楽しく遍路

四国遍路のアルバム

坂本 慈眼寺 鶴林寺 あせんだ越 立江

2014-10-09 | 四国遍路

 
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坂本集落
坂本集落は鶴林寺の奥の院、「慈眼寺への登り口」になっています。白い建物は元小学校の民宿です。


坂本川
今は車道が通っているので、「坂本から登る」というイメージが強いのですが、車がない昔は、坂本川が勝浦川に合流する横瀬の辺りが、「慈眼寺への登り口」だったでしょう。ここで「鶴林寺への登り口」と分岐するからです。


坂本へ
横瀬から坂本までの旧道は魅力的で、前にも報告したことがあります。今回は、とりわけ印象に残る二つのことを記します。


草取り名人
一つは、この道沿いで、鍛冶屋さんが今も現役で働いていることです。いわゆる「野鍛冶」です。
いろいろのものを打っていますが、私は「草取り名人」を購入しました。先が尖っているので、根を断ち切ることなく、まさに根こそぎ抜くことが出来ます。とりわけ砂利混じりの所に生えた草は、得意中の得意です。


野鍛冶
前に歩いた時は鍛冶場まで見せていただきました。ありがとうございました。後継ぎさんもできたとのことでしたので、まだまだ続くのでしょう。うれしいことです。


お不動さん
もう一つは、この道がお不動さん信仰の道だということです。


お不動さん
お不動さんは「魔」や「煩悩」に対する「憤怒」をお持ちです。だから持物は、降魔退散の剣と、縛ってでも救い上げんとする羂索です。
それは大日如来、遍照金剛の、内なる決意を具象化したもの、と言われます。


お不動さん
「憤怒」の表情に、やがて「穏やかさ」や「慈悲」といったものが込められてきました。「憤怒」の仏像は、初期のものに比し、「優しく」なってきます。
それは、「不動明王」が「お不動さん」と呼ばれるようになる、そんな流れと重なっているように思います。


長福寺
坂本の長福寺は、真稔さんが「四国遍路道指南」に・・・長福寺古仏あまたあり・・・と記している寺です。境内の説明看板によると、薬師如来座像、地蔵菩薩半伽像、聖観音座像などがあり、藤原時代後期作と考えられているそうです。


慈眼寺への登り口
ここからが「山道」です。「かせ山 慈恩寺」の道標が立っています。
家の壁に、ずいぶん色あせていますが、「清酒 津乃峰」の看板が見えます。阿波橘にある津峰神社(つのみね神社)のお神酒です。津峰山は、(前回も記しましたが)中津峯山、日峰山とともに阿波三峰と呼ばれ、その燃やす火は「燈台」として船人を導き、厚い信仰を受けていました。


丁石
「當村」の文字が見えます。「坂本村」でしょうか。


庭先の道
失礼しますと言うより、お邪魔しますと言うべきでしょうか。通らせていただきます。
たまたま、おじいさんが日向ぼっこをされていました。少しお話をうかがうことが出来ました。
かつてはミカンを作っていたそうです。ミカン作りには山の傾斜が必要で、だから’必要があって’上の方に家を建てたのだそうです。甘みを出すには斜面が必要だという話は、星の岩屋でも耳にしました。


稼勢山(かせ山)
向こうに見える稼勢山もミカンの山だったと言います。坂本は温州みかんの、四国での発祥地だそうです。
また稼勢山は信仰の山でもあり、「稼勢講」を組んでお参りなどしていたそうです。帰宅後調べると、山頂に蛭子神社があったようです。昭和51(1976)、過疎化で、坂本の八幡神社に遷されています。徳島新聞(web版)にによれば、・・・蛭子さんの宮跡があり、立派な石垣の中は石が敷かれた広場になっている。・・とのことです。

「商売繁盛」の蛭子さんは、山の中では働きが少なかったのでしょう、ある時、勝浦川に流されてしまったそうです。蛭子さんは(丈六寺がある)丈六まで流され、拾われて徳島に祀られ、徳島を繁栄に導いたとか・・・。それで再び、元の稼勢山に戻されることになりますが、結局、また坂本に遷されるわけです。


黄檗(きわだ)集落
真稔さんは「四国遍路道指南」に、・・・きハだ村、坂本にことなり、霜ふかけれバ際立(きわだつ)といふよし、おかし。・・・とダジャレを楽しんでおられます。
坂本村は、・・・大師回場の折ふし、かりの宿りの宿なく、霜ふかき萩の野良に御枕をかたむけ、いのらせ給いし・・・以来、今の世まで、坂本村では霜露を見ることもなし・・・なのだそうです。


ミカン農家
霜露を見ることもない坂本ですが、もちろん苦難の歴史はあります。以下はH21(2009)、古いアルバムに私が書いた文です。
・・・ところが、昭和56年、暖かい日が数日続き、その後、急激に気温が低下した。温かさの中で、ミカンの木は地面から水を吸い上げていた。そこへ寒気がやってきて、吸い上げた水が、木の中で凍った。密柑山が全滅した・・・。
地域崩壊の趨勢に先駆けて、坂本は壊滅の危機に瀕しました。加えて、バブルの「恩恵」でしょうか、新道が建設され、坂本は地区として丸ごと、陸の孤島となったのでした。
今、坂本は「陸の孤島」を逆手にとって、頑張っています。



・・・病死仕り候はば、お世話ながら、その御所の御作法にて御葬り下さるべく候・・・いわゆる「捨て往来手形」の中の一文です。
いか様であれ、葬ってさえいただければ有難い・・・なのに石墓までつくってくださいました。供養は最後にいただく、最大の「お接待」です。



しかし「お接待」、とりわけ病気の介抱や亡くなった方の埋葬が、村や村人にとって大きな負担であったことは、想像に難くありません。所持金を諸費用に充てるにしても、充分な額を持っていたとは考えられません。



・・・昔、この辺の人は早起きだったそうですよ。隣の家より早く起きて、もし自分の土地に行き倒れた遍路がいたら、そっと隣の土地に移したそうで・・・。
ある宿で耳にした話です。落語や川柳の話かと思っていたら、代々、それとなく伝わってきた(真面目な)話だとのことでした。「データベースえひめの記憶」にも、・・・多くの伝承によると、病死遍路を夜間ひそかに隣村内に遺棄したことが多かったとされている。・・・とありますから、隣村に移せないときは隣家(隣組)へ移したのかもしれません。


慈眼寺の山
正直のところ、身内ならいざ知らず赤の他人の死にまでは、できれば関わりたくなかったのでは・・・私なんぞはそう思ってしまいます。100%の善人は、まあ、めったにいない、大方は、善人と悪人の間を、それも悪人の方に振れつつ生きているのだと・・・。
しかし、にもかかわらず遍路道には、「四国人性善説」を信じたくなるほど、たくさんの遍路墓があります。残っている墓のほかにも、今では自然に還ってしまい分からなくなった、土饅頭の墓もあったはずです。


灌頂の滝
川から流れ落ちる滝ではありません。どこをどう潜ってきたのか、水は岸壁に出口を見つけました。
主に午前中だそうですが、虹がかかるそうです。ために「御来迎の滝」などの呼び名もあるようです。次回、機会があれば、滝の下まで行きたいと思います。


慈眼寺
五来重さんは初期の四国辺路を推定して、次のように書いています。・・・讃岐から大窪寺を経て阿波に出ると、藤井寺で山に入り、長戸庵、柳水庵を経て、ほとんど直線で焼山寺山(938㍍)に登ったと推定できます。それから東に鬼籠野に下がって、高鉾山の旭ケ丸(1019㍍)を超えると、鶴林寺の奥の院である慈眼寺の洞窟に出ます。そこから坂本、三渓を通って横瀬または棚野から旧道を登って鶴林寺の裏へ出る道があります。おそらく空海はこれを通ったでしょう。
この後、私は横瀬に降り、棚野から鶴林寺に登ります。


穴禅定の路幅柱
この柱の間を抜けられないと、穴禅定は辞めた方がいいのだそうです。
いちおう「スリム」で、まあ「柔らかな」身体であれば、一度は「挑戦」してみればと思います。私は一度だけですが、くぐらせていただきました。


穴禅定に向かう人たち
平成19年(2007)春のことでした。
けっこう急な坂を黙々と登ります。みなさん、穴をくぐる人たちです。それぞれローソクを一本ずつ持っています。白衣は、納経所で専用のものが貸し与えられます。詳しくは→(H19春2)をご覧ください。


穴禅定
けっこうな重圧感です。
中でどのような姿勢になるやもしれず、ポケットから物が落ちても、拾うことはできないようです。私は眼鏡も外してゆきました。


本堂
オン・マカキャロニキャ・ソワカ・・・十一面観世音菩薩御真言をとなえながら御堂を三回廻れば、霊験あらたかなり・・・


山の天気
何枚か前の「慈眼寺」の写真をご覧ください。晴れ上がっています。ところが、その2時間半後、空模様はすっかり変わり、やがて雨が降り始めました。私はどんなに晴れている時も雨具を持ち歩き、たいていは馬鹿をみているのですが、今回ばかりは、やったぜ!
報われたという1枚の写真です。

鶴林寺へ

鶴林寺登り口
棚野から鶴林寺に登り、生名(いくな)に降ります。その後、取星寺を経て立江寺に参る予定です。


空海が歩いた道
五来さんが・・・横瀬または棚野から旧道を登って鶴林寺の裏へ出る道があります。おそらく空海はこれを通ったでしょう。・・・と書いている道です。


山門
山号の「霊鷲山」(りょうじゅせん)は、釈迦の説法の場として知られています。如是我聞、お釈迦さんの説法を弟子たちが聞き取り、法華経や無量寿経などを残したとされています。


鶴林寺
寺号の「鶴林」は(広辞苑によると)、・・・釈尊の入滅を悲しみ、沙羅双樹が鶴の羽のように白く変わって枯死したという伝説から、沙羅双樹林を指し、転じて、釈尊の死を意味する、そうです。


阿の鶴
霊鷲山鶴林寺は、今は地蔵菩薩が本尊ですが、かつては、お釈迦さんの寺だったようです。


三重塔
細かく見ると、飽きることがありません。


初めて鶴林寺に登ったとき、見上げると日暈ができていました。巻層雲に見られる現象ですが、やたらうれしく、なにか特別の意味づけをしたがっていたのでした。


下り道
生名へ下ってゆきます。これからは逆うちの形になります。


那賀川
いちばん長い尾根筋が「かも道」だそうです。右方向に登ると太龍寺があります。私は次回、この道を通って太龍寺に参ります。
写真右に見える橋が水井橋で、鶴林寺を降りた遍路は、これを渡って太龍寺に向かいます。橋がないころは渡し船でした。もちろんダムはありませんでしたから、水量はまったく違っていたでしょう。


水呑大師
今日、国内で「水にあたる」ことはありませんが、かつては、私が子供の頃でも、他所で生水を飲んではいけないと、厳しく言われていました。年が寄った今は、「冷や水」を飲まないよう、周りからうるさく言われていますが・・・。
「水あたり」は遍路の大敵です。「お大師さまブランド」の良水は、有難い存在だったに違いありません。


中津峰山
生名に降りてくると中津峰山が見えました。禿げているところがハングライダーの練習所で、中津峰山山頂のやや下です。
前回、山向こうの丈六寺から如意輪寺に参り、山越えをして星の岩屋に降りてきました。


東林庵
空海さんの偉大さを、その著作や書から理解する力は、私にはありません。ただ分かるのは、多岐にわたる才能を驚くべき若さで開花させている、ということです。そこから、なんとか「偉大さ」を推し量っています。
由来書きによると、空海さんが当地に滞在したのは、延暦12(793)、弱冠19才の時であったそうです。当時は一草庵であるにすぎなかった、ここ東林庵に滞在し、薬師如来を祀ったと言われています。


勝浦川
鶴林寺から降り、しばらくは勝浦川沿いに下りますが、沼江で勝浦川と別れ、道は上りに転じます。


沼江大師
沼江大師を過ぎ、櫛淵町萱原へ登ってゆきます。


古毛(こもう)
萱原から左に下ると立江、右に下ると古毛を経て取星寺です。古毛には、立江に通じる「古毛越え」の道があるそうです。私は取星寺から「阿千田越え」で立江に向かいます。


那賀川
今度は那賀川沿いの道になります。


万代堤
那賀川には万代堤があります。天明8(1788)、築堤を開始し、5年をかけて完成したと言います。「阿波藩随一」の大堤防と言われたそうです。


大岩
慶応2(1866)、万代堤が決壊しました。修築に際し、もっとも水勢が強く当たる所に巨岩を落し入れ、水勢から堤防を護りました。「水はね岩」です。信玄堤などとともに、貴重な工法例として注目されます。
ただし、実は巨岩は木に隠れて見えません。見えているのは、巨岩の側の小ぶりの岩です。大きい方の岩は、長さ9㍍、高さ7㍍、周囲23㍍だと言います。


加茂谷中学校
那賀川は今も暴れ川です。今夏、台風11号の大雨が那賀川を決壊させたニュースは、耳目に新しいところです。
報道では、校舎の二階まで水が来たとのことでした。加茂谷は、(前述しましたが)太龍寺への登り道「かも道」が始まる所です。
「かも道」については、次回、報告します。


取星寺登り口
・・・立江より三十町ばかりわきに、いはわき村(岩脇村)といふに取星寺あり・・・四国遍礼霊場記に寂本さんが付(つけたり)として記しています。取星寺は由緒あるお寺です。



土地の人たちは取星寺(しゅしょう寺)を、「すいしょうじ・さん」と呼んで親しんできました。


取星寺境内
けれど、私はお参りをとりやめました。お寺の「現在」に、正直、不快を感じたからです。神社との土地争いの経緯が、石に刻まれて立っていました。


那賀川河口方向
煙突の煙が見えます。王子製紙富岡工場ではないでしょうか。


やまなみ遊歩道
尾根筋に通した「やまなみ遊歩道」を歩いて「あせんだ越え」の道に入ります。


やまなみ遊歩道の橋
橋の下を「あせんだ道」が「やまなみ遊歩道」と交差して通っています。


道標
「古道 遍路道」、「昔日の土佐街道」と紹介されています。
阿波から土佐へ向かう「土佐街道」は、土佐浜街道(東街道)と土佐中街道の二本がありますが、ここではまだ分岐していません。


橋の下
橋の下がギャラリーになっていました。


ギャラリー
面白い工夫です。イベント情報、古毛越えの道が書き込まれた周辺地図などが掲示されていました。


あせんだ道
気が利いた竹の道です。セメント擬木は、私はあまり好きではありません。


あせんだ道
「岩肌道」と名付けられていました。


大師の水
飲めるのか?中を覗くことはできませんでした。


景色
降りてきました。


景色
懐かしい、と感じる景色です。


景色
手作り感があります。


道標
ちょっと奮発したようです。


立江駅から
翌日、帰宅するために立江駅へ向かっていると、「あせんだ峠」への新しい道標が見つかりました。時間の余裕もあるので、道標に従いすこし歩いてみました。


あせんだ峠へ
歩く人のための道標です。


分岐
「阿千田越え」と「古毛越え」の分岐点です。


取星寺へ
阿千田道から「やまなみ遊歩道」に入り、取星寺に至ります。


「右 あせん田道」「左 じぞう寺」
「じぞう寺」とは、地蔵菩薩をご本尊とする立江寺です。左右が逆になっているので、元は別の所に立っていたのでしょう。


「右 とくしま」「左 立江寺道標
この道標も、元は別の所に立っていたようです。


交番側の道標
立江寺から取星寺→阿千田越えをするには、へんろ道保存協力会の地図に従って萱原にむかい、立江西バス停の先、交番側の道標に従うと、上記の案内に出会うことが出来ます。


ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新予定は、10月30日です。 一宿寺から太龍寺、太龍寺山を経て平等寺に向かいます。


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2 コメント

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♪人は哀しい 哀しいものですね (天恢)
2014-10-11 22:47:49
あらためて「楽しく遍路」さんの「H26春その1」から今回までの遍路道をブログでたどってみました。 そうしたら別格1番大山寺に始まって、高越寺と高越神社がる高越山、焼山寺、建治寺、そして慈恩寺、鶴林寺と、根性や性根を鍛え直すには最適な修験道場が続いておりました。 実際、遍路はつらく、苦しく、厳しい巡礼の旅なんですね!

  天恢も建治寺の滝行や慈眼寺の穴禅定を勧められたこともあるのですが、建治寺の滝行は寒がり屋なので冷たい水しぶきに打たれることは想像しただけでも縮みあがります。 慈眼寺の穴禅定も暗くて狭い洞窟の中を這いずり回るこのなど閉所恐怖症なのでこれまたとても無理なんです。 実のところ高所恐怖症なので高いところや崖っぷちは怖くて、怖くて歩けませんでした。 また面の皮と同じで足裏も薄いので「裸足参り」は痛くてできません。 せめて「写経」でもと願うのですが筆も握ったことはありませんし、正座もまったくできません。 よくよく遍路修行には不向きなようで、天恢という立派な?ハンドルネームは即刻返上しなければならない身なのです。

 今回も楽しく読ませていただきましたが、取星寺でのお参りを取りやめられた経緯が気になりました。 インターネットでその石碑の写真を確認することができました。 提供された方が「小さな石碑がそっと一つ。ならまだ解るけど、1M角近い石碑がいくつも。根の深い争いを神様仏様の名前でしておられました。」と嘆いて書かれていました。 
天恢も四国遍路の前に「熊野詣」から始めたのですが、神仏習合の熊野権現が貴賎・男女の隔たりなく、浄・不浄を問わず、何人であろうと懐深く受け入れることで、いつの世も日本の信仰の大本となったと理解しております。 日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた神仏習合により奈良時代から寺院に神がまつられたり、神社に神宮寺が建てられたりして神仏が共存共栄してきました。 かの明治政府によって出された、神仏習合を禁じた「神仏分離令」でも仏教は消えることなく、広く日本人の心の中では穏やかな神仏習合状態は現在までも続いています。
 ♪人は哀しい 哀しいものですね  取星寺と明現神社との土地争いを天上で嘆き悲しまれる神さま仏さまを思うと泣けてまいります。 せめて 神仏仲良く鎮座されている高越神社と高越寺のある高越山を思い浮かべて、今回の感想とさせていただきます。
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曖昧大事 (楽しく遍路)
2014-10-13 11:55:33
ありがとうございます。「その1」からたどり、越山でコメントを締めくくってくださいました。うれしい限りです。

若いころは、あまり高所恐怖を感じなかったのですが、年が寄ってきた近頃、平衡感覚の衰えを自覚してきたからでしょうか、高所の写真を見ただけでもゾクっとします。天恢さんの高所恐怖は「老人性」ではないと思いますが・・・。
閉所の方は、もともと内向きがちの人間なので、狭いこと自体は今でも気になりません。ただし穴禅定では、ついつい‘もし今、地震が起こったら’などと、よけいなことを考えてしまい、とたんに圧迫感、重量感を感じ始めました。怖かったです。

仏様神様の御名の下での争いは、双方「正しい」だけにやっかいです。根がいっそう深くなる所以です。もっと懐深く→つまり鷹揚に→つまり曖昧に、おつき合いしてほしいものです。何百年もの間、一緒にやってきた「仲」ではないですか。
まあ「裁判沙汰」で終わりましたので、過去や現在の、宗派間で殺し合う数多の内外事例に比するなら、可愛いものかもしれませんが、もっと「曖昧さ」があってもよかったのでは?と思います。

神仏分離は日本の宗教界を大混乱に陥れたのでしたが、細かく見ると、上部構造が受けたほどの打撃は、下部においては受けていないように思われます。おっしゃるように(坊さんや神官さんたちは大騒ぎだったでしょうが)・・・広く日本人の心の中では穏やかな神仏習合状態は現在までも続いている・・・ようです。
ご先祖様たちが育ててきた多神教土壌の「懐の深さ」が働いたおかげで、受ける衝撃は和らげられたと思っています。「懐の深さ」は、一見、「曖昧さ」とも見え、今日、「日本人的あいまいさ」などとして退けられようとしていますが、私は、曖昧大切、と考えています。曖昧に生きれば、争わなくてすみます。私はケンカは嫌いです。

「天恢」さん、いいハンドルネームです。
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