学校現場でいたましい事件が起きた。
大阪市立高校での体罰自殺事件である。
自殺した生徒のご冥福を心より申し上げる。残されたご遺族の心中は、同じ子を持つ親として、察するに余りある。
また、教育現場に携わる者として今回の事件に関していうならば、顧問の教師に弁解の余地は全くない。
学校現場で、部活動にしろ、生徒指導や授業中にしろ、生徒に対して程度の差があれ体罰をする教師というのは、教育者ではない。あるいは、教育のプロではない。これは、断言しよう。もし、教育のプロを自認するもので、体罰を肯定する教師はいるとすれば、会ってみたいものである。
教師が、たとえ部活動で華々しい成績をおさめていようとも、あるいはどんなに部員に慕われていようとも、教育現場で体罰による指導をしているのであれば、それは教育者とはいえない。だから、今回の事件の部活動顧問は、私にいわせれば教育者ではない。暴力による関係性で、生徒が教師を「いい先生だ」と思ってしまう心理状態というのは、すでに科学的に解明されているから、ここでは論じないけど、いずれにせよ生徒や保護者にとって「いい先生だ」ろうが何だろうが、教育者ではない。
もし、学校現場に体罰を肯定する教師がいるのであれば、それはもはや教育者ではなく、教育の現場にふさわしくない人間なので、私たちは軽蔑するべきである。そして、現場から排除していくべきである。
ただし、20年くらい前まで、現場である程度の体罰は、いわば「必要悪」として認識されていたのも、事実である。これが、体罰論議をややこしくしているともいえる。体罰は、20年前といわずとも、もっと前から学校現場では禁止されていた。こんなことは、教師にとってみれば、常識であった。学校現場ではいかなる体罰も許されない。これは今も昔も常識。しかし、禁止されているにもかかわらず、体罰をもってしか指導が通らなかった時代もあったということだ。ちょうど、私が教師になった頃、つまり20年くらい前が、ターニングポイントだった。私の先輩であった教師が、禁止されていることを承知の上で、生徒指導上、「必要悪」として生徒をぶん殴っていた。
私は、そんな旧来の教育現場のいちばん最後の時期に教師になった。けど、これ以降、学校現場では体罰によらない指導が急速に浸透していく。それは、人権思想の広まりとか、世の中がいかなる暴力も認めないという風潮になっていったとか、という背景があるだろう。そして、そのような風潮に合わせるように、学校現場では、体罰によらない生徒指導の方法を志向し模索し深化させていったのだ。そうした体罰にかわる、新しい生徒指導の方法を教師は学んで、現在にいたっているのだ。つまり、教師の生徒指導の分野というのも、体罰が「必要悪」だった20年前とは大きく進歩していると考えたらよい。
もちろん、そうした生徒指導の手法は確立していないし、これからも確立しないだろう。だから、教育の現場には、いじめ、不登校、学級崩壊、といった問題が解決せずに存在している。しかし、だからといって、体罰による生徒指導を現場の教師は志向しない。体罰にかわる方法での指導法を求め、学んでいるのである。
であるから、この現代に、いまだ旧来の手法である体罰によって指導をしている教師というのは、前時代的なアナクロ教師であり、現代のわが国の現場では、もはや教育のプロとはいえないのである。
なお、部活動、とくに運動部の世界では、生徒指導の方法なんかよりも、ずっと科学的な指導法が導入されているはずである。いわゆるコーチングというやつだ。そこには、精神的な苦痛を伴うような指導や、ましてや体罰による指導などは、科学的に否定されていよう。であるから、そうした、先端の思想や技術が現場に導入されてきているにもかかわらず、そうした思想や技術から学ばず、精神論を指導の支柱としている部活動顧問というのは、やはり教育のプロとはいえないのである。
であるから、「教育には体罰は必要か、否か」という論題は、少なくとも学校現場では成り立たない。つまり、議論にあたいしないということだ。もう、そんな時代ではないのだ。
今回の事件に乗じて、「体罰」はいけないけれど「愛のムチ」は必要なのではないかという主張がある。マスコミであれば産経新聞、政治家であれば橋下大阪市長あたりが、わりと簡単にアクセスしやすいだろう。一般的に、こうした「愛のムチ」肯定派は保守思想に多いと思われる。しかし、私に言わせれば、それは、思想性というよりも、単に現代の学校教育がどこまで進歩しているのかについて知らない、無知による主張なのだ。だから、そういう主張については、現在の教育についてロクに知らねえくせに、知ったかぶりして喋るんじゃない、と言っておこう。いずれにせよ、「愛のムチ」肯定派については、自分たちの「ムチ」をさらしているとみて、私たちは嘲笑すべきである。
また、こうした「愛のムチ」肯定派は、知ってか知らぬか、「しつけ」と「指導」を分けずに議論をしようとする。そこが、議論をムダにややこしくしている。
学校現場で、教師が生徒に行うものは「指導」以外にないのである。教師は「しつけ」ではなく「指導」をするから、教育のプロなのだ。教師は学校現場にいる以上、父ちゃんや母ちゃんではなく、ましてや近所のオジさんオバさんではないのだ。
なお、家庭教育でも「愛のムチ」のような「しつけ」も早晩、否定されるようになるだろう。「折檻」が「児童虐待」と言い換えられたように、人権思想の深まりによって、身体的苦痛によならい「しつけ」が、今後も曲折はあろうが、社会の成熟とともに浸透していくことだろう。
最後に、保護者として、わが子を教師の体罰から守るにはどうするか。
それは体罰の決定的証拠をつかむことである。学校現場は、体罰の事実があった場合は、まず間違いなく隠す。なぜかといえば、体罰は禁止されているからである。禁止されていることをやった以上、該当教師は、処分の対象となるし、学校長も注意を受ける(であるから、校長は、体罰の事件が起こったとき、体罰の存在を知っていても「知らなかった」と言わざるを得ない。それは、保身ということもあるが、組織人としてのプライドがそうさせるのだ。今回の事件で、該当の校長は顧問が体罰をやっていることは、当然わかっていた。しかし、「知っていた」とは言えない。今後の私の個人的な関心として、マスコミの追及によって、校長が耐えきれずに「知っていた」と本当のことを言うか否かがある)。
であるから、保護者は、体罰の事実をつかむことだ。部活動であれば、練習の風景のビデオを撮ることだ。そこで体罰があれば、動かぬ証拠となる。また、普段から保護者が練習を見ることでも、十分に抑止力にはなるはずである。もちろん、その時、保護者は顧問に体罰をやめるように要請することが大切である。そうでないと、保護者も体罰を黙認していたという弁解の余地を与えてしまう。顧問に直接言うのが難しいのであれば、校長や教育委員会には伝えることだ。いずれにせよ、自分の子どもを守るためには、保護者も頑張らなくてはならない。
生徒指導や授業中の体罰はどうするか。これは、参観日でもなければ保護者が教室に出向くというのは難しいので、子どものかばんにICレコーダーを入れて、録音するということになる。これが証拠となって、教師が処分を受けたという事例がある。
もちろん、そうした体罰を受けてしまってからでは遅い、という意見もあろう。
であれば、体罰を抑止する方策をとることである。現在、公立小中学校では、保護者に「学校評価」という名前のアンケートを年に1回実施している。時期としては、2学期の後半に実施する学校が多いと思う。これは、学校の教育について、保護者がどう評価しているかをアンケート方式でおこなっており、この評価をもとに学校では年度末反省を行い、次年度の学校経営方針に生かすという算段となっている。多分、アンケートを入れる封筒とともに家庭に配布されているはずである。
この「学校評価」には自由記述欄があるはずだから、もし学校にそのような体罰が疑わしい教師がいるのであれば、そこにその旨書けばよい。この学校評価用紙は、間違いなく校長や教頭が一枚一枚読むから、管理職の監督責任において何らかの措置が講じられよう。
あるいは、児童生徒用の「学校評価」を活用する方法もある。
児童生徒用の「学校評価」というのは、子どもが、「あなたは学校が楽しいですか」とか「あなたは授業がわかりますか」といったアンケートに回答するもので、こちらも年に1回、学校の学級活動の時間などで行っている。こちらは、家庭には配布されないから、保護者の方は知らないということもあるだろう。けれど、このアンケート調査の結果は、「学校便り」などで家庭にお知らせをしているはずである。このような児童生徒用の学校評価用紙に、質問項目として「あなたは先生から体罰を受けたことがありますか」という項目を加えてもらうよう要望すればよい。
この質問項目が加わることで、体罰教師には十分な抑止効果がある。もし、要望しづらいということであれば、他の保護者と連名でとかで学校にお願いする、といった形で要望すればよい。当該の体罰教師に嫌われないようにしつつ、抑止するのは、こういうやり方が効果的と思われる。
大阪市立高校での体罰自殺事件である。
自殺した生徒のご冥福を心より申し上げる。残されたご遺族の心中は、同じ子を持つ親として、察するに余りある。
また、教育現場に携わる者として今回の事件に関していうならば、顧問の教師に弁解の余地は全くない。
学校現場で、部活動にしろ、生徒指導や授業中にしろ、生徒に対して程度の差があれ体罰をする教師というのは、教育者ではない。あるいは、教育のプロではない。これは、断言しよう。もし、教育のプロを自認するもので、体罰を肯定する教師はいるとすれば、会ってみたいものである。
教師が、たとえ部活動で華々しい成績をおさめていようとも、あるいはどんなに部員に慕われていようとも、教育現場で体罰による指導をしているのであれば、それは教育者とはいえない。だから、今回の事件の部活動顧問は、私にいわせれば教育者ではない。暴力による関係性で、生徒が教師を「いい先生だ」と思ってしまう心理状態というのは、すでに科学的に解明されているから、ここでは論じないけど、いずれにせよ生徒や保護者にとって「いい先生だ」ろうが何だろうが、教育者ではない。
もし、学校現場に体罰を肯定する教師がいるのであれば、それはもはや教育者ではなく、教育の現場にふさわしくない人間なので、私たちは軽蔑するべきである。そして、現場から排除していくべきである。
ただし、20年くらい前まで、現場である程度の体罰は、いわば「必要悪」として認識されていたのも、事実である。これが、体罰論議をややこしくしているともいえる。体罰は、20年前といわずとも、もっと前から学校現場では禁止されていた。こんなことは、教師にとってみれば、常識であった。学校現場ではいかなる体罰も許されない。これは今も昔も常識。しかし、禁止されているにもかかわらず、体罰をもってしか指導が通らなかった時代もあったということだ。ちょうど、私が教師になった頃、つまり20年くらい前が、ターニングポイントだった。私の先輩であった教師が、禁止されていることを承知の上で、生徒指導上、「必要悪」として生徒をぶん殴っていた。
私は、そんな旧来の教育現場のいちばん最後の時期に教師になった。けど、これ以降、学校現場では体罰によらない指導が急速に浸透していく。それは、人権思想の広まりとか、世の中がいかなる暴力も認めないという風潮になっていったとか、という背景があるだろう。そして、そのような風潮に合わせるように、学校現場では、体罰によらない生徒指導の方法を志向し模索し深化させていったのだ。そうした体罰にかわる、新しい生徒指導の方法を教師は学んで、現在にいたっているのだ。つまり、教師の生徒指導の分野というのも、体罰が「必要悪」だった20年前とは大きく進歩していると考えたらよい。
もちろん、そうした生徒指導の手法は確立していないし、これからも確立しないだろう。だから、教育の現場には、いじめ、不登校、学級崩壊、といった問題が解決せずに存在している。しかし、だからといって、体罰による生徒指導を現場の教師は志向しない。体罰にかわる方法での指導法を求め、学んでいるのである。
であるから、この現代に、いまだ旧来の手法である体罰によって指導をしている教師というのは、前時代的なアナクロ教師であり、現代のわが国の現場では、もはや教育のプロとはいえないのである。
なお、部活動、とくに運動部の世界では、生徒指導の方法なんかよりも、ずっと科学的な指導法が導入されているはずである。いわゆるコーチングというやつだ。そこには、精神的な苦痛を伴うような指導や、ましてや体罰による指導などは、科学的に否定されていよう。であるから、そうした、先端の思想や技術が現場に導入されてきているにもかかわらず、そうした思想や技術から学ばず、精神論を指導の支柱としている部活動顧問というのは、やはり教育のプロとはいえないのである。
であるから、「教育には体罰は必要か、否か」という論題は、少なくとも学校現場では成り立たない。つまり、議論にあたいしないということだ。もう、そんな時代ではないのだ。
今回の事件に乗じて、「体罰」はいけないけれど「愛のムチ」は必要なのではないかという主張がある。マスコミであれば産経新聞、政治家であれば橋下大阪市長あたりが、わりと簡単にアクセスしやすいだろう。一般的に、こうした「愛のムチ」肯定派は保守思想に多いと思われる。しかし、私に言わせれば、それは、思想性というよりも、単に現代の学校教育がどこまで進歩しているのかについて知らない、無知による主張なのだ。だから、そういう主張については、現在の教育についてロクに知らねえくせに、知ったかぶりして喋るんじゃない、と言っておこう。いずれにせよ、「愛のムチ」肯定派については、自分たちの「ムチ」をさらしているとみて、私たちは嘲笑すべきである。
また、こうした「愛のムチ」肯定派は、知ってか知らぬか、「しつけ」と「指導」を分けずに議論をしようとする。そこが、議論をムダにややこしくしている。
学校現場で、教師が生徒に行うものは「指導」以外にないのである。教師は「しつけ」ではなく「指導」をするから、教育のプロなのだ。教師は学校現場にいる以上、父ちゃんや母ちゃんではなく、ましてや近所のオジさんオバさんではないのだ。
なお、家庭教育でも「愛のムチ」のような「しつけ」も早晩、否定されるようになるだろう。「折檻」が「児童虐待」と言い換えられたように、人権思想の深まりによって、身体的苦痛によならい「しつけ」が、今後も曲折はあろうが、社会の成熟とともに浸透していくことだろう。
最後に、保護者として、わが子を教師の体罰から守るにはどうするか。
それは体罰の決定的証拠をつかむことである。学校現場は、体罰の事実があった場合は、まず間違いなく隠す。なぜかといえば、体罰は禁止されているからである。禁止されていることをやった以上、該当教師は、処分の対象となるし、学校長も注意を受ける(であるから、校長は、体罰の事件が起こったとき、体罰の存在を知っていても「知らなかった」と言わざるを得ない。それは、保身ということもあるが、組織人としてのプライドがそうさせるのだ。今回の事件で、該当の校長は顧問が体罰をやっていることは、当然わかっていた。しかし、「知っていた」とは言えない。今後の私の個人的な関心として、マスコミの追及によって、校長が耐えきれずに「知っていた」と本当のことを言うか否かがある)。
であるから、保護者は、体罰の事実をつかむことだ。部活動であれば、練習の風景のビデオを撮ることだ。そこで体罰があれば、動かぬ証拠となる。また、普段から保護者が練習を見ることでも、十分に抑止力にはなるはずである。もちろん、その時、保護者は顧問に体罰をやめるように要請することが大切である。そうでないと、保護者も体罰を黙認していたという弁解の余地を与えてしまう。顧問に直接言うのが難しいのであれば、校長や教育委員会には伝えることだ。いずれにせよ、自分の子どもを守るためには、保護者も頑張らなくてはならない。
生徒指導や授業中の体罰はどうするか。これは、参観日でもなければ保護者が教室に出向くというのは難しいので、子どものかばんにICレコーダーを入れて、録音するということになる。これが証拠となって、教師が処分を受けたという事例がある。
もちろん、そうした体罰を受けてしまってからでは遅い、という意見もあろう。
であれば、体罰を抑止する方策をとることである。現在、公立小中学校では、保護者に「学校評価」という名前のアンケートを年に1回実施している。時期としては、2学期の後半に実施する学校が多いと思う。これは、学校の教育について、保護者がどう評価しているかをアンケート方式でおこなっており、この評価をもとに学校では年度末反省を行い、次年度の学校経営方針に生かすという算段となっている。多分、アンケートを入れる封筒とともに家庭に配布されているはずである。
この「学校評価」には自由記述欄があるはずだから、もし学校にそのような体罰が疑わしい教師がいるのであれば、そこにその旨書けばよい。この学校評価用紙は、間違いなく校長や教頭が一枚一枚読むから、管理職の監督責任において何らかの措置が講じられよう。
あるいは、児童生徒用の「学校評価」を活用する方法もある。
児童生徒用の「学校評価」というのは、子どもが、「あなたは学校が楽しいですか」とか「あなたは授業がわかりますか」といったアンケートに回答するもので、こちらも年に1回、学校の学級活動の時間などで行っている。こちらは、家庭には配布されないから、保護者の方は知らないということもあるだろう。けれど、このアンケート調査の結果は、「学校便り」などで家庭にお知らせをしているはずである。このような児童生徒用の学校評価用紙に、質問項目として「あなたは先生から体罰を受けたことがありますか」という項目を加えてもらうよう要望すればよい。
この質問項目が加わることで、体罰教師には十分な抑止効果がある。もし、要望しづらいということであれば、他の保護者と連名でとかで学校にお願いする、といった形で要望すればよい。当該の体罰教師に嫌われないようにしつつ、抑止するのは、こういうやり方が効果的と思われる。