和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

もうすぐ年末( ゚Д゚)

2016-11-23 23:29:01 | 日記
 いつのまにやら、もうすぐ年末がやってきます。本当に、年々1年が早く感じられます。除夜の鐘、ついこの前のような気がする・・・

 現在、浄土真宗本願寺派では、「伝灯奉告法要」が、京都本願寺にて勤修されております。第二十四代御門主より、第二十五代御門主へと、御代替わりされたことを、仏祖にご報告する法要です。
 ちょこちょこ、出勤させていただいております。

 ずっと、さぼっていたブログですが、やっとこさ書こうという気になりました。だめですねぇ。そもそもが、苦手なのです。。
 
 何を書こうかと、悩みながら書いておりますが、さっぱり言葉が浮かんできません。どうやら、そういう時期ではないようです。。
 なので、先ほどお寺の新聞の冒頭に使った、言葉を書いて、終わりにします。

  「死ぬからこそ
    生きることが、尊い
   死ぬ命だからこそ
    有難いこのご縁
   死と向き合う時
    生は力強く輝く
        釋 和雅」
 皆様、死の明るい一面を見れる、そんな1年を迎えたいものですね。
コメント

ずいぶんとさぼっておりました

2016-08-16 16:05:08 | 日記・エッセイ・コラム
かなり久しぶりのブログです。
 先日、お盆の法要をお勤めしました。正覺寺には、16代分の歴代の本願寺ご門主のご影があります。
 
 ご門主とは、京都本願寺のご住職で、浄土真宗本願寺派の一番尊いお方とでも申しましょうか。親鸞聖人より、連綿と続く法と血脈を受け継がれたお方であります。そのお姿の掛け軸を「ご影(ごえい)」といいます。
毎年、お盆にはそのご影を奉献いたします。時間はかかりますが、終わるとなんだかありがたい気持ちになります。

 人は、なぜ季節の折々に様々な儀式、儀礼をするのでしょう。よく意味も分からずされている方も、少なくないと思います。
今回は、長くならないように一言でまとめたいと思います。

 「こころのスイッチ」

これにつきますね。しかしながら、阿弥陀如来の救いをいただく、お念仏の人生においては、「こころのスイッチ」ではなく

 「ご恩の礼儀」

として、させていただきたいものです。
 昨今は、なんでもかんでも自分中心で、宗教儀礼も自分中心になってしまっている気がします。「自分が気持ちが落ち着く」「やさしい気持ちになれる」「こころが洗われる」。。。

 こんな、自分の気持ちも大事なことかもしれません。でも、もっと大事なことを見失っているような気がします。

 人生観や人間性の範疇の話は、理解しやすくとっつきやすいです。でも、そこを超えていく話じゃないと、宗教ではなく、道徳になってしまう。

 入口とその先、「こころのスイッチ」から「ほとけとの出遇い」そして「ご恩の礼儀」へと、順番にうまいことおすすめできたらいいのになぁ。。
と思う、残暑のこのごろです。
コメント

なんだかねぇ、こころが思うように動いてくれませんね。。

2015-08-09 17:21:04 | 日記・エッセイ・コラム
かなり久しぶりです。なんともかんとも、本当に久しぶりにブログを書いております。

最近は、本当に時間が早く過ぎていきます。まもなく、私の所のお寺が所属している、岐阜教区西濃北組というグループで、「ほとけさまの音楽 声明と雅楽」と題して、公演会をします。今は、その準備に追われております。幸いながら、近くのお寺のお友達さんに、チラシやらパンフレットのデザインをしてくれる人がいまして、本当に助かっています。

様々な得意分野の人が集まって、一つの事柄が完成していきます。必ず、なにか生きる場所があります。生かせる場所があります。しかし、それは、やっぱり人と人のつながりの中で、生きてくるものですね、お互いの信頼関係、尊重、責任。

最近、少しおもうことがありました。そのおかげで、2~3日前まで、無気力症候群になっていました。私は、昔からですけど、やる気が起きない、出ないときは、いったん休憩することにしています。やらなければいけないことがあっても、時間が許すことならば、ぎりぎりまでしない。心の中で、「やらなきゃ」と思いつつ、自分のしたいことだけをします。だいたい3日もつづけると、「やらなきゃ」がいっぱいになって、また動き出します。やる気を出すスイッチは、人それぞれ、いろいろです。もう一つの方法は、強制的に勉強会や練習会などに参加して、能動的に動いている人を見ることですね。そうすると、刺激になって、また動き出します。そんな風にして、心をコントロールしていますが、そもそも、思うこととはなんだったのか。それがはっきりしないので、困っております。

 様々な活動に参加し、いろいろ経験させていただいて、自分の勉強のためと前向きにとらえる日々を過ごしておりました。しかし、少し気付いたのは、心の整理も大事ですが、行動の整理も大事なんだということです。

 行動は、心に伴うものと、そうでないものが当然あります。心に伴う行動だけでは、人間関係はうまくいきません。しかし、心の整理が上手にできていないと、なぜ心に伴わない行動をしなければならないのか、その意味が受け止めきれず、心が疲れてしまいます。自分の行動に、感情の心と理性の心のどちらかで、しっかり意味づけがされていないといけません。

 そう考えると、心の整理のほうが先のような気がしますが、最近思ったのは、行動の整理によって、心の状態が変化することです。行動には、自分の感情と理性以外に、対外的なものに引きずられての行動があると思います。しかし、これも本当に嫌なら断るのですが、その行動をすることは、嫌ではないが、好きではないことや、できればやりたくないことを引きずられているがゆえに、意味を整理する前に、行動が発生してしまうと、それにより心が疲れてしまいます。

 では、したいと思うことだけすればいいのかと言われるでしょうが、そうではなく、日常から自分の様々な行動、活動の意味、理由をちゃんと考えて、それに備えておくことが大事だということです。突発的な行動、計画的な行動、いずれにしても、内容や人間関係によって、自分にとってのいい行動、いやな行動になります。では、どんな行動が、いい行動で、どんな行動がいやな行動なのか。いい行動の中で、しないほうがいい行動はないか、いやな行動で、したほうがいい行動、しなければならない行動はないか。その理由はなんなのか。このあたりは、心の整理というより、行動の整理だと思います。当然、心も関係してきますが、単に行動を、好き嫌いで分けるのではなく、今の自分ににとって、またこれからの自分にとって、なにが大切で、どこを省略して、なにを避けるべきか。こんなことを、日常の中で、常に考えて、行動を整理していくと、心が楽になっていくような気がします。

 「いかにらくに生きるか」が、私の最近のテーマです。当然、「こころ」が楽ということですけど。

 人間は、自己のこころに振り回されて、その中に埋没していく生き物です。主観的、自己中心的なこころに気付かず、あたかも当然の現象のように、自分のこころの変化を表に出します。

 「大いなる存在による、第三者の眼」を内包するこによってのみ、人は自らのこころに埋没することから解放されるのだと思います。それが、なかなか難しい。自分の存在を「主観」ではなく「客観」にしなければいけませんから。

 書いていて、少し最近の思うところの形が、ぼんやりとみえてきたような気がします。どうやら、知らない間に、私も少々こころが疲れていたようです。まだまだ、「主観」の中ですねぇ。

 阿弥陀仏の「他力」の救いをいただくということは、「客観」の世界を生きていくことだと思うのですが、「客観」になりきれない私でありました。

コメント

1200年って、すごいことです。。

2015-04-20 22:41:42 | 日記
いやはや、久しぶりのブログです。どうにも、こういうのは性に合わないようで、なかなか投稿できません。できませんというより、しないんですけど・・・
さて、創建1200年記念法要も、無事終わりました。本当に、多くの皆さんのお手伝いのおかげ様です。子供たちを集めようと、初日は子供対象の「こども祭り」と称して、絵本ライブやらわたがしやら、ポップコーンやら、いろいろやりました。

20人ほどの子供たちが、遊びに来てくれました。この人数を多いとみるか、少ないとみるか・・・微妙。(-.-)
私の兄も、手伝いに来てくれていまして、「子供たち、20人ぐらいしかおらへんわ」と言ったら、「20人もおれば、いいほうやって」と言ってくれました。私が岐阜に帰ってくる前から、お寺の子供対象の様々な行事を頑張ってきてたと思います。その経験から、その一言が出たのでしょう。

いま、日曜学校をしています。日曜日の朝8時からです。子供たちも成長し、参加人数も減ってきて、現在存亡の危機です。継続は力なりといいますが、子供が少ない地域、小規模寺院で、継続は力なりは、なかなか成立しません。ただいまお悩み中であります。

人が多ければ、成功というわけではありません。一人でもいいと思っています。なにが一人でもいいのかといえば、「お寺」が好きになり、「お寺」が必要となり、「お寺」が生活の一部になる。そして、教えに出遇い、救いの道を歩む。お念仏の道を歩む。そんな人が、一人でも増えれば、成功。二人増えれば、また成功。それの積み重ねをしていく。しかし、面白いことに、この成功は、人の手によってなされるものではないのです。大いなるはたらきによって、自然になされてゆく。この場合の「自然」は「じねん」ですけど。本当に不思議なものです。私が、なにをどれだけ頑張っても、お念仏に出遇っていただけない方。かと思えば、私が、特に何も頑張ってないのに、出遇う方もいます。親鸞聖人が「弟子一人も持たず候」と言われたことが、しみじみと思い起こされます。

「こんなに頑張ったのに、こんな人数しか来なかった」という、落胆の気持ちは、「この私がしている」という「傲慢」であったということでしょう。自らに、法を伝える力がある。人を呼び込む力があると、慢心していたことに気付かされました。
そして、その「慢心」の気持ちは、集まる人が増えるにつれて、大きくなり、自分の手柄のように思うのでしょう。その状況に呼応するかのように、そこに集まる人々も、いつしか自分たちが特別なことをしているという、優位性に埋没していくような気がします。

自らが、救われ喜び、他が自然に導かれ、出遇って行くのが、「自信教人信」の意味だと思います。言葉通りならば「自ら信じて、人を信ぜしむ」つまり、自分が信じて、人に教えて信じるようにうながすということです。しかし、これは、阿弥陀仏の救済のはたらきの姿なのか、疑問に思います。

阿弥陀仏の救済活動の結果としての「自信教人信」ならば、自らを信ぜしむるはたらきも、人を信ぜしむるはたらきも、共に阿弥陀仏の救済活動の結果でなければなりません。ならば、私がしたという自負心は、まったく意味のないことです。お寺の法要や、お参りの人数の多少で、落ち込んだり、喜んだりすることは、意味のないことであったということでしょうか。

じつは、自己嫌悪と自己称賛と他人批判の転じた形が、落ち込んだり、喜んだりという感情になっていました。なんとなんと、自己中心の心のはたらきです。

原動力を間違えていました。仏法を伝えるために、仏教を身近に感じてもらうために頑張るのではなく、「どうしたら阿弥陀仏の救済活動の邪魔をしないで済むか」を原動力にしなければいけなかったのです。
そうすれば、おのずとしなければならないことがわかるはずです。

「報恩行」「ほうおんぎょう」と読みます。浄土真宗の大切な一要素です。恩返しとは意味が違います。「邪魔」をしないために、日々生きることが「報恩行」でしょう。その生き方は、人様々であっていいと思います。

伝教大師最澄が、この地に聖徳太子の木像を発見して、お寺を建てられたことが、今、私がここで文章を書くことへとつながっています。親鸞聖人に、弟子入りしたことが、今私がここで文章を書くことへとつながっています。数え上げれば、きりがないほどのご縁によって、今、この瞬間があります。「今のこのひと時は、今この瞬間にしか存在しないのではなく、遠い過去よりのつながりの中にあり、遠い未来へのつながりの中にある。過去、現在、未来はこの一瞬の中に存在し、全ての時間の流れの中に存在し、その両者において、存在しえない」頭にでてきました。。

1200年って、すごいことです。それ以上に、地球46億歳は、もっとすごい。さらに言えば、宇宙はもっとすごい。もう一つ言えば、無量の救済のはたらきの真理は、すさまじくすごい。

今、ちょっと気付きました。ブログをなかなか書かない理由。書き出すと長くなるからです。きっと・・・(-_-)

というわけで、終わりにします。結局何が言いたかったのか・・

このたびの法要のあと、なにやら心がざわついてしょうがなかったので、少し整理もかねて書いてみました。これも、自己満足ですね~(ー_ー)!!
コメント

余裕。。。

2015-02-12 16:50:59 | 日記
「余裕」という言葉は、いい言葉です。心の余裕は、いつも持っていたいものですね。

 最近は、どーも日常に追われて、心の余裕があまりないように感じます。その点、我が家の子供たちは、「よゆー」だらけの気がします。
おにいちゃんは、4月に小学校に入学します。おとうとくんは、年中さんになります。子供は、あそぶのが仕事ですので、自由にあそんでいます。

 しかーし、あそびすぎると、いつも怒られてしまいます。ごはんになっても、なかなか集まってきません。やっとこさでごはんになっても、こころころころです。
こどもは、ほんとうに自由です。心も自由です。小さなことでも全身で笑い、泣き、怒ります。大人にとってはどうでもいいようなことで、大喜びします。

 そんな姿をみていると、こっちまでわらけてきます。大人は、たくさんのことを捨てて、大人になるんですね。得るものは大きいですが、失ってきたものもとても大きい気がします。

 時間や行動が制限されても、こころは自由に、余裕をもちたいと思う、今日この頃でした。

 もうすぐ、「正覺寺創建1200年記念法要」があります。4月4日、5日です。またまた、準備に追われております。ありがたいことです。やることがあるということは。

 お寺は、やらなければ、何もない。やればいくらでもやれる。そんな場所です。これからも、無理せず頑張っていきたいと思います。こころをちゅうぶらりんにして。
コメント