楽しく遍路

四国遍路のアルバム

2回目の遍路 ① 阿波国分寺 薬王寺 鯖大師 海部

2012-10-22 | 四国遍路
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昨年末、「初めての遍路」をアップロードしましたが、今回は、それに続く「2回目の遍路」です。阿波国分寺から室戸行当岬まで、歩きました。 
遍路の記録をウェブ上に残し始めたのは石手寺以降ですので、それ以前の部分についても、遅まきながら、まとめておきたい考えです。
  
「初めての遍路」が3泊4日でようやっとだったにもかかわらず、「2回目の遍路」は8泊9日で計画しました。あの用心深さは何処へやら、ワクワクしながらの出発でした。室戸岬まで行きたい、その思いが不安を飛び越えさせたのでした。
むろん現実の厳しさは、思い知ることになります。


阿波国分寺
  
2002(H14).3.23 初日 晴 15番国分寺-16番観音寺-17番井戸寺-二軒屋


15番国分寺

昨年12月26日以来、3ヶ月ぶりの再訪です。待ちかねた3ヶ月でした。
前回は果物が不足がちだった反省から、北さんは早速、イチゴを買いました。ベンチに座って食べました。
巨大な礎石が写真左に写っています。ただし、意識して撮ったものではありません。写っていました。


道標

このころ中務茂兵衛さんのことは知りませんでした。遍路道風景として、シャッターを押したのだと思います。これも、写っていた、と言うべきでしょう。今見直すと、157度目の道標です。


16番観音寺

お参りの作法は、また一から覚え直しです。お参りの後、「お杖」が置き去りにされていたり、お恥ずかしいことでした。
H20(2008)とH21、私は二度にわたって、この辺を歩きましたが、その時には、近くの古墳群、国分尼寺跡などを訪ねています。 慣れによる余裕は、生まれてきました。 (→国分尼寺跡) (→縄文遺跡)


大御和神社

桜の下に咲くダイコンの花。
「初めての遍路」は雪に降られたから、二度目は、一番いい季節にしよう、と話し合っていたのでした。
いい季節です。帰宅後の記録には「三春が一度に来たような春」と記しています。よほどうれしかったのでしょう。
大御和神社は「府中宮(こうのみや)」とも呼ばれています。「府中」を「こう」と読むのは、「不忠」を嫌い「孝」を好んだからだ、とか。H20の遍路で知ったことです。


17番井戸寺

出発前に何回も地図を見たからでしょうか、この辺は「既視感」をもって歩いていたようです。帰宅後の記録に、「’湯浅歯科’を見つけた。なにやらなつかしく思われた」、と書いています。ただし、最近の地図をみると、’湯浅歯科’は記載されていないようです。
「井戸に顔が映り、あと3年は生きられることが分かった」、とも記しています。ただし、その3年は、もう使い切りました。


真新しい白衣

始めて白衣を身に着けた時、思い浮かんだ語はなんですか?
ときどき尋ねてみると、「ピカピカの・・・」、「ヘンシーン」という答が多くありました。あなたの場合、どうでしたでしょうか?

宿のすぐ側が牟岐線の二軒屋駅です。ビジネスホテルなので、夕食もかねて徳島駅に出ました。県都としてはちょっと寂しい感じでしたが、「エライヤッチャ エライヤッチャ・・・新町橋まで踊らなソンソン」の新町橋辺りを散策しました。
出発前、「今回は遊ぼう」、と話し合っていました。ガツガツ歩かない、楽しみながら歩こう、というのです。
3月24日 第二日目 雨のち晴 二軒屋-18番恩山寺-19番立江寺-萱原-赤石 

7:10過ぎ 食堂から、そのままチェックアウト。雨!
まったく気づいていませんでした。傘がいる程度の雨が降っていました。我が観天望気では、長く続く雨ではありません。


瀬川

「雨はほぼ止んでいる。瀬川の写真を撮った」、と書き残しています。コンクリートに固められていない川に引かれたのでした。
このころ私が持っていたデジカメのメモリーは、カメラ購入時に付いていた8メガバイトと、自分で買った64メガバイトのみでした。撮影枚数は今とは比較になりません。今は合わせて5ギガ持っています。


屋内でのお接待

地蔵橋駅近くで声をかけられました。お茶でもどうですか・・・?
建物の中にお邪魔するのは初めてで、少し戸惑いましたが、応接上手で、リラックスさせてくださいました。昆布茶などご馳走になって、小一時間、恩山寺の桜が今はきれいだなど、ガイドしていただきました。
桜の大枝は、頂き物だそうですが、この辺では、こんな活け方があるようです。他所でも見かけました。

6年後、この辺を歩いた時には、もうお店は閉じており、近所の方の話では、引っ越して、ここには住んでいないとのことでした。


お金のお接待

一台のバンが私たちの先に止まりました。車を止めるには不適な場所なので、いぶかっていると、若い運転手が助手席に身体を寄せて、私たちを呼びました。
近寄ると、後部座席におばあさんが乗っていて、何かをしています。運転手はお孫さんらしく、「ばあちゃん、早く早く」と、なにかを急かしています。車は長く止められないからです。
おばあさんが財布から千円札を取り出し、お孫さんが受け取り、「おばあちゃんから、お接待です」と、私たちそれぞれに渡してくれました。(このような「お接待」があることを知らず)、事態を理解しきれない私たちを残して、車は去って行きました。お礼も満足に言えませんでした。


恩山寺へ

私の場合、飢えてはいません。乾いてもいません。物質的には、私はそれほど不足はしていません。「お接待」で頂くものが、欠かせないわけではありません。
けれど「お接待」をいただいて、私は癒やされます。見返りを求めない心に受けとめられ、安らぎを感じます。損得尽くの日常を、素直に省みることができます。
私は何故、受け入れられ、「お接待」いただけるのか。それは、お大師さんが同行してくださっているからです。この道が、弘法大師の道だからです。受け入れられたのは「私」ではなく、お大師さんが共にある「私」、です。そのことを忘れず、自らを見直したいと思います。 


恩山寺へ

ミカンをいただきました。売り物のミカンを、ビニール袋にいっぱい詰めて、下さいました。
北さんと分けて持ちましたが、それでも、ずしりと重くなりました。重みが「心」を伝えてきました。快い重さを楽しみつつ歩きました。


源義経上陸の地

義経の軍勢は、おりからの暴風もものかは、(正確には分かっていないそうですが)、この地に上陸し、屋島の戦いに赴きます。その後の義経の運命を暗示するかのような、逆櫓や出発時期をめぐる、梶原景時との対立話が、おもしろく伝わっています。

H21年、私は復旧なった「あずり峠」を越えますが、「あずり峠」とは、一説には、義経軍も「あずって越えた峠」ということです。「あずる」は、えらく手間取る、というような意味です。  (→あずり峠)


18番恩山寺

二人の女性遍路と知り合いになりました。「お接待」のミカンをお裾分けしたのがきっかけでした。
岐阜から、とのことでした。お二人とは、室戸まで相前後して歩き、薬王寺や野根では同じ宿に泊まることになります。
何事にも私たちより早手回しで、あれこれと教えられる度に、私たちはアタフタとあわてたものでした。


恩山寺裏山の桜

まだ小木でしたが、今はどうでしょうか。もう10年も前の写真です。
一番印象に残る桜は、「お京塚」の桜でしたが、この頃、アルバム公開はまったく念頭になく、ほとんどの写真に北さんが写っています。そんな訳で、掲載することができません。


19番立江寺

なるほど関所寺です。私たちは、ここでしばらく足止めされることになりました。
恩山寺で知り合ったお二人から、今日は「金子や」さんが休業だ、と教えられたからです。立江寺の宿も、お二人の予約で満室になった、とのことでした。
この時、時刻は13:00を過ぎておりました。私たちの間抜けぶりが知れるというものです。


宿探し

妙案とてなく、コーヒーでも飲みましょう、ということになりました。空転する頭を鎮める必要がありました。
私たちの会話を耳にして、相客の地元の方や店の人が心配し、いろいろ案を出してくださいました。写真は、地図を出して対策を考えてくださっている場面です。
「この先(沼江)に、遍路を無料で泊めている方がいる」、という話が出ました。今から考えると高田 治さんのことだったのでしょう。電話をかけてくださいましたが、あいにく通じず、お目にかかることはできませんでした。

高田さんのご逝去は、高田さんと親交をむすばれていた遍路の友人・毛呂山さんから、聞かされました。数多の善根を積まれた高田さんのご冥福を祈っています。
そして毛呂山さんは今、闘病中です。毛呂山さんの言では、「ゆっくりと、おだやかな日々を、少し頑張りながら」過ごしておられるとのこと、感じ入りました。病は、これまであまり気づくことなく過ごしてきた、「時」というものの存在を、改めての認識させてくれるようです。

ここでも、店先に、枝切りの桜が活けられています。


立江の白鷺橋

この後の行動について、迷いながら出した結論は、
① (厚かましくも)このコーヒー店に荷物を預かってもらい、萱原まで歩き、バスで引き返す。
② 牟岐線立江寺駅から赤石駅(小松島)に移動し、駅前の宿に泊まる。
③ 翌日、交通機関を使って萱原まで行き、そこから続きを歩いて鶴林寺に向かう、・・・でした。
2回目にして、早くも横着な歩き方です。 (→白鷺橋)




萱原へ向かう途中、櫛渕神社があり、その境内に、ちょっと珍しい木がありました。
カエデではありません。「フウ」と読みます。
この木は、この後もずっと「気になる木」で、いろいろと調べることになります。  (→楓の木) 


萱原バス停

萱原バス停はターミナルで、バスが方向転換するための広場があります。残念ながら当時は、そこはゴミ捨て場になっていて、小犬までが捨てられていました。
人への警戒心をすでに抱き始めており、やや距離をとっていますが、人恋しさを捨てることもできていません。腹を空かせているようですが、私たちが持っているのは立江寺前で買った、粘り気のある饅頭だけでした。小さくちぎって、やってみましたが、歯に付いて、食べにくそうでした。




次のバスまで一時間半もあります。萱原から坂を下りつつ、集落の中を歩かせてもらいました。庭に桜を植えているお宅がありました。桜の木は大きく枝を張ります。広い庭が必要です。
桜の里を楽しみました。


阿波赤石・小松島港

立江駅から電車で一駅、阿波赤石駅の前は小松島港です。立江川は前掲の白鷺橋が架かっている川です。
多くの方々に助けられて、なんとか無事に一日を終えることができました。
実は宿を巡る「ドタバタ」は、明日も起こります。それは、また後ほど。
3月25日 第三日目 晴 萱原-20番鶴林寺-21番太龍寺-宿


赤石駅

今日は三日目です。体調は、それなりに疲れてはいますが、悪くありません。朝食もしっかり食べました。心配のマメも、今のところは大丈夫です。
赤松駅から立江駅に戻り、駅前の立江タクシーで萱原に向かいました。


鶴林寺へ

難所を数えて、
「1に焼山、2にお鶴、3に太龍」、などというそうです。焼山は、初めての遍路で歩きました。鶴林寺、太龍寺は、今日です。まさに今日は「山場」です。


ローソン

勝浦川にぶつかるT字路にあるローソンです。鶴林寺に登る遍路たちが昼弁当や水を調達する場所となっているようです。何人もの歩き遍路が店内で物色していました。
私たちも加わりましたが、もうオニギリは、ありませんでした。商売がちょっと下手のようです。




道にあふれ出て咲く山吹。典型的な山吹の咲かせ方です。
11年を経た最近、北さんと話していて、この山吹が話題になりました。二人とも、強く印象づけられていたのでした。


大公孫樹

「金子や」さんの近くに公孫樹があります。ここで小休止しました。
「金子や」さんには、今回泊まり損ねて、以来、一度も泊まっていません。ただし、歩き遍路たちから度々聞かされた「金子や」さんの”悪評”を信じてのことではありません。
”悪評”は、いずれも、サービスに関わることでした。サービスは受けて当たり前、そんな甘えを、’悪評’を伝える言葉の裏に、私は感じてしまいました。


登る

いよいよ登りです。景色がどんどん下になってきます。


鶴林寺山門

恩山寺で知り合った二人が、「線路は続くよ、どこまでも」を、鼻歌で歌っていました。もちろん「遍路は行くよ、どこまでも」と歌っているわけです。自分にも覚えがある、そんな方もいらっしゃるのでは?私は、覚えがあります。

山門からも、けっこう距離があった、と記録しています。ホッとして、少し気が抜けたのかも知れません。




鶴林寺の上に巻層雲が出ていたのでしょう。暈が架かっているのに気づきました。ローソンで出会った人たちと共に、歓声を上げました。
その中に、恩山寺で知り合ったお二人もいました。お二人から干し芋をいただき、北さんのナイフで切って食べました。一緒にいた青年は、「食いちぎって」いました。残念ながら、私たちには、もう、その歯はありません。干し芋は、室戸まで、切っては食べ切っては食べしながら、持ち歩きました。


鶴林寺からの下り

ローソン出会いの人たちが、ひとり、また、ひとり、歩き始めました。どん尻は私たちでした。
急な下りです。坂道になると、斜めに道を切りながら下りました。まっすぐに降りると、爪を痛めそうだからです。


那賀川

鶴林寺から降りると那賀川が流れています。これから、太龍寺への登りが始まります。
現代では橋が架かっていますが、(橋の上からの撮影です)、かつては、川まで降りたのでしょう。「2にお鶴 3に太龍」が思われます。


太龍寺山門

・・・阿国太瀧嶽に躋り攀じ、土州 室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず。明星来影す。・・・「三教指帰」の序文です。
今日では、「躋り攀じ」(のぼり よじ)は「想像外の外」ですが、それでも険しい道でした。


舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)

日和佐の海を見て坐しています。「勤念す」、でしょうか。

太龍寺から少し下ったところに二軒の宿があります。電話をしたら、一軒は満室でした。もう一軒も、もし5分早く電話していたら、満室と断られたところでした。運がいいというか間がいいというか、まさに私たちの電話の直前、25名の団体からキャンセルがあり、代わりに泊めてもらえることになりました。25人用の部屋に、二人で泊まりました。
もし両方とも断られていたら、私たちはどうなった(どうした)のでしょうか。
3月26日 第4日目 晴のち雨 太龍寺(宿)-22番平等寺-(国道55号線)-23番薬王寺 

どうせ今日は薬王寺までしか行けないからと、足が速い人はゆっくり宿を出ました。それでも薬王寺に着いたのは、私達より早かったのですが。
私達の薬王寺着は15:40頃、早足の彼は14:00頃だったとのことです。私達が薬王寺に着いたとき、彼は街を散歩しておりました。


平等寺

大根峠の手前で、早足の人に追い抜かれました。
私たちの感想は、「こんないいところを足早に過ぎ去るなんて、もったいない」、でした。むろんケチをつけているのではありません。私たちの歩き方はこれでよい、ということです。

山岳の寺を見てきたからでしょうか、なにやらホッとする景色でした。


手水

平等寺のこれは、私のお気に入りです。

出発して間もなく、「食料買いましたか?」、と恩山寺のお二人に問われました。先の行程を考えると、ここで買っておく必要があるというのです。・・・なるほど・・・引き返して、巻寿司1本、パン、茶を買いました。
再出発。しばらく農家のおじさんと話しながら歩きました。田に水が張られており、これは関東よりも2ヶ月弱は早い、などと話したのでした。


月夜御水庵

月夜御水庵の手前で道が分からなくなり、車に停まってもらいました。若い男女が乗っていました。
この辺の人ではないらしく、分からないようでした。ところが二人は、地図をずっと見続け、去ろうとしません。なんとか私たちの力になろうとしてくれているのです。結局、分からなかったのですが、その時の申し訳なさそうな様子は、忘れられません。


きれいです

人も景色も美しい!


竹林・タケノコ畑

お婆さんと立ち話をしました。猪が掘り起こして食べてしまうので、困っているとのことでした。猪肉が美味しい、秋も深まった頃、(食べてあげにゃ可哀想じゃけんナ)、猪狩りをするのだけれど、数匹は捕り残してしまうのだ、といいます。犬がしきりと吠えていましたが、猪対策の犬で、夜も繋いでおくとのことでした。
イノシシ、ハクビシン、サルなどの被害は、この後、行く先々で耳にします。 (→対策


鉦打

鉦打(かねうち)は国道55号線への出口です。
当時は、粗大ゴミの不法投棄場になっていました。美しい景色とは別に、残念な事実もありました。
「徳島はゴミがひどくてな」と話してくれた人がいましたが、たしかに、鶴林寺への途中には車が捨てられていましたし、太龍寺からの下りでは、ゴミに埋まりそうな谷を見かけたのでした。

6年後に歩いたときは、ずいぶん改善されていました。


国道55号線

室戸96キロ 日和佐15キロ とあります。96㌔!思わずうなりました。
今日の私達の目標は、日和佐15キロです。


鉦打トンネル

遍路記録から:
室戸までに、17~19のトンネルを抜けなければならない。数に幅があるのは、迂回路のあるトンネルもあるからだ。私達は17のトンネルを抜けた。車との間に境(柵)がないトンネルがほとんどで、それは、それは、怖い。新しい難所だ。
車の音(エンジン音のみならず、タイヤの音がすごい)が、トンネルの中で反響し、拡大し、轟音となって迫ってくる。反響音の実験チューブに入っている状態だ。まず、音源(車)がトンネルに入った瞬間、巨大な音が発生する。そして音が、音量を上げながら追いかけてくる。
音が最大値に上がったところで車が通過する。突風が送り込まれてくる。すごく危険だ。菅笠が風を受け、浮き上がる。思わず立ちすくむ。前を行く北さんとの距離がどんどん離れてゆく。雨具をポンチョからカッパに替えておいて、本当によかった。

1に焼山、2にお鶴、3に太龍 に加えて、4に国(酷)道55号線、を数える人がいます。
とりわけトンネルは怖いのですが、この鉦打トンネルのように、比較的新しいものは、車道と歩道が柵で分離されていて、その点は助かります。


星越茶屋

12:20 星越茶屋着。一番奥の畳の席に座らせてもらい、靴を脱ぎ、脚を伸ばしました。うどんやおでんを、それぞれに注文し、買ってきた巻寿司なども出し、食べさせてもらいました。
蜜柑の「お接待」をいただき、ノートに記帳していると、恩山寺の二人がやってきました。道端で昼食したのだそうでした。しかし、おでんなどを注文、しばらく休んで行きました。
星越茶屋は、今は営業していません。(H21には)、代わって、「味登里」という店が営業していました。 (→味登里)


海賊舟

道が大きくカーブして、そこに「海賊舟」がある。「海賊舟」があれば、日和佐は近い、そう思って歩いてきました。
ありました-! 「舟」でした。

H21(6年後)、この道を歩きましたが、海賊舟は、’まだ’営業していました。頑張っていました。というのも、廃業した食堂やガソリンスタンをたくさん見てきたからです。


牟岐線

牟岐線とは立江以来の再会です。鉦打の辺りで接近していたのですが、姿は見えませんでした。
左の北河内谷川は、やがて日和佐川と合流し、日和佐湾に注ぎます。奥に、日和佐城が見えています。


薬王寺多宝塔

突然、右上に、多宝塔が見えました。ちょっとした感動でした。
15:40 薬王寺着です。恩山寺のお二人が、やや遅れて着きました。
納経を終えた頃、雨がぱらつき始めました。雨にも負けず、日和佐の街を散策しました。

恩山寺のお二人のうち、お一方は、マメが痛そうでした。座るのも苦労のようでした。ただし、翌々日、野根の宿で会ったときは、すたすたと歩いておられ、替わって私が、歩くのも苦労していることになります。その様子は次回です。お楽しみに。
道を挟んで新しく建った別館に、二人で泊まりました。
3月27日 第五日目 雨のち晴  薬王寺(宿)-・・・鯖大師-海部(宿)

夜間、激しく雨が降ったようでした。朝も雨が残り、雨具を着けての出発とはなりましたが、すぐ止んでくれました。


日和佐トンネル

このトンネルは車道との分離がありません。写真の右に「お遍路さんに注意」の、ドライバー向け看板が写っています。


寒葉坂峠の自販機コーナー

最初の目標が「寒葉(かんば)」でした。薬王寺から10キロほど先です。
寒葉までは、川が進行方向から流れ下ってきますが、その先は、逆になり、進行方向に向かって流れてゆきます。この川は橘川で、牟岐の海に注ぎます。寒葉坂が分水嶺になっているのでした。
峠の自販機コーナーで休んでいると、アメリカ人の若者たちが車で立ち寄りました。陽気な奴らです。サーファーのようでした。


室戸へ

鉦打での標示は(室戸まで)96㌔でした。ここの標示は68キロです。私にしては、まあ、よく歩いています。


橘川の魚道

土地の人の話では、川の水は飲用にも適するとのことでした。きれいなことは、確かです。


牟岐

サーフポイント・MUGI をイメージづける看板です。


牟岐の休憩所

看板が立っていました。
「お遍路さん ご苦労様です 休憩所あります お気軽にお立ち寄り下さい 牟岐警察署」
警察じゃ、気軽というわけにも・・・、等と話していると、通りの反対側から「お母さん」たちが呼びかけてくれました。見ると、テントが張ってあり、「お遍路さん 休憩所」と書いてあります。
昼食後、歩き始めたばかりでしたが、寄せてもらいました。あとで知りましたが、有名な「お接待所」でした。蛍光ベルト(まだ愛用している)、飴の袋、お茶、土地のおばあちゃんが作った箸、などを戴きました。
H21に歩いたときには、警察署の敷地から、道の反対側に移動していました。通過遍路数の資料などをいただき、設立の経緯なども話していただきました。  (→牟岐お接待所) 


いただいた蛍光ベルト


古江浜




しばらく昼寝でもしていたいほど穏やかな日でした。流れ藻をすくう男女が荒磯に散らばっています。どうやら解禁日だったようです。ひとつまみ食べさせてもらいました。潮の香を味わいました。


イタドリ

高知の人たちはイタドリがお好きのようです。皮をむいて、そのままかじっても、とりわけ疲れているときは、酸っぱい味が美味しいです。塩を付けて食べてもよく、、軽くゆでて、砂糖、醤油、みりんで仕上げてもおいしいです。室戸岬の宿で食べたイタドリは、キャラブキにも似て、美味でした。


景色どころではない!

古江浜の辺で右足に異常を感じていました。しかし放置して歩いてきました。足裏にプチッという感じとともに痛みが走りました。マメが裂けたのでした。
事前に読んだ本に曰く、マメの痛みは「剣山の上を歩いているが如くで・・・」、また曰く、「傷口にワサビを塗られたようで・・・」、また曰く、「靴を脱いでみると血みどろで・・・」。
ちょっと大げさではないかと思っていましたが、そうとも言えない事態となっていました。
開けてみると、右足親指の外側、小指の内側、湧泉の辺から親指の付け根にかけて、マメができていました。裂けたのは湧泉のマメです。


鯖大師

湧泉は、いわば足裏の急所です。一歩踏む毎に、ズーンと重い痛みが上るようになりました。
早く宿に入って休みたく、鯖大師は通過したいと、内心では思ったのですが、むろん口には出せませんでした。

海部の宿に着いたのが15:30でした。この間、かなりの早足で歩いています。ゆっくり歩くと、一歩一歩、痛みを感じてしまいます。早足で、麻痺しているうちに歩いてしまった、というわけです。

翌朝起きると、マメの手入れが不十分だったことがわかりました。歩くと痛みがあります。
これ以降、マメの痛み+疲労の、厳しい歩きとなります。次回更新は、11月12日の予定です。

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