昨日ここに書いたことへの引っ掛かりもあるので、
朝いちばんで兵庫県立美術館へ。
没後10年・小倉遊亀展を観るためだ。
大作から雑誌の挿絵まで105歳までの作品がズラリ113点。
作者の言葉(昭和37年)が会場のパネルに紹介されていた。
「東洋画のリアルと西洋画のリアルは違う。
厳しい形の制約や、緊密な構成のための力。
そして心ゆくまで何度でも試してからの着色。
そしてその筆の使い方。
日本画本来のあり方は、やはり鍛錬にほかならないと思う」
とあった。
日本文化の本来のあり方、その中枢はこの「鍛錬」ではないだろうか。
その独自性は、くり返し日常の中での身体化によって
あらたな境地が拓かれるのではないだろうか。
オリンピックのメダルは特別だが、
一般には創造できないほど気の遠くなるほどの鍛錬によって実現する。
この鍛錬が、いま学校から、家庭から、企業からも消えつつある。
平常心をもって、身体がコトを考え判断し行動する。
つまりは、常々の身のこなしや所作と品性に
もっと関心を払わねばならないと言うことである。
これがまた、健全・健康と美意識の維持そのものに合致してくる。
くり返すべき辛抱強い心身の鍛錬。
遊亀のみならず、日本の伝統は尽くこのことを
我々に伝えていると思う。
万歩計では、あかんな!