和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

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もうすぐ年末( ゚Д゚)

2016-11-23 23:29:01 | 日記
 いつのまにやら、もうすぐ年末がやってきます。本当に、年々1年が早く感じられます。除夜の鐘、ついこの前のような気がする・・・

 現在、浄土真宗本願寺派では、「伝灯奉告法要」が、京都本願寺にて勤修されております。第二十四代御門主より、第二十五代御門主へと、御代替わりされたことを、仏祖にご報告する法要です。
 ちょこちょこ、出勤させていただいております。

 ずっと、さぼっていたブログですが、やっとこさ書こうという気になりました。だめですねぇ。そもそもが、苦手なのです。。
 
 何を書こうかと、悩みながら書いておりますが、さっぱり言葉が浮かんできません。どうやら、そういう時期ではないようです。。
 なので、先ほどお寺の新聞の冒頭に使った、言葉を書いて、終わりにします。

  「死ぬからこそ
    生きることが、尊い
   死ぬ命だからこそ
    有難いこのご縁
   死と向き合う時
    生は力強く輝く
        釋 和雅」
 皆様、死の明るい一面を見れる、そんな1年を迎えたいものですね。
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1200年って、すごいことです。。

2015-04-20 22:41:42 | 日記
いやはや、久しぶりのブログです。どうにも、こういうのは性に合わないようで、なかなか投稿できません。できませんというより、しないんですけど・・・
さて、創建1200年記念法要も、無事終わりました。本当に、多くの皆さんのお手伝いのおかげ様です。子供たちを集めようと、初日は子供対象の「こども祭り」と称して、絵本ライブやらわたがしやら、ポップコーンやら、いろいろやりました。

20人ほどの子供たちが、遊びに来てくれました。この人数を多いとみるか、少ないとみるか・・・微妙。(-.-)
私の兄も、手伝いに来てくれていまして、「子供たち、20人ぐらいしかおらへんわ」と言ったら、「20人もおれば、いいほうやって」と言ってくれました。私が岐阜に帰ってくる前から、お寺の子供対象の様々な行事を頑張ってきてたと思います。その経験から、その一言が出たのでしょう。

いま、日曜学校をしています。日曜日の朝8時からです。子供たちも成長し、参加人数も減ってきて、現在存亡の危機です。継続は力なりといいますが、子供が少ない地域、小規模寺院で、継続は力なりは、なかなか成立しません。ただいまお悩み中であります。

人が多ければ、成功というわけではありません。一人でもいいと思っています。なにが一人でもいいのかといえば、「お寺」が好きになり、「お寺」が必要となり、「お寺」が生活の一部になる。そして、教えに出遇い、救いの道を歩む。お念仏の道を歩む。そんな人が、一人でも増えれば、成功。二人増えれば、また成功。それの積み重ねをしていく。しかし、面白いことに、この成功は、人の手によってなされるものではないのです。大いなるはたらきによって、自然になされてゆく。この場合の「自然」は「じねん」ですけど。本当に不思議なものです。私が、なにをどれだけ頑張っても、お念仏に出遇っていただけない方。かと思えば、私が、特に何も頑張ってないのに、出遇う方もいます。親鸞聖人が「弟子一人も持たず候」と言われたことが、しみじみと思い起こされます。

「こんなに頑張ったのに、こんな人数しか来なかった」という、落胆の気持ちは、「この私がしている」という「傲慢」であったということでしょう。自らに、法を伝える力がある。人を呼び込む力があると、慢心していたことに気付かされました。
そして、その「慢心」の気持ちは、集まる人が増えるにつれて、大きくなり、自分の手柄のように思うのでしょう。その状況に呼応するかのように、そこに集まる人々も、いつしか自分たちが特別なことをしているという、優位性に埋没していくような気がします。

自らが、救われ喜び、他が自然に導かれ、出遇って行くのが、「自信教人信」の意味だと思います。言葉通りならば「自ら信じて、人を信ぜしむ」つまり、自分が信じて、人に教えて信じるようにうながすということです。しかし、これは、阿弥陀仏の救済のはたらきの姿なのか、疑問に思います。

阿弥陀仏の救済活動の結果としての「自信教人信」ならば、自らを信ぜしむるはたらきも、人を信ぜしむるはたらきも、共に阿弥陀仏の救済活動の結果でなければなりません。ならば、私がしたという自負心は、まったく意味のないことです。お寺の法要や、お参りの人数の多少で、落ち込んだり、喜んだりすることは、意味のないことであったということでしょうか。

じつは、自己嫌悪と自己称賛と他人批判の転じた形が、落ち込んだり、喜んだりという感情になっていました。なんとなんと、自己中心の心のはたらきです。

原動力を間違えていました。仏法を伝えるために、仏教を身近に感じてもらうために頑張るのではなく、「どうしたら阿弥陀仏の救済活動の邪魔をしないで済むか」を原動力にしなければいけなかったのです。
そうすれば、おのずとしなければならないことがわかるはずです。

「報恩行」「ほうおんぎょう」と読みます。浄土真宗の大切な一要素です。恩返しとは意味が違います。「邪魔」をしないために、日々生きることが「報恩行」でしょう。その生き方は、人様々であっていいと思います。

伝教大師最澄が、この地に聖徳太子の木像を発見して、お寺を建てられたことが、今、私がここで文章を書くことへとつながっています。親鸞聖人に、弟子入りしたことが、今私がここで文章を書くことへとつながっています。数え上げれば、きりがないほどのご縁によって、今、この瞬間があります。「今のこのひと時は、今この瞬間にしか存在しないのではなく、遠い過去よりのつながりの中にあり、遠い未来へのつながりの中にある。過去、現在、未来はこの一瞬の中に存在し、全ての時間の流れの中に存在し、その両者において、存在しえない」頭にでてきました。。

1200年って、すごいことです。それ以上に、地球46億歳は、もっとすごい。さらに言えば、宇宙はもっとすごい。もう一つ言えば、無量の救済のはたらきの真理は、すさまじくすごい。

今、ちょっと気付きました。ブログをなかなか書かない理由。書き出すと長くなるからです。きっと・・・(-_-)

というわけで、終わりにします。結局何が言いたかったのか・・

このたびの法要のあと、なにやら心がざわついてしょうがなかったので、少し整理もかねて書いてみました。これも、自己満足ですね~(ー_ー)!!
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余裕。。。

2015-02-12 16:50:59 | 日記
「余裕」という言葉は、いい言葉です。心の余裕は、いつも持っていたいものですね。

 最近は、どーも日常に追われて、心の余裕があまりないように感じます。その点、我が家の子供たちは、「よゆー」だらけの気がします。
おにいちゃんは、4月に小学校に入学します。おとうとくんは、年中さんになります。子供は、あそぶのが仕事ですので、自由にあそんでいます。

 しかーし、あそびすぎると、いつも怒られてしまいます。ごはんになっても、なかなか集まってきません。やっとこさでごはんになっても、こころころころです。
こどもは、ほんとうに自由です。心も自由です。小さなことでも全身で笑い、泣き、怒ります。大人にとってはどうでもいいようなことで、大喜びします。

 そんな姿をみていると、こっちまでわらけてきます。大人は、たくさんのことを捨てて、大人になるんですね。得るものは大きいですが、失ってきたものもとても大きい気がします。

 時間や行動が制限されても、こころは自由に、余裕をもちたいと思う、今日この頃でした。

 もうすぐ、「正覺寺創建1200年記念法要」があります。4月4日、5日です。またまた、準備に追われております。ありがたいことです。やることがあるということは。

 お寺は、やらなければ、何もない。やればいくらでもやれる。そんな場所です。これからも、無理せず頑張っていきたいと思います。こころをちゅうぶらりんにして。
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