和雅音 <<wageon>>

住職のひとりごと

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

ずいぶんとさぼっておりました

2016-08-16 16:05:08 | 日記・エッセイ・コラム
かなり久しぶりのブログです。
 先日、お盆の法要をお勤めしました。正覺寺には、16代分の歴代の本願寺ご門主のご影があります。
 
 ご門主とは、京都本願寺のご住職で、浄土真宗本願寺派の一番尊いお方とでも申しましょうか。親鸞聖人より、連綿と続く法と血脈を受け継がれたお方であります。そのお姿の掛け軸を「ご影(ごえい)」といいます。
毎年、お盆にはそのご影を奉献いたします。時間はかかりますが、終わるとなんだかありがたい気持ちになります。

 人は、なぜ季節の折々に様々な儀式、儀礼をするのでしょう。よく意味も分からずされている方も、少なくないと思います。
今回は、長くならないように一言でまとめたいと思います。

 「こころのスイッチ」

これにつきますね。しかしながら、阿弥陀如来の救いをいただく、お念仏の人生においては、「こころのスイッチ」ではなく

 「ご恩の礼儀」

として、させていただきたいものです。
 昨今は、なんでもかんでも自分中心で、宗教儀礼も自分中心になってしまっている気がします。「自分が気持ちが落ち着く」「やさしい気持ちになれる」「こころが洗われる」。。。

 こんな、自分の気持ちも大事なことかもしれません。でも、もっと大事なことを見失っているような気がします。

 人生観や人間性の範疇の話は、理解しやすくとっつきやすいです。でも、そこを超えていく話じゃないと、宗教ではなく、道徳になってしまう。

 入口とその先、「こころのスイッチ」から「ほとけとの出遇い」そして「ご恩の礼儀」へと、順番にうまいことおすすめできたらいいのになぁ。。
と思う、残暑のこのごろです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

なんだかねぇ、こころが思うように動いてくれませんね。。

2015-08-09 17:21:04 | 日記・エッセイ・コラム
かなり久しぶりです。なんともかんとも、本当に久しぶりにブログを書いております。

最近は、本当に時間が早く過ぎていきます。まもなく、私の所のお寺が所属している、岐阜教区西濃北組というグループで、「ほとけさまの音楽 声明と雅楽」と題して、公演会をします。今は、その準備に追われております。幸いながら、近くのお寺のお友達さんに、チラシやらパンフレットのデザインをしてくれる人がいまして、本当に助かっています。

様々な得意分野の人が集まって、一つの事柄が完成していきます。必ず、なにか生きる場所があります。生かせる場所があります。しかし、それは、やっぱり人と人のつながりの中で、生きてくるものですね、お互いの信頼関係、尊重、責任。

最近、少しおもうことがありました。そのおかげで、2~3日前まで、無気力症候群になっていました。私は、昔からですけど、やる気が起きない、出ないときは、いったん休憩することにしています。やらなければいけないことがあっても、時間が許すことならば、ぎりぎりまでしない。心の中で、「やらなきゃ」と思いつつ、自分のしたいことだけをします。だいたい3日もつづけると、「やらなきゃ」がいっぱいになって、また動き出します。やる気を出すスイッチは、人それぞれ、いろいろです。もう一つの方法は、強制的に勉強会や練習会などに参加して、能動的に動いている人を見ることですね。そうすると、刺激になって、また動き出します。そんな風にして、心をコントロールしていますが、そもそも、思うこととはなんだったのか。それがはっきりしないので、困っております。

 様々な活動に参加し、いろいろ経験させていただいて、自分の勉強のためと前向きにとらえる日々を過ごしておりました。しかし、少し気付いたのは、心の整理も大事ですが、行動の整理も大事なんだということです。

 行動は、心に伴うものと、そうでないものが当然あります。心に伴う行動だけでは、人間関係はうまくいきません。しかし、心の整理が上手にできていないと、なぜ心に伴わない行動をしなければならないのか、その意味が受け止めきれず、心が疲れてしまいます。自分の行動に、感情の心と理性の心のどちらかで、しっかり意味づけがされていないといけません。

 そう考えると、心の整理のほうが先のような気がしますが、最近思ったのは、行動の整理によって、心の状態が変化することです。行動には、自分の感情と理性以外に、対外的なものに引きずられての行動があると思います。しかし、これも本当に嫌なら断るのですが、その行動をすることは、嫌ではないが、好きではないことや、できればやりたくないことを引きずられているがゆえに、意味を整理する前に、行動が発生してしまうと、それにより心が疲れてしまいます。

 では、したいと思うことだけすればいいのかと言われるでしょうが、そうではなく、日常から自分の様々な行動、活動の意味、理由をちゃんと考えて、それに備えておくことが大事だということです。突発的な行動、計画的な行動、いずれにしても、内容や人間関係によって、自分にとってのいい行動、いやな行動になります。では、どんな行動が、いい行動で、どんな行動がいやな行動なのか。いい行動の中で、しないほうがいい行動はないか、いやな行動で、したほうがいい行動、しなければならない行動はないか。その理由はなんなのか。このあたりは、心の整理というより、行動の整理だと思います。当然、心も関係してきますが、単に行動を、好き嫌いで分けるのではなく、今の自分ににとって、またこれからの自分にとって、なにが大切で、どこを省略して、なにを避けるべきか。こんなことを、日常の中で、常に考えて、行動を整理していくと、心が楽になっていくような気がします。

 「いかにらくに生きるか」が、私の最近のテーマです。当然、「こころ」が楽ということですけど。

 人間は、自己のこころに振り回されて、その中に埋没していく生き物です。主観的、自己中心的なこころに気付かず、あたかも当然の現象のように、自分のこころの変化を表に出します。

 「大いなる存在による、第三者の眼」を内包するこによってのみ、人は自らのこころに埋没することから解放されるのだと思います。それが、なかなか難しい。自分の存在を「主観」ではなく「客観」にしなければいけませんから。

 書いていて、少し最近の思うところの形が、ぼんやりとみえてきたような気がします。どうやら、知らない間に、私も少々こころが疲れていたようです。まだまだ、「主観」の中ですねぇ。

 阿弥陀仏の「他力」の救いをいただくということは、「客観」の世界を生きていくことだと思うのですが、「客観」になりきれない私でありました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

久しぶりのブログです。。。(#^.^#)

2015-01-06 15:50:03 | 日記・エッセイ・コラム
 あまり性格が、マメではないので、ブログの更新をすっかりサボってしまいました。

年末年始は、バタバタといつのまにか過ぎ去ってしまい、今は、もっとも大きい行事である、「報恩講」の準備に追われております。

しかし、除夜の鐘には、たくさんの方が、鐘を突きに来てくださいました。ぜんざいと甘酒の御接待がよかったのか、ライトアップがよかったのか、とにかくうれしい限りです。

これをご縁に、気軽にお寺へ足を運んでくださるといいなと思い、来年への活力とさせていただきました。

 本日は、時間がないので、除夜会と除夜の鐘のご報告です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

秋の彼岸に想う

2014-09-13 20:35:18 | 日記・エッセイ・コラム
 今年の夏も、様々な地域で異常気象といわれる現象が起きました。被災されたすべての方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 大いなる大自然の中に生かさせていただいている私たちですが、日ごろはそんなことは忘れ、我が物顔で大地を闊歩し、地球上でもっとも偉大な生物のようにふるまっています。しかし、自然の猛威の前には、ただただ、なすすべもありません。そのたびに、地球の、自然の偉大さ、怖さを思い知らされます。すべてをコントロールできると勘違いしている私たちは、その瞬間まで、気付けずにいます。
 
 人は、いつから大いなる存在から目を背けるようになったのでしょう。インターネットや交通手段の発達は、世界を身近に感じ、見分を広めはしますが、私たちの視野は狭くなったのではないかと思ってしまいます。過去の先人方は、狭い環境で生きていたにもかかわらず、見ている世界は、とても大きなものであったような気がしてなりません。八百万の神々、曼荼羅の佛、人が踏み入れない深山に巣食う魑魅魍魎、妖怪、様々な人を超えた存在を認識し、怖れ、敬い、行動を制限して生きてきました。現在も残る地方の風習などは、その名残です。
 
 しかし、地方の風習は忘れ去られ、様々な禁忌も、俗信迷信と一刀両断に切り捨てられ、その結果、私たちは、敬うべきものと、怖れるものを失いました。そして、情報過多の現在、理由もわからず、伝承もわからず、その情報に振り回され、自己の立ち位置を見失っています。
 
 大いなる存在を認識し、それと向き合うということは、自己の存在を確定し、行動を制限し、物事の本来のありようを知ることではないかと思います。そして、私たちが知りえる知識は、その大いなる存在を知るためのものではなく、大いなる存在の中に包括されているものであると知ることが、大切なことのように思います。
 
 たとえば、一つの水槽の中に、生態系を再現し、一切手をかけずにその水槽を維持するというものがあります。これは、一見、生態系を私の手によって作り上げたように錯覚しますが、既存の生物が、絶妙なバランスにより自然発生的に増減し、自然(じねん)の法則により、生態系が再現されたにほかなりません。この現象により知りえる知識は、地球に包括されている、宇宙に包括されている現象であり、知識です。この知識を知って、地球を、宇宙を知りえることは、ありえません。しかし、その知識の積み重ねが、いつかはすべてを知りうる完全なる知識となるのでしょうが、その知識の蓄積は、天文学的な世代交代の中でなされていくことでしょう。しかし、各分野で別々に知識を持っていたとしても、すべてを知りえる人は、存在しえないといえます。なぜなら、人の一生は、それを学ぶには短すぎるということです。もう一つは、能力の限界ということも言えます。宇宙、物質、物理、化学、生物、自然科学、科学、心理、すべてを理解し、再現できてはじめて「知る」といえるのではないかと思います。そう考えれば、医学の世界においても、専門分野がありますし、物理、化学の世界においても専門分野があります。つまり、たった一つの事柄を研究しても、一生を費やすほどの知識量であるということです。それが、各分野において、すべて解明され、実践されたものを、完全に習得するということは、「不可能」としか言いようがありません。
 
 私個人の感覚ですが、それを成し得る存在が、「佛」なのだと思います。そして、その「不可能」を「可能」にする存在は、今ここにある「すべて」としか言いようがないでしょう。すべてのありとあらゆる現象、物質、生物が、おのずからしからしむる世界。ありようのままそこにある世界に満ちるそれを、親鸞聖人は、「自然(じねん)」と言われた気がしてなりません。そして、そのものが「阿弥陀仏」なのだという気がしてなりません。
 
 私は、浅学菲才の身でありますので、浄土真宗の教学において、このことが正しいのか、間違っているのかは、わかりません。これは、どこまでいっても理論の世界ではなく、「儀礼」の世界観だと思います。阿弥陀仏と対峙し、生きとし生ける命を感じ、その住まう地球を感じ、その存在しえる宇宙を感じ、その宇宙が、ひとひらの小さな花の中に満ち満ちている世界。わたしの中に満ち満ちている感覚。

 阿弥陀仏の他力は、この私を佛に成し得るはたらきです。このなにもできない、欲望に振り回され、自分勝手な人生を生きている私が、完全なる「佛」とならせていただく教え。その到達先を「彼岸」とお伝えくださいました。

 秋の彼岸は、命の終焉の先にある彼の岸を想うに、いい季節だと思います。人は、物事を理解するのに、文字や映像がないと、理解できません。そのための「彼岸」であり、「阿弥陀仏」であり、「南無阿弥陀仏」であります。そして、この「南無阿弥陀仏」が、最少であり、最大である儀礼空間を瞬時に開花させる、すべてのはたらきそのものであるということなのかもしれません。

 念仏の人生とは、一個の命に、かくも広大無辺な、そして、極小の世界を展開してくださる、とてつもないはたらきを有する、ありがたい人生でありました。

 日記だからと、思いつくまま、気の向くまま、書きたいように書いていますので、あとで読み返しても、感じたことの極々一部しか表現できていない、語彙力のなさ、文章力のなさに、涙がちょちょぎれますが、いたし方ないことです。
 
 日々変化する人生を、念仏とともに、阿弥陀如来様とともに、右往左往しながら、たまにこんなふうに日記をかきながら、再確認しつつ、また、後日読み返しつつ、慚愧と歓喜の報恩感謝をいただきながら、生きていきたいと思います。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

死をみつめる

2014-08-01 23:14:59 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに、ゆっくりブログを書く時間を持てたような気がします。文章を書くというのは、心がざわついていると、なかなか書けないものですね。
 先日、西濃北組(お寺のお仲間の単位)の連続研修(定期的にお寺での研修、学びを繰り返し、浄土真宗本願寺派における門徒推進員という資格の取得を目指す研修会。西濃北組では、2年を1クールとして、月1回の研修を開講)の本山での一泊研修がありました。主に皆さんで自由に意見を交換してもらう「話し合い法座」と呼ばれるものが、中心です。今回のテーマは「葬儀と看取り」でした。
 

 昨今は、死と向き合うことが少なくなり、死は日常ではなく、非日常となりました。生きることが当たり前で、死ぬことは非現実的な事柄として、封印されようとしています。しかし、どれだけそう望んでも、死は突然、私を含め、あらゆるところに訪れます。その時、私たちはちゃんとその死と向き合えるのでしょうか。私は、死を受け入れられるでしょうか。愛する者の死を、直視できるでしょうか。ゆっくり、時間をかけて、死に向かっていけるご縁ならば、それも可能かもしれません。しかし、突然の別れではないという保証は、どこにもないのです。その時の苦しみと悲しみは、想像を絶するものとなるでしょう。私たちは、その想像を絶する苦しみと悲しみを直視することを恐れ、思考の外へと追いやろうとします。これは、純粋な人間としての、自己防衛の故でしょう。本能的に、ストレスのかかることを、避けているのだと思います。
 

 しかし、本能的に楽な思考をすることは、残念ながら大切なものを見落とし、見失ってしまう危険性をはらんでいます。
 

 昨今は、とかく葬儀の形がとやかく言われているように思いますが、まず、その前に「死に方と生き方」を考える人生へと、自らがシフトしていくことが大切なような気がします。そして、「死に方と生き方」を考える人生は、「死」と「生」の意味を考える人生へと転換されます。そして、私の命において、私に都合のいい「死」と「生」の意味など、なにもないことに気付かされた時、私を超えたものより提示される「死」と「生」の意味の重要性に目覚めてゆくような気がします。
 

 阿弥陀仏は、この私の命を、救うべき対象として、仏となる命として、存在の意味を与え、そして、死を「往生」という佛となる転換としてお示しくださっております。そのはたらきは、私の自己中心的な欲望の延長にある「命の意味」ではなく、それを超越した存在からの、まことの「いのちの意味」を知らしめるものであります。そのはたらきを聞くものは、日常の中に、「死」と向き合うことの大切さを知ります。

 私たちは、日常的に多くの命を抹殺しています。草や木、小さな虫たち。便利になるために、自分が楽をするために、快適に過ごすために、施設を維持するために。様々な理由で、本当に多くの命を、なんの罪悪感もなく、まさしく「消去」しています。

「そんなことにいちいち感情移入していたら、日常生活が送れない」


 しかし、本当にそれでいいのでしょうか。本当に、日常生活が送れないのでしょうか。心をいため、申し訳ないと思いつつ、それでも生きていくために命を奪い続ける、我が命の罪悪性に気付かされなければ、本当の死の恐怖は、わからないのではないかと思います。そして、本当の死の恐怖と向き合った時、はじめて生の喜びに打ち震えるのでしょう。だからこそ、人は人に優しくあれという、思いがわいてくるのではないかと思います。思いやりや、優しさ、慈しみの心は、人がもつ素晴らしい感情だと思います。しかし、それすら自己中心的、自己満足的な感情へと変化してゆく我が心において、真実は他のはたらきより示される死と生の枠組みを超えた、「いのち」にたいするまなざしです。
 

 佛のまなざしをいただきつつ、我が命と他の命の境を消し去った、一なるいのちの世界に気付かされ、その浄土という世界を目指す人生へと我が命を転じてくださった、阿弥陀仏のはたらき、他力に感謝せずにはおれません。
 

 余談ではありますが、先日ラジオのDJの方が、人任せの事柄を気楽に「他力本願」と言っておられましたが、まったく意味が違います。よく誤解されて使われますが、この「他力本願」は、阿弥陀仏のはたらき、願いによる力そのものであり、生きとし生けるものを救おうとする阿弥陀仏の願いそのものです。その願いのはたらきによりなされてゆく人生の転換が、この日記にかかれていることすべてです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加