和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

慚愧と歓喜

2014-06-19 00:12:16 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg1160

 正覺寺では、偶数月の16日に、「仏法庵」と称して、主に男性を対象として、本願寺出版社版の「仏事のイロハ」を用いての勉強会。また、奇数月の16日も、「慈光庵」と称して、主に女性を対象に、「書いて味わう御文章」を行っています。
 昨晩は、「仏法庵」がありました。はじめてもう、2年以上経つでしょうか。最近は、メンバーも固定してきて、御新規さまは、長いことありません。
 この日は、岐阜別院常例布教を午前午後とさせていただいて、その夜の7時より、「仏法庵」です。一緒に仏事のイロハを読んで、その内容にまつわる様々なお話を思い思いに、口にします。
 普段は、なかなかゆっくりお話をする機会もないので、私にとっても貴重な時間です。
 「仏法庵」「慈光庵」と、毎月の常例法話会、日曜学校と、定例の催しをしていて、主催者側として気になるのは、やっぱり参加人数です。今現在は、決して多いとは言えない状況です。しかし、この少なさが、私に教えてくれたことがあります。
 「今あることに感謝する」という、当然といえば当たり前のことを見失っていた自分に、気付かされました。なかなか、人数が増えない。誘っても来てもらえない。そういうことにばかり心を奪われ、今ここにある尊いご縁を忘れていたのです。
 そのおかげさまで、今は人数はまったく気にせず、続けています。紹介やお誘いは、当然平行して行いますが、それによる一喜一憂は、なくなりました。
 

 浄土真宗のご縁をいただき、自らのなすべきことを問うていたとき、蓮如上人のお伝えくださった「ひとりでも信を得たならば、それが一宗の興隆である」とのお心を目標にしようと思ったことをあらためて気づかされたことです。

「今ここにある出遇いを尊いご縁と喜ぶことが、転じて我が思い上がりの内なる罪悪性に気付かしめる」

 私の阿弥陀仏との日常生活において、「慚愧」と「歓喜」は、テーマのように、私の心に漂っています。そして、そこにはもう一つ「あまえ」があります。
 古来、浄土真宗において、阿弥陀仏を「親さま」と親しみを込めて、呼び習わしておりました。子は、親に甘えるものです。自分が悪いと頭では分かっていながら、その自分を最後には許してくれる親としての存在に、子は甘えます。この「親」という喩は、すべての人に共通する感覚ではありませんが、親を阿弥陀仏に当てはめるのではなく、阿弥陀仏の慈悲を命の親としてとらえた時の子の態度を示したものです。
 この親の慈悲の心に触れたとき、子は少しずつ育てられ、最初は理解できず、突っぱねるだけであったのが、自分のことが少し恥ずかしく思うようになり、心の中で「ごめん」と思うようになります。そして、その思いは、行動へと転ぜられ、心の変化を促します。この変化は、「あまえ」がある故です。あまえられる相手があるからこそ、人は変わっていけるのでしょう。そして、大切なのは、我が心に至り届いている原動力としての「おもい」です。
 阿弥陀仏の「おもい」は、わたしの心へと至り、原動力となってわたしの方向を転じていきます。そして、私の存在を全面的に受け入れ、その命を支えます。阿弥陀仏が「そのまま」うけとめてくださるのは、このわたしの存在そのものであり、命そのものです。その絶対的な存在肯定にあまえる私は、その思いに触れるたびに、少しずつ自分が恥ずかしくなり、少しずつ心の中で「ごめんなさい」と思うようになります。そして、この思いは阿弥陀仏の「おもい」であることに気付かされていきます。その阿弥陀仏の「おもい」に突き動かされ、私は心を是正していく努力をするようになります。その発露たる行動を是正していこうとします。そして、そのたびに自らの根源的欲求と阿弥陀仏の「おもい」との落差に愕然とします。そして、また「あまえ」ます。
 文章にすると、どうしても前後が出てしまい、時系列のような表現が現れてきますが、これらの変化は、すべて同時進行といえるでしょう。慚愧と歓喜とあまえと許しとが、渾然一体となって、私の命を導いていきます。
 

 話は変わりますが、いまはやっている歌の歌詞に「ありのままの自分でいいの」という言葉があります。この言葉を聞いたとき、私は「なにをもってありのままの自分とするのか」ということを最初に思いました。よく「本当の自分」「そのままの自分」という言い方をしますが、それは結局のところ、性格や行動、性別等、変化しうるものを細分化せず、すべてを対象に言っているように思います。元来、命の存在において、その内包する本質による外的発露というものは、千変万化で一定ではありません。特に「人間」という枠組みでは、顕著です。様々な外的内的要因で、変化していきます。ここで言う外的内的要因とは、外からの刺激による内面的な変化、それにともなう内面よりの発露としての言動を言います。また他に、元来本質が備え持っているものによる内面的発露も存在します。どちらの内面も、命に内包される本質が備え持つ様々な要因による発露にほかなりません。そして、その発露も自己中心的な欲求による許容されるべきでないものと、根源的な内包による許容されるべき発露があることを知らなければなりません。つまるところ、その本質ではなく、変化しうる外的内的発露を細分化することなく、すべて「そのまま」でいいということは、変化を放棄することであり、すべてを許容してしまう危険な考え方のような気がします。
 命の存在の絶対的肯定は、その変化しうる発露ではなく、私のいまここにある存在そのものであるということです。そしてその本質を肯定したうえで、様々な影響を受けて表出される私の発露は、阿弥陀仏により許容されるべきものと、許容されざるべきものとにわけられます。その結果、私の心には、「慚愧」と「歓喜」の感情が浮かび上がります。

 この本質ともいうべき命の存在そのものも、私たち人間は、感知することができません。それを感知できるのは、その存在の本質そのものから一切の発露の源を除去することに成功し、その本質の根源へと昇華していった「佛」と呼ばれる方々だけです。
 いま、ここで「本質」という言葉を用いていますが、適当な言葉が浮かびませんので、仮に「本質」と書かせていただいております。いわゆる「霊」や「魂」といった意味のものではありません。また、変化しない絶対的なものでもありません。本質もまた、変化していきます。故に、「佛」になることができるわが命であります。しかし、その力は、現代の人間にはないと、親鸞聖人はお伝えくださいました。
 佛の智慧の眼の一端をお聞かせくださる様々な教えにより気付かされる世界は、本当に不可思議です。その不可思議な世界を、自分の言葉で表現してみようと思いましたが、なにやら難解な変な文章になってしまい、よかったのか悪かったのか・・・正解なのか不正解なのか。。
 とにかく、今、この私が感じている世界観を表現してみました。いかんせん、言葉には限界があり、文字にしたとたん、そこには閉じた世界が出現します。ですので、誤解をまねく表現や、言葉足らずなことも多いかと思いますが、日記ということで、お許しいただきたく思います。