北野武監督の『首』(2023)を、最寄りのシネコンでの最終日・夜の回で見た。ソワソワワクワクした。
北野映画を見た後、こんなにソワソワワクワクが止まらないなんて、いつ以来だろう。遡ってみると、『アウトレイジ』(2010)や『座頭市』(2003)でこうはならなかった。『Dolls ドールズ』(2002)や『ソナチネ』(1993)の余韻は強烈だったが、その余韻は胸の底にオリがどよんと溜まっていく質のもので、今回のように、いやーヘンなものを見せてもらった!と、頬が緩んでしまう感じではない。『3-4×10月』(1990)と『その男、凶暴につき』(1989)を封切で見た時のショックは、もはや歴史的な証言に入ることだから別格中の別格として。
ヘタしたら『みんな~やってるか!』(1994)以来なのかも。それはまた大変なことだ。『首』は『みんな~やってるか!』以来の快作ではないか? と言ったとして、ピーンとくる映画評の書き手や通がいたならば、大した茶人だと思う。いや、変人かな。
そんなことを考えながら部屋に戻ると、夜、電話する予定だった人から、眠いのでもう寝る……とメールが来た。待たせちゃって悪いことしたんだけど、よーし、空いたその時間をざざっとメモ出しにあてよう、となった。
この映画については、どなたの批評もまだ目を通していない。これから僕が書くメモ出しよりしっかりした評や論は何本も書かれているはずなので、これはいいぞ、というものがありましたらぜひ教えてくださいませ。
で、『首』。
ビートたけしのもともとの芸風であるアンチ・エスタブリッシュメントの面が、とてもよく出ている映画だと感じた。それを北野武が万全に、楽しそうに引き出しているんだから、まずは文句なしである。
1984年の朝日ジャーナルでの有名な発言―高級外車に足立区のナンバーを付けて乗り回してやる、の精神を映画でやりおおせている。高級外車とはロールスロイスのはずだが、収録された『若者たちの神々Ⅰ』(新潮文庫)が本棚からすぐに見つからない。とにかく『首』は、映画における〈足立区ナンバーのロールスロイス〉だ、と言っておきたい。
『現代日本映画人名事典 男優篇』(2011 キネマ旬報社)でビートたけしの項を担当させてもらった際、たけしの1970年代末から80年代にかけてのブレイク期について、僕は、小林信彦の文章などを参考にしつつ以下のようにまとめた。
「世の偽善を早口でこき下ろす鋭い嗅覚と小児的破壊性、同居する醒めた知性と含羞で、稀有なタイプの時代のトリックスターとなる」
具体的に言うと、社会でよしとされることやテレビの約束ごとをおちょくり、あっという間に価値を相対化させていく指向・思考。有名なギャグ「赤信号みんなで渡れば怖くない」は、警察署が毎年募る交通安全標語が国道沿いの立て看板でおなじみだったところから来ている。
特に誰も文句はない、しかし言葉にならない何かが空気中に溜まる。そこに誰より早く気づき、わざわざ口に出してみせるところが真骨頂だった。
まだ大物となる前のたけしが音楽番組のスタジオで、すでにスターのサザンオールスターズの面々に向かって「何がオールスターズだバカヤロウ、てめらえこの桑田ってアンちゃんの金魚のフンじゃねえか」と言い放つのを見た時、唖然となったのは忘れ難い。中学生でもそれはもう、口にしてはいけないことな気がしていたから。
そんなヘキが、戦国武将なんてみんな欲にかまけたロクデナシじゃねえか、とおちょくり続ける『首』で、活き活きと蘇っている。
ただそうした、価値を落として相対化させる笑いはもはや古いのは確かだ。確か企画自体はずっと前からあったもので、今になって成立したことはハッキリと映画の弱みになっている。
NHKの大河ドラマが、天下取りの合戦に明け暮れるのを偉人の一大事業のように描いて国民的な人気を呼ぶ、ちょうどその頃に後ろからヒザカックンのようにやると光る質のアプローチ。こういうことが立派なこと、こういう人が偉い人、と決まっていた時代の笑い。アンチ・エスタブリッシュメントはアンチテーゼであることが活力源なので、そういう意味では、エスタブリッシュメントのほうがちゃんと威厳を示してくれていないと撥ねないし、前向きな精神が導き出されないのだ。
今はもう、権威をおちょくって一笑いが効かない時代になった。そういう笑いほど権威と親しくなりやすいことがもう誰の目にも見えてしまった、とも言える。
売出し中の頃のたけしには、毒舌を吐いたあとで大橋巨泉などテレビ界の大物に叱られるまででワンパッケージなところがあった。映画進出にしても、大島渚のようなカリスマや大スター・高倉健のもとで暴れる悪戯坊主という構図から本格的に始められたのは、凄く幸運だったと思う。
なので、自身がテレビ界の超大物になった1980年代半ば以降の調整の苦労もまた、かなり大変だったろうと想像する。
絶対的な存在だったビートたけしに対して、僕が初めてズレを感じたのは、1991年に出た最初の時事エッセイのタイトルが『だから私は嫌われる』(新潮文庫)だった時だ。えッ、嫌われるって誰に……? となった。巨泉に「こら、たけし、バカヤロウ」と言われている時ならいざ知らず。ただでさえ、すでにその毒舌が文化人的見識として遇されつつあるのに馴染まぬものを覚え始めていたので、さらに偽悪のポーズで外した寒さを感じ、さびしかった。
映画監督の活動が本格的になり、もともとのインテリジェンスを隠さなくなったのはその頃からだ。先のサザンに対する悪罵にしても、サザンオールスターズというバンドに対する本質的な批判には成り得ていないのは、本人が一番よく分かっているわけで。
『首』からすっかり話題が離れているようだが、そうでもない。僕がこの映画を見て久々にビートたけしという存在にワクワクソワソワできているのは、こうしたズレと調整の繰り返しのキャリアが、映画のエッセンスになっているからだ。
昔、たけしは、晩年の五代目古今亭志ん生が高座で居眠りして、客が苦笑いしながら目が覚めるまで待ったエピソードを理想のようによく語っていた。芸も何もヘニャヘニャになり、あいつももうどうしようもねえなあと笑って見てもらう位の終わり方が良いと。
国際映画祭の顔になり、藝大の先生になり、と飛び抜けて偉くなるほど、たけしは必要以上にテレビで着ぐるみを被り、面白くないギャグを言うようになった。それもまた知性ゆえのバランス、たけしなりの晩年の姿の探り方という解釈ができた。
しかしこの数年は、何とも言えなかった。憧れの志ん生を大河ドラマで演じるというキャリアの大フィナーレにふさわしい仕事が、ふつうにミスキャストでそれでもふつうにまあまあ、となってしまう深刻な事態(と僕は思いましたクドカン好きな方スミマセン)を引き起こした前後は、事務所独立の問題などで、ただただ、ふつうに存在が色あせた。
だからなのだ。
もうとっくの前に黒澤明がこの世を去り、合戦物の大河ドラマが国民的ブームを呼ぶのは難しくなって久しい今、『首』の、戦国武将の高名をおちょくるアプローチをする、ちょっともう古臭いズレが、逆にたけしのキャリアらしい屈折に感じられて僕は嬉しい。その、おちょくられる英雄達のなかの中心人物を、人にやらせず自分が演じているのがいい。
切腹までに時間をかける相手に「じれってえな、早くしろよ!」と怒り、「いやこれは儀式ですから」となだめられる笑いでは、三島由紀夫までおちょくっている。
そうして、今やどうしようもなくエスタブリッシュメントな存在そのものになった北野武=ビートたけしをこそ落としているのが楽しい。
『首』は、これだけスケールが大きいのに立派な戦国ドラマになろうとしてないところ(むしろアッカンベーと崩した時の落差のためにちゃんとしているところ)、ヘンな笑いをあちこちに入れたり、急にかっこいいアクションが入ったりと気ままなところが身上の映画だ。
ビートたけしがやっと、ついに北野武と無理なく合流して、志ん生の高座での居眠りに該当するものを見せてくれたのだ。『みんな~やってるか!』のように“ビートたけし監督作品”と銘打ってもよかったほどだと思う。だから私は(映画評論家に)嫌われる、が久々にサマになっている。
識者に「完成度が甘い」と指摘されるだろうところほどオフビートでキュートですよと言いたい、ひいきの引き倒しみたいな状態になっているので、もう、ほどほどに切り上げておきますが。
『首』は、これまでの北野映画との比較はもちろん、戦国時代を舞台にした旧作のなかでも異色とみなされ、語られることが多くない木下惠介『笛吹川』(1960)や勅使河原宏『豪姫』(1992)のような作品と比較すると、より面白い吟味ができる気がしている。篠田正浩も含まれるかもしれない。黒澤明を引き合いに出したくなる欲求は、僕はほとんど生まれなかった。むしろ往年のプログラム・ピクチャー、例えば森一生『まらそん侍』(1956)や池広一夫『雑兵物語』(1963)、それに石井輝男の残酷時代劇などにどれだけ親しんでいたのか、は知っておきたい。
それに、どうしても僕が感じるのは、北野武=ビートたけしの優しさである。
全員、いつ誰が敵になり裏切ってくるか分からず、「あいつもそろそろ殺すか」が口癖になり、自分でも冗談なのか本心なのか分からなくなっている異常に緊張した相関関係を、全てユーモアにしている。そういうかたちで人間の業を肯定している。人間なんてそんなもんだろ、という相対化の笑いが、こういうところではニヒリズムではなく観照につながっている。なので、出世したくて友達を殺し、妻子が死んでも身軽になったと笑う足軽(中村獅童)が、見終わってしばらくするとどんどん哀しく残ってくる。
濃い情とシビアさが同居した芸の世界で、エゴや不義理をさんざん見てきた、愛憎の深さのあらわれだろう。それが、曽呂利新左衛門(木村祐一)を一方の軸の人物にすることにつながっているのだろう。
(落語の祖といわれるこの人物については、ネットでは「なにわ大阪をつくった100人」という宇澤俊記の記事が詳しい。https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/025.html)
曽呂利が雑兵達を前に座って話し、笑わせる、おそらく落語というものはこんな風に生まれたと愉しく想像できる場面を設けている。北野武=ビートたけしの芸に対するひたむきさと博識は、こういうところでヴワッと出る。
そうそう、もうひとつ。
なんとなく粗く、そっけないようで、かえってそれが『首』の味になっているのが編集だ。北野と共同のかたちで編集にクレジットされているのは、太田義則。
太田さんは、僕のこれまでの唯一の映画脚本作『漫画誕生』(2019)の編集も手掛けてくださった方。お会いする機会はなかったが、貢献の大きさはよくプロデューサーの加瀬修一から聞かされた。
今だから言うが、実は僕、『漫画誕生』での編集のテンポみたいなものが自分のなかではしっくりこなかった。あくまで技術の分からない人間の生理的な印象なのだが、映画の編集というよりも番組のスイッチングのように感じられて。
ところが『首』ではそのスイッチング然とした、重厚でない感じがことごとく、とぼけた軽みにつながっている。そう、テレビのスタジオでのコントみたいなと言えばいいか。こういうところでもビートたけしと北野武の合流のスムーズさを感じさせるし、北野組のスタッフと、間接的にではあるが同じ映画に関われたことを、今さらのように光栄に感じる。
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