楽しく遍路

四国遍路のアルバム

二巡目の阿波路 (2) 地蔵寺から安楽寺 十楽寺 熊谷寺 法輪寺 切幡寺 善入寺島

2019-05-15 | 四国遍路

 
この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ


地蔵寺
第2日目(平成20年10/22)晴のち雨
今日は、地蔵寺から切幡寺へ撫養街道を上り、切幡寺から吉野川河岸段丘を下って吉野川を越え、11番藤井寺近くの宿まで、27Kほどを歩きます。
ふつうに歩けば16:00頃には着けると思うのですが、さて、私たちの場合はどうでしょうか。私たちは二人とも、明るいうちには着けないだろうとの予感をもっています。あちらに引っかかり、こちらに引っかかりして、なかなか進まないからです。なかでも善入寺島・・吉野川の川中島・・では、遅々として進まないでしょう。


通学
上板町を歩いていると、神宅小学校の子供達が通学していました。
神宅小学校は、上板町神宅(かんやけ)字 喜来(きらい)という、なんとも目出度い所にある学校です。


御輿台
御輿台がありました。プレートには読みにくいですが、・・御輿台 平成二年度 葦稲葉・殿宮神社 祭礼記念・・とあります。 
おばあさんに尋ねると、・・昔は人が担いだが、今はね、人がおらんで、車で運んできたりするんよ、・・と話してくれました。


御輿台
平成3(1991)、御輿台ができた翌年、バブル経済が崩壊。日本は就職氷河期をむかえました。地方の若者は(希望に満ちてではなく、食うための仕事を求めて)都会に出ましたから、御輿の担ぎ手が、なかなかいないわけです。
この御輿台は、おそらく最後の御輿台でしょう。この後、御輿台が造られることは、もうなかったと思われます。


葦稲葉・殿宮神社
葦稲葉神社と殿宮神社の拝殿です。向かって右に殿宮神社(とのみや神社)の扁額が、左に葦稲葉神社(あしいなば神社)の扁額がかかっています。
拝殿は一つですが、奥殿は分かれており、殿宮神社は素盞嗚命、葦稲葉神社は葦稻葉神(倉稻魂命)と鹿江比売神(草野姫命)を祀っています。


神社御造営記念碑
  殿宮神社 葦稲葉神社 御造営記念碑
・・葦稲葉神社は葦稲葉大明神と号し、倉稻魂命、鹿江比売命を、殿宮神社は素盞嗚をそれぞれ主祭神として奉祀せり。神宅の地名も亦 当神社と由緒浅からぬもの有り。この三社大明神 特に式外社とす・・とあります。


殿宮神社扁額
殿宮神社と葦稲葉神社の二社を、「三社大明神」と呼んでいるのは、葦稲葉神社を、鹿江比賣神社(かえひめ神社)を合祀した神社と考えているからです。二社でも、元をたどれば三社なので、三社大明神となります。
神宅の地名由緒については、いまだ定論がないからでしょうか、「当神社と由緒浅からぬもの有り」と記すにとどめています。


地神さま
神社の境内に五角柱の石塔があります。「地神(じしん)さま」ですが、私は「社日(しゃにち)さま」と呼んでいました。
五角の各面に、農耕にかかわる神の名が刻まれています。
  天照大神(太陽の神)。
  大己貴命(おおなむち命・大国主命の別名で、国造りの神)
  少彦名命(すくなひこな命・大己貴命を助けて国造りをした神。穀物の神)
  埴安媛命(はにやすひめ命・ 土に宿る神)
  倉稲魂命(うかのみたま命・五穀をつかさどる神)


地神さま
地神さまは、春の社日に山から下りてこられ、秋の社日に、豊作を見とどけた上で、山に帰られます。
社日とは、春分、秋分の日に一番近い戌の日をいい、したがって、年に春秋の二回あるわけです。


別格一番大山寺へ
鹿江比売命を祀る葦稲葉神社があったので、近くに大山祇神社があるかもしれない、・・なんて考えながら歩いていました。鹿江比売命は大山祇命の妃神なので、妃神の近くに夫神がいらっしゃるかもしれないと思ったのです。
そしたら別格一番大山寺登り口がありました。同じ「大山」なので、ちょっとびっくりでした。


別格一番大山寺へ
ただし大山寺は、「おおやま寺」ではなく、「たいさん寺」と読みます。
前述の神宅小学校校歌には、・・窓のむこうの 空高く 大山(おおやま)さんが そびえてる・・という一節があるので、地元では「おおやまさん」との呼び名もあるようです。これに従うと大山寺は「おおやまでら」ですが、大山祇神社との関係は意味しません。


鶏頭
鶏頭はアジア、アフリカの熱帯地方原産と推定されているそうです。
日本へは奈良時代に、中国を経由して渡来したとのこと。もうすっかり、日本の景色に溶け込んでいます。私の好きな花です。


六番安楽寺
蜂須賀・徳島藩には、駅路寺という制度がありました。真言宗の8ヶ寺が駅路寺として指定され、旅人・遍路に宿泊の便を供していたのです。安楽寺は、その駅路寺の一つでした。
ただし、旅人の’ため’に設けられた駅路寺制度が、同時に旅人情報の収集、監視など、治安維持のためのものでもあったことは、記しておかねばなりません。こういうことは幕藩体制下、むしろ公然と行われたことでした。


安楽寺多宝塔
安楽寺には立派な宿坊があります。最大収容350名とのことです。素泊まりも受け入れてもらえます。さすが駅路寺400年の伝統を継ぐ宿坊です。
写真を撮り忘れましたが、宿坊の玄関には、○に卍(蜂須賀家の家紋)入りの提灯が掲げられています。安楽寺がかつて駅路寺であったこと、そして今も、その伝統を継いでいることの証です。


安楽寺宿坊
宿坊写真が手に入りましたので、追加掲載させていただきます。上掲記事を読まれた天恢さんが、送ってくださった写真です。
玄関の両脇に、○に卍の提灯が写っています。


安楽寺本堂
四国遍礼霊場記(寂本)には、・・もとは安楽寺といひしを、太守より寺費を付けられ瑞運寺と改むとなり。・・とあります。
一時期、寺名は瑞運寺でしたが、その後、再び安楽寺に改められたようです。「太守」は、蜂須賀氏をいうのでしょう。



安楽寺で若い野宿遍路に出会いました。30数日で結願し、大窪寺で出会った自転車遍路から、不要になった自転車をもらい、ここまで乗ってきたのだといいます。
結願して思ったことは?との問いに、・・ああ、終わった、でした、・・と答えてくれました。何かと浮かんでくるのは、これから、なのでしょう。
靴は一足ですんだそうですが、底を見せてもらうと、ほとんど引っかかりはないほどにすり減っていました。
ご苦労様でした。


七番十楽寺
安楽寺や十楽寺の山門は、「竜宮門」と呼ばれています。(私たちが絵本で識る)竜宮に似ているので、そう呼んでいます。
似ているのは、似せて造ったからではなく、それぞれが同時代の建築物をモデルとしたからです。山門は中国の明朝建築を模して造られ、竜宮も、明朝建築にモデルを求めて絵本に描かれました。よって結果として、両者は似ているわけです。



七番から八番へ向かう辺りに、「御所」という土地があります。写真を撮り忘れましたが、「御所」を冠した公共施設、たとえば御所小学校とか、御所郵便局などがありました。
御所の地名は、この辺に土御門上皇の行在所 (配流先の仮宮)があったことに由来するのだそうです。土御門上皇は承久の乱(1221)で、自ら配流されることを望み、初め土佐に配流され、後に阿波に移されました。


上皇の「火葬場」
撫養街道の阿波神社には、上皇の「火葬場」があります。


サトウキビ畑
阿波といえば藍が有名でしたが、阿波和三盆もまた、よく知られていました。讃岐和三盆と競争する中、品質を高め、藩財政を支える主要産業として成長しました。
私たちはH13(2001)の初めての遍路で、幸運にも老夫婦が続ける和三盆の作業所を畑の中に見つけ、和三盆を食べさせてもらったり、サトウキビをいただいたりしたのでした。


サトウキビ
二巡目の遍路では、あの作業所をなんとか見つけたいと探したのでしたが、見つかりませんでした。その後も見つかっていません。あの家内工業的な和三盆造りは、もう見られないのかもしれません。


売り地
歩いていて、売り地、売り家の看板が多いのに気づきました。
おりしもサブプライム破綻に端を発したリーマンショックの激震が、世界を揺さぶっている最中でした。しばらくは売れないだろうな、などと話し合ったのを覚えています。


三木武夫像
佐藤栄作後継をあらそった三角大中福の「三」、三木武夫さんは、阿波市土成町吉田(つまりこの辺)の生まれです。なお因みに阿波市土成町は、かつての板野郡御所村です。
北さん曰く・・三木武夫に「先生」がついていないのは、睦子夫人が、「先生」はよしてよ、などと言ったからじゃないか。文字は、弟子とされている海部俊樹さんだろうな。
三木さんはハト派イメージの政治家で、ライバル・後藤田正晴さんは「ゴートーだ」などとヒール役にまわされていました。後藤田さん、けっこう筋の通った政治家だったと、私は思っているのですが。後継の息子さんは知りませんが。


運動会
幼稚園で運動会が開かれていました。
かつては幼小中高校とも、正門は常時開かれていたものでした。ましてや運動会ともなれば、地域住民に向けて全開されていたものです。
しかし残念ながら、殺傷、破壊、盗撮、窃盗などを含む、校内侵入事件が多発するなか、今や門は閉ざされ、関係者以外の立ち入りは禁じられています。私たちが入場を許されたのは、遍路姿のおかげでした。
因みに池田小学校事件の発生は、これより7年前、平成13(2001)のことでした。


足洗い場
タイルの足形が、なんとも可愛らしく、写しました。
ふだんの庭遊びは裸足なのでしょう。いいことです。足裏に地面を感じる心地よさは、私たちもよく知っています。


道標
この頃、NHK‐BSで、「四元奈生美の四国遍路に行ってきマッシュ!」が放映されていました。「マッシュ」は「スマッシュ」から来ており、四元さんが元卓球選手であることに因みます。
薄くなった遍路標識の塗り直しは、たしか四元さんの番組でも紹介されました。
なお、「徳さん(徳光和夫さん)のお遍路さん 四国八十八カ所 心の旅」は、これより4年後のH24(2012)の放映です。


道標
この頃、五鈷杵をモチーフにした道標を多く見かけていました。電柱やガードレールなどに黒スプレーで吹き付けたもので、その安直なやり方に、私はとても違和感を覚えていたのでした。
写真は、不法投棄された自動車に吹き付けた「遍路道標」です。やはりこの人達の感覚はおかしかった。


多宝塔
八番熊谷寺(くまだに寺)の多宝塔です。
昭和55(1979)の修理記念碑に、・・熊谷寺多宝塔は、宝永3年建立であり、四国地方最古の歴史を誇ります。・・とあります。


熊谷寺
地形を上手く利用した伽藍配置が、私は好きです。弁天様を祀る熊谷池も印象的です。
四国遍礼霊場記(寂本)には、・・境清幽にして、谷ふかく、水涼し。南海一望に入。・・とあります。


熊谷寺
ただ、スピーカーから流れるご詠歌は、ありがたいような、ありがたくないような。どちらかと言えば、ありがたくないですね。肉声ならば大歓迎ですが、文明の利器というのはどうも。


仁王門
貞享4(1687)の建立。徳島県指定有形文化財だそうです。
その大きさには圧倒されます。・・桁行9㍍、梁間5㍍、高さ13メートル。江戸期の山門としては四国随一の規模を誇る・・とのことです。


仁王門
一巡目も二巡目も、歩いているうちいつの間にか、境内に入ってしまいました。
二巡目こそ、山門から入り山門から出るつもりでしたが、果たせませんでした。では三巡目はどうだったか。
首尾は H26春 その2 をご覧ください。


九番 田中法輪寺へ
田圃の中に1ヶ所、杜が見えます。法輪寺です。
四国遍礼名所図会に、・・当寺(法輪寺)田野はさめり。田中法輪寺といふ。・・とあります。
四国遍礼霊場記にも、・・此地山とほく、田野はさめり。・・と同様の記述があります。
・・山とほく、田野はさめり・・かつての景色に通じるところのある、今日の景色です。  


山門
とはいえ田中法輪寺も、四国八十八ヶ所霊場会のHPによると、・・古くは「白蛇山法林寺」と称され、現在の地より北4キロほど山間の「法地ヶ渓」にあって、壮大な伽藍を誇っていたと伝えられる。・・とのことで、山間の法林寺であったようです。
法林寺跡地には、・・礎石や焼土がのこっており、これは天正10年(1582)の戦乱のさいに長宗我部元親による兵火で焼失した遺跡である。・・そうです。
なお四国八十八ヶ所霊場会のHPは、最近新しく作り替えられています。ここでは宝寿寺の記事は除かれ、代わって第62番としては、「礼拝所」が紹介されています。


川端龍子作 第九番法輪寺
川端龍子さんの「第九番 法輪寺」の絵が、納経所にありました。
許可を得て撮らせていただきました。・・山とほく、田野はさめり・・の景色が描かれています。


川端龍子作 第九番法輪寺
これは天恢さんからいただいた写真です。
上掲写真と同時期、同じ場所で描いたものと思われます。川端さんは田中の法輪寺がお好きだった、と聞いています。
  十月の 櫻たまはる 札所かな
「十月の櫻」が季語。冬桜。


本堂九番
この辺りから雨になりました。雨具を着けていないと濡れてしまう、そんな降りです。
雨を避けるつもりもあって、法輪寺側の店で「たらいウドン」を食べました。


たらいうどん
実は私は、「たらいうどん」はチェーン店の名前かと思っていました。「たらいうどん」の看板がいっぱいあったからです。
そのことを話したら、隣で食べていた野宿遍路が、・・私もそう思ってました!と口を挟んで大笑い。これじゃ、まるで月極(げっきょく)駐車場チェーンだねと、ふたたび大笑いでした。
ウドンの下に写っているのは、お接待でいただいたヨモギ餅と蒸しパンです。これを見たウドン屋の女将さん曰く、・・これ美味しいのよ。私、これを売っている店、知ってる。和三盆を使ってるの。・・



雨で水たまりが出来ています。けっこうな降りでした。
・・どうせ降るなら、もっと早く降り始めてくれれば、・・
雨の中に立つ熊谷寺仁王門が見られたのですが、残念です。あの仁王門、雨中に在って、もっとも魅力的だとは思いませんか。


お相撲さん
かつての門前町がしのばれる道を歩くと、石段下に巡拝用品店があります。写真は、その店の看板です。
お店の屋号が「相撲屋」なので、お相撲さんの看板というわけです。代々、草相撲の世話役をしてきたことから、相撲屋の屋号がついたのだそうです。


十番切幡寺
新しい山門が建っています。歩きの人は山門を抜け、333段の石段を上がります。
車の人は、山門の右側を迂回すれば、向こう側に駐車することができます。そこから石段を上がるか、さらに車で本堂近くまで上がるかは、足の調子次第、ということでしょうか。


石段
石段の途中に、かなり足が弱っているらしいおじいさんが、いらっしゃいました。一段一段、長い休みをとりながら、上っています。
付き添いの息子さんは、上まで車で行こうと話したそうですが、おじいさんは、どうしても自分の足で上りたいと、聞き入れなかったそうです。おじいさんには、なんとしてもお大師さんに伝えたい「思い」があるようです。そのことを息子さんもわかっているので、手伝っているのでした。


本堂
九番までの寺名は、聞けばそれなりに納得できるものでした。しかし「切幡」の寺名由来は?これは知らないとわかりません。
四国遍礼霊場記によれば、・・大師初めてここにいたり給ふ時、天より五色の幡一流降り、山の半腹にして其幡ふたつにちぎれて、上は西の方へ飛ゆき、行衛しらず、下は此山に落ちける。怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立切幡寺と名づけ玉ふとなん。・・だそうです。
また他に、機織り娘が大師に、衣服を繕うための布を差しだしたという、由来話も伝わっているそうです。


スーパーで
スーパーの一隅で、土地の人たちとの雑談が始まりました。
・・橋下さん(当時の大阪府知事)は、わしゃあ、よーやっとると思うよ。
・・ただ幼稚園の芋掘り、あれはイカンかったぞ。
・・そう、あれはやりすぎよ。
・・うん、やりすぎた。
この会話、もうわからない人がほとんどなんでしょうね。それにしても、この地元スーパー、いまも頑張っていてほしい。


吉野川堤防
吉野川堤防の階段です。切幡寺から約3K、長い下りをおりてきました。


振り返り見た景色
堤防の上から切幡寺方向をながめ返してみました。前景の山と後景の山が重なっている辺りに、切幡寺があるのだと思います。


振り返り見た景色
天恢さんからいただいた写真です。ほとんど同じ構図ですが、画面中央部の山腹に、切幡寺が見えています。
・・誰もが何となく振り返ってみたくなるところかも知れません。・・と添え書きがありました。


吉野川
潜水橋(大野島橋)を渡った先が、日本最大の川中島・善入寺島(ぜんにゅうじ島)です。
善入寺島を歩き、向こう側に架かる潜水橋(川島橋)を渡ると、対岸の堤防があり、そこが吉野川市です。


向こうの山
吉野川市は平成16(2004)、鴨島町、川島町、山川町、美郷村が合併し発足しました。
新市名を募集したところ、もっとも多かったのが「麻植市」(おえ市)で、「吉野川市」は二番目だったのだそうです。
なぜ麻植市が落とされたか、わからぬでもありませんが、それにしても残念だなあ。「麻植」は、前号でも記しましたが、天富命(あめのとみ命)、忌部氏、大麻比古神社などに由来する、由緒ある地名です。
なお、吉野川北岸は、阿波市です。


潜水橋
徳島では潜水橋(潜り橋)と、高知では沈下橋と呼んでいます。


流れ
吉野川の流れは善入寺島にぶつかって二つに分かれます。
写真は吉野川左岸寄りの流れです。写真右が善入寺島になります。


残そう善入寺島
藤井寺まで6.5キロ 結願と旅の安全をお祈りします。・・とあります。



善入寺島は、かつては粟島(あわ島)とよばれ、それは阿波の語源であるともいわれています。


寺跡
善入寺島に住む人は、今はいませんが、かつては(大正時代の吉野川改修工事までは)、約3000人が住んでいたそうです。学校や寺社もあったといいます。
それらについては 下の各号に記しましたので、よろしければ、ご覧ください。
  H26春 その4     川島橋附近 藤井寺 焼山寺道 
  続  高越山       高越寺 高越神社 忌部氏遺跡の「石」
  H26春 その3      高越山 忌部氏の里 鴨島
  H26春 その2      安楽寺から市場町 善入寺 高越山 



善入寺島の大きさを思わせる、長い一直線の道です。


洪水
3年前、H17年の大雨では善入寺島が冠水。その水位は、電柱に見える横線の辺りまでだったといいます。むろん畑は全滅しました。
・・大きな石に埋まることがなく、ガラばかりだったのは、不幸中の幸いだったよ。それに洪水は、悪いことばかりじゃないのよ。栄養たっぷりの土を上から運んでくるからな。


川島橋
藍は’土地枯らし’といわれ、連作が難しい作物とされていました。その藍の連作を可能としたのが洪水であったとは、知らないことでした。


上流
吉野川右岸側の流れです。上流方向を撮っています


下流
下流方向です。


渡し舟
これより3日前の10/19(日)、この船を使って昔の「渡し舟路」が復元されたのだそうです。その時の船頭さんのひとりが話してくれました。


吉野川市
対岸に着きました。堤防を上がります。


川島橋
善入寺島と吉野川右岸を結ぶ、川島橋です。この橋を渡ってきました。


休憩所
堤防の上に遍路休憩所があり、側で、バイクで廻っている方が泊まる準備をしていました。テント泊のようでした。
休憩所内には、フカフカに乾いた布団も用意されていました。

さて、暗くなりました。急がねばなりません。
タクシーを呼ぶつもりでいると、先ほどの船頭さん夫妻が、宿まで送ってくださるといいます。甘えてしまいました。


天気予報
明日の焼山寺越えは、雨のようです。
7年前の焼山寺越えは雪でした。因みにこれより6年後の、単独での焼山寺越えは大雨で、最後の急坂では、道はまるで沢でした。さすが「遍路転がし」。易々とは通してくれません。

ご覧いただきましてありがとうございました。
次回更新予定は、6月26日 です。二巡目の遍路 阿波路(3)として、遍路転がしでの出会いなどをお伝えしたいと思います。

 この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ  古いアルバムの目次へ  神々を訪ねて目次へ

コメント (2)   この記事についてブログを書く
« 二巡目の阿波路 (1) 霊山寺 ... | トップ | 伊予小松 氷見の街 篤山遺跡... »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
♪むかしむかし浦島は助けた亀に連れられて龍宮城へ~ (天恢)
2019-06-03 22:54:17
 5月は風薫るさわやかな季節なのに、全国的に気温がどんどん上がり、天恢も暑さに負けずに四国路を歩いておりましたが、この夏もこれからの酷暑が思いやられます。 

 さて、今回も10年一昔にさかのぼって、平成20年秋の「二巡目の阿波路 (2) 地蔵寺 ~ 善入寺島」のリライト版です。 一番霊山寺から打ち始められた方は2日目ですから、あれこれと懐かしく思い出されるところです。 天恢も切幡寺からの吉野川流域の景観の素晴らしさ、日本最大の川中島の善入寺島と入出口である潜水橋の大野島橋、川島橋を歩けたことは忘れられない遍路の思い出となりました。 それにしても翌日に焼山寺越えの遍路転がしが控えていますから、誰もが急ぎ足で駆け抜けたいところですが、さすが「楽しく遍路」さんは、見聞を広めながらじっくり歩かれています。

 さてさて、今回のタイトル『♪むかしむかし浦島は助けた亀に連れられて龍宮城へ~』は、誰もが歌ったことのある作詞作曲者不詳/文部省唱歌です。 安楽寺や十楽寺の山門は、「竜宮門」と呼ばれているそうで、確かにこの門を見ていると浦島太郎の世界が待っているようです。
 前回のコメントで「80歳になって、新たな発心で一番札所から遍路を始められたら」と、見果てぬ夢を語りました。 70代は60代の延長上にあるのですが、それでも心身ともに衰えが目立ってきました。 やがて来る80代は、自分にとって70代の延長上には存在しないような気がします。 雨風にさらされての80代のお遍路さんの修行姿は絵になりませんし、惨めさが漂います。 やはり同情や憐れみを誘うより、風に吹かれながらブラリブラリと四国路を楽しく歩きたいものです。 
来年は室戸岬を歩きたくなりました。 右は山、左は海 どこまでも どこまでも、無心になって歩く。 そして回り込んで 土佐・安田町の大心劇場で映画を観て、ついでにお隣の北川村で「モネの庭」を訪れることができたら、私の楽しい遍路です。

 ブログにある日本画の巨匠・川端龍子さんの「第九番 法輪寺」の絵について、少し補足させていただきます。
龍子は、敗戦の前年に亡くなった妻と戦死した三男の冥福を祈るために、65歳なった昭和25年から断続的に6年(6回)がかりで四国88ヶ所を巡りました。 すべての札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描画」と名付けた)と俳句、そして探訪記(紀行文)をしたためました。 後にこれらの労作は、『川端龍子 詠んで描いて四国遍路』 として纏められ、小学館から発行されました。 また原本の画文集は大三島の村上三島記念館に現在は所蔵されています。
 なお、龍子の現地での写生は鉛筆のみで行ったそうで、纏めの段階で法輪寺へ納められたと思われます。

♫絵にも描けない美しさ (楽しく遍路)
2019-06-06 15:26:31
五月とは思えない暑さの中、四国遍路、お疲れ様でした。
実り多き遍路であったようで、なによりです。私も早く三巡目を終えて、天恢さんのように歩いてみたいと思っています。土佐・安田町の大心劇場は、その先には「モネの庭」もあるそうで、楽しみです。

さて、ブラリ遍路を楽しみにする私ですが、さすが天恢さん、それとなく「楽しく遍路」への忠告も、忘れていません。
・・(善入寺島は)、翌日に焼山寺越えの遍路転がしが控えていますから、誰もが急ぎ足で駆け抜けたいところですが、さすが「楽しく遍路」さんは、見聞を広めながらじっくり歩かれています。・・
この部分を私は、・・誰もが急ぐところでは急がねばなりません。暗くなって、(それもお接待の車に送られて)宿に着くなどは論外です。・・という、厳しい忠告として受けとらせていただきました。
というのも、実は私は、(次号に記しますが)、この翌日も、そして翌々日も、すでに暗い中、宿に着くのです。本当に迷惑をかけてしまいました。
天恢さんは、これを見透かしたかのように、・・急ぐべき所では急ぎなさい・・と忠告して下さいました。今では猛省の上に立ち、4:00頃には宿に入っています。

さてさてタイトルですが、天恢さんの浦島太郎を借用させていただきました。
♪龍宮城へ来てみれば絵にも描けない美しさ・・、
歌の文句にあるように、絵にも描けない美しさを「絵本」に描かなければならないので、絵本作家は困ったのでしょう。おそらく誰も見たことがないであろう中国の明朝建築をモデルに、龍宮城を描いたと思われます。

終わりに、川端龍子さんへの補足、ありがとうございました。おかげさまで、絵の来歴がわかりました。
今ではすっかりカメラに依存していますが、私もかつて、絵を描いたり句をひねったりしたことがあります。下手なので札所などでは描けず、あまり人が来ない、例えば塚地峠のような所で、描いてみたのでしたが。
しかし、カメラを、・・初めは絵や作句への補助的な道具として・・持ち歩き始めたとき、絵も句も、ぱったりと止まってしまったのでした。
絵や句とカメラとでは、景色の切り取り方がまったく異なることに気づかされましたが、その時はもう遅く、私はデジカメのオート機能を、こよなく愛するようになっていました。(あくまで私だけの場合ですが)、安易に流れたのでした。もちろん、他の方の写真撮影が安易というのでは、ありません。

四国はもう梅雨に入っています。関東も、明日には梅雨入りするようです。お身体大切にお過ごし下さい。

コメントを投稿