和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

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原動力

2014-05-21 23:13:36 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は、午後に布教使の研修会がありました。あらためて、浄土真宗の今ここに成立する救いが、人生においてどう展開されていくかを、ご講師のお話を聞きながら、考えていました。
 浄土真宗では、よく「自らの罪の深さ」「自己の罪悪性」を法話において主張されます。しかし、私ごとではありますが、自分が浄土真宗のご縁をいただいてから、そのお話に常に疑問をもっていました。「自己の罪悪性に気付くのは、なぜか?そもそも、それは、第三者に指摘されるものなのか?」と。
 私は、儀礼(法要)を専門とする道から、自分にとっての浄土真宗の救いを模索していました。そして、儀礼と法が同じであることに気付かされた時、はじめて、阿弥陀如来さまと向き合ったような気がしました。このことが、浄土真宗の教学においてどうなのかは、浅学の身にてわかりません。しかし、救いの宗教的体験として、なにかとても大切なものを見失っている現状があるような気がしました。
 人には、それぞれの人生があり、考え方も千差万別です。すべての人が、一つの道筋に収束されるとは、とてもじゃないですが言えません。その意味からも、知識で統一された知的認識ではなく、空間による感覚的認識による救いとの接点は、とても大きなはたらきだと思います。
 そして、その空間における感覚的認識が、阿弥陀如来の救いのはたらきによりなされていることに気付かされてゆくのが、自らの力から転ぜられ、解放されていく道ということなのでしょう。そして、その道を歩む者が、「自己の罪悪性」に気付かされてゆくのだと思います。
 また、逆を言えば、人間的主観による自己の罪悪性にさいなまれ、埋没しているものが、その空間において、聖なる存在と向き合った時、人間的主観から解放され、真実の世界から示される罪悪性に転ぜられ、自己の全否定の中にある、絶対的な救いに歓喜するのだと思います。
 この道程を無視して、いきなり罪悪性を主張しても、それは、どこまでいってもその主張する本人の主観を脱しえません。自己の罪悪性は、自己が認識するものであるからです。
 阿弥陀如来のはたらきにより、気付かされた世界においての学びは、より自らの罪の深さを浮き彫りにします。そして、その私を導き救う阿弥陀如来の慈悲に接したとき、自らの行動と心を是正していこうとする発露が自然発生します。しかし、それを妨げる自己中心性のおそろしく強い我が欲望の心と、そのはたらきのせめぎあいの日常が展開します。
 まるで、二人の自分がいるかのように、感覚的に変化する毎日の日暮のなかで、我が欲望の心は、少しずつすたれていきます。しかし、その心は、ほんのちょっとの外的刺激により、すぐに復活し、猛威を振るいます。そのたびに、我が罪悪を再確認します。そのたびに、阿弥陀如来のおはたらきの不思議さに歓喜します。その繰り返しの人生が、私にとってのお念仏の人生でありました。
 そして、すべての命は、私の命につながり、溶け合い、私の救いが、全生命の救いであり、全生命の救いが、私の救いである、そのような阿弥陀如来の空間認識の一端が、儀礼空間なのではないか。そんな気がしました。命のすべてが「南無阿弥陀仏」に収束されてしまい、「南無阿弥陀仏」を展開すれば、全生命の救いに広がっていく。そんな不可思議な世界観が、最近の私の頭の中にいます。
 今日の研修会で、こんなことを考えながら、ご講師のお話を聞いておりました。これは、どこまでいっても、私の主観なのかもしれません。しかし、この世界観が、他力のなせることであるならば、否、他力でなければ、このような念仏の人生は、我が人生に展開されるはずがないのです。そう思えてならない本日の研修会でした。
 文字に表現した時点で、そこには限定が生じます。こんなことを書くべきではないのかもしれません。しかし、日記として書かせていただいて、もし、他のご意見が聞かせていただければ、また、それもありがたいご縁です。
 私の好きな言葉ですが、「ご信心が原動力」ということを、最近は、よく思います。この言葉は、自分で、ふと思いついたのですが、誰かから聞いていたのか、似た言葉があったのか。しいて言うなら「おてんとさまがご信心」でしょうか。わたしは、どこまでいっても、楽をしたい、なまけたい、あそびたい、寝ていたいという心の持ち主でありながら、お寺や浄土真宗に関連する様々な、行動、思想が発露するのは、阿弥陀如来より賜りたるご信心が原動力でなければ、なっとくできないというのが、素直なところだからです。
 今後も、ご信心に動かされ、お育ていただくことでしょう。そして、この命終わる瞬間まで、一切変わらぬ自分の姿と向き合い、その命を、なにものとも比べず、絶対の尊厳をもって、尊く思い、救ってくださる阿弥陀如来のおはたらきをいただきながら、慚愧と歓喜のお念仏の人生を送っていきたいと思う、今日この頃です。

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パソコンは、きまぐれですねぇ

2014-05-20 10:12:36 | 日記・エッセイ・コラム

雨伝さま、ありがとうございます。おかげさまで、リンクの設定ができました。
 昨晩は、ばたばたしており、ブログを書く時間がありませんでした。というのも、ホームページを更新したのですが、サーバーに転送しても、なかなか反映されず、難儀しておりました。さんざん、苦労した挙句、タブレットで見ると、ちゃんと更新されています。ホームページビルダーというソフトと、インターネットを見るエクスプローラというソフトが、相性が悪いのかもしれませんね。
 結局、パソコンの表示では、更新されないまま、「ま、いっか」と、放置。今日、あらためてページを見たら、ちゃんと更新されていました。なんじゃそら、といった感じです。パソコンは気まぐれですね。操っているつもりで、振り回され、逆に操られてるような感覚になります。
 

 正覺寺には、毎年、ツバメが巣をつくりにきます。いつも、勝手口の戸の上に作ろうとするので、ひとしきり攻防戦を繰り広げたのち、毎年の場所に落ち着きます。去年は、2羽の雛鳥が巣立っていきました。ことしは、どうかなと、ちょっとおじゃまして、確認したら、3~4個の卵がありました。また、かわいい口をおおきくあけて、ごはんをねだる姿がみれるのが楽しみです。
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 私たち人間は、いつの間にか、多くの命のつながりの中にいることを、忘れてしまいました。他のすべての存在は、あたかも人間のために存在し、自由にできる対象だと、思い込んでしまっています。そのことを思い知らされるのは、自分が、どうしようもない現実と向き合った時でしょう。その現実を、受け入れ、受け止め、真実の真理に出遇っていくのか、否定し、憎み、怖れ、暗闇の中に埋没していくのか。それは、日常に出遇い学び、導かれ、育てられてきた教えによります。

 浄土真宗の教えが、法を聞き、法に向き合い、信心の儀礼的生活を繰り返すことを大切にするのは、平生業成といわれる、今この場での救いの成立と、導きに遇うことが、人生の方向を左右することを教えるためです。
 日ごろから、心がけて身を法の水にひたしたいものです。

               

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リンク設定のボタンはつくれないのでは・・・

2014-05-18 23:31:29 | 日記・エッセイ・コラム

 雨伝様、ご指摘ありがとうございます。しかし、このブログは、どうやらリンクボタンを作成する機能は、ないみたいですね。うーん、わからない。今後の課題とします。当面は、文末にトップページへのリンクを張り付けることにします。
 今日は、早朝にご臨終の連絡をいただき、お参りに行きました。以前、よくお話しをさせていただいていた方が、お亡くなりになりました。私が、このお寺に来てから、ようやく打ち解けて、お話ができるようになった方々が、少しずつ、お浄土へ往生されていきます。今後は、お念仏となって、お声を聞かせてくださるでしょう。この世の別れは、さみしいものですが、今現在、お念仏となって、お話させていただき、はたらきとなって、接しさせていただき、私が浄土へ往生した暁には、また、ともに会わせていただける。浄土真宗の教えの、ありがたいところでございます。
 さて、本日は、その後日曜学校のお勤めをしました。正覺寺では、毎週日曜日、朝の8時から9時まで、子供たちとお参りをして、遊ぶ日曜学校をしています。昨今の小学生のみなさんは、本当に忙しい・・。それでも、今日は、5人ほどのお友達が来てくれました。お参りが終わって、子供たちが坊守と遊んでいるのを横目に、滋賀県は、栗東の仏光寺派のご寺院の「親鸞聖人750回大遠忌法要」へと向かいました。今日は、本当に天気がよく、法要は、汗だくでのお勤めとなりましたが、よい経験をさせていただきました。いまも、若干、顔がひりひりします。
 さて、夕方、6時ごろお寺に帰ってから、今日は7時から「西濃北組」の「連続研修」の講師があたっていますので、そちらへ行きました。連続研修とは、ご門徒さんが、定期的に連続で、一定期間の間、浄土真宗のお勉強をするというもので、西濃北組は、2年を1サイクルとして、18期、36年続いています。今後も、継続してゆく予定ですが、より多くの参加者が望まれます。私も、がんばっておすすめできればと思っています。

 正覺寺トップページはこちら→http://shougakuji.com/

 

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少しずつ少しずつ

2014-05-17 23:07:18 | 日記・エッセイ・コラム

本日も、ホームページいじりを夜のあいた時間にしておりました。しかし、頑張ってつくっても、誰も見ていなければ、さみしいものです。というわけで、フェイスブックで、お友達に見てもらおうとおもって、コメントを投稿しました。フェイスブックは、登録はしたものの、ほったらかしで、初のコメント投稿となりました。今後も、こまめに投稿するかは、別として、みなさんが、ちょっとHPをみてくれたので、うれしかったのは、間違いありません。
 人間は、だれかとつながり、誰かに認められないと、自分の存在意義、命の尊さに気付けない生き物です。ホームページも、誰かの目について、はじめてその役割を果たします。
 仏教では、その命の尊さを、誰とも比べることなく、誰にも認められなくても、絶対の尊厳をもって尊いと教えます。その教えを聞くとき、私の居場所が、はっきりと確認できるのでしょう。
今日の私のように、HPを見てもらったから、作ってよかったというのではなく、様々なおもいを持って、一生懸命とりくみ、作成したホームページそのものが素晴らしいという、ものの見方です。
このものの見方は、自己満足というような、軽々しいものではありません。もっと深く、大きく、尊大で、慈悲深く、慈しみの心にあふれ、そして、とてつもなく厳しいものの見方です。このお心にすこしでも触れていくことが、仏教を聞いていく。法に触れてゆくということなのでしょう。
 昨日は、慈光庵で、「書いて味わう御文章」で、「末代無智の章」を写しました。写真を撮って、HPに載せようと思っていたのに、自分が写すのに夢中で、写真を撮るのを忘れていました。・・・
次回は、7月16日です。その時は、写真を忘れず、撮りたいと思います。
 今日は、また正覺寺の行事とは別に、神戸町仏教護法会という、地域の仏教会の主催する花まつり(お釈迦様の誕生を祝う法要)でした。毎年、お越しくださるお東のお寺のご住職が、子供たち相手に手品を見せてくれます。みんな大声で笑って、楽しい時間でした。
 明日は、滋賀県栗東の仏光寺派のお寺様の「親鸞聖人750回大遠忌法要」に、楽人として出勤です。仏光寺派の法要は、初めてなので楽しみです。
また、ブログにも、そういった日常の出来事、行事、法要、仏教、浄土真宗についても書いていきたいと思います。

正覺寺トップページはこちら→http://shougakuji.com/

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今日の出来事

2014-05-16 17:56:36 | 日記・エッセイ・コラム

今日は、午前中のお参りが終わってから、ホームページの手直しをしました。
まだまだ、使いこなせていないのですが、とりあえずいろんな機能があるので、いろいろ試しておりました。
すると、あろうことか、作って保存しておいたはずのホームページが、トップページを除いて、すべて画面から消えてしまったのです。これには、さすがに焦りました。「やってもうた~」感満載です。
とりあえず、消えていないことをしんじて、いろいろ復活を試みてみました。おかげさまで、無事復活!!本当に、心臓に悪い出来事でした。
もう一つ、我が家には、5歳のひびき君と3歳のみやび君がいるのですが、その3歳のみやび君が、家の中で行方不明になりました。
呼べども呼べども返事がなく、いい加減「まさか」と心配になってきたころ、にっこり笑って、廊下に立っておりました。
布団のなかにもぐりこんで、隠れていたそうです。それにしても、ばあちゃん、かあちゃん、とうちゃん、ひびきくんと、みんなで呼んだにもかかわらず、じっとだまって隠れているとは・・・・「おぬし、なかなかやるな」といった感じです。まあ、なにごともなくよかったです。

 今日は、慈光庵の日です。「書いて味わう御文章」を、和紙にコピーして、机を用意して、準備万端です。今日は、何人来てくださるでしょうか。楽しみです。
 今日の慈光庵の風景を、ホームページにアップしたいと思います。

正覺寺トップページはこちら→http://shougakuji.com/

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