和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

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秋の彼岸に想う

2014-09-13 20:35:18 | 日記・エッセイ・コラム
 今年の夏も、様々な地域で異常気象といわれる現象が起きました。被災されたすべての方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 大いなる大自然の中に生かさせていただいている私たちですが、日ごろはそんなことは忘れ、我が物顔で大地を闊歩し、地球上でもっとも偉大な生物のようにふるまっています。しかし、自然の猛威の前には、ただただ、なすすべもありません。そのたびに、地球の、自然の偉大さ、怖さを思い知らされます。すべてをコントロールできると勘違いしている私たちは、その瞬間まで、気付けずにいます。
 
 人は、いつから大いなる存在から目を背けるようになったのでしょう。インターネットや交通手段の発達は、世界を身近に感じ、見分を広めはしますが、私たちの視野は狭くなったのではないかと思ってしまいます。過去の先人方は、狭い環境で生きていたにもかかわらず、見ている世界は、とても大きなものであったような気がしてなりません。八百万の神々、曼荼羅の佛、人が踏み入れない深山に巣食う魑魅魍魎、妖怪、様々な人を超えた存在を認識し、怖れ、敬い、行動を制限して生きてきました。現在も残る地方の風習などは、その名残です。
 
 しかし、地方の風習は忘れ去られ、様々な禁忌も、俗信迷信と一刀両断に切り捨てられ、その結果、私たちは、敬うべきものと、怖れるものを失いました。そして、情報過多の現在、理由もわからず、伝承もわからず、その情報に振り回され、自己の立ち位置を見失っています。
 
 大いなる存在を認識し、それと向き合うということは、自己の存在を確定し、行動を制限し、物事の本来のありようを知ることではないかと思います。そして、私たちが知りえる知識は、その大いなる存在を知るためのものではなく、大いなる存在の中に包括されているものであると知ることが、大切なことのように思います。
 
 たとえば、一つの水槽の中に、生態系を再現し、一切手をかけずにその水槽を維持するというものがあります。これは、一見、生態系を私の手によって作り上げたように錯覚しますが、既存の生物が、絶妙なバランスにより自然発生的に増減し、自然(じねん)の法則により、生態系が再現されたにほかなりません。この現象により知りえる知識は、地球に包括されている、宇宙に包括されている現象であり、知識です。この知識を知って、地球を、宇宙を知りえることは、ありえません。しかし、その知識の積み重ねが、いつかはすべてを知りうる完全なる知識となるのでしょうが、その知識の蓄積は、天文学的な世代交代の中でなされていくことでしょう。しかし、各分野で別々に知識を持っていたとしても、すべてを知りえる人は、存在しえないといえます。なぜなら、人の一生は、それを学ぶには短すぎるということです。もう一つは、能力の限界ということも言えます。宇宙、物質、物理、化学、生物、自然科学、科学、心理、すべてを理解し、再現できてはじめて「知る」といえるのではないかと思います。そう考えれば、医学の世界においても、専門分野がありますし、物理、化学の世界においても専門分野があります。つまり、たった一つの事柄を研究しても、一生を費やすほどの知識量であるということです。それが、各分野において、すべて解明され、実践されたものを、完全に習得するということは、「不可能」としか言いようがありません。
 
 私個人の感覚ですが、それを成し得る存在が、「佛」なのだと思います。そして、その「不可能」を「可能」にする存在は、今ここにある「すべて」としか言いようがないでしょう。すべてのありとあらゆる現象、物質、生物が、おのずからしからしむる世界。ありようのままそこにある世界に満ちるそれを、親鸞聖人は、「自然(じねん)」と言われた気がしてなりません。そして、そのものが「阿弥陀仏」なのだという気がしてなりません。
 
 私は、浅学菲才の身でありますので、浄土真宗の教学において、このことが正しいのか、間違っているのかは、わかりません。これは、どこまでいっても理論の世界ではなく、「儀礼」の世界観だと思います。阿弥陀仏と対峙し、生きとし生ける命を感じ、その住まう地球を感じ、その存在しえる宇宙を感じ、その宇宙が、ひとひらの小さな花の中に満ち満ちている世界。わたしの中に満ち満ちている感覚。

 阿弥陀仏の他力は、この私を佛に成し得るはたらきです。このなにもできない、欲望に振り回され、自分勝手な人生を生きている私が、完全なる「佛」とならせていただく教え。その到達先を「彼岸」とお伝えくださいました。

 秋の彼岸は、命の終焉の先にある彼の岸を想うに、いい季節だと思います。人は、物事を理解するのに、文字や映像がないと、理解できません。そのための「彼岸」であり、「阿弥陀仏」であり、「南無阿弥陀仏」であります。そして、この「南無阿弥陀仏」が、最少であり、最大である儀礼空間を瞬時に開花させる、すべてのはたらきそのものであるということなのかもしれません。

 念仏の人生とは、一個の命に、かくも広大無辺な、そして、極小の世界を展開してくださる、とてつもないはたらきを有する、ありがたい人生でありました。

 日記だからと、思いつくまま、気の向くまま、書きたいように書いていますので、あとで読み返しても、感じたことの極々一部しか表現できていない、語彙力のなさ、文章力のなさに、涙がちょちょぎれますが、いたし方ないことです。
 
 日々変化する人生を、念仏とともに、阿弥陀如来様とともに、右往左往しながら、たまにこんなふうに日記をかきながら、再確認しつつ、また、後日読み返しつつ、慚愧と歓喜の報恩感謝をいただきながら、生きていきたいと思います。
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