楽しく遍路

四国遍路のアルバム

88番大窪寺から 10番切幡寺 9番法輪寺 8番熊谷寺 6番安楽寺 星の岩屋 さかもと 

2023-11-15 | 四国遍路

 
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  6日目 平成21年(2009)4月25日

大窪寺
この日は朝から雨です。
大窪寺にもう一度お参りし、歩きはじめました。当面の目標は、10番切幡寺です。四国遍路道の特徴は、それが円環を成していることです。ならば円環を閉じないでは、私たちの四国遍路は終わりません。



いつもは勝手に歩く私たちですが、今日は一緒です。函館さんとは、切幡寺まで一緒に歩こうと話し合っています。


擁壁
コンクリートを崖面に吹き付け、さらにアンカーで留めています。こんな工事は、見たことがありませんでした。


景色
ふり返ると、こんな景色が見えました。大窪寺が雲に隠れています。


県境
徳島-香川の県境です。ここから徳島県に入ります。
それにしても、堤防が県境標識の所で切れているのには、驚いたといいますか呆れたといいますか、この先には堤防は不要とでも言うのでしょうか。行政の切れ目が、堤防の切れ目なのでありました。

追記:この記事について、天恢さんからご指摘がありました。これは堤防ではなく土留めではないか、というご指摘です。その「証拠」写真も送ってくださいました。下の写真がそれです。


逆方向からの写真(天恢さん撮影)
見れば、まっこと、その通りです。
実は私も「堤防」と書きながら、頭のどこかで、・・では川はどこにある?何川の堤防なの?・・との疑問がちらついてはいたのですが、・・。
というわけで、「それにしても・・」以下は削除となりますが、愚かの証として、しばらくは残しておくことにします。


方言
四国方言では、「未然形+れん」で禁止を表現することがあります。この「泳がれん」が、その例です。「あぶない 泳いではいけない」と警告を発しています。
ことさらに方言を使っているところに、優しさが感じられます。


雨水
本降りの雨とはいえ、この雨は、明け方から降り始めた雨です。
なのに、こんなに吹き出しています。「緑のダム」の、保水力の衰えを感じます。


貯水
これは賢い。雨水を溜める工夫です。最初のタンクが満杯になると、次のタンクに流れ込みます。
このお宅の近くには、井戸を使っているお宅もありました。(水道は通っているのですが)井戸水をポンプで汲み上げて、使っているとのことでした。
釣瓶があったので、・・これは使わないのですか、・・と尋ねると、・・さすがにもうシンドイですわ。でも非常時に供えて残してあります、・・とのこと。これも賢い。


潜水橋
日開谷川(ひがいだに川)です。女体山に水源を発して讃岐山脈を南流。阿波市市場町で吉野川に注ぎます。讃岐山脈を南北に流れる川は急流となりますが、さもあらん、架かる橋は潜水橋です。
遍路道は、県道2号・津田-川島線を南下。市場町大門で東進に転じて、10番切幡寺へ向かいます。
・・蛇足です。県道2号は香川県と徳島県にまたがる道で、どちらの県でも「県道2号」です。つまりこの線は正式には、香川県道・徳島県道2号・津田-川島線と呼ばれます。因みに「県道1号」もまた両県にまたがる道で、徳島県道・香川県道1号・徳島-引田線と呼ばれています。

追記:この橋を潜水橋とすることについても、天恢さんから疑問が呈されました。
・・写真のこの橋は構造的に見て、潜水橋とか沈下橋とは違うと思うのです。潜水橋や沈下橋は土手を下って、橋桁が低いのが特徴だと思います。
私は欄干がないことだけを以て、潜水橋としたのですが、たしかに傍に民家が建っていることから考えても、この橋に「潜水」の可能性は少ないのだと思います。しかし、ならばなぜ欄干がないのか、疑問ではあるのですが。
そこでとりあえずは、・・潜水橋や沈下橋のような橋・・としておく、というのでは、いかがでしょうか。次なる機会に(あればの話ですが)、・・土手を下って、橋桁が低い・・について、実地検分してみることにしましょう。


休憩所
休憩所で休みました。やはり私たちのペースは、他の方たちと違うようです。もうだいぶ離されてしまいました。函館さんも、先を歩いています。


岩野トンネル
平成10年(1998)竣工。104㍍。この時期のトンネルになると、歩行者が意識された造りになっています。



越流堰を造っています。取水のためでしょうか、急な流れを抑制するためでしょうか。


真魚の里
「そば」の意味は、描かれている花が蕎麦の花ですから、「大師の蕎麦 真魚」なのでしょう。
大師の幼名である真魚をお借りして、蕎麦の名前としたようです。


犬墓大師堂
「犬墓」(いぬのはか)は地名です。・・弘法大師が連れていた愛犬を葬ったところから起こったと伝わる、・・と記されています。
犬のお墓もあるそうですが、それは(大師が建てたものではなく)、享保(1716-36)の頃、犬墓村の庄屋さんが建てたものとのことです。前号で記した「馬の墓」に似て、「戌墓」と刻まれ、犬の姿と水瓶が浮き彫りされているそうです。


農家
農家を見ていつも感心するのは、その整理整頓の良さです。農具などが、次に使う時に備えて、整然と置かれています。
その感想を農家の人に話すと、応えはこうでした。
・・農業は(最短でも半年先を見通しての)「だんどり仕事」ですからね、農民がまず覚えるのが、整理整頓ですよ。これが出来ない人には、農業は無理でしょうね。
なるほど、農業は作物のみならず、人をも育てるのだと識りました。


大手毬
雨はまだ降っていますが、ひどい降りではなくなりました。


葱坊主
景色を楽しみながら、ゆっくりと歩きます。


徳島自動車道
徳島自動車道が見えてきました。これを潜ると、すぐ先が大門(だいもん)です。


猿田彦大神
前号で記した猿田彦命が祀られていました。
堂の両側にベンチが設えられ、神様と一緒に休めるようになっています。


10番切幡寺登山口
近くの店で、懸案のうどんをいただきました。
店の方に訊くと、一緒に大窪寺を出た人たちは、・・1時間半前に着いた・・とのこと。そうと聞けば、あまりゆっくりもしておられず、急いで食べて出かけました。荷物は、店の前庭の棚に置かせてもらいました。
(ご主人に教わったことですが)、この先はご覧のように昔の道幅で、バスが入れません。バス遍路の人たちは、ここで会社が手配したタクシーに乗り換えるとのことです。というのも、この先には333段の、長い石段が待ち受けているからです。


道標 
山門の手前に道標がありました。9番、10番、11番、88番の方向を案内しています。
上部に、内向きの指差しがあり、
  10番切幡寺 8丁→ ←9番法輪寺 25丁
下部に、外向きの指差しがあり、
  11番藤井寺 1里← →88番大窪寺 4里
と刻まれています。つまり、歩きはじめたばかりの人と、一周して88番から来た人が、ここで交差するのです。


仁王門
門をくぐると、石段が始まります。本堂までが、333段なんだそうです。


石段
私はこの石段での出来事を、「初めての遍路」のリライト版→(H13冬3)に、次の様に書いています。
・・H21年4月、ようやく88番まで打ち終えて、切幡寺に参拝したときのことです。長い石段の中程に、息子夫婦と見られる二人に付き添われ、おばあさんが立っていました。


石段
・・「お達者ですね」と北さんが声をかけると、おばあさんは堰を切ったように、「残念です、無念です、(お大師さんに)お会いしたかったのに、ヒザが・・」、と話し始めました。
・・膝が痛くなって、登れなくなっていたのでした。付き添いの二人が、「気持ちは届いとるよ。見てくださっとるから」と懸命に慰めるのですが、おばあさんは、得心できないでいたのでした。


石段
・・おばあさんは、北さんとの会話で、少し癒やされるところがあったようでした。やがて、その場でお祈りをして、降りることになりました。
・・思うに北さんは、88ケ所巡拝を願いながら出来ないでいるご自分の母上を、おばあさんに重ね、話をしていたようです。その心が通じたのでしょうか。


本堂
本堂、大師堂では、おばあさんとの約束を果たしました。
おばあさんのがやむをえず引き返したことを、念のため、私どもからもお伝えさせていただきます、と約束していたのです。


景色
上からの景色です。ボンヤリした写真で残念なのですが、吉野川が流れています。その向こうは、遍路転がしの道がある山々です。


下り
下りは石段を避けました。
途中、話し合って、今日の宿を6番安楽寺に予約しました。
少し遠いのですが、・・時間の許す限り逆打ちで歩いてみよう。遅くなるようならタクシーを使ってもいいではないか。・・ということになったのです。
タクシー利用を安易に口にするとは、たちまちタガが緩んでしまった証拠です。


シャクナゲ
石楠花が、ひっそりと咲いていました。わずかに黄味がかった白が数輪、風情を感じさせます。


9番へ
9番法林寺に向かって、県道237号を東進します。
しかし、(写真のように)順打ちならで随所で、・・あなたが歩いている道は正しい道です・・と教え、励ましてくれる立て札も、・・



逆に歩くと、裏側から見ることになり、なかなか目に付くことがありません。
逆打ちはむずかしいと思いました。
これが交差点ともなると、より難しくなります。
まず立て札やシールを探し、その貼られている場所から、自分の進むべき道を割り出さなければなりません。右方向から来た人に見やすく貼られているから右へ進む、などの判断を瞬時にしなければならないのです。


交差
困った時、一番の助けになったのは、前方から歩いてくるお遍路さんでした。この人達の流れを遡れば、間違いはないのですから。


苗床
私達がこの道を、切幡寺に向かって歩いたのは、8年前のことでした。 
まだ不得要領の遍路で、頭陀袋より先に菅笠をかぶってしまい、頭陀袋がかけられなくなったり、お杖を置き忘れて取りに戻ったりの失敗を繰り返していました。
加えて私は足弱で、・・私は自分の足を、日に15キロしか歩けない「15キロ足」と名付けていました。・・何回も立ち止まったり、肉刺の手入れをしたり、・・それはもう大変だったのです。


かぼちゃ
しかし8年の歳月は、そうした辛さをも、どこか懐かしい思い出に変えてくれたようです。
いろいろの楽しかったことが思い出され、ふたりで話し合いました。
・・和三盆をつくっていた老夫婦の作業所は、どの辺だったろう?
・・初めてのお接待は、ここら辺じゃなかったか?
・・この鎮守さんで、年用意をする集落の人たちと話したな。(その日は12月25日でした)。
・・そうそう、注連縄の作りが地方によって違うとかの話だった、などなど。


ツツジ
8年前、切幡寺で北さんがつくった句です。
  心経の 唱和のリズム 春隣  北
5人くらいの比較的若い人たちの般若心経でしたが、どうやら自宅でも日常的に唱和しているらしく、彼ら独特の、歌うかのようなリズムをつくりだしていたのでした。その声が、あたかも春を呼んでいるように聞こえ、こんな句が出来ました。


小豆洗い大師
大師堂の右に井戸があります。「小豆洗い」という名の、興りとなった井戸です。
・・その昔、12月24日のことだったといいます。(8年前の私達と一日違いです)。法輪寺を建立した大師は、切幡寺の地へ向かっていましたが、ここまで来て、あいにく日が暮れてしまいました。
・・やむなく野宿することとなりました。ところが冬のこととて寒さは厳しく、大師は「小豆がゆ」をつくって、身体を温めようと思い立ちますが、・・しかし如何せん、水がない!
そこで大師が湧かせた「お杖水」が、この井戸だというのです。この譚に因んで、井戸の側には大師堂が建てられ、人はそれを、「小豆洗い大師」と呼び始めたのだといいます。



・・十番札所・・とあります。四国ならではの路面標識です。


9番法輪寺駐車場
法輪寺駐車場でのことです。初めての逆歩きをこなしてホッとしている私達に、話し声が聞こえてきました。
遍路バスから降りてきた人たちの中から聞こえてきた声です。
・・ 見ろ、杖があんなにすり減っている。
・・大変なんやなあ。


9番法輪寺
私たちのことでした。確かに私たちの杖は、20数センチは減っています。
しかし、穴があったら入りたいとは、こういう時のことを言うのでしょうか。
・・ちがいます、ちがいます。私達は8年もかけて、のんびりと廻ってきた遍路なんです。苦労なんかはしていません。
心中で、こんな言い訳をしながら、足早に通り抜けたのでした。


熊谷寺山門
熊谷寺山門です。途中、道を一本間違えましたが、すぐに気づいて修復。まあ順調に着いたと言えましょうか。
休んでいると、中年の男性遍路が降りてきました。新しい装束を身につけています。
挨拶をすると、・・やはり山門から入り、山門から出ませんと・・と、いかにも自分の律儀さを恥じるように言いました。聞けば、脇道から境内に入ってしまったので、きちんと山門から入ろうと、ここまで降りてきたのだそうです。なかなか出来ないことだと思いました。


熊谷寺山門
時刻は4:30となりました。7番十楽寺を飛ばすことになりますが、今日はここで終わりにします。
予定通り、タクシーを呼んで、今日の宿、安楽寺に向かいました。


安楽寺本堂
運転手さんに安楽寺に泊まると話すと、
・・大部屋に雑魚寝なんだってね。一応、区切りはつけるらしいけど。・・と返ってきました。
それを聞いて、(今の私は贅沢になっているので)とたんに気持ちが暗くなり、・・止めときゃよかった、・・ちょっと後悔していました。


食堂
お参りをして宿坊に行くと、・・雑魚寝などとは、とんでもない。
施設はホテル並み。お坊さんの宿泊者への応対も訓練されており、丁寧かつ的確です。
・・北さん、お席はこちらです。・・などと、多数の宿泊者にもかかわらず、固有名詞で呼ばれたりします。到着時に記憶することを、習慣づけているのでしょう。
運転手さんの情報は誤っていました。安楽寺は駅路寺400年の伝統と誇りを、斯く、現代風に進化発展させていたのです。


文字
ご住職が、粋なことをしてくれました。通路の壁に、空海の直筆と伝わる「飛白十如是」(ひはく・じゅうにょぜ)を大理石に彫り、貼り付けてくれたのです。(真跡は焼失している)。
見るばかりでなく、触ってもいいとのことで、私なんぞは空海気分で、指でなぞらせてもらったりしたものでした。
写真の部分を読んでみると、右から、「如是相」「如是性」「如是體」でしょうか。左端は、順当なら「如是力」らしいのですが、私にはなぜ「力」と読めるのか、わかりません。


遊び心
「性」と「体」の部分を拡大して見ました。それぞれ偏の部分に、小鳥や蝶をあしらっているのが見えます。遊び心がいっぱいです。
なお「飛白」とは、刷毛でかすれ書きした書体をいうようです。


文字
「空海」と書かれています。
「海」は、「毎」の下に「水」です。

 7日目 平成21年(2009)4月26日 


部屋の窓からの景色です。
・・一番いい部屋ですよ。・・と言われていましたが、わら屋根といい多宝塔といい、それらに当たる朝日といい、なるほど一番でした。


板野駅
高野山へ、との案もありましたが、今回は止めにしました。
星の岩屋、慈眼寺を訪ねます。私は前にも参っていますが、その私の話を聞いて北さんが行きたくなったのですから、これはもう、付き合うしかありません。それに、何回行ってもいいところですから。
バスで板野駅に出、電車で立江まで行きます。


お接待
徳島駅で下車し、帰りの飛行機を予約しました。明後日の最終便で帰ります。これについては、駅前のローソンさんで大変お世話になりました。多謝!です。
信号待ちをしていると、女性が話しかけてきました。話しながら鞄をガサゴソ。取り出したのが、写真のキシメンです。きっと自分で食べる用に買ったにちがいないのですが、彼女は、お接待を優先してくれたのです。


阿波踊り
喫茶店で電車待ちをしていると、隣席の人が、・・今、阿波踊りをやっていますよ。すぐそこですから、見ていきませんか。・・と話しかけてくれました。「はな・はるフェスタ2009」が開かれていて、阿波踊りの有名連が、全部出場するとのこと。
電車をひとつ遅らせ、見に来てしまいました。


阿波踊り
踊りは洗練されて、夏の踊りの汗臭さは消えています。
しかし笛や太鼓は、否も応もなく、見ている側をも反応させてしまいます。やっぱり、踊る側だけでなく見る側も、アホウです。


阿波踊り
踊りの発祥には諸説ありますが、蜂須賀家政公が徳島城を築城した時、落成祝賀行事で踊られたのが最初、というのが有力説です。
 〽阿波の殿さま 蜂須賀さまが 今に残せし 阿波踊り


徳島新聞
「はな・はるフェスタ」を報じた、翌朝の徳島新聞です。


立江寺
立江寺は、北さんと私にとって、思い出深い寺です。8年前、恩山寺で出会った二人の女性遍路に、立江寺で再会。彼女たちにはずいぶん助けられたものでした。
あの日、「金子や」さんが急遽、休業となったのですが、その第一報を伝えてくれたのは、彼女たちでした。その後、相前後して歩くことになり、・・ここでは弁当と水を仕入れた方がいいよ、・・などと、細かくアドバイスしてくれました。
お礼も言わず、いつのまにやら別れてしまったのでしたが、お元気でしょうか。


立江川
白鷺橋から撮った、立江川です。左下隅に白鷺橋の赤い欄干が写っています。
立江川に限らず、日本の川は一時に比べて、ずいぶんきれいになったと言われています。しかし「立江川生まれのへら鮒」さんに言わせれば、・・だけど昔とは違う。なによりの違いは、昔は、いろんな生き物が棲んどった。・・とのことです。
きれいにはなっても、それは人の目から見た「きれいさ」で、生き物に棲みやすい環境ではない、というのでしょう。だから鯉も泣いている(看板)のです。


鮒の里
なお「立江川生まれのへら鮒」の出自については、立江の遍路宿「鮒の里」のHPをご覧ください。自己紹介が載っています。
・・私は立江川で生まれたへら鮒です。県立 立江川へら鮒学校卒業。鮒の「目」で見る、へんろ道の案内人です。



立江寺から県道28号・阿南-小松島線を左折。県道22号・阿南-勝浦線に突き当たると、これを右折。沼江大師の先、ローソンの角を左折。勝浦川沿いに県道16号・徳島上那賀線を遡ると、星の岩屋への登り口になります。
この間の道中については、本号では略させていただきます。他号との重複を避けるためです。→(H14春1) →(H19春1)


勝浦川
橋を渡り、写真奧の山を登ります。
星の岩屋の標高は250㍍。橋の辺りが30㍍余ですから、標高差220㍍ほどを登ることになります。


看板
星の岩屋への道に特徴的な案内板です。
当地は、ツチノコの生息地!なのです。上には、土の児神社もあります。


蜜柑の花
♫ミカンの花が咲いて・・はいませんが、やがて咲きそうです。
写真を撮っているとミカン農家の方が出てきて、
・・どっからおいでたん?
・・埼玉です。
・・それはそれは、私の娘が埼玉に住んでます。
ということで、長い話が始まりました。お父さんは私達を、娘さんの隣人のように遇してくれました。


下の景色
登っていると、お父さんが軽トラで追いかけてきました。・・家で作っているチャンドラ・ポメロを、一個ずつお接待します。・・と言うのです。
見れば、美事な柑橘です。しかしチャンドラ・ポメロは直径15センチほどもあって、皮は厚く、とても重いのです。(写真を載せたいところですが、人が写っており、載せられません)。
・・いや、ありがたいのだが重いし、どうしようか、・・などと躊躇っていると、・・そんなら荷物はワシが預かってやる。お参りしたら、下まで送っちゃるけん。・・とのことです。



そんな次第で、私達はお父さんに荷物を預け、その先、空身で登ってまいりました。



仁王さながらに、両脇に杉が立っています。


本堂へ
星の岩屋に伝わる「流れ星伝説」などについては、→(H19春1) →(H25秋遍路6)でふれています。ご覧ください。


裏見の滝
前回は水が落ちていなかったのですが、今回はたっぷりと流れているようです。


不動尊
裏見の滝は、表から見れば不動の瀧です。


軽トラから
星の岩屋から下っていると、軽トラが上ってきました。
さっきのお父さんが、迎えに来て下さったのです。遅いので心配されたのかもしれません。
荷台にザックとチャンドラ・ポメロが積まれているので、まずポメロをザックに詰め込み、私達も荷台に載せていただきました。


勝浦川
お父さんは、県道16号まで送ってやると言いますが、勝浦川の手前で下ろしていただいて、歩くことにしました。
おかげさまで時間が出来たので、ゆっくりと歩きます。
チャンドラ・ポメロはズシリと重いけど、それは心地よい重さでした。


野原
河川敷に降りて、休むことにしました。
寝転がっていると、トンビの声が聞こえてきました。ゆっくりと雲が流れて行きます。
自転車の中学生集団がやってきました。野球をするのだといいます。もう最近の都会では見られない、「縦割り集団」でした。1年生も2年生も3年生もいます。
ただ残念なことに、小学生はいませんでした。ここが、昔の地域子供集団とは違うところです。昔は弟や妹たちが、かならず兄たちに付きまとっていたものでした。面倒だからと連れて行かないと、兄は親に叱られました。中には赤子連れの兄が居たりもしたものでした。


よってネ市
4:00過ぎ、県道16号の「JA東とくしま」から「さかもと」に電話。迎えを頼みました。


さかもと着
「ふれあいの里 さかもと」です。
「さかもと」は、単なる宿泊施設ではありません。「ふれあいの里」としての活動を、多彩に展開しています。
それらについて、次の号で若干ふれてみましたので、よろしければ、ご覧ください。→(H19春2) →(坂本慈眼寺)

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号更新は12月13日の予定です。(早くも師走なのですね)。
慈眼寺に登り、鶴林寺登り口に向け、旧遍路道を下ります。

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2 コメント

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続:まつすぐな道でさみしい 山頭火 (天恢) (天恢)
2023-11-29 09:42:31
 やっと「コロナ」のことを話題にしなくて済む世の中になったようですが、もう今年も終わりそうです。 10月に傘寿(80歳)を迎えたのに、何やかや有り過ぎて四国遍路を断念しました。 新年への抱負には早すぎますが、年相応の四国の歩き方を楽しく計画してみます。

 さて、今回も「楽しく遍路」さんが 平成21年秋に歩かれた「88番大窪寺から10番切幡寺~ 星の岩屋 さかもと」までをコメントすることにします。 やはり、お遍路さんにとっての「結願」というテーマは関心が高いようで、掲載後はブログへの訪問者も一気に急増しました。
 そこで、気になるのは結願を終えたその後のことです。 ここ「打留」の大窪寺で結願された方は、①まっすぐに自宅への帰路に着く、 ②お大師さまに結願の報告と道中の無事を感謝するため高野山へ、 ③四国遍路を円環運動として捉え、結願は「終わり」であると同時に「始まり」で、切幡寺、霊山寺へ。 結願されたあなたは①、②、③のどの道を選ばれましたか? 天恢は一巡目は高野山へ、二巡目は平等寺が発願寺でしたから切幡寺への道です。

 さてさて、今回のタイトル「続:まつすぐな道でさみしい 山頭火」ですが、今年3月のコメントに同じタイトルで投稿していて、いつもながら直近の時系列の記憶の危うさにヒヤヒヤです。 
 一般的には大窪寺から切幡寺までは、国道377号→旧遍路道→県道2号→県道139号を経て切幡寺参道入口で、迷うことなくスンナリ辿り着くはずです。 それが今回、ブログのストーリーに従ってグーグルのストリートビューで撮影スポットを追っかけたのですが、すっかり遍路道は様変わりしていて「迷子」になりました。 「楽しく遍路」さんが歩かれた平成21年から十数年も過ぎれば、道幅は広がり、曲がりくねった道はまっすぐになり、早くて、安全に通行できるようになりました。 
 でも道が良くなったことには誰も文句は言えませんが、遍路道としては何か物足りない寂しさを感じます。 3月のブログにあった『道  直線の道には無駄がありません。 しかし無駄がない道には、魅力もありません』で、山頭火が「まつすぐな道でさみしい」とも詠んでいますが、こんなまっすぐな道でも初めて歩く現代人にとっては「まっ、こんなもんだ」ということになるのでしょう。
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♫思えば遠くへ来たもんだ (楽しく遍路)
2023-12-04 13:13:17
天恢さんもいよいよ傘寿とのこと。おめでとうございます。
  ♫思えば遠くへ来たもんだ・・と、感慨深いものがあることでしょう。
むろん、
  ♫この先どこまでゆくのやら・・それはわかりませんが、
目指すは、嫌も応もなく・・卒寿・・です。
どうせ目指すなら敢然と、
  ♫蒼白き頬のままに・・、目指すことにしましょう。
私は2年半ばかり先行していますが、(追い抜かれることのないよう)頑張るつもりです。

若い頃、とは言っても70代の初め頃でしたが、遍路宿で出会ったお年寄りに、お歳を尋ねたことがありました。その方が歩き遍路だったので、つい尋ねてみたくなったのです。
・・私、82になります。・・
私は、・・あやかりたいものです。・・などと応えたのでしたが、なんということでしょう、あれから10年。私は今、あの方の歳になっています。
はたして私は今、あの方のように歩けるのでしょうか。コロナ禍で私の遍路は七十八歳以降、止まっているのですが、ぜひとも来春、三になる前には、実際に歩いて、試してみるつもりです。ブログの中では、もう充分歩きましたから。
天恢さん、・・年相応の四国の歩き方・・工夫がついたら、私にも教えてください。

付け足しですが、12月2日付け毎日新聞川柳欄の第一席に、こんな句が載っていました。
  九十の すごさがわかる 八十歳
八十歳となった作者は、この先十年の厳しさを、文字通り「身体で」感じているのだと思います。これまで経験したどの十年よりも厳しいであろう十年を前に、少々怯みながらも、前に進もうとしている作者に、熱きエールを送りたいと思います。
我田引水の読み方ですが、蒼白き頬の同士を見つけて想いで、追記してみました。

なお「結願」や「まっすぐな道」について、ふれることができませんでした。機会を改め、本文などでもふれてみるつもりでいます。
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