楽しく遍路

四国遍路のアルバム

牟岐 満徳寺 八坂八浜 大里の八幡祭 馬路越え 古目大師 

2015-01-29 | 四国遍路

 
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「曲線」の街
街の「曲線」が気持ちを和ませてくれます。牟岐は農業、漁業、林業、商業、海運業で栄えた古い街です。
農業は牟岐川沿いに、商業は牟岐川河口右岸に、漁業は河口左岸に、林業は橘、辺川、河内の辺りに興りました。木材は牟岐川を経て牟岐浦へ流され、海運により大坂方面へ運ばれたと言います。
四国遍礼名所図会によると、・・・町屋有、猟船(ママ)数多、流し木等有、上方へ積廻ス賑し・・・とのことです。


牟岐駅
こうした繁栄を背景に、牟岐線が牟岐まで届くのは、昭和17(1942)、日米開戦の翌年のことでした。
しかし、(阿波と土佐を鉄道で結ぶという)阿佐鉄道の計画は進まず、ようやく海部まで延伸したのが戦後、昭和48(1973)になってからでした。この年は、後に云う第一次オイルショックの歳でした。残念ながら、阿佐鉄道はこれ以上延びることはなく、昭和62(1987)、国鉄は分割民営化されます。
ただ、注目したいのは、民営化後の平成4(1992)、阿佐東線(海部-甲浦)が新設開業していることです。民営化後の新設は珍しい例だと言えます。第三セクターによる開通です。阿波と土佐を鉄道で結ぶ「夢」があったのでしょう。平成14(2002)には阿佐西線(御免-奈半利)も開業しています。が、はたして甲浦-奈半利間は?


満徳寺
満徳寺は境内の由来書によると・・・牟岐町の中では最も由緒ある寺院であり、真言寺院はすべて、その末寺である・・・とのことです。開基は行基菩薩。中興 増吽僧正。本尊 虚空蔵菩薩。
右奥に草鞋大師堂が見えます。


満徳寺の松
蜂須賀家政公により「牟岐の宝」と称賛されたという松です。樹齢は380年以上だそうです。家政公の没年は寛永15(1639)ですから、幼木ながら大樹の相を持っていたのでしょう。
「牟岐町の道しるべ」だったとのことですが、「一里松」ではなかったようです。土佐街道沿いには、一里塚として松が植わっていました。


最初の坂 大坂峠登り口
国道55号線を行く方が距離は短く平坦で、早く先に進めるのですが、あえてこの坂を登る人は、たくさんいます。
多少息ははずんでも、私もこの坂を登ります。土の道の方が足に優しいと思うし、なにより旧土佐街道の雰囲気を感じとりたいからです。
手前の舗装道は旧国道55号線です。


大坂峠の道
牟岐町の観光ボランティアガイドの会が立てた案内によると、大坂峠には、かつて内妻一里松があり、その側に草鞋地蔵尊が祀られていたそうです。しかし今は、松はなくなり、草鞋地蔵尊も「街道と旧国道との交差点に移設された」とのことです。坂を下った所で、もう一度、旧国道と交差しますので、そこが移設先だと思います。



「ちょっと一服 海が見えるよ」の表示に誘われて三段ほどの階段を登りました。右手前が出羽島(てばじま)、左が牟岐大島です。四国遍礼名所図会に・・・手波島・大島見ゆる・・・とあります。*訂正です。右手前は津島でした。写真に出羽島は写っていません。
出羽島は漁業の島です。藩政時代、政策的に漁民の移住が進められ、昭和9(1934)には人口800を越えていたと言います。今なお車が走っていません。行ってみたい島です。大島は海岸線が切り立っており無人島です。磯釣りやダイビングのスポットになっているようです。



牟岐から浅川までの10㌔余、いわゆる「沈水性」の地形が続きます。幾筋もの尾根が海に沈んで岬(坂)となり、谷が入り江(浜)となった地形です。坂-浜-坂-浜と、八度繰り返すことから「八坂八浜」と呼ばれているそうです。


内妻浜
坂と浜を、通る順に現代表記で記してみると、・・・大坂-内妻浜-松坂-古江浜-福良坂-福良浜-鯖瀬坂-鯖瀬浜-萩坂-大綱の浜-鍛冶屋坂-鍛冶屋浜-粟浦の坂-粟の浜-三浦の浜-借戸坂、となるようです。終わりに浜が二つ続きます。ただし坂は現在、旧国道や現国道に寸断されたり、吸収されたりしています。


草鞋大師
台座の正面に「草鞋供養」と刻まれています。
草鞋を履き古したということは、その間の旅が安全であったことの印。これまでの無事に感謝しつつ、次の草鞋もまた無事、履き古すことができますよう、お大師さんにお願いします。


6年前の草鞋大師
大師像が新しくなっていました。これは6年前の写真です。


草鞋大師
寄り道をして帰ってきたら、おばあさんがお参りしていました。何事か一心に拝んでおられました。


内妻浜
投げ釣りをしている人がいました。イカを釣っているのだそうです。
疑似餌ですか?と尋ねると、いえいえ、疑似餌をやるのは若い人ですよ、私なんかは一匹50円の鯵の生餌で、申し訳ないが鯵に動いてもらうのですよ、とのことでした。疑似餌をさも生きているかのように操るには、若いパワーが要るのだそうです。思わず「わかるなー」と答えていました。


二番目の坂 松坂峠登り口
この辺を歩いている時、私の判断力は正直、危なっかしいものでした。右膝をかばう歩き方が左足の変調をも引き起こし、それは先行き不安となって、私の思考にやや悪い影響を及ぼしていました。


松坂峠
旧国道に松坂隧道というトンネルがあります。トンネル嫌いの私ですが、次回は、ぜひ立ち寄ってみたいと思っています。


古江浜
ボランティアガイドの会の案内書は「八坂八浜」について、・・・駄馬も通れない親不知子不知と言われ、波の荒いときは道を洗い、交通不便な難所であった・・・と書いています。


古江浜
岩礁を越えてゆきます。かつての雰囲気を残しています。


三番目の坂へ
トンネルは福良トンネルです。


福良浜
三番目の浜です。


多宝塔
四番目の坂、鯖瀬坂は、多宝塔の上に降りてきます。


鯖大師
「鯖大師」の名で知られていますが、山号寺号は「八坂山 八坂寺」。八坂八浜の中間点にあります。


鯖瀬浜
「鯖瀬」は「鯖施」から来ていると言います。
・・・行基さんが(空海さんとも言います)馬子に鯖を乞いました。しかし馬子は「施し」をしませんでした。するとたちまち、馬が腹痛を「病み」動けなくなってしまいました。馬子が謝って鯖を差し上げたところ、たちまち腹痛が「止み」、馬は歩き始めたと言います。そのことが歌になっています。
  大坂や八坂浜中鯖壱つ 行基にくれで 馬は腹病む
  大坂や八坂浜中鯖壱つ 行基にくれて 馬は腹止む


四方原
海南町に農地が広がっています。四方原と呼ばれています。江戸時代に新田開発されました。
四国遍礼名所図会に・・・四方原村、此所免許村といふ、年貢赦免の所也・・・とあります。四方原村は年貢が赦免されている故を以て、免許村とも呼ばれた、とのことです。
「免許」は新田開発奨励策です。よく似た由来を持つ地名に、土佐の「ごめん」があります。地代や課役が免除されたので「御免」(現代表記では後免)です。


案内板
次のように記されています。
    海生之里 四方原 
  阿州四方原 開村先人
  土佐郷士野村氏外三拾数名と
  元山内土佐守一豊公家臣 
  御籏奉行 田村半之亟由来之碑
開発が始まったのは、寛永14(1637)だったと言います。それまで誰も手を付けようとしなかった阿波の荒れ野を、土佐からやって来た人たちが拓きました。


由来之碑
  免許道 花や紺旗 愛宕山   将山
「免許道」・・・、年貢を免ぜられて豊かに暮らす四方原をイメージさせます。開拓村にも桜が咲くようになったのでしょう。紺旗がゆったりと風になびき、新田の向こうには愛宕山が見えています。
「紺旗」は開拓者たちの団結の旗印。紺地に白抜きで○を描き、○の中に「乃一」の白文字を染め出しています。「愛宕山」は、鞆浦にある目当て山。鞆浦は、海部という地名の興りとなった古代海人族の本拠とも考えられる処。


第一号へんろ小屋
「 四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」よる第一号のへんろ小屋だそうです。四方原碑の斜向かいにあります。
この辺には土佐由来の「野村」姓、「乃一」姓の方が多くお住まいとのことですが、(偶然かもしれませんが)このへんろ小屋の施主の方は野村姓です。
なお、旗の文字「乃一」(のいち)は、音の一致から、土佐の故地、「野市」(のいち)を偲んだものだろうと言われていますが、異論もあります。


祭予告
祭の知らせが張ってありました。今日は10月19日、八幡神社大祭の日です。
再びここを歩くことはあっても、祭りの日に歩くことはないだろう、そう思うと見逃せなくなってしまいました。ついつい海に向かって歩き始めておりました。八幡神社は大里松原にあります。


祭の様子
この祭が、海部町、海南町にまたがる、(和名類聚抄にも記載されているという)「海部郷」の祭であることは、前回歩いて知っておりました。この辺の海岸線一帯には広く、漁業をもって大和朝廷に仕えた部民=海部、の集落が形成されていたようです。
「海部郷」を含む一帯は、平安末期には、那賀郡から独立し「海部郡」となります。


大里八幡神社
境内の由緒看板によると、この神社は初め、那佐浦に鎮座していましたが、のち、鞆奥の手久良の大宮山へ遷宮され、天正年間(16C後半)、大里の浜崎地へ、さらに慶長9(1604)、現在の地へ遷座されたと言います。「鞆奥の手久良の大宮山」とは、前述した愛宕山の側で、現在、「大宮」という地名が残っています。
祭神は誉田別命(応神天皇)と、その母神・息長足姫命(神功皇后)。


和奈佐意富曾神社
八幡神社の近くに延喜式内社・和奈佐意富曾神社(わなさおほそ)が鎮座しています。八幡神社が和奈佐意富曾神社の後身神社とされているにもかかわらず、八幡神社とは別に社殿を設けたのは、和奈佐意富曾神という由緒ある神名を、八幡神社の中に埋没させることなく遺したいからでしょう。
「鞆奥の手久良の大宮山」から浜崎に遷宮された頃、和奈佐意富曾神社は八幡神社に吸収されたのでしょう。今では、和奈佐意富曾神とはいかなる神か、諸説はあっても定説はなく、わからないようです。


神輿
八幡神を載せた神輿は、この後、「お浜出で」します。船渡御の名残でしょう、松原を抜けて浜まで行き、戻ってきます。
戻ってきた神輿は陸路、鞆浦方向へ練り進みますが、その列には6台のだんじり等と共に、二隻の関船が従っています。


関船
満艦飾の関船が神輿に従います。
関船は元来は戦船ですが、江戸期、戦船の存在が許されるはずもなく、御座船として生き残ることになります。


だんじり
5~6人の打ち子が乗って太鼓を打ちます。打ち子は10才未満くらいの男の子です。


松原での「直会」
たくさんの人が弁当を広げています。直会(なおらい)のなごりです。神事の終わりに、神さまからお裾分けいただいた神酒や神饌を、氏子たちが共に飲み共に食べる儀礼、これが直会です。
祭が広く「海部郷」の人たちに親しまれているのがわかります。


「お浜出で」の浜
「お浜出で」の神輿を子供たちが待っています。
私も一緒に待っていたのですが、歩き遍路の身です、いつまでもは待てず、海部方向へ歩き始めました。
・・・実はこの時点では、次に予定していた「馬路越え」は、時間的にもうあきらめていました。・・・ところが、なんと幸せなことでしょうか、土地の方が、「祭に立ち寄ってくれたことがうれしい」と、車のお接待を申し出てくださったのです。かくて私の「馬路越え」は復活しました。


醫福寺
峠の登り口にある真言宗のお寺です。ここまで車で送っていただくことが出来ました。本当に有難いことです。


馬路越えへ
四国遍礼名所図会に・・・免許村放れより左の方鞆浦、奥浦(町家有、陣屋見ユル)、大川(船渡し、四文宛)、・・(略)・・母川(橋有、川ノ鰻有)、高岡村、馬路坂、・・(略)・・奈佐村入口老母居、・・・とあります。
「陣屋」は、土佐との国境に近い鞆浦辺に配置されていた「御鉄砲」や「判形人」の陣屋でしょう。大川は海部川で、「さいもん渡し」がありました。舟賃は一人四文だったようです。海部川に並行して流れる母川には橋が架かっていて、これを渡ると馬路越えの峠です。峠を降りると那佐村になります。「川の鰻」については後述します。


母川
「母川」というの名の興りを真念さんが「四国遍路指南」に書いています。乱暴に訳せば、大意、次のようでしょうか。
・・・川も干上がるほどの日照りが続くなか、大師が巡礼されていました。水を提げた娘がやってきたので大師が水を乞うと、幼子の渇きを見かねて、命懸けで山奥の岩窟から汲んできた水だが、今日は私の母のめでたい日、お坊様に差し上げましょう、娘はそう言って、押しむ風もなく水を差しだしました。・・・娘の慈悲の心に感じた大師がその水を加持なさったところ、水はたちまちにして川に溢れ出て、月をも映す清き流れとなりました。以来、枯れることのないこの川は、「母川」と呼ばれています。・・・
伝説は伝わるうちに枝分かれするものです。異伝もあるようです。


母川の鰻伝説
母川にはまた、「母うなぎ」の話も伝わっています。母うなぎが岩に閉じ込められました。出られなくなった母うなぎに、子うなぎが餌を運び続けたところ、母うなぎの身体は大きくなり、ついには岩を割って自由になった、という話です。実際、母うなぎが割ったという「せり割り岩」が、私は車で運んでいただいたので見ておりませんが、もう少し下流に、あるそうです。


登り口
峠は標高120㍍だそうです。この辺はよく整備されています。



崩れがありますが、危険は感じません。


地蔵
ブログ「気ままん日記」によると、・・・馬路越えは明治14年から20年に路線の付け替えがあったそうで、地元長老さんの間では古道と新道と言って呼ばれている・・・とのことです。
そして、現在の土佐街道馬路越えと呼ばれているのは、この新道の方だと言います。別のブログ(名前を忘れました)には、新道の峠にはお地蔵さまが祀ってある、と記されていました。つまり私は、明治期に開削された「新道」を通っているようです。


海部方向


那佐湾 二子島
那佐湾は絶好の避難港、風待ち湊でした。


入口
国道55号線への降り口は、やや荒れています。



天候の悪化を思わせる空模様です。明日の天気予報は雨、それも強い雨と予報されています。


古目大師(こめ大師)
「発心道場徳島最南所」。修行の道場に入る決意をお大師さんに話します。


翌朝の古目大師
古目大師の近くに宿をとりました。夜間、夢の中で、屋根を打つ雨音を聞いていましたが、朝食を終えても、まだ雨脚は衰えていません。
が、しかし、ともかく、荷物を宿に預けて歩き始めました。古目峠(宍喰峠)を越えて土佐に入り、その後、元越番所跡を経て阿波側へ越え返す計画です。
古目峠の道は土佐街道の本街道ですから、番所は、阿波-土佐の両側にあります。阿波側番所が古目番所で、土佐側が東股番所です。元越え番所は土佐の番所で、間道監視用の番所です。土佐藩は、阿波からの「流入」に神経を尖らせていたようです。


古目番所跡
真念さんは「四国遍路道指南」に次のように書いています。
・・・川わたりて阿波さかひ目ばん所、古目という所有り、これにて往来の手形の切手あらたむ。行過さか有、阿土国境の峠あり。・・・かんの浦、これより土佐領。入口に番所有、土佐一こくの御かきかえ出る。・・・

・・・宍喰川を渡ると古目番所がある。阿土国境の番所で、手形改めがある。これを過ぎると坂になる。国境の峠だ。下ると土佐領の甲浦で、土佐側の番所(東股番所)がある。ここで「添手形」が発行される。
甲浦で発行された「添手形」は、宿毛の「松尾番所」で回収されたと言います。これにより遍路の土佐通過をチェックしたわけです。


登り口
私が今日、歩こうとしている道は、甲浦小学校が「歴史街道探訪」のコースとしてネット上に公開している道でもあります。
小学生が歩いているのだから大人の私なら大丈夫の・・・はずがありませんでした。甘すぎました。


増水
たちまち増水した沢に行く手が阻まれました。踏み石を投げ込んで渡りましたが、次は倒木が道を阻みます。直木はなんとか凌げても、細かく枝分かれした灌木は、ポンチョを着用した状態では困難でした。
・・・結局、敗退することになりました。


天気予報
宿に戻り休憩させてもらいました。
気分は落ち込み、代わりに膝の痛みが嵩じてきました。・・・しかし、いつまでも宿に居るわけにもまいらず、宍喰駅に向かうことにしました。


駅路寺
途中、かつての駅路寺・円頓寺、現・大日寺に立ち寄りました。
真念さんの「四国遍路指南」に・・・○しゝくゐ、浦町有。入口右ぎをん(祇園)のやしろ。又円頓密寺、辺路のため守護よりたてらる。・・・と紹介されています。
賢明さんの「空性法親王四国札場御巡礼記」には、やや芳しくない話が記されています。・・・爰ニ太守ヨリ辺路屋トテ寺在リ。往テ宿ヲ借タレバ、坊主慳貪第一ニテワヤクヲ云テ追出ス。是非ニ及バズ寺ヲ出テ・・・。「慳貪」とは、ケチで欲深で思い遣りがないという意味です。


宍喰駅
今日は長い歩きは止めにして、室戸へバスで向かうことにしました。
そんなわけで、次回は室戸岬の報告ということになります。「歴史街道探訪」は、近々のうちにリターンマッチというのでしょうかリベンジというのでしょうか、再挑戦します。

次回更新は2月19日の予定です。室戸岬、最御崎寺、津照寺、四十寺の報告になります。

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2 コメント

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馬路越えて、ゆくてには・・・ (天恢)
2015-01-30 10:55:24
新春PartⅡ「牟岐から八坂八浜を経て、馬路越え、古目大師まで」の道中、今回も楽しく読ませていただきました。 PartⅡというのは、前回の「日和佐から牟岐」から続く2回目と23番薬王寺から24番最御崎寺の札所間での2回目にあたり、いよいよ「修行の道場」の土佐国をめざすことになります。 薬王寺から次の札所の最御崎寺までは約75km、ほぼ国道55号線を歩く長い道で、舗装された太平洋沿岸の一本道が延々と続くこの遍路道沿いに9つの番外霊場が点在しているとありました。 この古くからの難行苦行の道中で、「楽しく遍路さん」によってその一つ一つが紐解かれていくことでしょう。
さて、昔の遍路さんにとっては風光明美な景勝の地である八坂八浜も、一たび風雨に晒されればたちまち遍路泣かせの難所に様変わり、入り組んだ海岸線に8ヶ所の坂と8ヶ所の浜が連続すれば命懸け。 しかも、八坂八浜だけでなく、ゆく手には、荒波が打ち寄せる室戸への海岸線に沿って、石だらけの海岸を飛んだり、跳ねたり、よじ登りながら進んだという難所も待ち受けていました。 道路ができる前までの遍路さんは、風の音、波の音におびえながら先を急いだことでしょう。
「通しで、歩き遍路を志した者にとって道中最大の難所は何処か?」という問いには 「過酷で右手に山、左手に海と単調な道をひたすら進まなければならないので、歩き遍路の多くがここで脱落する」という説もまんざら嘘でもなさそうです。

さてさて今回一番の印象的な箇所は「草鞋大師」の写真でした。 天恢もH19年とH23年にここでお参りしておりますが、楽しく遍路さんが「大師像が新しくなっていました」と指摘され、6年前の古い草鞋大師の写真が添えられていました。 
ある遍路の解説書によれば、草鞋大師は「八坂八浜の難所を無事に通過できるように」と昔から遍路さんに一心に祀られてきたそうですが、また『この像が盲目の相をしており、眼病平癒を祈願した遍路がこの地に逗留し祈願し続けたところ、その遍路の眼病が治ったことから、眼に霊験のある大師像とされています』ともありました。
掲載された草鞋大師は見目麗しいお大師さまでしたが、天恢がH19年に撮影した写真には、どこか尊厳あるのっぺらぼうなお大師さまの顔が写っていました。 再建立はH22年、翌年この前を通った時、何かさっぱりした有り難味の薄い感じを受けて、写真も撮らずに立ち去ったのはその所為だったかも。 形あるものはいつか必ず壊れるものですから、新しい大師像に取り換えられるのもごく当たり前のことかもしれません。 でも、旧い言い伝えまでがいとも簡単に消滅するようでは何か寂しいものを覚えます。 

苦あれば楽ありで、今回もお接待で実現した旧土佐街道の「馬路越え」も目新しく、これからの展開を楽しみにしています。


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次なる展開 (楽しく遍路)
2015-01-31 07:17:45
ありがとうございます。
ご指摘の通りに「Part ???」 でありまして、分かりづらく、申し訳ありません。従来は「H25春 ①・・」などと明示できていたのですが、最近では自分でもわからなくなっていて、ただ場所を記すだけになっています。

さて、有難くも楽しみにしていただいている「これからの展開」ですが、どうやら更に複雑なものになってしまいそうです。
現在、「H27春遍路」の計画中ですが、このコメントを入力している時点ですでに、私の気持ちは「阿波を歩きなおす」ことに、ほとんど決まっています。むろん全部ではなく、前回(膝痛や雨で)歩けなかった古目峠や宍喰-室戸間、行きたかった白沢峠、出羽島などです。これらを歩いたのち、土佐の大日寺へ移動し、前回の続きを歩きます。
そんなわけで私のブログは、次回に室戸、次々回に神峯寺辺りまでを報告した後、ふたたび阿波に戻るという、なんとも分かりにくい「展開」となります。
懲りず、お付き合いくださいますよう、お願いいたします。

「歩きなおす」のは、歩き残しをなくしたいというよりも、歩かなかった区間に魅力を感じるからです。
・・・入り組んだ海岸線に8ヶ所の坂と8ヶ所の浜が連続すれば命懸け。 しかも、八坂八浜だけでなく、ゆく手には、石だらけの海岸を飛んだり、跳ねたり、よじ登りながら進んだという難所も待ち受けていました。 道路ができる前までの遍路さんは、風の音、波の音におびえながら先を急いだことでしょう。・・・そんな昔に思いを馳せながら55号線を歩くのも、楽しいではないですか。「国道」必ずしも「酷道」ならず、です。

春よ来い、早く来い、過去の遍路行を報告し切らぬうちですが、はやくも次の遍路の計画を、心躍らせながら楽しんでいます。
天恢さん!ぜひ天恢さんの「春遍路」との接点、四国の地において実現させましょう。
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