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デザインひともんちゃく

デザインを愛せばもっとハッピーになるのに、いつも一悶着起こるのは何故か、プロの現場から赤裸々に。

瞑想の蹴上坂のカクテル

2010年05月15日 13時25分51秒 | 社長の放課後

赤みのある縞模様の冷気が、
一気に古都の歩道に落下して、
いっさいの騒音を遮断したかと思うと、
ヘッドライトに攪拌された気泡が
紫のカクテルとなって飛散した。

確かそこに、誰かがいたような、
あの風さえ吹かなかったなら。

~詩人になるのは難しいね。
今日はすでに10000歩。

いつもの標準的な散歩コース

2010年05月09日 15時41分46秒 | 社長の放課後
Google Mapを使って
いつもの散歩コースに線をいれて測ってみた。

写真は東よりのコースで約6000歩程度で、
1時間はかからない。

時には西にふって南禅寺あたりまで行くと
10000歩は軽く出てしまう。

西の時は、帰りを蹴上(けあげ)から地下鉄で2駅
という手もあるが、それでは味気ないので大概は歩く。

今月に入って連休をよく歩いたため、
平均1日8400歩とハイピッチで進んでいる。

では、歩くことで一体何をしているのか。

単なる運動、健康管理と言うのではなく、
自分の身体の内側と外側の「一体的把握」を体感(イメージ)するためで、
いわば「宇宙の端と遺伝子の端を同期させる」のに役立てている。

それが身体によって確信されねば、
現実的で論理的な考えやアイデアは、合成できないし、
ストレス解消にならないと考えるから。

そのために言霊や物の気と出会うために瞑想が必要になる。
瞑想は「無」になることではなく「波動」を捉えることであり、
歩くことがもっとも合理的であると考える。

儲けには、ツナガランよ。





棕櫚の花が咲いていた

2010年05月04日 17時45分59秒 | 社長の放課後
今年いちばんの暑さとか。
午後から仕事の手を一時止めて、
初夏気分が楽しめないかと外に出てみることにした。

なるほど、爽やかだが日照りに力がある。
妙な納得をしながら歩いていったら、
人様の庭のシュロの木に、のそっと、花が咲いている。

このとんでもない黄土色の花は、
幼少の頃、通っていた小学校の校舎の隅にあって見覚えがある。
特段に好きでもなかったが、なぜここで今。


五月晴れに今年もテッセン

2010年05月01日 15時23分28秒 | 社長の放課後
一昨年、どこかの園芸店で買ったテッセン、
別名クレマチスが今朝開花。

日頃はあまり存在感のない植物だが、
こうして見ると、鉄線と言われるくらい鋭さを感じる
印象深い花だ。

これから暫く咲き、紫色を深めてくれる。
今年は数個の花を付けそうだ。

清水の舞台ツーリズム

2010年04月03日 17時38分18秒 | 社長の放課後
粘り腰の冷気の中、
京都の代表的観光地・清水寺へ。
もちろんサクラ求めて。

行楽の雑踏を予想して、朝早めに自宅を出たが、
すでに現地の人出はかなりのものだった。

驚きは、その多くが日本語ではない方々だ。
京都の経済にとっては有り難い話だが。

メディカルツーリズムも有り難いそうだが、
外国人労働者など生活困窮者を放置しておいてどうするの。

土産物・招き猫や信楽の狸が、なぜ関係のない
清水坂の店で売られなければならないか、不思議・・・。

売れる物なら何でも売るという無節操でも、
御利益はあるのかと思う。

おお、薄ら寒。









天智天皇山科陵

2010年03月27日 14時05分00秒 | 社長の放課後
あまり地元の人間も近づかないが、
恐れ多くも、天智天皇の御陵(みささぎ)がある。

入口には、仰々しくお断りがあって、

一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹木等を切らぬこと
         宮内庁
とある。
立派な割に、魚鳥を「取らぬ」の字が、
なんとなく長閑でいい。

・・・厭なヤツはどっち?




早めのお彼岸墓参り

2010年03月13日 15時27分25秒 | 社長の放課後
今年の春は早めに墓参りと
朝から人も疎らな東山淨苑に。

写真はお堂内に飾られた人形。
象の背中のお釈迦様が切れてしまって残念。

外は、すでに芽を吹き始めた木々、空気に春が感じられる。
帰り。暖気に誘われ、わざわざ七条まで出て、
鴨川沿いを三条まで歩く。

鴨、鷺、鳶、鳩、烏・・・
すでに多くの鳥たちが水辺で活動を始めていた。
もうそんな季節になった。




とうとう絵かきになってしまった

2010年02月20日 15時40分44秒 | 社長の放課後
昨日ここに書いたことへの引っ掛かりもあるので、
朝いちばんで兵庫県立美術館へ。
没後10年・小倉遊亀展を観るためだ。

大作から雑誌の挿絵まで105歳までの作品がズラリ113点。
作者の言葉(昭和37年)が会場のパネルに紹介されていた。

「東洋画のリアルと西洋画のリアルは違う。
厳しい形の制約や、緊密な構成のための力。
そして心ゆくまで何度でも試してからの着色。
そしてその筆の使い方。
日本画本来のあり方は、やはり鍛錬にほかならないと思う」

とあった。

日本文化の本来のあり方、その中枢はこの「鍛錬」ではないだろうか。
その独自性は、くり返し日常の中での身体化によって
あらたな境地が拓かれるのではないだろうか。

オリンピックのメダルは特別だが、
一般には創造できないほど気の遠くなるほどの鍛錬によって実現する。

この鍛錬が、いま学校から、家庭から、企業からも消えつつある。
平常心をもって、身体がコトを考え判断し行動する。
つまりは、常々の身のこなしや所作と品性に
もっと関心を払わねばならないと言うことである。

これがまた、健全・健康と美意識の維持そのものに合致してくる。
くり返すべき辛抱強い心身の鍛錬。

遊亀のみならず、日本の伝統は尽くこのことを
我々に伝えていると思う。

万歩計では、あかんな!