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四国遍路のアルバム

日和佐 泰仙寺 「いわや」 打越寺 小松大師 牟岐へ

2015-01-08 | 四国遍路

 
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日和佐
阿部お水大師にお参りし、由岐から電車で日和佐に戻りました。
今日は日和佐川をさかのぼり、薬王寺奥の院である玉厨子山泰仙寺に参拝します。その後、国道55号線に戻り、合流点にある駅路山打越寺に参拝、小松大師を経て牟岐まで歩きます。
泰仙寺がある玉厨子山もまた「目当て山」だったといいます。探しましたが、どの山か、わかりませんでした。


日和佐川
日和佐川沿いの県道36号線を歩きます。
日和佐の市街地は日和佐川が造った沖積低地だとのことです。ということは、たびたび氾濫を繰り返したということでもあり、このような護岸も必要なわけです。


直線道路
面白い道がありました。突き当りの山裾に神社があります。


神社
この神社はたぶん枯雑草さんが「平成24年春 その3」で紹介しておられる丹前峠(たんまえ峠)への登り口になる神社でしょう。旧土佐街道です。


鳥居杉
神社は玉木八幡神社です。由緒看板によると、「建立は観応2(1351)とされている」そうです。鳥居杉は、「その後のある時代の氏子らによって植えられて、数百年のあいだ保護されてきた」、とあります。
「千年杉」と言いたいところを「数百年」と言い、建立年を「されている」と書いています。とても謙虚で誠実な由緒看板です。


丹前峠へ?
峠道は神社の左を上がる、と枯雑草さんは書いておられます。この道でしょうか?峠の向こうは府内という土地です。
近所の人の話では、峠道復旧の話があったが立ち消えになっている、とのことです。


駆け上がり地蔵尊
この地蔵尊は由緒看板によると、丹前坂(土佐街道)の峠で祀られていた、とのことです。明治の終わりころ、現在の場所(駆け上がり)に移した、とあります。子供のいうことなら一つだけの願いは、必ず聞いてくれるお地蔵さんだそうです。


駆け上がりの道
直線道路を神社側から写すとこうなります。農道なのでしょうが、元は参道だったかもしれません。
道が「駆け上がり」に通じているので、かつて「馬上げ神事」が行われていたに違いない・・・、と想像してみました。


コメントに関連の追加写真
大窪寺から引田へ行く道に別宮八幡神社があります。この直線の道は農道ではなく、流鏑馬のための馬場でした。写真奥にお旅所があります。


今治菊間加茂神社の駆け上がり坂
馬上げ神事では、乗り子(少年)が武者姿に着飾り馬を駆ります。人馬一体、神社脇の急坂を駆け上りますが、急坂の終わりには壁が設えられており、若者と馬は勇を鼓して、これを越えようと挑みます。
何回越えられたかでその年の豊凶などを占いますが、少年にとっては、成人通過儀礼として、大きな意味を持ちました。


日和佐川
一つ心配事があります。昨日の阿部峠で左足を滑らせ、右膝で地球にニードロップ攻撃を加えてしまいました。今頃になって、痛みが出てきました。


36号線
県道36号 日和佐上那賀線。歩行者はもちろん、車もほとんど通りません。


玉厨子山の頭
玉厨子山が頭を見せてきました。



切り通しを降りてゆくと・・・


玉厨子山全容 
全容が姿を現しました。泰仙寺は見えません。 


標識
直進すると国道55号線に合流します。右折し、泰仙寺に参拝して、また戻ってきます。
分岐点を「落合」というそうです。落ち合う所だから「落合」です。


分岐
日和佐川に架かる橋です。


日和佐川
川を渡ります。右が下流方向です。


道しるべ地蔵さん


道しるべ地蔵さん
「これより いハやへ 十丁」とあります。「いハや」は、「いわや」です。
実は「いわや」の存在を知らなかったのですが、幸い、屈みこんで見ていると土地の人が通りかかり、教えてくださいました。
・・・「いわや」って、あるんですか?・・・「あるよ」・・・


玉厨子山
山を指さしながら、・・・木がモコモコした所があるだろう・・・あの杉の木の下に・・・、おおまかに場所の見当を教えてくださいました。シカとは分かりませんでしたが。
しかし泰仙寺方丈からの道順は、きわめて明解な説明した。・・・本堂を下に見ながら3メートル幅の坂を行く、分岐があるが、それは左、谷に入ってゆく、ええか、谷に入るんぞ・・・といった調子です。おかげさまで、迷うことなく行けました。


道標
奥の院への道を改修した記念碑です。大正時代のものです。指さしがありますが、今はその先には民家があり、道は、民家の取り付け道路のようになっています。たまたまこのお宅の方と話しましたが、「間違えて家に来る方がけっこういらっしゃいます」とのことでした。


登り口
歩きの登り口です。少し上がると車道(とは言っても非舗装の道)に出会います。歩き道と車道は交差し、時には合流します。



私はむろん、歩き道を行きますが、帰りは車道を降りるつもりです。右膝が気になるからです。



右が旧道、左が新道です。



ここでは旧道が新道に吸収されています。


泰仙寺方丈
方丈ですが、今は無住です。


泰仙寺本堂
文治4(1188)、薬王寺が火災に遭ったとき、薬王寺のご本尊が御自ら当山に避難してこられたと伝わります。「玉厨子山」という山名は、この故事に因んでつけられたそうです。


大師堂
寂本さんの四国遍礼霊場記には・・・此所より西の方六十余町を隔て当山(薬王寺)の奥院あり、怪岩奇窟なり。大師御作の本尊ましませり。彼再興の時(薬王寺の再興が成ったとき)、窟中より飛出、みずから新堂へ入り玉へり。聞人驚きあやしまずといふ事なし(誰もが驚いた)。其窟を玉厨子山と号す・・・とあります。


大師堂
が、しかし・・・
しかし、五来重さんの「四国遍路の寺」によると、・・・薬王寺が火災のときに本尊がここに飛んだといっています。しかしそうではなくて、ここから本尊が薬王寺へ来たわけです・・・となります。


大師堂から上を
続けて引用させていただくと・・・玉厨子山と薬王寺と日和佐沖の立島は一直線上にあるので、立島を王子として、薬王寺と玉逗子山がまつられたのだとおもいます。
・・・海のかなたの常世の神を信仰していたときは、まず上陸した島を王子の島と呼んだということが最近わかってきました。王子の島から霊場に上がる。一足飛びに海の神が山の神になる。途中に静かな山があると、その山に止まってそれから上に行く。寺ができると、山の神が寺に戻ってくるという構図が縁起の中に出てきます。


「いわや」 へ 
道しるべ地蔵の所で教わった道をたどり、「いわや」へ向かいます。
方丈から道を右にとり・・・


「いわや」へ
(ブルーシートも無残な)本堂を左下に見て・・・やがて分岐を左にとって、谷(沢筋)に入ります。


「いわや」へ
この沢筋は、大師堂の側を流れている沢の上流にあたります。


大師堂の側を流れる沢


「いわや」へ
岩が重なり、一見危険そうですが、よく見ると踏むべき石がわかります。道が付いているのです。


「いわや」
巨岩の下にたくさんの石造物が見えます。


「いわや」
この「いわや」が何を祀っているのか、どのような謂れを持っているのか、わかりませんが、奥の院の、そのまた奥の院といった感じです。


奇岩
気になる岩だったので撮ったのでしたが、帰宅後調べてみると、不動明王を祀る岩なのだそうです。私は気づきませんでした。


下山
下山し、「落合」に打ち戻り、国道55号線に向かいます。


府内
この辺を「府内」というそうです。前述の丹前峠を越えると、この辺に降りてくるようです。


打越寺へ
国道55号線に出ました。横断すると駅路山打越寺です。


打越寺
打越寺は、阿波蜂須賀藩が土佐街道につくった駅路寺でした。土佐街道には、この先、宍喰にも駅路寺がありました。円頓寺(今の大日寺)です。宍喰に着いたら、訪ねてみようと思います。
打越寺のご本尊は、弘法大師です。


打越寺
寺は日和佐川左岸の高台にあり、土佐街道を見下ろしていたそうですが、今は土佐街道は消えてしまい、代わって、裏山と寺の間を55号線がブッタギッテ走っています。
大師堂(本堂)の裏に回ってみると・・・


トンネル
55号線が走り・・・


神社
その向こうに神社が見えます。打越寺と一体だった神社です。55号線は、まさに「神仏」を「分離」しました。


お遍路さん横断あり
「走行注意 この先お遍路さん横断あり」の看板です。55号線の建設は1960年代半ば以降のようですが、ともかく車道を通すことが優先されたのでしょう。歩道はついていません。「歩き遍路道」という視点は、当時の行政にはありませんでした。
因みに、今は亡き宮崎建樹さんが最初に遍路道の道標を設けたのは、昭和62(1987)、愛媛県でのことだったそうです。


寒葉坂 分水嶺
この峠が分水嶺になります。


旧遍路道
橘川を挟んだ向こう岸を旧遍路道が通っているそうです。


下り
一度55号線から離れます


橘川
橘川を渡ります。川の流れが、これまでとは逆になっています。


風景
下に降りてくると風景が一変しました。


防風林 
防風林と考えていいのでしょうか。西方向の一か所が、かなり広く開かれています。
この辺では「まぜ」という強い南風が吹くそうです。浅川の先には「まぜのおかキャンプ場」があります。


防火水 道しるべ 
道しるべが何気なく立てかけられており、右起筆の防火水槽が残っています。


殉国の家 
こんなものも残っています。出征兵士の家から殉国兵士の家に変わってしまいました。父か、夫か、息子か、亡くした哀しみの記憶とともに残っています。いや、これは残しているのでしょう。


小松大師
小松大師で再び55号線に合流します。「小松」は、この辺の地名です。
・・・大阪難波に住む石工のところに一人の武士がやって来て、弘法大師座像を注文したそうです。石工は斎戒沐浴して彫作に努め、尊像を謹作しましたが、武士は注文したっきり、姿を見せません。数か月が過ぎたある夜、石工の夢に大師が出現ましまして、吾に誓願あれば汝の刻むところの石像を阿州海部郡小松の里に送るべし、と告げられました。


鉦鼓
・・・夢告が数夜続きましたので不思議に思い調べてみると、阿州海部郡に小松なる里があるとわかり、商船に託送。今、大師は小松におわすわけです。当時、藩主はお国廻りの都度、ここを中憩所にせられたとは、古老の伝えるところと言います。
堂内に(数年前にはなかったのですが)鉦鼓がありました。(前々回に記した)鉦打を思い出します。鉦鼓は摺鉦(すりがね)ともいいますが、摺鉦は、その音(すり)を嫌って「当たり鉦」とも言います。


鳥居
国道と橘川に挟まれた、わずかに残った土地に、鳥居だけが残っています。55号線建設以前の面影を残す鳥居だと思います。
ずっと気になっています。向こう岸も含めて、いつか、調べることが出来たらいいのですが。


河内小学校
「こうち」と読みます。昨年(平成25)4月、牟岐小学校に統合されたとのことです。
河内小学校の所で牟岐川に橘川が合流します。そのY字形から来たのでしょうか、地名は「川又」です。


牟岐川
牟岐川を下ります。


旧土佐街道
短い区間ですが土佐街道が残っていました。道沿いにお住まいの方が「短くてすみません」と話しかけてくれました。ありがたいお心遣いです。


牟岐川河口近く
今日は牟岐に泊まります。
明日は八坂八浜を越え、馬路峠を越えて宍喰まで歩く予定です。・・・ところが、楽に行けると思っていたのですが、途中、大里八幡神社の祭があると知って祭見物。忙しい(だけど楽しい)一日になります。

次回更新予定は、1月29日です。

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2 コメント

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おめでとうございます (天恢)
2015-01-09 10:04:59
明けましておめでとうございます。 本年も楽しく・よろしくお願い致します。
正直なところ、お正月がやって来ますと、また一つ年を取ったと嫌な気持ちになります。
天恢もいつもはカラ元気で頑張っておりますが、ボケも忍び寄り、目や足腰の衰えからは逃れられない齢となりました。 それでもお大師さまにおすがりして、今年も元気に四国の地を歩きたいと願っております。

 さて、新春早々の日和佐から牟岐への道、楽しく読ませていただきました。 実は四国遍路を2巡していながら山河内駅から牟岐駅までワケあって歩いておりませんので、この春に「拾い遍路」をしますので役立ちそうです。 今回は平穏な新年でもありますので、軽めのコメントで書かせていただきます。

 冒頭の日和佐川沿いの県道36号線に入ったところの「直線道路」ですが、グーグルの地図でその位置が確認できました。 「まっすぐな道でさみしい」と詠んだのは山頭火でしたが、玉木八幡神社に通じる道だそうですね。 この道は農道か?参道か? となると、航空写真で見ると整然と区画整理された田畑の広がりで農道と判るのですが、戦後の農地改良事業の際に八幡神社を基線とし参道も兼ねたのでしょう。 日本の山あいの農地はコツコツと開墾されてきた長い歴史から棚田のように複雑に変形した段差のある大小の田畑が広がるのが通常で、戦後70年、道路と耕地が大変容してきた事実を知る人も少なくなりました。

 もう一つ「河内」という地名です。 牟岐町にある河内は「こうち」と読むそうですが、今回の舞台となった玉木八幡神社から泰仙寺、打越寺辺りは旧日和佐町に合併された旧赤河内町で、北・西・奥・山河内の地名が残り「○○がわち」とか、○○がわうち」と読むようです。 あっちでは「かわち」で、こっちでは「こうち」と、つくづく日本の地名の読み方の難しさを教えられます。
 今回も日和佐から牟岐まで最短なら15㎞の道のり、なのに膝痛が気にしながら山上り含めて大回りされた「楽しく遍路」さん、 いつも先ばかりを急いだ天恢の遍路を反省しております。 
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今年もよろしくお願いします (楽しく遍路)
2015-01-09 16:01:02
おめでとうございます。カラ元気をだせる幸せをお互い、喜びましょう。

  門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
旧土佐街道を歩いていて、里程標として松を植えた(一里松)ことを知りました。松は普通の旅の一里塚だが、門松は冥土の旅への一里塚だ、ということのようです。
もちろん私は、あまり斜に構えないで、素直に喜びたいと思います。

私たちの日常スペースは直交座標に支配されていますので、曲がった道を歩くとホッとするのを覚えます。この点では、戦後の農地改革や列島改造を知らない世代の人たちも同じだと思うのですが、どうでしょうか。四角四面はおもしろくない、と思うのですが。

玉木八幡の道はたぶん農道でしょうが、本文に一枚写真を追加しましたのでご覧ください。「H25 秋④ 前山ダム 女体山 大窪寺 引田」で使用した写真ですが、これは直線道路ではあっても、まぎれもなく農道ではありません。これを見た時は感動しました。

「河内」の読み、説明が足りませんでした。補っていただきました。ありがとうございます。
ちょっと違いますが、徳島県唯一の村、佐那河内村は、「さなごうち」のようです。地名は遍路を楽しくしてくれます。

今年もよろしくお願いいたします。
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