から、撫養港に着きました。「撫養」は、「牟屋」とも表記され、江戸期の案内書などには「岡崎」と記されているそうです。
88カ所巡りの円環に入るべく歩いてきますが、1番札所の少し手前に十輪寺があります。弘法大師所縁の寺とあっては、素通りもならず、参拝します。こうして1番札所の前に「札所」が生まれました。
ですが、元々、1番あっての「1番前札所」ですので、1番への別のアクセスができると、立ち寄る遍路も減ってしまいました。
別のアクセスとは、まず、昭和10開通の高徳線です。大坂峠トンネル、吉野川鉄橋架橋は難工事でした。決定打は、平成10年の明石大橋の開通です。福良-撫養間の海上交通は、事実上、なくなりました。

「四国霊場開創弘法大師旧跡」碑

お大師さんとの「所縁」とは、十輪寺が「談義所」とも呼ばれていることに関わっています。弘法大師が、ここ十輪寺で、四国88カ所について「談義」されたと言うのです。「談義」の内容を、札所を定め番号をつけた、と理解している人もいます。
「空海」が番号をつけた、と言われてしまうと、その誤りは正したい思いですが、「お大師さん」ならば、そんなことがあったかもね、でいいでかもね。

神燈

あちこちで見かけます。鳥居は、その下をくぐるものとばかり思ってきました。結界への出入り口、とでも言いますか。
これは違います。初めて見ました。単に御神灯を掛けるための装置というだけなのでしょうか。鳥居の柱を取り付ける石の台は常設されているようです。
左の幟は「天河別神社」のものです。阿波・忌部氏に関わる神社です。神社周辺は、4-5Cの古墳群だそうです。右の阿波神社については、後述しますが、両社の祭神間には、関わり合いはありません。

池谷駅

「いけのたに駅」と読みます。徳島から来る鉄道が、ここで鳴門線と高徳線に分かれます。高徳線は3番札所まで撫養街道とほぼ並行し、その後、北上します。鳴門線は終点まで一緒です。
両線の分岐の間に、「談四郎大明神」が祀られています。談四郎は総領狸です。駅建設で棲み処を追われ、祟っていましたが、お祀りすると、逆に助けてくれるようになりました。祟り話の典型です。

私には10年来の、遍路の「相方」がいます。「相方」、あまり好きな語ではありませんが、お大師さまの手前、「同行者」とは言いづらく、「相方」とします。北さんです。平成20年の春、二人で池谷駅に立ったときのことを、アルバム「阿波1番から」に記録しています。
・・・1番がある(高徳線の)板東駅へ向かう。だが北さんは、まず鳴門行きの電車に乗ろうという。池谷駅で降りて、ホームで板東行きの電車を待とうというのだ。その間、のんびりと四国の「風」を楽しもうという、北さん流の楽しみ方である。・・・
北さんは、私の「ゆっくり遍路」の師匠なのです。

阿波神社

阿波神社は新しい神社です。昭和15年の紀元2600年を記念して創建されました。土御門上皇の火葬塚を核として、側にあった丸山神社を廃し、新しく土御門上皇を祭神とする阿波神社が創建されました。
県道12号線(鳴門-池田線)に面して鳥居が立ち、鳥居のすぐ内側に「土御門天皇火葬塚」があります。
鳥居をくぐると、参道は直線ではなく、緩く右にカーブしており、曲がった先の左奥に大きな神門、そして拝殿が見えてきます。
火葬塚は宮内庁の管理です。

拝殿

土御門天皇は3才で即位し、16才で退位しています。由緒に依れば、大変温和で温情が深い方であったそうです。また和歌への深い造詣をお持ちでした。承久の乱への関与はないにもかかわらず、父、弟が配流されるなか、ひとり都にとどまるを由とせず、自ら土佐へ遠流の身となった、とされています。その後、阿波への近流(こんる)と変わり、この地で崩じられました。37歳だったといいます。(火葬塚は阿波ですが)御陵は遷されて、長岡京市にあります。
7番十楽寺から8番熊谷寺へ向かう辺りの地名は「御所」といいます。御所小学校、御所郵便局などがあります。場所は特定されていませんが、土御門上皇・阿波院の行在所 がこの辺にあったと考えられます。

宇志比古神社

慶長5」(1599)の棟札が残っており、この時期の建物も残っているそうです。
秋祭準備に来ていた方にうかがうと、地元では、なぜか「八幡さま」と呼んでいると言います。
次の写真の東林院と隣り合わせており、おそらく神仏分離以前は同体だったでしょう。とすると、東林院の記録が京都・石清水八幡宮の古文書にに残っているそうですので、ここが八幡神社であった可能性は高いと思います。

東林院

八葉山 神宮寺 東林院 です。学問寺として名高かったそうですが、元禄期の大火ですべてを失っています。
「種蒔大師」の別名を持っています。石清水八幡宮の古文書によると、「・・・弘法大師、四国霊場御開創の為南海道を通り御巡錫の砌り、当地へ遊化し東林院に御滞在、農業奨励の為、御身自ら鍬を取り、米麦の種を蒔き・・・」に由来します。
東林院はまた、第1番霊山寺の奥院ともいわれています。大師も歩かれた「南海道を通り」、やってきた遍路たちは、かならずや「大師御滞在」の東林院に立ち寄ったことでしょう。遍路たちは、1番に着く前に、大師所縁の2カ寺にお参りすることになります。

道標

種蒔大師への道しるべですが、「左 往来」には、思わず笑ってしまいました。

登り窯

大谷焼の登り窯です。東林院の近くにあります。CO2の関係で、今は使用していないとのことですが、手入れは行き届いています。
普通、登り窯は自然の傾斜を利用して作られますが、この釜が在る場所は、(軽い傾斜はありますが)ほとんど平地です。盛り土の上に作っています。日本最大級の釜で、国の有形文化財に登録されているそうです。

大物が並ぶ庭

安永9(1780)、豊後国から来た焼き物細工師が、この地(大谷)で巡礼の宿を乞うたそうです。その細工師は、火消し壺などの日用雑器を焼き、評判になりました。これが大谷焼の始まりだそうです。近くの東林院では毎年、大谷焼窯まつり陶器市が開かれていますが、細工師が東林院に葬られたことに因んでいるそうです。
大谷焼は大物を得意としています。藍染め用の甕や睡蓮鉢、水甕、醤油や酒の容器などが造られました。3年前、別格2番童学寺前でも登り窯を見ましたが、同じように大物の水甕などが並んでいましたので、同系列かも知れません。

水琴窟

窯の側に水琴窟が造られていました。
ししおどしは、大きな響きで静寂を破り、破ることで、より閑けさを感じさせます。
水琴窟は、かすかな音に耳を傾けつつ、静寂の中に身を没入させてゆきます。
いずれもが日本人の「発明」なのだそうです。このような「耳」を、先人たちは、いかにして獲得したのでしょうか。
手水鉢などに作られた、「聞こえてくる」水琴窟は、見た(聴いた)ことがありますが、「聴くための」水琴窟は、初めてでした。
腰をかけ、目をつむり、耳に神経を集中してください、と書いてあります。

旧撫養街道

旧撫養街道は、県道12号線(車道)と交差したり、ときには合流したりしながら残っています。
この道が古くは南海道であったことや、昭和初期までは1番に向かう主要へんろ道であったことは、あらかじめ知っていました。しかし、(もう少し歩いてから分かるのですが)、こんぴら道でもあったことは知りませんでした。
考えてみれば、阿波はこんぴら信仰の盛んな土地でした。ここに、こんぴら道が通っていることは、引田で道標を見たときに、容易に想像がつくことでした。
阿波では、「阿波三金比羅」が知られています。一つは、これらか訪ねる木津の金比羅神社です。また一つは宮嶋の金比羅神社です。宮嶋は、阿波十郎兵衛屋敷の周辺です。そして三つ目が、勢見の金比羅神社です。眉山の山嶺ににあります。

獅子舞

どこの神社のお祭でしょうか。尋ね忘れました。都会では見られなくなった風景です。

先遣隊

門付け交渉の先遣隊です。こんな子供たちに「オネガイシマース」などと頼まれたら、断れないでしょうね。

氏子

このようにしてお祭が支えられています。お母さんが、「お父さん、暑いから、こっち(日陰)に入り」と勧めても、お父さんは聞いておらず、「電話があったかあ?」などと答えています。しかし、ゆっくりとですが、作業は進んでいます。
あまりに微笑ましいので、カメラを向けました。ちょうど顔が隠れているので、紹介させてもらいました。

?気地蔵尊

?気地蔵尊、最初の文字がわかりません。
通りがかりの人に何と読むのですかと尋ねましたが、さあ、脚に効くお地蔵さんと言うとりますが、この先の長谷寺(ちょうこくじ)さんで聞けばわかる、との答でした。
なるほど、分かりました。「脚気地蔵尊」でした。昔は、脚気や鳥目は大病でした。
このことを長谷寺で住職さんにお話しすると、「ほー、脚に効くという話が伝わっていましたか、それはよかった」、とのことでした。
お接待でオロナミンCをいただきました。「大塚製薬ですね」と笑うと、「鳴門ですからね」とのお答えでした。鳴門は大塚製薬発祥の地で、今も大きな工場があります。けれど、3番金泉寺近くで戴いた栄養ドリンクはチオビタで、大鵬薬品の製品でした。全県制覇は、やっぱり難しいようです。

木津城趾

標高60M余り。木津城は中世の山城で、阿波・小笠原氏の支族が居城としていました。その頃の遺構から、中国製の青磁壺などが発掘されているそうです。「木津湊」を掌握し、阿波の物流に大きく関与していた様子がうかがわれる、といいます。
長宗我部元親の四国平定以降は、元親の支配を受け、秀吉の四国攻めに備えた改築がなされました。むろん秀吉軍によって破壊されることになりました。

撫養街道

「木津湊」?
どこにあるのでしょう。この辺一帯は「木津」という地名で呼ばれていますが、木津に海はありません。
「木津湊」は、かつて木津に在った湊のようです。地元研究者のレポートなどを総合すると、木津の南一帯は、戦国の頃までは、海や、海に開けた潮入り川がある地帯、でした。そこに湊が在り、湊は、中国製青磁壺が入ってくるような、阿波の玄関口だったということです。

長谷寺

「ちょこくじ」と読みますが、由緒によると、大和・初瀬の長谷寺(はせでら)との関係があります。
戦国時代、文明12(1480)、木津に住む細川家(阿波守護)の家臣が、仇討ちの月参りに大和・長谷寺に詣で、長谷観音と同木の観音像を持ち帰ったそうです。彼は木津に寺を建て、観音様を祀ったといいます。
その寺号は「木津江寺」でした。木津の入り江の寺で「木津江寺」です。戦国時代、木津は海に面しており、その入り江に寺を建てたというのです。この木津江寺が、長谷寺(ちょうこくじ)の前身です。
「阿波名所図会」所載の「てうこく寺」(長谷寺)の図が、ネット上で公開されています。
山腹に「こんぴら社」があり、その下に「てうこく寺」が描かれています。「てうこく寺」に沿って往来スペースがあり、行き交う侍や飛脚や駕篭やが描かれています。写真に写っている道が、その往来です。往来の反対側は、海の波が打ち寄せています。私は、昔の海辺から撮影しているわけです。
描かれている人物などを見ると、図が描かれたのは、江戸期に充分入ってからだと思われます。図会の発刊年は文化9(1812)、むしろ幕末に近い時期です。
次のような詞書が入っています。・・・木津上浦(こつかみうら) 板野郡にあり。むかしは海辺にて勝景の地ときこえし。今なほ入江存す・・・
昔は海だったが、今なお入り江は残っていて、そこに長谷寺はある、と書いています。
はたして、絵が描かれた時期、まだ入り江が残っていたのか、疑問ではあります。近世初頭(1600頃)には、吉野川の沖積地帯は、この辺にまで伸びてきていたからです。しかし、長谷寺が、ある時期、海に面して在った、という事実は確認できます。古い絵に今昔の混同が多少あるのは、仕方ありません。

船を繋いだイチョウ

木津・長谷寺のオハツキ・イチョウです。しかし、この木の重要性は、この木に船が繋がれていた、という伝承を持つことにあります。樹齢600年といいますから、もしかすると寺創建時に植えられた可能性もあります。とすると、この木は、前に広がる海を見ていたことになります。
木津江寺は、長宗我部元親による破壊を免れるために、長谷寺と寺号を改めましが、結局、木津城とともに、破壊されてしまいました。
再興は、蜂須賀家の時代になってからでした。新しい国造りのなかで、慶長3(1598)、長谷寺は駅路寺の一つに指定されました。旅人に宿泊の便宜を与え、また同時に不審な旅人を監視する制度ですが、既述のような寺史を踏まえての指定だったのでしょう。
駅路寺に指定された時期には、木津の湊(木津上浦)は、もはや阿波の玄関口ではありませんでした。潮入り川の船泊くらいは持っていたかも知れませんが、阿波の玄関口は、撫養(岡崎)に移っていました。沖積地帯の広がりに、干拓、塩田づくりなどの人為が加わったからです。
天正19(1591)、木津の水師たちが岡崎(撫養)に移された、との記録があるそうです。阿波の要港は、明らかに、木津から撫養に移動しています。

金比羅神社

先の「てうこく寺」の図には、・・・木津上山の金毘羅権現は、別当長谷寺なり・・・と詞書きがあります。神仏分離以前は、長谷寺が金比羅社の別当、つまり、「こんぴら社」は、長谷寺の1堂宇でした。
木津の金比羅神社は、海上安全、家業繁栄、夫婦和合、縁結びなどの御利益があり、近郷近在はもとより、広く阿波、淡路から崇敬を集めてきたといいます。「こんぴら信仰」が全国化する以前、慶長6(1601)、撫養城主(岡崎城主)によって建てられました。讃岐と阿波との深い繋がりがうかがわれます。「こんぴら信仰」が隆盛をみるのは、江戸時代中頃、宝暦3(1753)のことです。
しかし、木津の神社が、琴平の総本社から「公認」されていた(いる)かというと、そうではありません。琴平の総本社・金毘羅宮(松尾寺)は、いわば「地方が勝手に建てた」ものを、後追い「公認」しませんでした。現在、全国に金比羅神社は680社余りあるそうですが、公認されている分社は、6社のみです。 

こんぴら道標

この道標は、前述の「阿波の三金比羅神社」の一つ、宮嶋の金比羅さんと、一番札所霊山寺の方向を示しています。

かつての海

木津の湊は、古代から中世にかけて、阿波の要港でしたが、その航海安全を護ってきたのは、市杵島姫命(いちきしまひめ)でした。金毘羅大権現が航海安全の神さまとして存在感を示すのは、もう少し時代が経てからでした。
市杵島姫命は、北九州宗像の航海民・海人(あま)集団が信奉する海神で、他、田心姫命(たごりひめ)、湍津姫命(たぎつひめ)と共に、「宗像三神」と称せられます。
海の一族・平氏の尊崇を受けて、宗像三神の人気は全国化します。中でも市杵島姫命は美人で、1番人気でした。平清盛が建てた厳島神社(いつくしま)は、命の名(いちきしま)から来ています。
長谷寺の南、写真に写っている運河の対岸には、厳島神社があります。長谷寺の東、鳴門第一高校の近くには、市杵島姫神社があります。

市杵島姫神社

1番人気の市杵嶋姫命は、同じく美人で知られる弁財天と習合し、同一視されるようになりました。ですから、この神社は地元で、「べんてんさん」とも呼ばれています。
弁財天は、元はガンジス川の神さまです。そこで、川のせせらぎ→音楽、の連想から、音楽や芸術、さらには美の神、とされています。また、川の水→農業、の連想で、農業神、財産づくりの福の神ともされました。
物流を支える要港の守護神として、うってつけの神さまです。
写真は「大ウバメガシ」です。この辺の地名「馬目木」(ウマメギ)の興りとなったとされていますが、その馬目木にこそ、木津の湊は在った、と「板野郡史」は解説しているそうです。



市杵島姫神社には藤原基房の歌碑があります。撮影は手ぶれで失敗していました。
長元2(1029)、阿波守に任じられ、この地に赴任したときの歌です。後拾遺和歌集にも載せられているそうです。
「阿波の守となりて また同じ国に帰りなりて下りけるに 木津神のうらというところに 波が立つを見て詠める」
「木津神のうらに としへて寄る波も 同じ所に帰るなりけり」
木津神の浦に波が寄せていた、と書かれています。

事代主神社

事代主命(ことしろぬし)は漁労神であり海神です。農耕神である大国主命と対で祀られるの存在でしたが、農耕に対して、漁労の比重が低かったのでしょうか、大黒主命の子神とされてしまいました。
しかし、(漁猟神ですから)釣り好きで、そのことから、釣り竿に鯛の恵比寿さまと習合、同一視されるようになり、ふたたび人気を取り戻しました。地元では「おいべっさん」と呼ばれているそうです。「えべっさん」と同じです。
海神にして、また商売繁盛の神さまですから、市杵島姫命の「べんてんさん」同様、この地には又とない神さま、というわけです。創建は、正保年間(1644-7)と伝えられています。海運の中心はすでに撫養に移っている時代です。

妙見山

撫養街道が鳴門市街に入ってきました。まっすぐ進んで撫養川を渡り、奥に見える山まで進みます。
撫養川に架かる橋が文明橋、奥に見える山が妙見山です。妙見山は撫養城趾(岡崎城趾)でもあります。
妙見山に突き当たって左に歩いて行くと、撫養港(岡崎)です。

文明橋

撫養川に架かる橋です。まさに「文明」が、橋を渡って入ってきたのでしょう。
初代の架橋が明治3、今の橋は3代目で、昭和13の工事だそうです。鳴門の渦が刻まれています。藩政時代は渡し船でした。
橋を渡った先は林崎という所で、奥に見える妙見山から左に進むと岡崎です。この林崎、岡崎が、かつての繁栄の中心だったようです。歓楽街があり、豪商が蔵を連ねていたといいます。
文明橋を起点に、「撫養航路」が徳島・新町川岸に通じていました。和船が、撫養川→旧吉野川→そして吉野川本流→新町川へと、川を縫って運行されていました。最近、地元有志によって、復活撫養航路が運行されています。(乗るには、運行時刻を調べておく必要があります)。私は一日違いで乗ることが出来ませんでした。「ひょうたん島航路」には乗ったのですが。

撫養城趾(岡崎城趾)

この山は、山頂に妙見神社があることから、妙見山と呼ばれています。
妙見神社とは、まことに妙な神社です。仏教で北極星を、妙見菩薩とか北辰菩薩としていますが、この「菩薩」を祀る「神社」が妙見神社です。神仏習合時代の人なら、そのどこが変なの、とおっしゃるでしょうが。
神社がある辺りには、かつて撫養城(岡崎城)がありました。一国一城令で廃城になり、代わって、北方を護る妙見神社が建ったわけです。この山は阿波の北東部にあります。
この山は、大昔には島だったでしょう。海岸線が後退し、山になりました。標高は60Mほどですが、小鳴門(撫養の瀬戸)と撫養街道を見下ろす、交通の要衝で、まさに城の立地としては最高です。小鳴門の対岸は、紀貫之の「土佐日記」に登場する土佐泊です。
妙見山には鳥居龍蔵記念博物館があります。鳥居博士は徳島の人です。私と鳥居博士との出会いは、金山出石寺から阿蔵遍路道に下る途中にあるメンヒル (→メンヒル) です。博士の鑑定によると、東洋一のメンヒルです。

市杵島姫神社

撫養港の近くに、また市杵島姫神社がありました。
2種類の、秋祭ポスターが貼ってありました。「弁財天の秋祭り」と、「市杵島姫神社 秋の例大祭」です。もちろん、どちらも同じ祭です。前者は、絵入りの親しみ深いポスターで、後者は、ちょっと厳めしい縦書き文字の「お知らせ」でした。

撫養港

とうとうやって来ました。
海を見ていると、十数人のツアー観光客がやって来ました。
ガイドさんが説明しました。・・・ここが遍路道の始まりでーす。お遍路さんたちは、ここから歩き始めたのですよー・・・
その指さす先に、遍路姿の私が立っていましたので、サー大変、すっかり被写体になってしまいました。

出発点

この道から歩き始めます。奥が1番方向です。
緊張や不安を紛らわそうと、声高に話す人がいたかも知れません。逆に、黙して語らない人も、いたでしょう。
元気いっぱい、早足で歩いたのでしょうか、それとも、先達さんの指示で、始めはゆっくり、用心深く歩いたでしょうか。
ざわめきや足音やが聞こえてくるようでした。

1番へ

「おーい、1番はこっちだぞー」
道しるべを見つけ、叫んだ人がいたかもしれません。無事を祈りたい気持ちです。

さて、ようやく七回忌遍路が終わりました。
次回からは、「歩き遍路 あれこれ」と題して、あれこれの事を綴ってみようと思います。来年、1月10日頃、でしょうか。

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