和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

死をみつめる

2014-08-01 23:14:59 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに、ゆっくりブログを書く時間を持てたような気がします。文章を書くというのは、心がざわついていると、なかなか書けないものですね。
 先日、西濃北組(お寺のお仲間の単位)の連続研修(定期的にお寺での研修、学びを繰り返し、浄土真宗本願寺派における門徒推進員という資格の取得を目指す研修会。西濃北組では、2年を1クールとして、月1回の研修を開講)の本山での一泊研修がありました。主に皆さんで自由に意見を交換してもらう「話し合い法座」と呼ばれるものが、中心です。今回のテーマは「葬儀と看取り」でした。
 

 昨今は、死と向き合うことが少なくなり、死は日常ではなく、非日常となりました。生きることが当たり前で、死ぬことは非現実的な事柄として、封印されようとしています。しかし、どれだけそう望んでも、死は突然、私を含め、あらゆるところに訪れます。その時、私たちはちゃんとその死と向き合えるのでしょうか。私は、死を受け入れられるでしょうか。愛する者の死を、直視できるでしょうか。ゆっくり、時間をかけて、死に向かっていけるご縁ならば、それも可能かもしれません。しかし、突然の別れではないという保証は、どこにもないのです。その時の苦しみと悲しみは、想像を絶するものとなるでしょう。私たちは、その想像を絶する苦しみと悲しみを直視することを恐れ、思考の外へと追いやろうとします。これは、純粋な人間としての、自己防衛の故でしょう。本能的に、ストレスのかかることを、避けているのだと思います。
 

 しかし、本能的に楽な思考をすることは、残念ながら大切なものを見落とし、見失ってしまう危険性をはらんでいます。
 

 昨今は、とかく葬儀の形がとやかく言われているように思いますが、まず、その前に「死に方と生き方」を考える人生へと、自らがシフトしていくことが大切なような気がします。そして、「死に方と生き方」を考える人生は、「死」と「生」の意味を考える人生へと転換されます。そして、私の命において、私に都合のいい「死」と「生」の意味など、なにもないことに気付かされた時、私を超えたものより提示される「死」と「生」の意味の重要性に目覚めてゆくような気がします。
 

 阿弥陀仏は、この私の命を、救うべき対象として、仏となる命として、存在の意味を与え、そして、死を「往生」という佛となる転換としてお示しくださっております。そのはたらきは、私の自己中心的な欲望の延長にある「命の意味」ではなく、それを超越した存在からの、まことの「いのちの意味」を知らしめるものであります。そのはたらきを聞くものは、日常の中に、「死」と向き合うことの大切さを知ります。

 私たちは、日常的に多くの命を抹殺しています。草や木、小さな虫たち。便利になるために、自分が楽をするために、快適に過ごすために、施設を維持するために。様々な理由で、本当に多くの命を、なんの罪悪感もなく、まさしく「消去」しています。

「そんなことにいちいち感情移入していたら、日常生活が送れない」


 しかし、本当にそれでいいのでしょうか。本当に、日常生活が送れないのでしょうか。心をいため、申し訳ないと思いつつ、それでも生きていくために命を奪い続ける、我が命の罪悪性に気付かされなければ、本当の死の恐怖は、わからないのではないかと思います。そして、本当の死の恐怖と向き合った時、はじめて生の喜びに打ち震えるのでしょう。だからこそ、人は人に優しくあれという、思いがわいてくるのではないかと思います。思いやりや、優しさ、慈しみの心は、人がもつ素晴らしい感情だと思います。しかし、それすら自己中心的、自己満足的な感情へと変化してゆく我が心において、真実は他のはたらきより示される死と生の枠組みを超えた、「いのち」にたいするまなざしです。
 

 佛のまなざしをいただきつつ、我が命と他の命の境を消し去った、一なるいのちの世界に気付かされ、その浄土という世界を目指す人生へと我が命を転じてくださった、阿弥陀仏のはたらき、他力に感謝せずにはおれません。
 

 余談ではありますが、先日ラジオのDJの方が、人任せの事柄を気楽に「他力本願」と言っておられましたが、まったく意味が違います。よく誤解されて使われますが、この「他力本願」は、阿弥陀仏のはたらき、願いによる力そのものであり、生きとし生けるものを救おうとする阿弥陀仏の願いそのものです。その願いのはたらきによりなされてゆく人生の転換が、この日記にかかれていることすべてです。