合間にささっと、未発表コラムの蔵出しを。
neoneoのサイトで、『二丁目のエランヴィタール』というイラスト付きコラムを少しだけ連載していたのだが、完全に中止することにした。
いったんサイトの開設時期にトライアルでやってみて、去年の秋から仕切り直しで再開、という話になった。それで何本か用意したものの、サイト管理担当のメンバーとどうしても呼吸が合わず、月イチの予定が間延びしてしまった。
サイト運営を全般によくやってくれている彼としては、(若木がなにをしたいのかよくわからない)、が実際のところだったようだ。考え方がとうとう噛みあわなかった。この点については、彼をいたずらに困らせたかたちになり、悪いことをしてしまった。
では、僕がなにがしたかったかというと、〈かるいよみもの+手書きのイラスト〉のセットが本格的な記事や論評の露払いをしていた、むかしの雑誌のスタイルのリバイバル。橋本勝『映画の絵本』や長谷川集平『こじこじ映画館』の、ドキュメンタリー版みたいなことをしたかった。
佐野亨やモルモット吉田ならすぐピンときてくれるのに……と思わないでもなかった。しかし考えてみれば、想定理解者が同業では名うてのマガジン探偵2人のみ、というのも、さすがにあんまりニッチに過ぎるのである(おふたりとも失礼!)。もともと連載としてのポテンシャルは弱かった。そう思い至ったので、サバサバと中止を決めた。ふだん、「企画はせんみつ」(アイデアは千本出して3本通れば上等)なところで生きているので、噛みあわないものを捨てる割り切りは早い。
と言いつつ、せっかく個人ブログをしているので、あげるだけあげさせてもらいます。「♯5」というのは、連載の5回目の予定だったということです。
♯5 『あいラブ優ちゃん』
2012年2月22日 オーディトリウム渋谷
もう、10ヶ月以上前になるのか。2012年は、《公開講座 レトロスペクティブ木村栄文》の前評判にソワソワしながら始まったようなところがある。
木村栄文は、RKB毎日放送(福岡県)で数多くのドキュメンタリー番組を手掛けてきたディレクター。その主要作品を一挙上映する、インパクトのあるプログラムだった。番組の有料上映は権利等の事情で公開やロードショーとは言えず、それで公開講座と銘打つらしい。
全国放送の時に確かに見ていると言い切れる木村作品は『桜吹雪のホームラン~証言・天才打者大下弘』(89)だけ。中身の記憶はアヤフヤなのだが、僕の部屋で同級生と一緒に見た後、すぐ近所の公園でキャッチボールをしたのはよく覚えている。
しかし、上映にはほとんど足を運べなかった。実はもともと映画祭や特集上映が苦手なヘキがあって困る。<映画館は学校じゃないから好きだった>ので、タイムスケジュールが時間割に見えてしまうと途端に億劫になる。批評家には土台なれないタイプ。
もう少し自分の意識を訓練せねばと思うなか、特に人気があった『あいラブ優ちゃん』は見ることができた。2本のあんよが学校に向かっておっちら歩いている。最初のカットでもうグニャグニャになった。おしまいまで、どこを切っても愛だった。
優ちゃんは、先天的障がいを持つ木村栄文の長女。明るい性質でいつも笑顔の彼女と家族の日々を綴った作品で、つまり、題材は自分の家のなかだ。支度にグズグズしてお母さんに怒られたり、夏休みに水泳を習ったり、妹と遊んだり(そうして妹が同じ年の子との遊びに熱中すると、つい放っておかれたり)。どんな姿も、満腔の愛によって撮られている。それゆえ、愛ゆえの烈しさが次第にヒシヒシと迫ってくる。
例えばこんなシークエンス。福祉政策がまだまだ教育現場に及んでいない現状をレポートしつつ、正直、優ちゃんは地域で有名な養護クラスのある学校へ入れたい。抽選に受かって心からホッとする。いたいけな愛娘を守りたい本音を晒し、自分のエゴに鞭打つかたちで、親の立場の声を訴えている。ホームエッセイは、肉を切らせて骨を断つための作りなのだ。
演出家が自ら番組の語り部兼主要人物として登場するのは、今に照らせばずいぶん大胆なのだが、当時は今村昌平も参加した『遠くへ行きたい』などの例があるし、視聴者にも割とスムーズに受け入れられたのだろう。
ノンフィクションにおいてもそうだったのではないか、と思い出したのは、学生時代に読んだ近藤絋一の『サイゴンから来た妻と娘』(78)。ベトナム戦争を取材した新聞特派員の著者が、サイゴンで再婚した女性とその娘との生活を描いた大宅壮一賞受賞作。ジャーナリストが家族を題材にする、その覚悟から滲み出る文章の清潔なユーモアは、『あいラブ優ちゃん』と通じている。だからといって、自己表白度の高さ=作家の誠実さと短絡的にはき違えてはいけないのだけど。
戦後の曲がり角を過ぎ、いつまでシラケてばかりもいられず。改めて世界と対峙する立脚点に、個人の実感を置いてみようヨという考えは、1970年代半ばにはジャンルを越えて共有されていたのだと思う。
時代の横軸から見て行けば『あいラブ優ちゃん』はまた違う輝きを放つし、シンガーソングライターのありかたが広く世間に馴染んだ、当時の表現全般について捉え直すきっかけにもできる。
http://kimura-eibun.com/index.html
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