〈まえがき〉
『ザ・ビートルズ:Get Back』が鳴り物入りでディズニープラスで配信スタートしてから、1年が過ぎた。これを見たいばっかりに慌ててチャンネル加入した人は、世界にいったい何人いるだろう。僕もそのひとりだ。
2021年11月25日、第1部の配信当日。さっそく鼻をフンフン膨らませながら見たが、第2部の途中でいったんやめた。
面白くない? 飽きた? 逆。情報量があまりにも多過ぎるのだ。
例えば、ジョージ・ハリスンがエリック・クラプトンの話をする場面。ジョージのおしりの後ろにロバート・ジョンソンのLPが置かれている(スタジオに持ち込んでいる)カットが、さらっとインサートされる。それだけで、僕のような万年初級ファンでもジジ~ンとくる。天下のビートルズのメンバーが、最近仲良くなったミュージシャンに「いいっすよ」と教えてもらった古いブルースの復刻レコードを、すぐに買って参考にしているんだぜ。泣けてくるじゃないか。
そんな、ああ、もう加入のモトが取れたと満足できる場面ばっかり。なので余計、続きを見ようとすればするほど、取りこぼしているものがないかが気になって仕方なくなる。
それだけの作品なので、すでに素晴らしい解説文は幾つも出ている。
ただ、書かれている識者の方々の興味の領域やアングルは当然それぞれ異なるので、取り上げている内容も取捨選択されている。
僕がガイドとして欲しかったのは、古典の解読書やゲームの完全攻略本のように、『ザ・ビートルズ:Get Back』の画面の中にある、全部の要素を字に起こしている本か記事だった。そういうものは、なかなかあるようでないんだなあ……と思っているうちに、1年が経った。
いや待て、こういう本があればいいのに、と人さまに期待したままでいるのはどうも姿勢としてよろしくないな、欲しければ自分で作ろう、と思い立った。2022年12月8日のことだ。
こう書くと奇縁めいているようだが、12月8日というのはどうしたってジョン・レノンやビートルズの字が目に飛び込んでくる日だ。それで思いついたのだから、まるっきり単純な思考である。
当初は、数日、何時間かずつかければ終わるものと高を括っていた。
張り切って始めてみてすぐ、全3部の内容を数日間で書き出すなんて、とてもムリだと分かった。
さらに進めていくと、本編中の1日にあたるシークエンスを書き出すだけでも相当気の長い作業になると分かった。
その前に、プロローグにあたる、駆け足でビートルズのヒストリーを紹介していくパートがある。これがまた細かく洗い出そうとすると……気が遠くなった。
始めてから深く後悔したが、始めてしまったものは仕方ない。
今まで自分がザ・ビートルズにどれだけお世話になってきたか考えてみろ、である。恩返しのつもりでがんばろう。
といっても三巻の長い経典を書き写す、修行僧のような作業になるし、フリーランスの僕の仕事には波がある。自分だけ用のメモのつもりにしないほうがいい。仕事にかかる時間が増えるようになったら、間違いなく途中で投げ出す。自分に縛りをかける意味でも、できたところからブログに上げることにする。
事前に以下の言い訳をさせてくださいませ。
★音楽全般はまるで素人、聴くだけの人間なので、楽器や機材などの具体、楽理については淡白なチェックに留まっています。
★映像版『アンソロジー』(1995年)はレーザーディスクでしか持っていず、再生用デッキも壊れて久しいので、アーカイブ映像の初出・既出の違いは判断が付かないでいます。
★定番として名高い、マーク・ルイソンの調査によるレコーディング記録を訳した本を持ってはいたのですが、仕事が少ない時に買い取りに出してしまいました……。その代わり、ルイソンのデータを引用しているネットの記事はいろいろ参考にさせてもらっています。
とにかくここでの僕の目的は、全場面を書いておく、ということで。それぞれの専門の方が補足してくださればありがたいです。
プロローグ
〈メモ〉
ここで僕が書き取っているテロップや発言の日本語は、ディズニープラスの日本語字幕機能におおよそ基づいている。あらかじめご了承ください。またテロップの内容を表す場合は、Tと表記している。
○まず、黒い画面に白文字のテロップによる前説。
T「“ゲット・バック”プロジェクトは/60時間以上の映像と150時間以上の音声を残した」
T「編集に際し様々な選択を余儀なくされた」
T「音声のみの素材は映像を補完してくれた」
T「本作制作陣は出来事や関わった人物を/正確に描くよう常に心がけた」
T「本作はあからさまな表現や/成人向けの話題、喫煙場面を含む」
○アップル社のロゴマーク。
○監督をつとめたピーター・ジャクソンが拠点とする会社、ウィングナット・フィルムズの社名。
○「1956」のテロップと共に、地図から戦後のリヴァプールの映像へ。大きな港湾都市だったことが示される。
○当時のジョン・レノンのステージ写真と、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンの写真。
T「16歳のジョン・レノンはクォリーメンのリーダー/15歳のポール・マッカートニーを/バンドに誘う/そのすぐ後に14歳のジョージ・ハリスンが加入」
T「数年後 彼らのバンドはザ・ビートルズと改名」
♪「イン・スパイト・オブ・オール・ザ・デインジャー」※1958年に録音され、『アンソロジー1』(95年)で公式発表されたクォリーメン時代の曲
○「1960」のテロップと共に、3人とスチュアート・サトクリフ、ピート・ベストがメンバーだった時代の写真。
T「ハンブルクで1晩8時間演奏する」
○「1961」のテロップが出て、キァヴァーン・クラブでの演奏~「1962」のテロップ。グラナダ・テレビが収録した映像。
♪「サム・アザー・ガイ」
T「帰国しキャヴァーン・クラブに定期出演」
T「地元のトップ・ドラマー、リンゴ・スターが加入」
〈メモ〉
「サム・アザー・ガイ」はいかにもビートルズ初期のオリジナルらしく聴こえるが、リーバー&ストーラー作によるリッチー・ヴァレントの当時のヒット曲。
T「レコード店主ブライアン・エプスタインが興味を持ち/マネージャーの申し出を」
○ブライアン・エプスタインのインタビュー映像。会ってすぐに彼らの音楽やユーモアに惚れ込みました、と語る。
♪「ラブ・ミー・ドゥ」
〈メモ〉
「ラブ・ミー・ドゥ」は62年10月発売のデビュー曲だが、映像は、1963年の秋に放送されたBBCの番組『ザ・マージー・サウンド』のために8月、サウスポートのリトル・シアターで撮影したもの。デビュー以前も以降も連日のようにステージをこなしているので、すっかりファンが付いている。
○公演会場の前の人ごみ。4人の笑顔をアップで捉えたカラー映像。
〈メモ〉
この映像は、パテ社の短編ニュース映画「THE BEATLES COME TO TOWN」からの抜粋。1963年11月にマンチェスターのABCシアターで行われた公演を撮影している。ただ、看板には6月30日とある。1963年6月30日には、イギリスの避暑地グレート・ヤーマスで公演したと記録にあるので、「COME TO TOWN」はマンチェスターでの公演当日だけでなく、よそで撮影した素材を利用して成り立っているようだ。
○「1963」のテロップと共に、演奏。
♪「プリーズ・プリーズ・ミー」
〈メモ〉
これは1964年の『エド・サリヴァン・ショー』の映像。アメリカ上陸を示す前に使っている。ここらへん、作り手はちょっとずつズルをしているのだが……武士の情け、気がつかなかったことにしよう。
○レコーディング風景。マーティンのうしろでジョンがおどける。
T「プロデューサー ジョージ・マーティンの下/英国ナンバー1グループへ」
♪「ツイスト・アンド・シャウト」
○ファンが増え、警官が出動するようになったようすと、インタビュー。
●ジョージ「(今の人気が)ずっと続くわけないよ」
T「“ビートルマニア”現象が全英を席巻する」
♪「シー・ラヴズ・ユー」
〈メモ〉
「シー・ラブズ・ユー」の演奏は再び「THE BEATLES COME TO TOWN」から。このニュース映画と、アニマルズやハーマンズ・ハーミッツなどのステージ映像が組み合わされた映画が1964年の『ポップ・ギア』(翌年日本公開)で、さらに2016年、『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』の中にも組み込まれた。
○「1964」のテロップと共に、4人が飛行機に乗り込む姿を記録した映像。空港はファンでごった返す。
♪「抱きしめたい」
●ニュース映画のナレーション「ロンドンの空港は大混乱/ビートルズ アメリカへ」「ポールとジョンの曲は/全米で通用するのか?」
○続けて、アメリカでの空港のファンの熱烈な出迎えと、空港での記者会見。
♪「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」
〈メモ〉
ビートルズのイギリスでのシングル発売は、
・1枚目「ラヴ・ミー・ドゥ」(1962年10月5日)
・2枚目「プリーズ・プリーズ・ミー」(1963年1月11日)
・3枚目「フロム・ミー・トゥ・ユー」(1963年4月12日)
・4枚目「シー・ラヴズ・ユー」(1963年8月23日)
・5枚目「抱きしめたい」(1964年3月20日)
の順番。本編のイントロダクションはニューシングルのたびに人気が爆発している様をうまく構成している。なのに、なぜ「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」のように比較的地味なファースト収録曲を? といったん思わせるのだが、同曲は64年3月にアメリカで独自にシングルになり、ピルボードで2位のヒットになっているのだった。ここらへんは作り手、芸が細かい。
○「抱きしめたい」のイントロと集まるファンの映像で畳み掛けて、
○『エド・サリヴァン・ショー』のエド・サリヴァンによる紹介。
♪「オール・マイ・ラヴィング」
〈メモ〉
ビートルズがアメリカに到着したのは2月7日で、ニューヨークのCBSスタジオで『エド・サリヴァン・ショー』収録に臨んだのは9日。視聴率は70%以上だったと言われるこの出演で、最初に披露したのが「オール・マイ・ラヴィング」だった。
〈メモ〉
アメリカ初上陸の喧騒ぶりは、ムービートーン社のニュース映画「BEATLES HIT NEWYORK!」やユニバーサル社のニュース映画などから組み合わされている。ただ、ムービートーンは当時アメリカとイギリス両方にあって、どちらが撮影したのかは不明だし、ニュース・フィルムの出典を全て押さえるのは、僕の能力では不可能……。
○イギリスに帰国。やはりファンの熱烈な出迎えと、凱旋インタビュー。
○どこに行ってもファンに囲まれ、警官隊にガードされる。
♪「エイト・デイズ・ア・ウィーク」
●ニュース映画のナレーション「今世紀最大のポップ音楽現象」
●インタビュー「追っかけから逃げたことは?」 リンゴ「向こうが僕から二度逃げた」
♪「ア・ハード・デイズ・ナイト」
○続く海外ツアー、アワードなどへの出席、ファンの歓声。誇らしげに見守るエプスタイン、と畳み掛ける構成。
♪「キャント・バイ・ミー・ラブ」※テレビ・スタジオでの客入れの形での演奏
〈メモ〉
「キャント・バイ・ミー・ラブ」の映像は、64年の特番『AROUND THE BEATLES』より。ビートルズが演奏するようすは、なるたけテレビから優先して選ばれている節がある。当時のビートルズが叩き上げのライブ・バンドであると同時に、テレビ(およびテレビ業界)とかなり距離の近い存在だったことを、作り手は少しずつ本編への誘導として印象付けている。
○どこに行ってもファンの列、かわいい店頭用ポップといったカットでアイドル人気が示されたあと、
○映画『ハード・デイズ・ナイト』の一場面。なぜか、列車の中で〈ポールの祖父〉と乗り合わせることになる、特に見せ場でもないシーンを選んでいる。
♪「恋する二人(アイ・シュッド・ハヴ・ノウン・ベター)」
〈メモ〉
初主演映画のもともとの邦題は『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』。ファン以外にも敷衍したおなじみのタイトルなのだが、2001年のリバイバル公開時に『ハード・デイズ・ナイト』と改題されたので、こちらでも後者で統一させてもらう。
○「1965」のテロップと共に、『ヘルプ!4人はアイドル』公開劇場の外観。
○『ヘルプ!4人はアイドル』の場面いくつか。リチャード・レスターが用意したギャグに、4人一緒に取り組んでいる姿を優先的に。
●「他に野心は?」というインタビューに、ジョージ「宇宙飛行士になりたい」。
○ステージで歌うリンゴ。シェイ・スタジアムでの演奏。
♪「アクト・ナチュラリー」
〈メモ〉
1965年8月の、ニューヨークのシェイ・スタジアム(メッツのホームグラウンドだった)での公演は、初のスタジアムでの音楽公演の成功例で、5万人以上の観客を集めた当時の最高記録として世界の芸能史に残る。それだけ待ち望むファンがいて、客席との距離が近いと危険な状態になっていた、セキュリティ面での理由が大きかったと言われている。
○さらにツアーは続く。4人の後ろに引率教師のごとくエプスタインがいて、全部ではないだろうが、要所要所で帯同していたことが確認できる。この映像はパテ社のニュース映画からのもの。
♪「イエスタデイ」※65年の『エド・サリヴァン・ショー』での演奏
○移動。車から降りて、カメラに向かってふざけるジョン。
♪「ドライブ・マイ・カー」
○さらに車で移動。目的地は宮殿の門。追いかけてなだれ込むファン達。
○65年10月、大英帝国勲章を授与される。
〈メモ〉
このあたりは、熱狂する女の子達→ますます高まる人気→さらに熱狂する女の子達→空前の人気……がインフレーションのように繰り返され、書き出していてもイヤになってくる。アーカイブを編集したスタッフはもっともっと大変だったろう。ハーメルンの笛吹き男のような、怪物的な何かが生まれて誰にも止められなくなっていることが、しつこい編集によってジワジワと強調されている。
宮殿前に集まった女の子達の騒ぎに、中年男性が首を振りながら苦笑してみせる。自分もそわそわカメラを持って来ているくせにね。こういうおじさんの、傍から見ていて恥ずかしい感じは、古今東西変わらないんだな。
○「1966」のテロップと共に、アニメーション映画『イエロー・サブマリン』の場面。
♪「イエロー・サブマリン」
〈メモ〉
「イエロー・サブマリン」は66年のシングルだが、映画の完成は1968年。
○マニラでビートルズのレコードが焼かれる。ジョンに抱きつくファンを引きはがすイギリスの警官。
○インタビュー。マニラでは散々な思いをしたと語るジョンとジョージ。
♪「タックス・マン」
〈メモ〉
66年6月の日本公演に続いて、7月にはフィリピン公演を行うが、当時の大統領夫人イメルダ・マルコスの歓迎パーティーをすっぽかした(招待の話が4人まで伝わっていなかったなど諸説ある)ことが国辱的な振る舞いとして広がり、ビートルズ一行は身の危険を感じる事態を味わった。
当時の、ビートルズの存在が大きくなり過ぎた状況を強調するのに外せない一件だが、イギリスでファンと護衛する警官の間でもみくちゃになるジョンの姿を、マニラでの騒ぎのように錯覚させる編集は、ドキュメンタリーとしてはあまり誉められた手ではない。
○66年、ジョンの「ビートルズはキリストより有名」発言騒動に対する会見とインタビュー、複数の映像による構成。
●記者「今回の宗教問題について釈明するつもりは?」
●エプスタイン「ジョン曰く、“話した内容が誤解されて伝わっている”」
●ジョン「キリストより優れてるとか偉大だとは言っていない」
●ポール「前回の記者会見と違って/軽妙さがないと言うけど/状況が深刻だからね」
○「ビートルズ ゴーホーム」などと書いた紙を掲げて歩く人、レコードを集めて燃やす人達。
○ショーを中止させる、とテレビの取材で宣言するKKKのメンバー。
♪「トゥモロー・ネバー・ノウズ」
T「1966年末 4人は今後ツアーは行わないと決定」
〈メモ〉
66年、マニラに続いて起きた騒動は、もともとイギリスの新聞に載っていたジョンの発言がアメリカ・ツアーの前に紹介されたことから起こり、特に熱心なキリスト教徒の多いバイブル・ベルトの地域で大きなボイコット運動になった。事の経緯は、詳しくはここでは整理して紹介しきれないが、見出しの切り取りが本文とは違う意味になって独り歩きしてしてしまうケースのハシリと思ってもらえればいい。ビートルズは「炎上」するにしても大したものだ。ほんとに焚書ならぬ焚盤集会まで行われるんだから。
ただ、数年後に「God is a concept」と歌ってみせることになるジョンなので、ビートルズの人気と相対化させる形でキリスト教が形骸化されている現状を批判した、その発言の意味自体は軽率なものではないだろう。でも、それを批評家が言うのと当事者が言うのでは受け取り方が全く違ってくる。世界のアイドルのリーダー格(虚像)と、皮肉屋のいらつき兄さん(実像)のズレが、初めて摩擦となってきたのがこの頃なのか。
〈メモ〉
この2つの騒動が、人前に出続ける超ハード・スケジュールな日々を一段落させるトリガーとなった。見ている人にはそれだけ分かればよい、という判断によって、2つめのボイコット運動はどこの国・地域での話だと特定される言葉は出てこない。KKKのメンバーが出ているのだから大よそ察してください、という編集。ただし、KKKのメンバーはメンフィスの有名な会場、ミッドサウス・コロシアムの前で取材を受けているのが、画面をよく見れば分かる。
それに当時は、ケネディ暗殺からまだ3年も経っていない。
〈メモ〉
また、作り手はここまで、明るい状況でのインタビューではジョージとリンゴのジョークを優先して取り上げ、映像ではジョンのひょうきんな面をフィーチャーしてきた。ここにきて初めてポールの、みんなの心情を代弁するコメントが取り上げられている。
この編集の匙加減も、メンバー内の力学の変化の巧みな絵解きであり、本編への巧みな伏線となっている。今では信じ難いが、デビューしてしばらくは、ポールは4人のなかでも影が薄い部類だった。そんなニュアンスで紹介されている当時の記事を僕も幾つか訳文で読んだことがある。ところがそんなポールが、ビートルズがデビュー以来初めてのしんどい状況を迎えたあたりから、だんだんとリーダーシップを持つようになっていた。
○「1967」のテロップと共に、プロモーション・フィルム。
♪「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」
♪「ペニー・レイン」
T「スタジオで時間が使えるようになり/彼らの音楽は複雑になる」
〈メモ〉
プロモーション・フィルムの先駆けはビートルズ、とよく言われる。せっかくなので書いておくが、この認識には多少注意が必要。楽曲単位の短編フィルムならば、戦前のジャズ・ミュージシャンもよく作っているからだ。
ただ、その伝統を、過密スケジュールでテレビ出演が難しくなってきた代案としてビートルズが再活用するようになった点―つまり、映画館での長編の併映用からテレビのオンエア用へと目的が変わった点と、歌唱・演奏する姿のない、イメージ主体の映像を作ったのはビートルズが初めてだった点においては、現在のPVのありかたの源流はやはり彼らだったと言ってよいだろう。
○「ハロー・グッドバイ」のプロモーション・フィルムに被せて、
♪「サージェント・ペパーズ・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
●リンゴ、屋外での何かの取材に「問題ないよ」と答える。
○続けてジョージ、ジョンのオフでのようすを捕らえた映像と、テレビに出ている時のポール、その前に(少し時間が遡って)移動途中で寒そうにしているジョンとロード・マネージャーのマル・エヴァンス、4人の会見映像と続く。
♪「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」
○『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケット写真のアウトテイクが次々とモンタージュ。
♪「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」
○テレビ番組『われらの世界 OUR WORLD』での演奏。
♪「愛こそはすべて(オール・ユー・ニード・イズ・ラブ)」
○「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のプロモーション・フィルム。
♪「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」
○67年のエプスタイン死去を大きく伝えるデイリー・ミラー紙8月28日の1面
〈メモ〉
1967年のシークエンスは、楽曲の発表の順番が錯綜しているので書き出しているうち混乱しかけたし、なぜここにこのカットがあるのか、と意味がはかりかねる箇所もある。
どうも(良く取ってみるならば)、同じ1967年に起きたことなら時系列にこだわるのはよそう、むしろ少しグチャグチャにして、ファンを迷わせよう、と編集段階で大胆に思い切った節がある。ライブをやめて凝ったレコーディングに集中したバンドが創造性を一段と高めた―賭けに大勝ちした高揚と、育ての親を失うショックをほぼ同時期にまとめて味わったことを強調したほうがよい、ということだ。
大体、ビートルズのヒストリー構成もので、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がいかに名盤だったかという話に触れないなんて事態は、このプロローグ・パートが初めてではないだろうか。これから始まる本編のテーマのために、スタジオでの作り込み時代を〈悪役〉に回している。
〈メモ〉
一方でビートルズは当時のミュージシャンの中では破格に、映像の面でも研ぎ澄まされた存在になっていた。
「ハロー・グッドバイ」ではポールが監督に挑戦した。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」ではオーケストラが入る日のようすをビートルズのスタッフが撮影しながら、同時に、まるで秘密の仮装パーティーが行われているような演出を施した。全体がメンバーの意向に沿って作られたので、ビートルズ自身が監督したということになっている。これが、明らかに当時のアンダーグラウンド映画の影響下にある1本の短編作として、かなり抜きん出ているのだ。
録音の場に映画撮影を持ち込むと、刺激があって面白い。この手応えが、14の国による世界同時生中継番組『われらの世界 OUR WORLD』への、スタジオでの生演奏の披露(といっても全部ではなく、すでに録音済みのバッキングトラックに合わせてだが)による参加というチャレンジにつながっている。
ちなみに、BBCが仕切った『われらの世界 OUR WORLD』にアジア地域で唯一参加したのは日本のNHK。NHKアーカイブスのサイトで検索すれば、日本が担当した時間帯の抜粋動画を見ることができる。数分間でも、生中継の緊張感と、国際的な企画に参加している晴れがましい気持ちがビンビン伝わってくる。ビートルズはこういう、映像メディアの最新の動きにも直に触れていたのだ、と知っておくうえでも参考になる。
○『マジカル・ミステリー・ツアー』の場面アラカルト。
♪「マジカル・ミステリー・ツアー」
○デイリー・ミラー紙8月30日の見出し「新ボス不在/自らマネージメント」。
○『マジカル・ミステリー・ツアー』の場面アラカルトに戻る。
♪「アイム・ザ・ウォルラス」
〈メモ〉
テレビ用の映画『マジカル・ミステリー・ツアー』の中身については、僕がここでいろいろ書くまでもないだろう。それでも、『ザ・ビートルズ:Get Back』のプロローグの一部として考えると……物凄い前振りだ、これは。
・エプスタインの死後、すぐにアイデアを実行に移している。悲しむ暇もなくというか、躁的なほど創作意欲が止まらなくなっているのを急に止めるのが怖かったからだ、という気もする。
・決まったストーリーや結末を用意せず、友人知人とバスに乗りこんで田舎に行き、どんなハプニングが起きても取りこんでやろう。―結果的に、都合の良いイベントは起きなかったし、うまくまとめるプロを呼ばなかったので、散漫と言えばこんなに散漫な映画もない。そういう結果になった。
・しかしこのポールのアイデア自体は、冷静に考えるとドがつく級の天才の産物である。映画とは違うテレビだけの面白さを、テレビの制作状況が揃わない前に掴んでいた。端的に言えば『マジカル・ミステリー・ツアー』は、旅番組の原点なのだ(ある程度は事前に仕込んでいないと成立しない、という教訓も含めての)。あらゆるバス旅もの、散歩ものは、幻の天才TVディレクター、ポール・マッカートニーの影響下にあるとさえ言っていい。
・ポールは『マジカル・ミステリー・ツアー』について、当時から不評を意に介さず、次はもっと上手くやればいいだけ、とコメントしていたと伝えられる。つまり、やってみないとどんなラストが待ち受けるか分からないコンセプトそのものが、ポールは好きなのだ(ウイングスやソロアルバムのムラの大きさから逆算しても、それは窺える)。ただし、次に同じようなことをやる時はさすがにディレクターには入ってもらおう。そういう心境だったのではないか。
・ただし。そういうひらめきタイプのクリエイターは、協働するスタッフを物凄く消耗させるものだ。『マジカル・ミステリー・ツアー』はポールの自信作ではあったけど、ザ・ビートルズの自信作かというと少し違う。
○「1968」のテロップと共に、ニュース映画。北インド・リシケシュの瞑想施設にいるマハリシュ。
○カラー映像。空港でインドに降り立ったを訪れた4人。プライベートなので、歓迎されるが雰囲気はおだやか。
♪「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」
〈メモ〉
ナレーションが入っているモノクロ映像は、パテ社のニュース映画。カラーのほうは同行者のプライベート・フィルムだろう。
ジョージの提案によるメンバーと家族揃ってのインド行き、マハリシュ・マヘーシュ・ヨーギーの施設滞在については、行き詰まりを感じ始めてきたビートルズの次の方向性のきっかけ探しなどいろいろと掘れる面はあるのだが、凄くあっさり済ませている。ふつうならジョージがシタールを弾いている曲を当てるところなのに、なぜか「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」。あまり印象付けたくない、出来るものなら流して見落としてほしい、という意図すら感じるぞ。
あまりここで寄り道をしてヘンな色を付けたくない。その気持ちは理解できる。ジョージはマハリシュの思想に惚れ込んで作家としての軸にすらしたけど、他のメンバーはそれほどは熱心にはならず、特にジョンは批判を歌にするようになった(「セクシー・セディ」)。そんなことを説明したらひたすら長くなる。
でも、ファンの間でもやんわり気の使う話題だったビートルズとマハリシュの関係は、もう少しポジティブに検討してよいものだ、と僕は思っている。アメリカのビートニクの間で禅が流行ったのと同じで、戦後の欧米の建設の時代に育った知的青年が別の文明の智慧を学ぶ指向は、ひとつの大きな潮流だった。好奇心と謙虚の思いで学び、試したうえで、合うか合わないか冷静に判断すればよいのである。
ジョージにはマハリシュの説く超越瞑想が合った。しっくりきた。ジョンには向いてなかった。なにしろジョンは後で、社会的・政治的な動きにコミットするほうに熱が入ることになる。そっちはジョージはまるで乗れなかったのだから、お互いさまだ。(ただ、不幸なことに、その違いは微妙なヒビの原因になってしまったのだが、プロローグではそこはまだ伏せられている)
○スタジオのコントロール・ルームで話し合うポール、ジョージ、マーティンら。
T「彼らはテープ速度の調整、ループ、逆再生などを開拓」
○ヘッドフォンをつけて演奏するジョンとジョージ、リンゴ。
○スタジオの床に座り込んで話すともなく話すポールとジョン。後ろにリンゴ。
♪「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」
○ポール、スタジオでひとりで歌う
♪「ブラックバード」
T「マルチトラックの導入で全員の演奏は稀に」
〈メモ〉
ここらへんは、僕が知らない(『アンソロジー』にあったのを覚えていない)だけかもしれないが、珍しい映像が立て続けに出てくる。
スタジオのコントロール・ルームで話し合うポール、ジョージ、マーティンらの姿は「ヘイ・ジュード」録音風景を撮影した時のもので、それを『ホワイト・アルバム』のものとして当てている。「ヘイ・ジュード」の録音風景は、イギリス音楽協会が国内の音楽紹介目的で作ったドキュメンタリー「MUSIC!」のために撮影された。
その後の、スタジオでの演奏と座り込んでいる姿。これは68年2月に「レディ・マドンナ」「ヘイ・ブルドッグ」のプロモーション・フィルムをまとめて撮った時のものだ。完成品の中にはないカットだが、ジョンとポールのシャツの柄、リンゴのネクタイの黄色が同じなのでそうと分かる。ジョンとポールがぼんやり座っている姿、ノリノリで歌い踊る撮影が終わって一息ついているところだとしたら、なんか、かわいい。
それにポールがひとりで歌っているのは、撮影はされたもののボツになったという「ブラックバード」のプロモーションフィルムだろうか……?
●ジョンとヨーコ、取材に答える。「付き合ってないよ」と言いながらキス。
○ポールとジョン、アップル創立についての取材に答える。
●ジョン「アップルは僕らの会社だ。扱うのはレコード、映画、関連するエレクトロニクス……あと何だっけ」 ポール「いろいろだよ」
○スタジオでの録音。ジョンの隣にヨーコが座っている。
♪「ヘイ・ジュード」A
○コントロール・ルームにいるジョージとマーティンら。
〈メモ〉
1968年のシークエンスも作り手はけっこういじっている。実際の時系列はこうだ。
・2月 シングル「レディ・マドンナ」と「ヘイ・ブルドッグ」録音と撮影
・3月 全員でインドのマハリシュ訪問
・5月 アップル設立発表
・同月 『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』レコーディング始まる
・この頃、ジョン、ヨーコ・オノとの不倫交際がきっかけで妻シンシアと別居
・7月 『イエロー・サブマリン』公開
・7月末 シングル「ヘイ・ジュード」録音
・8月末 「ヘイ・ジュード」発売
・9月4日 「ヘイ・ジュード」プロモーションフィルム撮影
・10月 『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』レコーディング終了
・11月 『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』発売
○別のスタジオで、「ヘイ・ジュード」の後半を歌い出すポール。
♪「ヘイ・ジュード」B※ここから9月4日のプロモーションフィルムに
○見学者が集まってきて、一緒にコーラス。演奏とコーラスは、この後から始まる設定説明テロップが終るまで続く。
T「1968年9月 最新シングルのプロモを/トゥイッケナム・スタジオで撮影」
T「観客を前にした演奏は実に2年ぶりである」
T「この経験に満足した4人は/次回作をライブ盤にすると決める」
T「ライブはテレビ特番として放送することに」
T「ライブ演奏のため/オーバーダブ(重ね撮り)や音の加工は一切なしである」
○映画『マジック・クリスチャン』のポスター。
T「時間は限られていた/映画『マジック・クリスチャン』の撮影で」
T「1月24日にリンゴが不在となる」
○本編素材より、デニス・オデール。
T「製作のアップル・フィルム デニス・オデールは」
T「すでにトゥイッケナム・スタジオを押さえていた」
○トゥイッケナム・スタジオの看板と外観写真。
T「彼はリハーサル場にステージ1を勧めた」
○トゥイッケナム・スタジオ第1ステージの広い空の絵。
T「後のテレビ特番もここで撮影が可能だ」
T「1月最終週には映画に明け渡す必要がある」
○本編素材より、マイケル・リンゼイ=ホッグ。
T「マイケル=リンゼイ・ホッグ監督がリハーサルを撮り」
T「その映像は特番に組み込むことに」
○カレンダー画面。18日を示す。
T「最終リハーサルは1月18日に決定」
○カレンダー画面。19日と20日を示す。
T「観客を前に2回演奏が行われ/それを撮影しすぐ放送の予定だ」
○カレンダー画面。1月2日にズーム。
(プロローグはここまで)
〈メモ〉
インド行きがあまり楽しい結果に終わらなかったのと、『ホワイト・アルバム』で各自バラバラのレコーディングが多くなったために、4人の間に隙間風が生まれた(実際、リンゴが一時脱退を表明する騒動が起きる)。そんなバンドを立て直すため、原点に返ってシンプルなセッションをやろう、とポールが提案した。
そこまでは、プロローグでは具体的に説明していない。なのに、素で見ている人も、それはいい考えだね、とすんなり同意できるようになっている。それだけ前半で、しゃかりき汗かきライブ・バンドだった姿をしつこい位に見せていたのが効いている。いろいろあって迷いそうな時は、ちょっと昔のやり方を思い出してみよう。これは、誰にでも思い当たる、心を寄せやすい状況だ。
『ザ・ビートルズ:Get Back』のプロローグは11分弱。よくまあ、ここまで凝縮してまとめたものだ。本編とは違う脳みそが必要な作業なので、ピーター・ジャクソンにジャッジは委ねるとして、ベーシックな流れを構成した人は別にいたと思われる。心から労いたい。
〈メモ〉
さて、やることはとりあえず決まった『ホワイト・アルバム』の次のプロジェクト。もともとは、シンプルなセッション→アルバム制作→ツアーという構想だったが、ポール以外はそこまでは乗れず、リハーサル風景を撮影して本番をテレビの特番で見せる、ということで落ち着いた。こういう経緯のようだ。
要するに、映像班は急に途中から一枚噛むことになった。映像のプロは映像のプロなので、〈ザ・ビートルズ久々のライブ特番〉を大急ぎでやるとなったら焦るし、気合が入るし、何より絵をどうするかを考える。音楽のほうはまあ良いものをみなさん演奏していただいて、それは全部お任せするとして、リハーサルは広い絵を撮れるところでやっていただけますか……とまずは提案する。責任感からしても、当然のことである。
で、それをポールは承諾したのだ。ここまで何度も確認してきたように、ポールは映像面でも急激にカンが冴えていた。映画の撮影所のスタジオでリハーサルなんて、一風変わっているのが面白いじゃないか、と踏んだ。『マジカル・ミステリー・ツアー』の独創性が理解できなかった奴らはもうどんどん置いていくもんね、と攻めた気持ちもおそらく、いや確実にあった。しかも、「ヘイ・ジュード」のプロモ撮りでいい手応えがあったばかりなのと同じ場所だし、いい仕事してくれたリンゼイ=ホッグがそのまま監督してくれるんじゃん。
……ここまでは、どうにもならなかったことなのだな、と、時間をかけて整理してみて思う。
なにしろ、よく考えてみなくても分かることだが、この時点でのザ・ビートルズは『ホワイト・アルバム』と「ヘイ・ジュード」を作って出したばっかりのバンドだ。メンバー間でしっくりこないものが生まれてきたにも関わらず、である。まさに最強。このエネルギーで楽しいセッションができたなら、なんとでもなる。いや、もっと凄いところに4人で行ける。ポールがそう考え、楽天的な結果のほうに札を張ったとしても、責められないと思う。
原点に返ろう! スケジュールの都合で〆は決まってるけど。
ゲット・バック! 最後どうまとめるのかは意志疎通ハッキリしないままなんだけど。
不穏含みのセッションが、いよいよ始まる。
(つづく)
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