憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

体罰は教育者のすることではない

2013-01-11 21:17:28 | 生徒指導論
 学校現場でいたましい事件が起きた。
 大阪市立高校での体罰自殺事件である。
 自殺した生徒のご冥福を心より申し上げる。残されたご遺族の心中は、同じ子を持つ親として、察するに余りある。
 また、教育現場に携わる者として今回の事件に関していうならば、顧問の教師に弁解の余地は全くない。

 学校現場で、部活動にしろ、生徒指導や授業中にしろ、生徒に対して程度の差があれ体罰をする教師というのは、教育者ではない。あるいは、教育のプロではない。これは、断言しよう。もし、教育のプロを自認するもので、体罰を肯定する教師はいるとすれば、会ってみたいものである。
 教師が、たとえ部活動で華々しい成績をおさめていようとも、あるいはどんなに部員に慕われていようとも、教育現場で体罰による指導をしているのであれば、それは教育者とはいえない。だから、今回の事件の部活動顧問は、私にいわせれば教育者ではない。暴力による関係性で、生徒が教師を「いい先生だ」と思ってしまう心理状態というのは、すでに科学的に解明されているから、ここでは論じないけど、いずれにせよ生徒や保護者にとって「いい先生だ」ろうが何だろうが、教育者ではない。
 もし、学校現場に体罰を肯定する教師がいるのであれば、それはもはや教育者ではなく、教育の現場にふさわしくない人間なので、私たちは軽蔑するべきである。そして、現場から排除していくべきである。

 ただし、20年くらい前まで、現場である程度の体罰は、いわば「必要悪」として認識されていたのも、事実である。これが、体罰論議をややこしくしているともいえる。体罰は、20年前といわずとも、もっと前から学校現場では禁止されていた。こんなことは、教師にとってみれば、常識であった。学校現場ではいかなる体罰も許されない。これは今も昔も常識。しかし、禁止されているにもかかわらず、体罰をもってしか指導が通らなかった時代もあったということだ。ちょうど、私が教師になった頃、つまり20年くらい前が、ターニングポイントだった。私の先輩であった教師が、禁止されていることを承知の上で、生徒指導上、「必要悪」として生徒をぶん殴っていた。
 私は、そんな旧来の教育現場のいちばん最後の時期に教師になった。けど、これ以降、学校現場では体罰によらない指導が急速に浸透していく。それは、人権思想の広まりとか、世の中がいかなる暴力も認めないという風潮になっていったとか、という背景があるだろう。そして、そのような風潮に合わせるように、学校現場では、体罰によらない生徒指導の方法を志向し模索し深化させていったのだ。そうした体罰にかわる、新しい生徒指導の方法を教師は学んで、現在にいたっているのだ。つまり、教師の生徒指導の分野というのも、体罰が「必要悪」だった20年前とは大きく進歩していると考えたらよい。
 もちろん、そうした生徒指導の手法は確立していないし、これからも確立しないだろう。だから、教育の現場には、いじめ、不登校、学級崩壊、といった問題が解決せずに存在している。しかし、だからといって、体罰による生徒指導を現場の教師は志向しない。体罰にかわる方法での指導法を求め、学んでいるのである。
 であるから、この現代に、いまだ旧来の手法である体罰によって指導をしている教師というのは、前時代的なアナクロ教師であり、現代のわが国の現場では、もはや教育のプロとはいえないのである。
 なお、部活動、とくに運動部の世界では、生徒指導の方法なんかよりも、ずっと科学的な指導法が導入されているはずである。いわゆるコーチングというやつだ。そこには、精神的な苦痛を伴うような指導や、ましてや体罰による指導などは、科学的に否定されていよう。であるから、そうした、先端の思想や技術が現場に導入されてきているにもかかわらず、そうした思想や技術から学ばず、精神論を指導の支柱としている部活動顧問というのは、やはり教育のプロとはいえないのである。

 であるから、「教育には体罰は必要か、否か」という論題は、少なくとも学校現場では成り立たない。つまり、議論にあたいしないということだ。もう、そんな時代ではないのだ。

 今回の事件に乗じて、「体罰」はいけないけれど「愛のムチ」は必要なのではないかという主張がある。マスコミであれば産経新聞、政治家であれば橋下大阪市長あたりが、わりと簡単にアクセスしやすいだろう。一般的に、こうした「愛のムチ」肯定派は保守思想に多いと思われる。しかし、私に言わせれば、それは、思想性というよりも、単に現代の学校教育がどこまで進歩しているのかについて知らない、無知による主張なのだ。だから、そういう主張については、現在の教育についてロクに知らねえくせに、知ったかぶりして喋るんじゃない、と言っておこう。いずれにせよ、「愛のムチ」肯定派については、自分たちの「ムチ」をさらしているとみて、私たちは嘲笑すべきである。

 また、こうした「愛のムチ」肯定派は、知ってか知らぬか、「しつけ」と「指導」を分けずに議論をしようとする。そこが、議論をムダにややこしくしている。
 学校現場で、教師が生徒に行うものは「指導」以外にないのである。教師は「しつけ」ではなく「指導」をするから、教育のプロなのだ。教師は学校現場にいる以上、父ちゃんや母ちゃんではなく、ましてや近所のオジさんオバさんではないのだ。
 なお、家庭教育でも「愛のムチ」のような「しつけ」も早晩、否定されるようになるだろう。「折檻」が「児童虐待」と言い換えられたように、人権思想の深まりによって、身体的苦痛によならい「しつけ」が、今後も曲折はあろうが、社会の成熟とともに浸透していくことだろう。

 最後に、保護者として、わが子を教師の体罰から守るにはどうするか。
 それは体罰の決定的証拠をつかむことである。学校現場は、体罰の事実があった場合は、まず間違いなく隠す。なぜかといえば、体罰は禁止されているからである。禁止されていることをやった以上、該当教師は、処分の対象となるし、学校長も注意を受ける(であるから、校長は、体罰の事件が起こったとき、体罰の存在を知っていても「知らなかった」と言わざるを得ない。それは、保身ということもあるが、組織人としてのプライドがそうさせるのだ。今回の事件で、該当の校長は顧問が体罰をやっていることは、当然わかっていた。しかし、「知っていた」とは言えない。今後の私の個人的な関心として、マスコミの追及によって、校長が耐えきれずに「知っていた」と本当のことを言うか否かがある)。
 であるから、保護者は、体罰の事実をつかむことだ。部活動であれば、練習の風景のビデオを撮ることだ。そこで体罰があれば、動かぬ証拠となる。また、普段から保護者が練習を見ることでも、十分に抑止力にはなるはずである。もちろん、その時、保護者は顧問に体罰をやめるように要請することが大切である。そうでないと、保護者も体罰を黙認していたという弁解の余地を与えてしまう。顧問に直接言うのが難しいのであれば、校長や教育委員会には伝えることだ。いずれにせよ、自分の子どもを守るためには、保護者も頑張らなくてはならない。
 生徒指導や授業中の体罰はどうするか。これは、参観日でもなければ保護者が教室に出向くというのは難しいので、子どものかばんにICレコーダーを入れて、録音するということになる。これが証拠となって、教師が処分を受けたという事例がある。
 もちろん、そうした体罰を受けてしまってからでは遅い、という意見もあろう。
であれば、体罰を抑止する方策をとることである。現在、公立小中学校では、保護者に「学校評価」という名前のアンケートを年に1回実施している。時期としては、2学期の後半に実施する学校が多いと思う。これは、学校の教育について、保護者がどう評価しているかをアンケート方式でおこなっており、この評価をもとに学校では年度末反省を行い、次年度の学校経営方針に生かすという算段となっている。多分、アンケートを入れる封筒とともに家庭に配布されているはずである。
 この「学校評価」には自由記述欄があるはずだから、もし学校にそのような体罰が疑わしい教師がいるのであれば、そこにその旨書けばよい。この学校評価用紙は、間違いなく校長や教頭が一枚一枚読むから、管理職の監督責任において何らかの措置が講じられよう。
 あるいは、児童生徒用の「学校評価」を活用する方法もある。
 児童生徒用の「学校評価」というのは、子どもが、「あなたは学校が楽しいですか」とか「あなたは授業がわかりますか」といったアンケートに回答するもので、こちらも年に1回、学校の学級活動の時間などで行っている。こちらは、家庭には配布されないから、保護者の方は知らないということもあるだろう。けれど、このアンケート調査の結果は、「学校便り」などで家庭にお知らせをしているはずである。このような児童生徒用の学校評価用紙に、質問項目として「あなたは先生から体罰を受けたことがありますか」という項目を加えてもらうよう要望すればよい。
 この質問項目が加わることで、体罰教師には十分な抑止効果がある。もし、要望しづらいということであれば、他の保護者と連名でとかで学校にお願いする、といった形で要望すればよい。当該の体罰教師に嫌われないようにしつつ、抑止するのは、こういうやり方が効果的と思われる。

お気楽予想2013年 日本の教育はこうなる

2013-01-04 16:56:00 | 教育時評
 2013年のはじまりである。
 今年は、どのような年になるだろうか。

 教育行政については、安倍政権になって、大きく変わっていくことだろう。なんといっても、6年前の第1次内閣で教育基本法を改正させてしまうくらい教育改革には熱心なのだから、今回の第2次内閣も教育については短期的長期的ふくめて改革をしていくことになるだろう。
 教育現場はどうだろう。現場は、さほど大きく変わることはないのではないか、と思っている。
 そんなことも含みつつ、今年の教育はどうなるか、気楽に予想してみました。
 題して「お気楽予想2013年日本の教育はこうなる?」。

 その1。いじめ防止法が成立して、学校への警察権力の介入が認められるようになる。
  
 これが、今年前半の教育行政の大きな話題になるのではないか。賛否ともども大いに議論したらいいと思う。法律については、今年中に成立するのではないか。そして、成立をすれば、学校現場に警察権力の介入を認めることになるだろう。学校現場への影響は、来年以降になると思うが、この法律が施行されるまでに、すべての教師は大小の研修を受けることになるだろう。
 また、法律の内容次第といえるが、この法律が成立したからといって、残念ながらいじめの件数が減少することはないだろう、と大胆に予想しておこう。

 その2。教員志望者の減少傾向がさらに進む。
 
 とくに大阪は深刻になるだろう。全国的に、大卒だけではなく、社会人からも志望者を大いに募ることをするだろう。ちなみに、民主党政権下ですすめられていた、教員養成6年制構想は頓挫し、今後は現職教員の研修は増加し、服務規律は一層厳格になるだろう。研修が増えることにより、教員の多忙化に拍車がかかるだろうが、残念ながら問題化するまでにはならないだろう。
 また、第1次安倍政権下では、教育再生会議というのを組織して、そこで指導力不足教師についてクビにさせてしまおう、という議論がなされたが、今回は同様な会議が組織されたとしても、教員の淘汰議論には行き着かないだろう。それほど、教師のなり手不足が深刻化するのではないか。

 その3。教員の休職者は高止まり傾向のまま。

 これは、毎年12月の末に発表がされるのだけど、休職者が5000人を切ることはないだろう。そして、新卒者の退職者については微増することだろう。つまり、教師をとりまくキツい現状は残念ながら変化しないということである。

 その4。学力の向上が見られた一方で、学力の格差が深刻になる。

 ゆとりから学力向上にシフトしているが、今年は、はやくも揺り戻しがくることだろう。
 まず、今年はPISA国際学力調査が発表になる(と思う)。そのときに、日本は前回よりも学力は向上しているだろう。もしかしたら、V字回復くらいのはっきりとした学力の向上がみられるかもしれない、と大胆に予想しておこう。
 国内でやっている全国学力調査についても、ゆとりから決別している分、学力の向上は数値となって表れるだろう。
 しかしながら、今年は、学力向上がみられた代わりに、低所得者層の低学力問題が問題化されるのではないか。ここに、所得格差や高校の無償問題も絡んできて、学力格差議論が活発になるのではないかと予想しよう。

 その5。愛国心教育が進む。
 
 安倍政権になったということで予想。手順としては、憲法改正論議を含む国内世論の動向をみながら、近隣諸国に対する安全保障という議論のなかで、国を愛する心の醸成を打ち出すだろう。具体的には、領土教育の充実や、道徳教育の強化、この延長線上に他国に負けない強い国民の育成という流れで学力向上政策が出てくるだろう。
 また、こうした政策がうまく時流にのれば、来年以降になるが学習指導要領の改正をして愛国心を強化する教育内容にも手を出していくだろう。そして、その先は、私の希望だけど、教科書検定制度を含む、抜本的な教育課程の制度改革を目指してほしいと思っている。

 さて、どれだけ当たるでしょうか。
 というわけで、今年もよろしくお願いします。
 このBlogもなんと7年目。ずいぶんとまあ、続いたものです。
 今年も、毎週更新を目標に続けていきたいと思います。どうぞ、ご愛顧のほどを。

今年もお世話になりました

2012-12-29 17:50:17 | その他
 冬休みである。
 終業式後の3連休に、肩痛眼痛顔痛になって、丸3日間ダウンしていた。
 3日たってやっと痛みが治まったかと思うと、今度はずっと寝ていたせいで、腰にきてしまった。今までに経験のない腰痛がやってきて、再び2日間病休。その最中に、ドカ雪があって、もうどうでもいいや、という捨て鉢な気分になり、結局、なし崩し的に納めとなった。仕事納めも忘年会もクリスマスも、すべて吹っ飛んでしまった、なんとも締まらない年の瀬となった。
 昨日あたりから、ようやくPCの前に向かえるようになったのだけど、今はどうにもセキが出る。セキ止めを飲みながら、片づけをしているというのが今の状況である。
 
 そういうわけで、今年はもうこれでおしまいにします。
 皆様、よいお年を。
 来年も、このBlogをよろしくお願いします。

ブラック企業からコミュニケーション能力不足問題を考える

2012-12-15 17:03:20 | 生徒指導論
 今野晴貴『ブラック企業』(文春新書、2012年)を読む。
 企業が、新卒社員をえげつない手口で使い捨てていく様をレポートし、それを社会問題として取り上げ論述している。テレビにも出て、教師批判がお得意の社長の居酒屋チェーンがブラックなのは知っていたけど、へえ、あの大手アパレルメーカーもブラックだったのか、と私はいまさらながらに知った。日本人の誰もが着用していよう国民服メーカーともいえるあの企業がブラックなのは、私が知らんかっただけで、世間では常識なのか。
 そうしたブラック企業が新人を潰していく手口は様々であるが、そのひとつとして新人の「コミュニケーション能力の不足」を問題として、自己都合退職に追い込んでいくルポに私は注目する。
 この本は、ブラック企業を批判し社会問題として論点化するのが目的なので、雇われる新入社員側の問題については、一切言及はない。もちろん、そういう趣旨で書かれているのだから、それはそれでよい。私も、ブラック企業の肩を持つ気はさらさらない。けれど、営業や接客、窓口業務といった対人職については特に、社員の「コミュニケーション能力の不足」というのは、企業にとっては大きな問題なのだろうなあ、とは思う。

 「コミュニケーション能力の不足」の問題。
 俗語として「コミュ障」なる言葉がある。「コミュニケーション障害」の略称としてネット上で派生したものらしい。略さずに「コミュニケーション障害」で使用すれば、専門用語として、高機能自閉症や広汎性発達障害についての真面目な議論になるのだけど、「コミュ障」として使用すれば、うまく人とコミュニケーションがとれない者への蔑称となるだろう。
 おそらく、ブラック企業に潰されていく新入社員というのも、「コミュ障」扱いされていたのも少なからずいたのだろうと推察される。
 ここでの問題は、コミュニケーション能力不足について、それが障害によるものなのかという真面目な議論をせずに、まとめて「コミュ障」なる蔑称でひとくくりにしている点にあるだろう。
 広汎性発達障害による「コミュニケーション障害」であるなら、そういう困難性を抱えて対人職に就くのは難しいであろう。そもそも、そういう困難性を抱えている者は、自ら進んで対人職に就職したがらないだろう。とくに、接客業はパスするはずである。あるいは、企業名に釣られて就職してしまったものについても、大手であれば営業などには所属させずに、すみやかに資質にマッチする部署に入れて、個々の能力が発揮できるようにさせていよう。何も、対人職だけが仕事なのではない。「コミュニケーション障害」という診断名があろうとなかろうと、そうした資質の者も社会にでて職業人として普通に生活しているのである。
 そうではなく、「コミュ障」程度の「コミュニケーション能力の不足」の社員に対して、対人職企業はどう扱うか。大量採用して、どんどん潰していくというブラックな手法が企業倫理としてまかり通りはじめたということが問題なのだ。

 「コミュニケーション能力の不足」の問題。
 この問題、教育の現場では、かなり深く議論され、それについての実践もされている。ざっと20年くらい議論や実践の蓄積はあるはずである。ネットが蔓延する以前から、また「コミュ障」なんて言葉が存在しない頃から、現場では問題意識として潜在化していたのである。
 実践の先駆としては、エンカウンターがあげられよう。最近では、なんといっても教室ファシリテーションだろう。こうした実践のいくつかは、生徒のコミュニケーション能力不足について、ターゲットにしていよう。
 ただ、こうした実践で果たして「コミュニケーション能力の不足」の問題は解消されるのか、という点は問題として残る。もちろん、現場は解消されることを願って教育実践を進めている。今後は、教室内の仲間づきあいを円滑にするとか、授業での議論を促進するとかだけではなく、子どもが将来ブラック企業に潰されないための切実な問題として、コミュニケーション能力の向上という視点も必要なのだろう。
 おそらく、学生をブラックに送り出すかもしれない最前線の大学教育は、学生の「コミュニケーション能力の不足」問題には無力感を持っているに違いない。もう、大学じゃあこうした学生を立て直すのは無理だと。であるなら、初等中等教育なら、立て直しは可能なのだろうか。こうした議論が今後必要なのだろうと思う。

 さて、前回からの教員の資質の話題である。
 教員の「コミュニケーション能力の不足」。
 コミュニケーション能力なんて、教員だったら、そんなものは最低限の資質のようにも思えるが、そんなことはない。教員の世界で、あきらかに「コミュニケーション能力の不足」している教員はゴロゴロいる。
 大体、私たちが、子どもの頃を思いだしてみたらよい。小学校はそうでもないだろうが、中学校には、あきらかに風変わりな教師がいなかったか。高校に入ると、そうした教師がもっといたはずである。そういうコミュニケーション能力の不足教師は、名物教師なんていわれていたかもしれない。けど、それはそれで、当時は、その教師なりの立ち位置があって教師としてやっていたはずである。
 ただ、それがここ数年、どうにも立ちゆかなくなってきているのが、現在の学校現場なのだと思う。
 つまり、コミュニケーションがうまくとれなくても、これまでは名物教師やマッドテーチャーなんていわれて呆れられつつも教師としてやってこれたのだが、それが、どうにも許されなくなったのが、現在の学校だということだ。そこで、教員の「コミュニケーション能力の不足」問題が浮上してきているのだ。
 ひとむかし前までだったら、コミュニケーション能力が不足していようと、中学・高校教師あたりはOKだったけど、今では、NGになってしまった。そこで、教員の問題が浮上している。大学教員や研究者は、これからもOKで有り続けるであろうが。
 しかし、そうはいうものの「コミュニケーション能力の不足」の人材は、今後も学校現場にはどんどんやって来るに違いない。やはり、「コミュニケーション能力の不足」している教員は現場にゴロゴロ存在し続けるのだ。そういうなかで、今後の学校組織はどうするのか。まさか、大量採用、大量退職でいいというのか。それでは、ブラック企業ならぬブラック学校ではないか。そうではないだろう。そうじゃなくて、そういう人材もひっくるめて組織としてやっていくにはどうするのか、ということを議論する時代になってきているのである。

教師は「排除の論理」を主張してはいけない

2012-12-09 17:24:27 | 教育時評
 前回からの続きである。

 ここ数回にわたる私のお喋りは、端的にいえば現場に一定数存在するダメ教員はどうしたらいいのか、という話題であった。
 そして、この話題についての私の主張は、「現場は、そういう教員がいることを前提にして、組織として指導できる体制を組め」というものであった。
 ダメ教員といっても、研修や経験によってマシな教員になる場合もあろう。そういう場合であれば、問題は解決するので、それはそれでよいだろう。私が問題にしているのは、研修や経験によってマシにならない教員はどうするのか。そして、そういう教員が一定数存在している現場を今後どうするのか、ということである。これが問題なのである。

 さて、こうしたダメ教員について、もっとも簡単な解決方法は何か。それは、クビにする、という方法だ。クビというのが下品でれば「排除の論理」なんていってもいいだろう。
 この「排除の論理」。現場でも、実は、ごく普通にみんな思っていることだ。
 ダメ教員が仕事でミスをして、周りの足を引っ張る。あるいは、ダメ教員が仕事をしないおかげで、周りの仕事が増える。そうなると、周りの教員は、「あいつのせいで、とんだとばっちりを食っちまった」とか、「おれたちが忙しいのは、あいつのせいなんだよな」とか思い、いつしか「あいつ、使えないなあ」とか「辞めちまえよな」とか思ったりもする。
 こうした心情というのは、理解できる。というか、教師の世界にかかわらず、組織で動いている職場であれば、どこの世界にもある心情であろう。日常の職場風景といっていいだろうと思う。
 そして、ある時は愚痴や悪口となって吐きだされることもあれば、ある時は、職場の空気が澱んでいくことにもなったり、職場内でのイジメやイビリに発展したりということにもなるだろう。こうしたダメ人材に対する普通一般が持つ心情というのは、組織で仕事をする職業人の性というようなものだから、今後もなくならないだろうし、すみよい職場環境にするためにあれこれと考えることはいいけれど、心情として否定することでもないだろう。
 しかし、この「排除の論理」を、心情としてだけではなく、あるいは、愚痴や悪口として周りにしゃべっているだけではなく、本当に論理的に主張する教員がいるのだ。こういう教員は、自分のことを棚にあげて、他人への愚痴や悪口をぺちゃくちゃしゃべるといった類の教員とは違う。自分の仕事はしっかりできるし、周りにも気配りができる。つまり、デキる教員だ。そういうデキる教員が、論理的に、ダメ教員の排除を主張する。
 ダメな教員というのは、職場にとっては有害でしかないのだから、クビにしろということを、大真面目にかつ論理的に主張するのである。もちろん論理的なので、筋は通っているし、情緒的でもない。誰もが、その通りと納得してしまう。
 こうした、普通であれば愚痴話で終わらせるべき内容を、わざわざ論理だてて主張する教師の心情を私なりに察するとすれば、こうだ。こうした教師は、デキる教師ゆえに、教師の仕事に強い誇りを持っているのだろう。そして、高いプロ意識があるのだろう。であるから、教師の仕事を貶めるようなダメ教員に対して、許されないという思いがたち、結果、寛容になれないのだろう。
 しかしである。そうしたデキる教師が主張する「排除の論理」は、結局のところ、教師の仕事を貶めることになっているのだ。この逆説的ともいえる論理を理解したうえで、そうした主張をしているのか。その点が私には疑問なのである。

 私の言いたいことは、こういうことだ。
 すなわち、教師という仕事にもっとプロ意識を持て、プロになれないようなダメ教員は辞めてしまえ、というような主張をしたとする。これは、一見、高邁な主張のようにみえる。しかし、よく考えてほしい。プロ意識の低いダメ教員をクビにすると、その分、どこかから代わりの人材を補充する、ということになる。この代わりの人材というのは、当然ながらプロ教師でもなんでもなく、ただのオトナである。つまり、この高邁な主張の背後には、教師の代わりの人材なんていうのは、他にどこにでもいるんだよ、という主張が潜んでいるのだ。所詮、教師なんてのは、代わりのいくらでもきく程度の仕事なんだよ、と言っているのと同じなのである。
 つまり、ダメな教員はクビにしろ、という主張は、プロ意識に拠った高邁な主張でも何でもなく、教師なんてのは誰でもなれる程度の仕事である、といっているのと同じなわけで、結果、私たち教師の存在を貶めていることになるのだ。
 だから、私は「排除の論理」にくみしない。私のようなものでも、教師の仕事に誇りを持っているし、プロ意識もある。だからこそ、教師の「排除の論理」には賛同するわけにはいかないのである。
 繰り返すが、心情としては、理解できる。それは、組織で動いている以上、「ダメなやつは辞めちまえばいいのに」とネガティブな思いを抱くこともあるだろう。そうした心情については、否定するものではない。しかし、論理的な主張はしてはいけないのだ。それは、自分自身を貶めることになるからだ。この論理に、デキる教師ははやく気づいてほしいというのが今回の私の主張である。

 なお、現場以外の人間のいう「排除の論理」についても、同様である。
 教師でない外野席にいる人間からも、時折「ダメ教員はクビにしろ」という意見を言うのがいる。しかし、教師は、そういう意見にやすやすと乗ってはいけない。自分の職場を見渡して、つい、そうだそうだ、とうっかり賛同してしまいそうになるが、それは誤りである。
 それは、組合的互助会的な同胞意識のよるものではない、というのはこれまで言った通り。そうではなく、教師という職業が他の職業から貶められているということに他ならないからだ。であるから、教師以外の人間のいう「ダメ教員はクビにしろ」という意見には、教師は全力で反論をするべきなのである。
 とはいうものの、その前に、わたしたちに「教師は、すぐに代わりがきく程度の仕事じゃない」と言える程の、プロ意識があることの方が先なのですがね…。

「指導力不足教員」は「研修」では解消しない

2012-12-02 19:08:51 | 教育時評
 話のテーマは、前回からの続きである。

 堀裕嗣氏の新著『スペシャリスト直伝 教師力アップ成功の極意』(明治図書、2012年)に、「指導力不足教員」問題について、重要な提案がある。「指導力不足教員」というのは、要するに、授業も学級経営もヘタくそな教員ということだ。昨今、社会問題となった「いじめ問題」についても、解決に導くことのできないような、しょうもない教員ということ。
 そうした「指導力不足教員」について、氏は、「指導力不足教員に必要なのは研修であって排除ではない」と提言し、次のように主張する。

「仮に、ここに『指導力不足教員』と認定された教師がいて、研修を受けさせることになったとします。その教師に職場復帰したいという意欲さえあれば、私はその教師の『指導力不足』状態を3ヶ月から半年程度で改善できる自信があります。集団を統率しながら一斉授業や学級経営をくずさない程度に行える技術など、決して難しいものではありません。身につけるのにそれほど時間がかかるものでもないのです。基本的に、私が『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)の二著で書いた事柄について、ロールプレイで研修を繰り返せばまず間違いなく『指導力不足』状態は改善します」(88頁)

 この主張はすごい。氏の「自信」はどこから来るのか。おそらく、氏は、氏の職場にいたであろう「指導力不足教員」をそれこそ氏の「指導力」で改善させた経験が、一度ならず何度もあるのだろう。そうした経験から導き出された主張なのであろう。

 私は、氏の提言である「指導力不足教員に必要なのは研修であって排除ではない」について、「排除ではない」という部分には賛同する。すなわち、「指導力不足教員」を排除しても問題は解消しないのだ。
 少し考えればわかることだが、「指導力不足教員」と認定した教員をクビにした場合、クビにした分だけ、新しい教員を補充しなくてはいけない。つまり、質の低い教師を排除しても、その分だけ教師経験のない、教師としての質が未知数の新人教師を補充しなくてはならないのだ。冗談めかしていえば、「指導力不足教員」を排除すれば「指導力不足教員」が補充される、ということなのだ。
 また、現場に未経験者が増えるということは、それだけ現場に混乱をきたすということは目に見えていよう。それに、新人教員が増えるということは、一時的にせよ、教員全体の質が低下することは避けられないだろう。
 さらに言えば、今後の傾向として、教員志望者が減少していくというのは、各種統計から明らかにされている(ソースは各自探してください。このブログのどこかにもあります)。教師の門戸はどんどん広がっていくのである。そうなると、これまでだったら採用試験に落ちていたはずの新人も晴れて教師になるということである。つまり、放っておいても今後、教師の質は残念ながらトータルとして下がっていくのである。そういう現場で、ダメ教師は排除せよという主張は、現実的ではないといえるだろう。

 そういうわけで、「排除」については私も否定するけれど、では「研修」で改善というのは、どうか。
 これについて、私は懐疑的なのだ。
 果たして「指導力不足教員」は「研修」で改善されるのか。そんな研修プログラムがあるなら、私も受けてみたいものである。けれど、教師の仕事というのは、そんなプログラミングされたものをロールプレイして向上していくというようなスキルに収斂されるものではないことは、誰だってわかるだろう。
 もちろん、私は「研修」の意義を否定しない。教師の世界を見渡してみよ。いたるところ「研修」だらけではないか。初任者研修から始まって、年数を重ねるごとに研修があり、指導要領が変われば研修があり、各教科・生徒指導・学級経営、ありとあらゆる「研修」が教師のまわりにプログラミングされている。もし、「研修」に意義がなければ、教師のまわりに、これほどまで「研修」がセットされないだろう。だから「研修」の意義について一定程度は認められよう。しかし、そんな「研修」だらけの教師の世界にかかわらず、それでもなお、「指導力不足教員」は一定数存在しているのだ。これは何を意味するのかといえば、やはり「指導力不足教員」は「研修」での改善は難しいという証左といえまいか。
 私は、堀氏の「自信」が、どうにもわからない。
 本当に、氏の力で「指導力不足教員」を改善させたのか?氏が「指導力不足教員」と思っていた教員というのは単に新人同様の「経験不足教員」に過ぎず、自分の努力と経験で指導力不足状態から脱したのではないか。

 私が「研修」によって教員の指導力不足が解消することに懐疑的なのは、私がこれまで出会った「指導力不足教員」の「指導力」というのが、どうみてもスキルではないところの力が決定的に不足しており、そうした力というのは「研修」でどうにかなるというレベルではなく、人格とか人間性とか、そういうメンタルな部分に拠っていると確信的に感じているからである。
 こうした力は、「研修」でどうこうする範疇ではく、その教師の人格や人間性そのものなのだから、どうにもならないものだ、ととらえるしかないと思うのである。
 だから、堀氏の「排除」よりも「研修」という提案については懐疑的なのだ。
 今後は、この提案の具体的な方策が望まれる。

 なお、私の「指導力不足教員」問題に関する提案はこうである。
 それは、現場に一定数の「指導力不足教員」がいることを前提として学校運営にあたれ、ということだ。
 今後わが国の現場は、このまま何の対策をしないのであれば、先に言ったように、教師の質は低下する。
 そうなると、今後は、高い確率で学級崩壊をさせてしまうであろうにもかかわらず、担任を持たざるを得ない教員が存在するようになるということだ。あるいは、いじめを解決する指導力がない教員が一定数存在するようになるということだ。今後といわずとも、現在でも、すでにそうなっている現場は多いことだろう。
 そして、そうした「指導力不足教員」を「研修」させたところで、限界はあろうということ。であるなら、今後は、そうした「指導力不足教員」がいることを前提として、それでも学校現場が混乱しないような学校運営をしていけということだ。
 では、具体的には、どういう方策があるか。
 大枠としては、学級の解体だ。すなわち、30人の子どもを1人の教師が見るという現在の担任制をやめるという方策だ。この方策の根本にある発想は「指導力不足教員」の足りない指導力をまわりの教師がカバーすべきということ。
 具体策の一つは、習熟度でも選択別でも何でもいいから、子ども集団をよりフレキシブルにする。中学校の部活動も有効だ。とにかく、学級以外の子ども集団を学校内に意図的につくるということだ。もう一つは、複数担任制の導入だ。30人の集団を複数で指導するというやりかたである。チームティーチングの学級経営への導入だ。これらの方策について前者は主に中学校で、後者は小学校の低学年で実践されていよう。こうした方策をもっと積極的に導入することで「指導力不足教員」を目立たなくせよというのが、私の意見だ。

 ちなみに、こうした方策を進めることで教師の世界には、どのような問題が浮上するか。それは、実は教員の心の病による休職者の増加である、というのが私の予想なのだけど、これについては、ここまで読んだ皆さんは多分「??」だろうと思う。
 この点については、また、いつかの機会におしゃべりができたらと思う。

優れた教師、劣った教師

2012-11-24 21:20:24 | 特別支援教育
 教育現場での研究の話である。
 私が特別支援学校に異動をして実感したことのひとつに、普通学校で行われている実践研究と比べて、特別支援教育の実践研究は、ずっと科学的だなということがある。
 もちろん、特別支援教育だって教育の世界に違いがないのだから、科学的といってもタカが知れていようが、それでも普通学校の実践研究に比べたら、より客観的で原因と結果が明確に表わされている。
 そして、それはどうしてなのだろうと、ずっと思っていたのだけど、つい最近になってやっとわかった。それは、「シャベリ」の介在ということである。

 そもそも、学校現場でおこなわれている研究というものが、科学的だなんていえる代物ではないことは、教師でなくとも誰だって想像できよう。ただ、それでも、少しでも科学的なものに近づけようと、教師は実践研究にいそしんでいるのが実情だ。
 実践研究というのは、授業でも生徒理解でも生活指導でも学級経営でも何でもいいのだけど、子どもの変容を目的として、まずは仮説をこしらえる。こういう実践をすれば、子どもはこういう変容をするだろう、という仮説だ。そのうえで、その仮説の検証をするという名目で教育実践をする。そして、やった実践はどうだったかを考察して、仮説と照らし合わせて研究の成果をまとめる、というのが一連の流れだ。けれど、これは科学的な研究とは程遠い。どこをどうとっても情緒的。研究の成果は物語。なぜそうなるのかといえば、教育実践は、生身の教師が生身の子どもまたは子ども集団を相手に行うからである。
 学校現場で行われる実践研究、それは、授業でも生徒指導でも生徒理解でも学級経営でも何でもいいのだけど、生身の教師が生身の子どもを相手にする以上、どうやったって科学から遠いところにいってしまう。だから、現場では、実践の理論化は困難といわれて久しい。
 そんな実践研究なのだけど、特別支援教育の世界に目を向けると、比較的、机上の理論が教育実践にストンと入りやすいのである。つまり、机上でこさえた理論がそのまま実践に援用できるということ。あるいは、同じ理論を違う教師が違う子どもに実践しても、同様の成果が得やすいということ。これが、私には新鮮だったのである。
 そして、そうした教育実践が特別支援教育でできている理由は何かというと、「シャベリ」の介在ではないかというのが、私の意見だ。
 特別支援教育では、子どもが言葉で理解するが難しい場合が多いから、教師はそれ以外の理解の方法を模索する。そこで、現在、この世界で隆盛なのは応用行動分析になるのだけれど、そこでは、究極の場合、教師の「シャベリ」がなくても実践ができる。これが、特別支援教育で科学的な教育実践ができる要因だと思うのだ。

 さて、ここからが今日の本題である。
 普通学校とくらべて、ある程度は理論が通用する、というのが特別支援教育の世界なのだけど、そんな世界にも授業のうまい教師へたな教師、あるいは、指導のうまい教師へたな教師、という違いが存在する。といっても、これは容易に想像がつくことだと思う。どこの世界にも優劣はつきものだ。
 では、授業や指導のヘタくそな教師というのは、どんな教師だろうか。…と、ここまでの話の流れでいえば、ヘタくそな教師というのは、実践の理論を知らない教師、ということになるだろう。これも、話の流れ上、いいだろう。一般に、指導や授業の優劣というのは経験年数にもよるわけで、経験を積んだ教師は理論もそれなりに身に付いているから、授業や指導がうまい。反対に、経験の浅い教師は、理論を身に付けていないから、授業や指導がヘタだ、ということになる。これも、一般論として、いいだろう。
 しかし、理論はものすごく知っているのに、授業や指導がヘタな教師が存在するのである。
 これが、教育現場の現実であり、私にとって、実に面白いなあと感じることである。
 応用行動分析の理論はもちろん知っている。だれよりも詳しい。知っているだけではなく、ちゃんと実践のなかで活用している。つまり、理論に基づく研究実践を行っている。にもかかわらず、授業や指導がヘタな教師がいるのだ。
 私が言っているのは、理論ばっかり知っているくせに、実践力がない、ということではない。特別支援教育は、繰り返すが、理論と実践はそこそこリンクする。つまり、心理学や医学の臨床実験に近いイメージだ。あるいは、教職経験がなくとも、正しい理論を援用すればそれなりの教育効果を上げることができる分野であるといっていい。
 そんな教育現場なのだけど、教師の優劣には、やはり理論以外の要因が、大きく作用するということになる。
 では、この理論以外の要因とは何か。それは、その教師の個々の資質ということになるのだけど、では、その資質とは何だろう。それは、やはり月並みだけど、コミュニケーション能力とか、関係調整力というか、空気を読む力とか、そういう今どきの、わかりそうでよくわからない能力ということなのだろう。…と、いうところまでは考えたのだけれど、これを主張したところで、何も言っていることにはならないので、もうしばらくは、面白がっていこうと思うのでありました。


教師がたどる研修の道すじ

2012-11-18 18:56:29 | 学級経営論
 大学を卒業して教師になったものが、現場ではじめる研修といえば、まずは教育内容研究や教材研究であろう。現場経験がない以上、まずは机上でこさえることのできる研究ということだ。子どもの実態や教室の実態については、とりあえずほっかむりして、教育内容や教材の研究を進めていく。それが、「授業づくり」の本筋だと信じて疑わない。これが研修の第1段階。教師の資質や能力にもよるが、教師になって2年くらいは、ここの段階での研修を進めることになる。
 そのうち、教育内容や教材の研究をしているだけでは、カベにぶつかる。教育書に書いているようなすぐれた授業には到達しないことを実感する。どうしてだろうと考え、それは子どもの実態や教室の実態をつかんでいなかったという結論にひとまずは落ち着く。そして、子どもの実態や教室の実態を踏まえたうえで、授業を進める「技術」を向上させる必要性に迫られる。そこで、次に、授業「技術」の向上を目指して研修を進めるようになる。これが、研修の第2段階だ。
 ただ、授業の「技術」というのは、説明の仕方や指示の方法や声の大きさやリズムやテンポといった「シャベリ」に関係するのが、実はその大半を占めるので、そこの資質や能力に乏しい教師は、苦戦を強いられることになる。所詮、教育なんて言うのは「言語」による知識の伝達なのだから、それを手っ取り早く多数に伝達するのは喋ることなわけで、それをいかに有用にできるかが教師の授業技術なのだ。教師の教え諭す能力というのは、いかに「シャベリ」が巧いかにかかっているのである。「シャベリ」の技術以外でせいぜい思い浮かぶのは、板書といった書く技術や、子どもの発表を聞いてからその先の授業を進めていく情報処理の技術といったものだ。これらも、膨大な教師の「シャベリ」の技術に比べたら些細な技術といえよう。
 この第2段階も教師によるが、やはり数年間は研修の中心を占めることになる。ただし、教師によっては、この「技術」の段階で研修がストップする教師もいる。教師修行イコール技術向上ということだ。こういう教師は、一見、謙虚でストイックのようにも思えるが、私には思考停止にみえる。
 さて、多くの教師は第3段階の研修に進む。「教育内容」研究や「教材」研究、あるいは「技術」向上だけでは、教師の力量は上がらないと実感する。ここまできて、教師は、授業が「教育内容」や「教材」や「技術」以外の面で成り立っているということに気がつく。これを実感するのは、やっぱり経験を積まないと実感できない。だから、この段階は、早くても数年を要する。大体、10年くらいたったら、実感としてわかるのではないか。
 では、授業のそれ以外の面とは何か。それは、教師のパーソナルな部分である。パーソナルであるから、それこそ教師が違えば全て違う。けど、それでは研修にならないから、最近ではキャラクター別教師の力量アップ術みたいな感じで議論がされている。かなりお手軽である。お手軽であるから、研修の精度としてはイマイチ感がある。
 実は、この教師のパーソナルな部分というのは、芸事でいわれる個々の「アジ」みたいなもので、どうしたって理論化することはできないのだ。むろん、すぐれた教師による授業の「アジ」を研究すること自体は研究対象になるが、研究したってそれが自分の教師力に作用することはあり得ない。落語家の「芸」の研究者が落語家になれないのと同じ理屈である。
 しかし、現在の教育界では、ここの部分の教師力アップの議論がなされていたりする。私には、ここは理論化できる部分じゃないから、無駄だという思いが強いのであるが、いやいやそんなことはない、理論化できるはずだ、という教育書があふれている。これが私には不思議だ。
 そういうわけで、この第3段階に入ると、教師の道すじは2つにわかれる。ひとつは、研修をやめる道。だって、もう「芸事」の段階に達したのだから、研修しようがないとあきらめる。教師としてのアガリである。そして、もう一方は、ごく少数ながら「芸」の道を究めようと自分のパーソナルをとことん磨く教師である。こういう教師は、歳を取るにつれて「名人」だの「師範」だのになっていく。こうなると、自分の「芸」のためにやっていくので、こういう教師の授業研究というのは、有り難がる教師が多いのだけど汎用性は全くなくなる。
 私としては、大多数の中年教師が第3段階に入って研修をしなくなるのは、怠惰なせいでもなんでもなく、教育の研修の限界を体感したせいだと思っている。誰だって、授業がうまくなりたいのである。にもかかわらず研修をしなくなる。それを努力不足というのは簡単だけど、努力して力量が上がると実感できれば、努力もしよう。けれど、教育というのはそういう類のものではないということに気がつくのだ。
 とはいうものの、そんなことにも気がつかず、若い頃と変わらずに「教育内容」研究や「教材」研究や「技術」アップを目指して粛々と研修を続けるオッサンオバサン教師に対して、私は、皮肉でも何でもなく羨望を抱かずにはいられないのである。

教育的に有用な「ごほうび」とは~その2

2012-11-11 17:00:54 | 特別支援教育
「外発的動機づけ」の話の続きである。
 前回は、特別支援教育や小学校の低学年あたりでやっている「頑張ったらシールをあげるよ」といった活動は有効であって、それを自覚的に実践したらよい、という話をした。
 私が言っているのは、そうした活動の賛否について議論するのは結構だけど、現場で有効であることは経験的に実証済みなのだから、教師は自覚的に実践するのであれば、教師の指導の幅も広がりますよ、ということである。
 ただ今回は、こうした主張とは、全然の別のことについて、お喋りをする。

 「がんばりシール」のような「ごほうび」を個に応じて実践すると、より教育的効果が高まるというのも、経験的に現場では実証されている。
 たとえば、「頑張ったら、あなたの好きなアンパンマンのシールをあげるよ」という実践だ。「がんばりシール」のような抽象度の高いものではなく、ズバリ子どもが「好きなモノ」を与える。これは、抽象的な理解が難しい、より発達段階が低位な子どもに有効とされている。
 こうした、その子どもの好きなモノを「ごほうび」として与えるというのは、子どもにとって興味や関心が高いものが「好子」となっているというように説明することができる。「好子」なんていう言葉を使わなくとも、子どもに限らず、人は自分の好きなモノが手に入るとわかれば頑張る、というごく単純な話である。ただ、このような実践は、それはそうに違いがないのだけど、私は、現場にいるものとして、別の点からの教育的効果をみる。
 それは「自分だけ」ということと、「教師のかかわり」という2点だ。
 子どもの「個に応じる」という教育実践は、子どもの側からみると、「自分だけ」の教育実践ということだ。この「自分だけ」というのに、子どもの意欲はくすぐられているのだ。このシールは自分のために用意されているといった特別待遇のようなところに、この実践の有効性があるのではないか。だから、子どもの好きなキャラクターのシールであれば、子どもは嬉しいに違いがないのだけど、実は、教師が片手間に作った頑張り表のようなものに、色シールをはるだけでも、結構有効性はあるというのが、現場での実感だ。
 もうひとつの「教師のかかわり」というのは、こうした「がんばりシール」でも何でもいいけれど、「個に応じよう」とするならば、それだけ教師は子どもに多くかかわることになる。ここでのかかわりというのは、「頑張ったから、シールをあげるよ」とか「今日は、シールがあたるかな」とか、そうした言葉かけを含めて、とにかく個別の対応が増えるということだ。この「教師のかかわり」という教育的な効果もバカにできないと思うのだ。そして、こうした「かかわり」は、子どもとの休み時間の雑談といった学校生活のイレギュラーななかでの教師―生徒関係がフラットに近い場面でのかかわりというのではなく、きちんとした教育実践での、教師の指導のなかでの「個に応じたかかわり」であるということも注目したい。そうしたかかわりが、ここには生じているのだ。

 ここまでの話をまとめると、こうなる。
「がんばりシール」の実践は、これまで応用行動分析で説明がなされてきた。
 すなわち、子どもの「好子」を提示することで、子どもの行動は「強化」されるということ。子どもがアンパンマンのシールが好きであれば、それを「好子」とする。頑張るという行動を「強化」させたければ、頑張ったときにアンパンマンシールを与えればよい、という理屈である。そして、この理屈は実践され、その有効性が認められている。
 けど、教育実践というのは、そんな学術的なものじゃなくて、もっと単純なものじゃないか、というのが今回の私の主張である。もちろん、応用行動分析の理屈を否定するつもりはない。けど、それはそうだけど、子どもにとっては、「自分だけ」の教材で、より多く教師が「かかわって」くれたから、良い気分になって頑張る、という方が、現場の感覚に近いんじゃないかと言っているのである。

 どうも最近の私は、教育の議論が理論的な方向から、どんどん情緒的な方向に移っていく傾向にある。そして、そういう情緒的な方が、実は教育の本質ではないかと、本格的に思いこみ始めてもいる。
 最近の私は、研究とか研修とか、そちらの学術的なのは、どうでもよくなってきているようです。

教育的に有用な「ごほうび」とは

2012-11-04 19:11:43 | 特別支援教育
 特別支援教育でよくある教育活動に「ごほうび」がある。
 子どもが何かを頑張ったら、シールやカードをあげるという活動だ。普通学校でも、小学校低学年あたりは「がんばりシール」みたいな感じでやっている、ごく一般的なものだと思う。こうした「ごほうび」は、発達段階が上がると、子どもはシールをもらってもうれしくないから、子どもの頑張りを別なもので認めるということになる。それは、「称賛」だったり「評価」だったりする。一般的には、発達段階が上がるにつれて、具体(シールといったモノから)から抽象(称賛といったモノ以外)へと「ごほうび」が変化していく。
 「ごほうび」を与えて、子どもの意欲を喚起または持続させる活動は、心理学の言葉でいえば「外発的動機づけ」と呼ばれるものだろう。この「外発的動機づけ」は、どうも学校現場では分が悪い。ともすると、批判の対象になったりする。 
 ただ、こうした「外発的動機づけ」というのは、大人の世界でもごく普通にあるものだ。例えば、労働に関していえば、達成感や充実感だけといったものではなく、「昇進」や「賞与」みたいな目に見える形での対価によって労働意欲が支えられているという側面は、誰も否定はできまい。
 あるいは、消費行動であれば、それはより顕著だ。近ごろは、特定の場所で消費を頑張れば頑張るほど「ポイント」が増えていくし、もっと頑張れば「ゴールド会員」だか「プラチナチケット」だかをもらえるようになっている。こうしたシステムは完全に消費者の「外発的動機づけ」に期待して、購買意欲を喚起させている。
 このような「外発的動機づけ」の対義語は何か。一般的には「内発的動機づけ」であろう。この「内発的動機づけ」については、学校では歓迎されているし、学校の教師はこれが大好きである。学習活動は、子どもの「内発的動機づけ」をいかに高められるかに関心が向けられている。つまり、「シール」や「カード」が欲しいからではなく、学習であれば「勉強が楽しい」から、自分から進んで学習するにはどうしたらいいか、が教師の授業研究の根底にある。知的好奇心が高められるように授業は仕組まれる。知的好奇心が高まれば人間は、自分から進んで学習をする。そして、教師は、そうした内発的な動機にもとづく活動が善であると子どもに教えて、そういう子どもになって欲しいと願っている。
 私は、こうした「内発的動機づけ」を現場で否定するつもりはない。ただ、教育活動では、もう一方の「外発的動機づけ」も、よい教育活動ですよ、だから批判的にとらえない方がいいですよ、もっといえば、もっと積極的に活用したらいいですよ、という主張をここ数年言い続けている。
 私は、心理学には明るくないけれど、この2つの言葉が対立概念にあるということはいえるだろう。けど、教育現場では、これを対立させても不毛ですよといいたいのだ。そもそも現場では、どっちも普通にやっているし、分けることもできないのだ。
 例えば。「称賛」という教育活動がある。もっと有体にいえば「ほめる」という活動だ。
 これを否定する教師はこの世に存在しない。「ほめる」ことは、教育活動で100%有用性が認められている希有な教育行為だ。それはともかく、「ほめる」ことは、「外発的動機づけ」か「内発的動機づけ」か。
 子どもにとって、「ほめられる」ために頑張るというのであれば「外発的」だけど、「ほめたれた」ことによって、より意欲が高まるのであれば「内発的」ではないか。
「外発的動機づけ」は、その対価が消えると行動もなくなるという。つまり、「ごほうび」がなくなれば頑張らなくなるという。けど、それを教育現場で、あてはめるなら馬鹿げていると私は思う。
「ごほうび」に支えられながら、いつの間にかそれが自分の内的意欲が喚起される例などいくらでもあるではないか。それこそ低学年では「がんばりシール」が教育活動として認められている証左であろう。はじめは「シール」が欲しくてやっているのかもしれないが、そのうちに、その頑張りが内的要因となって「シール」がなくても頑張れるようになるのだ。であれば、低学年にかかわらず、発達段階に応じてもっと積極的に「ごほうび」を活用すればいいではないか。
 教師が子どもを「ほめる」のは、子どもの内的な動機にはたらきかけるためにやっているだろう。だから、教師は「ほめる」のだ。けれど、「ほめる」のやめたら、子どもは頑張らなくなるなんていう話は聞いたことがない。
 私は、子どもの頑張った対価として、きちんと「ごほうび」を与えるべきだと考える。
 それは、「シール」でも「カード」でもいいし、「称賛」や「評価」でもいい。とにかく、頑張った対価として「ごほうび」がある。ということを子どもに「学習」させるのである。そうすることで、子どもの「内的」な動機づけも高まっていくのだ。こうした「外発的動機づけ」に支えられた教育活動を教師はもっと自覚的にやることで、指導の幅は広がっていくと考えている。