和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

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歴史

2014-06-10 22:26:11 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、6月6日。浄土真宗本願寺派の御門主様が代わられる「法灯継承式」に、讃嘆衆奏楽員として、出勤させていただきました。まさに、歴史の瞬間に、本山の阿弥陀如来様、御真影様の御前にて、お参りさせていただけたことは、本当にありがたいご縁でした。惜しむらくは、前日の御消息発布式とお夕事に、諸般の事情で、出勤できなかったことです。
 しかし、前御門主様と御門主様の宗門を思うお気持ちに、少し触れたような気がして、ありがたいご法要でした。懐かしい友人にも会え、宗祖親鸞聖人より、連綿と受け継がれてきた、仏法の灯が、今、こうして私たちを導き、共に念仏の大道を歩む御同朋(仲間)として、包んでくださっているのを、感じずにはおれませんでした。
 世の中では、宗教離れが叫ばれている昨今ですが、私は、現代にこそ本物の宗教が必要だと感じています。「宗教」というくくりがあいまいなら、「人を導き、育てる、人を超えたものの教え」とでも言いましょうか。
 御門主様が、「大胆な発想の転換」というような表現を使っておられました。
伝統と革新の融合こそが、現代における課題でしょう。形にとらわれず、かといって、形をないがしろにすることなく、根底を見据えた活動が、必要不可欠です。
 人にとって、「救い」とは、なんなのでしょう。自らの欲望を満たすことが、救いなのか。それとも、その欲望を滅することが、救いなのか。欲望を持ちつつ、それに振り回されない教えと出遇うことが、救いなのか。
 人が求める「救い」は、やはりその「人」の主観による救いです。それは、どこまでいっても、「人」を超える救いではないように思います。
 「人」が求める救いではなく、「人」に対して「与えられる」救いこそ、本物の救いのような気がしてなりません。だから、「救い」とは、「出遇い」なのだと思います。救いに出遇うのです。
 親鸞聖人は、阿弥陀如来の救いのはたらきにであうことを、「遇」の字をもって、お伝えくださいました。「遇」は、「たまたま」と表記され、さまざまなご縁による不可思議な、そして、すばらしい出会いとして、お示しくださいました。
 20年前であれば、何も感じなかった、今回のご縁が、ここまでありがたく、尊いご縁といただけるのも、この長い歳月をかけて、お育て下さった阿弥陀如来と還相の菩薩方のおかげであります。
 私事ですが、2年前の夏に、実父が往生いたしました。その父も、浄土へ往生し、還相の菩薩となって、お念仏となって、この2年間、わたしを育ててくださった。だからこそのありがたいご縁だったのでしょう。
 私は、常に本願寺8代宗主、蓮如上人がお伝えくださった言葉を、心にとどめています。それは、現代の言葉でいえば「一宗派が、興隆するというのは、信者の数が多く、権威があることではない。たとえ一人といえども、本当に救われた人がいれば、それが一宗派の興隆なのだ」という内容です。
 このお心をいただいて、この世の縁尽きるまで、報恩行を務めさせていただこうと、あらためて思わせていただいた、尊いご縁でありました。
 

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