楽しく遍路

四国遍路のアルバム

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2022-07-27 | 四国遍路

 
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 四日目(平成19年1月26日)   

弥谷寺から
弥谷寺門前、俳句茶屋での長話を終え、和光さんは弥谷寺のお参りへ、毛呂山さんは72番曼陀羅寺へ先発しました。
私たちは、もうしばらく茶屋に滞在。茶屋の裏を三途の川が流れている話や、門前に店を構えるに至った経緯などをうかがいました。出発時、長っ尻をわびると、・・遍路はそれでなきゃー。歩くばかりが遍路じゃない。・・と言って、私たちをかばってくれました。後述する「四国霊場巡拝についての心得」が・・心を忙しくして駆け回る飛脚のような旅・・をいさめていることに、通じるものがあるようです。


遍路道
茶屋を出発。山道を抜けると、ため池がありました。畔に座り込んで、納め札の記入をしました。この先は札所が連続するので、一定枚数を書きためておくことにしたのです。
時間が緩やかに流れる中での、心地よい作業でした。


ため池
ただ、残念なことがありました。
帰宅後、2ヶ月ほど経った時のことです。70番代の、ある札所名が入ったダイレクトメールが、自宅に届いたのです。数珠などの宣伝をするもので、同じ内容のものが同時期に、北さんの所にも届いたそうですから、そのDMが、納め札から住所・氏名をとって送られたものであることは、まず間違いないことでした。
こんな納め札の使われ方に、私たちは釈然としないものを感じ、以後、丁目番地は記さなくなり、今も記していません。


納め札
そんな15年も前の出来事を、懐かしくも思い出させる記事が、令和4年6月28日、毎日新聞夕刊の一面トップに載っていました。
  大正から昭和にかけてのお遍路マニュアル
   「四国霊場巡拝についての心得」が、香川県三豊市の民家で見つかった
その「心得」の一つが、なんと、・・(傘や納め札に)住所、氏名は詳しく書かない、自分の家族のことも他人に言わぬこと・・であったのです。なるほど、いつの時代でも個人情報ってやつは、たれ流してはいけないのです。



「心得」の筆者は1番霊山寺の住職さんで、住所氏名の記入を求める側の人です。それだけでなく、遍路達の心情・・ご利益をいただきたいと心底願うが故に、自分がどこの誰であるかを、はっきりとご本尊様、お大師さまに伝えておこうとする・・を、充分に理解しているはずの人でした。
そんな立場にある人が、「詳しく書くな・話すな」と用心を促すのは、お大師さんの道とはいえ、そこも「渡る世間」ということでしょうか。(DMどころではない)深刻な被害の発生は排除しきれないのでしょう。この「心得」、全文を読んでみたいものです。


前方
坂を下りると、向こうが善通寺市になります。池は奧が「大池」で、畔に七福寺があります。
左の山は「筆ノ山」。右の山裾が「我拝師山」です。75番善通寺は山号を「五岳山」と号しますが、筆ノ山と我拝師山は、いずれも、その「五岳」にふくまれる山です。


五岳
「五岳」の全体像を把握いただくため、この写真をご覧ください。後年、天霧山から撮った写真です。
右から左へ、火上山(かじょう山・ひあげ山・408.9㍍)、中山(なか山・439㍍)、我拝師山(がはいし山・481.2㍍・一番高い)、筆ノ山(ふでの山・295.7㍍)と並んでいます。
これら四つの山に、(筆ノ山に隠れてこの写真には写っていない)香色山(こうしき山・157㍍・一番低い)を加えた山の連なりが、「五岳」です。空海生誕の地とされる「屏風ヶ浦」は、これら五岳が並び立つ様を屏風に喩えて呼ぶ、この地の雅称だといわれています。


我拝師山・中山
左が我拝師山です。山腹には根本御堂があり、ここから出釈迦寺の奥の院である、捨身ヶ岳禅定へと入って行きます。(後述)
右は中山です。中山の名は、この山が我拝師山と、火上山の「中」に在ることから、そう呼ばれるとのことです。
火上山の名は、天霧城の狼煙台があったことに由来するとも言われますが、五来重さんは、山上から海に向かって聖火を上げたことに由来する、と考えておられます。五来さんの「海洋宗教」の考え方については、著書「四国遍路の寺 上・下」などをご覧ください。


筆ノ山
筆ノ山の名は、山容が筆の穂先のように尖って見えることに由来する、とされています。この写真では尖っていませんが、例えば上掲「五岳」の写真では、尖って写っています。
筆ノ山はきっと、三筆の一人である弘法大師・空海を表象するお山なのでしょう。
やや説得力に欠けるきらいもありますが、次の写真をご覧ください。善通寺の東院(伽藍)から西院(誕生院)方向を撮った写真です。


香色山と筆ノ山
御影堂(大師堂)の背後に見えるお山(左側)は香色山で、お大師さんを生んだ佐伯氏の霊山です。その山頂には、佐伯氏代々を祀る霊廟が建ち、「佐伯直遠祖坐神」と刻まれた石標があるのだそうです。
とすれば、香色山の右奥にある筆ノ山が、弘法大師・空海を表象しているとの解釈も、あながち間違いとは言えないでしょう。佐伯氏を祀るのが香色山。その佐伯氏が生んだ巨人・弘法大師・空海を表象するのが筆ノ山、というわけです。


香色山・筆ノ山・我拝師山
さらに、この写真をご覧ください。善通寺赤門の外から写したものです。香色山、筆ノ山の後ろに、(上掲写真には曇天のため写らなかった)もう一つの山が写っています。我拝師山です。まだ真魚と名乗っていた七才の弘法大師・空海が、身を捨てて衆生済度を誓ったとされる山で、捨身ヶ岳とも呼ばれています。
一幅の仏画とも見える、この景色を絵解きをすれば、・・かつて、この地に在った佐伯氏に、男児が生まれた(誕生院・香色山)。男児は7才にして救世の大請願をたて(我拝師山)、長じて弘法大師・空海となった(御影堂・筆ノ山)。・・とでもなりましょうか。


72番曼陀羅寺
72番札所曼荼羅寺に着くとすぐ、和光さんを探しました。というのも、私たちが昼食をとっている時、食堂の前を過ぎて行く彼女を見ていたからです。
いました!まるで何日ぶりかの再会であるように喜び合って、その勢いで、ここから善通寺までを、一緒に歩くことを決めました。善通寺までと区切ったのは、彼女は金刀比羅宮、満濃池に廻ることを思案しており、私たちは今日は善通寺に泊まり、明日、(金刀比羅宮はとばして)満濃池へ行くつもりでいたからです。


不老松の大師像
納経所の前に座って、じっと私たちを見ている人がいました。岡田屋旅館で一緒だった大阪のバイク遍路でした。お接待のオニギリをいただいたとき、「エッ、私にまで!」と言って、喜ばれた方です。その意味は、「歩いていない私にまで」であったようです。
それにしても、どんな廻り方をすると、バイクと歩きの遍路が3日後、此所で再会することになるのでしょう。しかも次の行き先は、雲辺寺だというのです。きっと私の知らない「遍路の楽しみ方」をしているのでしょう。


73番出釈迦寺
73番札所出釈迦寺に着きました。
札所の間が短いせいでしょう、71番弥谷寺で会ったバスの方たちと72番でも会い、73番でもまた会いました。「また会いましたね」「早いですね」などと挨拶を交わし、それはそれで楽しかったのですが、困ったのは納経所での待ち時間でした。順が団体の後になると(たいてい後になる)、ずいぶん長く待たねばならないのです。(この問題への札所からの解答を、私は平成20年、金泉寺で見ることが出来ました)→(H20秋1)個人と団体で、納経所を分けてくれたのです)。


遙拝所から
出釈迦寺の遙拝所から我拝師山を見ると、中腹に根本御堂の建物が見えます。ここが捨身ヶ岳禅定への入口です。鎖場を登ると、幼い弘法大師が身を投げて衆生済度を誓ったと伝えられる、捨身ヶ岳の山頂です。
北さんは登りたかったようですが、私の膝を慮り、それを口にすることはありませんでした。また(天気予報では雨は降らないはずですが)私たちの観天望気では、雨が近いのでした。和光さんも満濃池、金毘羅詣りを予定しているというし、ここは断念して、先に進みました。→(H25初夏5


甲山寺
74番札所甲山寺です。
和光さんと三人で、ゆるゆるとやってきました。初対面の人なのに、一緒に歩いても話題が絶えることがない、こんな状況は、遍路経験のない人には、合点がゆかないかもしれません。一番で会った初対面の二人が、気づいたら88番まで一緒に歩いていたなどの例は、さほど珍しいものではありません。もっとも前出の「心得」は、・・道連れは良いことも悪いこともあるので、考えて人を選ぶ・・と注意を喚起していますが。


75番善通寺
境内は広く、「伽藍」と称される東院と、「誕生院」と称される西院に別れています。通常のルートで甲山寺から歩いてくると、東院と西院を隔てる道に出るので、中門をくぐって左の寺域に入ると、そこが東院です。
東院は創建当時からの寺域で、「伽藍」の名の通り、金堂(本堂)や五重塔などが建ち並んでいます。元は佐伯氏の菩提寺だったともいわれています。西院は、弘法大師・空海が誕生された佐伯家の邸宅跡地とされ、お誕生所である故を以て、「誕生院」と称されます。御影堂(大師堂)を中心とする寺域で、前述のように御影堂の背後は、五岳が列ぶ屏風ヶ浦です。


五重塔
どのようにして「得た」のかわかりませんが、「霊感」を得たので分かち歩いている、という人に出会いました。出来るだけ多くの人に分け与えたいので、逆歩きしているのだそうでした。私たちがほとんど関心を示さないので去ってしまいましたが、もう少し話を聞いてみてもよかったと思いました。
前述の「心得」は、・・経験者を装い、宿の世話、加持祈祷、おまじないを伝授して金銭を要求する常習者がいる・・と注意を促していますが、彼が「常習者」であったかどうかは、わかりません。


大楠と佐伯祖廟
樹齢千数百年とかの大楠です。三教指帰に「繁茂している」記されている大楠がこれだ、とも言われています。たしかに圧倒される大樹です。
玉垣に囲まれた小祠は、「佐伯祖廟」です。側に次の様な説明文がありました。・・佐伯祖廟  弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。この地方の豪族、佐伯直田公・善通卿と玉寄御前の三男です。この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を奉安してあり、「佐伯明神」「玉寄明神」と称しております。なお五色山(香色山)の頂上には、佐伯家代々の祖廟がございます。


突然の雨
突然、雨が降ってきました。強い西風が吹き付けてきます。私たちの観天望気が当たりました。
結局、この雨は、明け方近くまで降り続けました。屋根を叩く音が聞こえるような、強い雨でした。和光さんはどこで、この音を聞いたのでしょうか。それにしても、これは気象庁の大ポカでした。


今夜の宿
善通寺赤門前の「魚勘」旅館が、今日の宿です。すでに路面が濡れています。
「魚勘」は屋号で、代々の当主は「魚屋勘右衛門」さんであったとのことです。残念ながら当代の勘右衞門さんは、この数年前に亡くなっており、旅館は、奥さんが一人で続けておられました。一時は、お嫁さんと一緒に頑張っておられるなどと、伝え聞いて喜んでいたのですが、ネット情報に拠れば、平成29年(2017)、閉店されたとのことです。お疲れ様でした。奥さんが話してくださった、乃木大将や白襷隊の話、面白かったです。

  五日目(平成19年1月27日)

朝の善通寺
明け方、雨は上がりましたが、強い西風が吹いています。
朝食前、もう一度、善通寺にお参りしました。オープン前の札所は、昼間とは一味違った景色を楽しむことが出来ます。写真は、小さな白衣姿のお遍路さんです。


堅パン
魚勘さんの勧めで「堅パン」を買いにゆきました。昨年11月(この2ヶ月前)NHKが放送した「ウォーカーズ 迷子の大人達」で取り上げられたとかで、大人気なのだそうでした。朝早くゆかないと売り切れてしまうと聞いたので早く行ったら、未だ開いていませんでした。
この数年後のことです。突然、和光さんから堅パンが送られてきました。・・二巡目で善光寺に来ています。あの時の出会いが懐かしく、送らせてもらいました。・・とのことでした。北さんと分けて、いただきました。


左折 
善通寺赤門の通りを北東に進み、「大西寝具店」の角を左に入り、古い住宅地を抜けると、予讃線です。


予讃線
予讃線を潜ります。


新興住宅地
予讃線を潜ると、新しい住宅地になります。
建築中の分譲住宅や入居間もない家が、あちこちに見られ始めました。コーヒー店の女店主によると、・・住宅が建ち始めたのは、ここ数年のことだが、自分はあまり喜んでいない。地場産業が興らないことにはね。・・とのことでした。


新築
ほとんどが木造壁式住宅の中、ただ一軒、竹小舞を組んだ土壁の家が建築中でした。
大工さんに聞くと、・・それでも小舞は外壁だけで、なかの仕切はボードを使うんですよ。本当は内部も土壁でゆきたいのですけどね、耐震、防火の関係で仕方ないのです。・・とのことでした。


76番金倉寺
「えひめの記憶」に次の様な記述があります。・・四国霊場は、多様な信仰が複合した様々な聖地から成っており、その形成過程においては、様々な信仰が重層的に発展して形成されていったものと考えられる。そしてこのことは、八十八ヶ所の各霊場が、必ずしも真言宗派だけではないことからも説明できる。
それかあらぬか、金倉寺は天台宗(天台寺門宗)の札所です。智証大師は、天台僧・円珍の諡号。金倉郷の生まれとされ、空海の甥とも姪の息子とも言われています。


金倉寺
さらに「えひめの記憶」から引用すると、・・ 前田卓氏は、「四国八十八ヶ所の霊場のうち、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。更に昔時にあっては、他の宗派はもっと多かったと思われる。たとえば、四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺はもとは法相宗であったし、四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は、華厳宗であったのである。」と述べ、八十八ヶ所の中には真言宗以外の宗派が多く混じっていることを指摘している。


正面が道隆寺  
多度津と丸亀は、昭和の大合併でも、平成の大合併でも、合併話が起きていたといいます。両者は藩政時代には、丸亀本藩(本家)-多度津支藩(分家)の関係にありましたから、合併話は、当然のように起きていたといいます。しかし昭和でも平成でも「破談」。
噂では、多度津側がウンと言わなかったとか。


讃岐鉄道の駅碑
どうやら多度津には、丸亀に頼らずともやってゆけるという自信があったようなのです。多度津藩は立藩するや築港工事に着手。多度津湊は北前船の寄港地として栄え、また金毘羅船の上陸地として、丸亀に次いでにぎわっていました。本藩・丸亀藩に丸ごと依存する必要は、なかったのです。明治以降も、讃岐鉄道の開設、銀行設立など、多度津は、先進的取り組みを起してきました。
写真は多度津駅近くに建っているもので、右は「指差し きしゃば」と、左は「右 はしくら道」とあります。


77番道隆寺
寺名に、その寺に所縁の深い方の名をいただいた例は、よく見られます。善通寺の「善通」は、大師の父・佐伯田公( たぎみ)の諱・善通(よしみち)をいただいたものだといわれています。
ここ、道隆寺の「道隆」もまた、所縁の方の名に由来しています。「道隆」は、当地の領主にして当寺の開基とも伝えられる、和気道隆の道隆をいただいたのだといいます。
ところで、いつでしたかテレビを観ていたら、俳優の筒井道隆さんが出演しておられ、・・私の「道隆」(みちたか)は、77番札所の道隆寺さんからいただいたものなんです・・と話されていました。


少林寺
より正確には、筒井さんのお父さん(キックボクサーの風間健さん)が少林寺拳法の少林寺に入僧。宗祖から、すぐ近所の道隆寺に因んで、道隆(どうりゅう)の僧名を授与されたのだそうです。筒井さんは、そのお父さんの道隆(どうりゅう)を、通隆(みちたか)として継いだのだといいます。


丸亀市へ
愛媛県新居浜市の人が、「なんで新居浜には札所がないんじゃろ」と残念がっていましたが、実は丸亀市にも札所がありません。丸亀の西隣、多度津には77番道隆寺があり、東隣の宇多津には78番郷照寺があるというのに。
しかし丸亀が、四国遍路と無関係だったわけではありません。丸亀湊には、金毘羅船に乗った多くの遍路が、上陸していました。それが証拠に真念さんは、全国に五ヵ所だけ設けた「此道指南並霊場記うけらるべき所」の一ヵ所を、讃州丸亀塩飽町の鍋屋伊兵衛方としています。丸亀に上陸→「指南」「霊場記」を入手→78番から始め、77番で結願→金毘羅さんで精進落とし→丸亀湊から帰郷。こんな人もいたのでは?


丸亀
道隆寺「指定」のうどん屋さんに入りました。
ウドンは、ややコシがありすぎるのが気になりましたが、つゆには満足しました。タマネギ丸ごとオデンというのを、珍しくて注文してみましたが、私には合いませんでした。写真奧のクレーン群は、もう丸亀だったと思います。


金倉川
丸亀城の西を固める、金倉川(かなくら川)です。水源はまんのう町塩入にあり、川は一度、満濃池の山側に流れ込み、谷側から流れ出てきます。つまり満濃池は、金倉川を堰きとめて造った溜め池であるということです。最初の築堤は、8Cとのことです。
満濃池を流れ出た金倉川は、金毘羅さんの前を流れて「禊川」となり、丸亀に流れ下ります。満濃池の築造や改修、金倉川については、→(H21秋3)をご覧ください。


西汐入川
一説には、金倉川の下流部は生駒藩時代に流路変更されているとのことで、現在の西汐入川は、旧金倉川の水路だったといいます。
ところで、西汐入川があれば東汐入川もあるはずと、探してみましたが、どうやらもう埋め立てられているようです。東汐入川けんこう公園というのが、元東汐入川の痕跡です。


へんろ小屋・丸亀城乾
四国88ヵ所ヘンロ小屋をつくる会が創った「ヘンロ小屋 城乾(じょうけん)」です。竣工は平成18年(2006)11月22日、私たちが歩いた、1ヶ月ほど前のことでした。
「丸亀うちわ」の骨をかたどって、洒落た小屋になっています。丸亀の団扇は、慶長の頃(1500年頃)から作られていましたが、これが一躍全国に知られるようになったのは、寛永10年(1633)頃、丸金印の渋うちわが考案されてからのことでした。(後掲のマンホールの蓋を参照)。丸金印の渋うちわは、金毘羅参拝の土産品として大ヒット。金毘羅参拝者と共に、全国に散っていったのでした。


丸亀城
丸亀城に危機が訪れました。
丸亀城は、高松藩(生駒氏)の支城でしたが、一国一城令で廃城の憂き目に遭いました。加えて、高松藩では生駒騒動が勃発。生駒高松藩は改易となり、その藩領は、隣藩諸藩により分割統治されることとなりましたから、もはや丸亀城には、浮かぶ瀬ないと思われました。


マンホールの蓋の丸亀城と丸金うちわ
ところが、丸亀城に幸運が舞い込みました。讃岐が東讃と西讃に分割され、東讃に高松藩(水戸徳川氏)、西讃に丸亀藩が立藩されたのでした。廃城となっていた丸亀城は、新・丸亀藩の城といて、再利用されることになったのです。
丸亀藩に入ったのは、島原の乱を鎮圧したばかりの築城名人・山崎家治でした。旧丸亀城は家治によって、美事、戦仕立ての城に改築されるのです。とりわけ堅固かつ美しい石垣は、圧巻です。(ただし山崎氏は三代で絶家となり、その後は、京極氏の城となります)。


讃岐富士・土器川
丸亀城は、東に土器川を、西に金倉川(前掲)を配し、護りを固めています。
ところで、この二つの川が上流でつながり、そこに我らが満濃池が介在していることは、案外知られていません。前述のように、満濃池は金倉川を堰きとめて造られ、その満濃池は、人工水路によって土器川から分水を受けているのです。→(H21秋3)
なお、土器川の上流に見える山は、讃岐富士こと飯野山(422㍍)です。


魚島
丸亀の市街地を抜けようとする頃でした。「魚島」の絵を見つけました。絵に題名などはついていませんでしたが、「魚島」の絵に間違いありません。
かつて瀬戸内海では各所で、「魚島」現象が見られたといいます。鯛が、繁殖期になると集まって、海面からせり上がり、あたかも島のように見える現象です。俳句では、春の季語になっています。ただ残念なことに、次回歩いた時、この絵は見つかりませんでした。


宇多津駅
宇多津駅が今回の打ち止めです。
5日間歩きましたが、そのうちの4日間は、1日13-14キロで、1日だけが18.5キロでした。計72.5キロほどです。
この頃、私は自分の左膝を「10キロ膝」と呼んでいました。10キロほど歩くと痛み出すからです。しかし宇多津から88番を経て1番まで、残りは、まだ130キロもあります。はたしてどうなることか、悩ましいことではありました。


宇多津駅前
この後の展開を、すこし書いておきます。
今号につづく結願の遍路は、結局、2年後の平成21年(2009)春になりました。
ただし「10キロ膝」のせいではありません。膝はこの後、奇跡的?によくなるのです。


高松へ
一番大きな理由は、「遍路をまだ終わりにしたくない」からでした。当時、私たちの頭には、二巡目を歩くという考えはありませんでしたから、結願する前に、あちこちの「見残した」所を、歩いておきたかったのです。そして、ある程度の満足がいった時、88番までを歩き、私たちの遍路を終りにしよう・・と考えたのでした。実にうかつですが、「ある程度」であれ、満足なんてあり得ないことには、気づいていませんでした。

さて、以上をもちまして、平成19年冬のシリーズを終了します。ご覧いただきまして、ありがとうございました。次号の更新予定は8月24日です。
ただし、その内容は、今はまだ決めかねています。時系列に従って、結願を前にした「拾い歩き」をご覧いただくか、内容のつながりを重んじて、平成21年の「宇多津→結願」の遍路にジャンプしてご覧いただくか、どちらがいいのでしょうか。もし時系列に従った場合は、あの苦しんだ国道55号をもう一度歩きたいとて選んだ、平成19年春の「立江寺→神峯寺」となります。

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天恢の一期一会の四国遍路 第5回 (天恢)
2022-08-08 09:23:28
 コロナ渦の所業でしょうか? 今年も夏らしくない夏が過ぎてゆきます。 さすが3年目ともなると、京都の祇園祭、博多の山笠、福島の相馬野馬追なども復活しましたが、イマイチ盛り上がりに欠けるのも仕方が無いことです。 やはり第7波は手強い、感染拡大は天井知らず? 子ども世代からの家庭内感染、隠れ感染者の増加となると、果たしてワクチン効果はありやなしや?

 さて、前回はキレンゲショウマの咲く剣山でしたが、第5回は西日本最高峰にして、日本百名山で七霊山の一つとして信仰を集める「石鎚山」です。 登山日は2016年8月、剣山の前々日、JR伊予西条駅から石鎚山麓まで1日4便のバスで石鎚登山ロープウェイ駅へ、そこから、一気に成就駅(1400m)まで登ります。 石鎚神社中宮成就社は中腹にある石鎚4神社の一つで、土産店や宿があって、初日はここに泊まりました。
 2日目は、成就社から100m以上下りてから2000m近い山頂を目指します。 石鎚山はゴツゴツした大きな岩山で 登山の途中には、試し鎖、一の鎖~三の鎖まで4カ所の鎖場がありますが、体力のない人のため迂回路があります。 私は高所恐怖症なので全て迂回しましたが、その脇道にもかなり怖い難所がありました。 山頂の弥山(1,974m)には、石鎚神社山頂社や山頂小屋があります。 弥山(みせん)から眼前にそそりたつ天狗岳(1,982m)ですが、どうしても怖くて足がすくんで一歩も前に進みませんでした。 天恢の路程は成就社から上り2時間半、山頂30分、下り2時間 合計5時間でした。

 さてさて、顧みれば、情報不足もあって散々な石鎚山登山でしたが、剣山の「キレンゲショウマ」の開花に合わせてで、一番のお勧め時期は7月1日~の「お山開き」か、晩秋の「紅葉」の頃です。
 また、一般的な登山ルートとしては、西条市側からロープウェイを使う「成就ルート」と、久万高原町側から登る「土小屋ルート」があります。 宿で一緒だったご夫婦は登り「成就ルート」、下山は「土小屋ルート」で歩かれました。 まっ、登山される方と遍路の方では登り方に違いがあるのは当然のことです。
 それで、修験道・山岳信仰である石鎚信仰は、奈良・平安時代以降、脈々と続く日本人の信仰の主流となった神仏習合で、未だに7月1日だけは 『女人禁制』が守られているそうです。 コロナのため規模縮小していた石鎚神社の「お山開き」ですが、全国各地から頂上社を目指しながら法螺貝の音色を響かせるという活気ある山の風景や石鎚山ではすれ違う人に対し、登山中の方には「お上りさん(おのぼりさん)」、下山中の方には「お下りさん(おくだりさん)」と声を掛け合う風習があって、これらもきっと復活したことでしょう。
 終わりに、このブログ「楽しく遍路」でも、 (H30秋 4) 「土居構え ~ 前神寺 石鎚神社 ~ 正法寺」などで詳述されていますので一読をお勧めします。 遍路も、生活もですが、一日も早く日常が戻ることを・・・。
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老人 危うきに 近寄らず (楽しく遍路)
2022-08-11 09:11:57
異常気象による熱波、低温、洪水、旱魃、新型コロナのパンデミック・・・。
戦争なんか、やっているときじゃないのですが、人間は、そんなときこそ争うのでしょうか。
私たちの未来を奪わないで!と叫んだグレタさんに倣って、私も(ごまめの歯ぎしりにすぎませんが)、孫達の未来を奪わないで!と叫びたいと思います。

さて、田中陽希さんが戸隠山を登っているのを(テレビで)観ていたときのことです。私は終始、・・こんな山に俺は登ったのか。ウソだろう。・・と思い続けていました。
翌日、一緒に登った友人に電話で尋ねてみると、彼も言いました。同じ番組を観ていたそうなのです。・・あんな恐い山、今じゃ、とてもじゃないが登れないよ。・・
どうやら二人とも、加齢と共に高所恐怖が昂じてきているのです。バランス感覚が衰え、結果として、高所が恐くなったのかもしれません。

実は私は高校の頃、石鎚山に登ったことがあります。まだケーブルはなかったので、河口までバスで上がり、虎杖(モエ坂を下りたところ)から行者小屋のコースで成就へ。ここの白石旅館で1泊。翌日、頂上を目指したのでした。
もちろん恐いもの知らずの若者(ばか者)ですから、当然のように鎖に取り付き、意味も分からず懺悔、懺悔 六根清浄などと叫びながら登ったのでした。「おのぼりさんで」「おくだりさんで」の挨拶は、競って相手より(そして仲間よりも)先に発し、相手から「元気だね」と言ってもらっては喜び、苦笑されても喜び、ついには、その勢いで天狗岳まで行ってしまったのですが、この記憶も今では、ウソだろ、としか思えません。今なら、・・怖くて足がすくんで、一歩も前に進めない・・に違いありません。

高知を歩いていたときのことです。けっこうな高齢にもかかわらず高所を怖がらない、スゴイ人(遍路)に出会いました。彼はあの浦戸大橋を、歩いて渡ったというのです。
歩道は狭いし、手すりは低いし、通行車両が多いし、海面からの高さは目もくらむようだし、しかも車が通過する度に、ユッサユッサと揺れるんだそうです。
それに、けっこう風も吹くしね、・・と、彼は楽しそうに話してくれました。
こうして書いていても恐くなるというのに、あの橋を歩いて渡っただと!バカか、こいつは!
誠に失礼ながら、そう思ってしまいました。私はと言えば、バラ大師へ行く途中に架かった30メートルほどの橋でさえ恐くて渡れず、はるばるタクシーを呼んで渡ったというのに。

しかし私は、高所恐怖を治したいとは思っていません。年寄りとなった私には、高いところを恐がりビクビクしているのが似つかわしい、そう思っているのです。その方が、危険も回避しやすいというものです。
さて、そこで、次の言葉でもって、このコメントを締めくくりたいと思います。
 老人 危うきに 近寄らず 
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